「石炭補給」を口実にした、仏領インドシナの飛び地

広州湾

旧フランス領

1898年 フランスが清朝から広州湾を99年間の期限で租借
1943年 日本軍が占領
1945年 日本の敗戦により中国が広州湾を接収し、飛び地消滅

 

中国の地図(1933年)  
中国東部の地図(1942年)  香港の左側に広州湾(仏借)がありますね
現在の湛江市(広州湾)の地図  

戦前、中国の広東省には広州湾というフランスの租借地がありました。「広州湾」というくらいだから、広州あたりの海岸だろうと勝手に思い込んでいましたが、広州湾は広東省の一番西の外れの海南島のあたり。現在では湛江と改称しています。

広州湾がフランス領になったのは1898年のこと。19世紀半ばから列強各国は中国の主要都市で行政権を取得した租界を設置していたが、日清戦争で清朝が日本に敗れると、清朝の弱体化に付け込んで1898年にドイツが膠州湾を、ロシアが関東州を、イギリスが威海衛と北九龍(新界)を相次いで租借。フランスも乗り遅れまいと南三島の広州湾村一帯の海岸を「石炭の補給基地にするため」を理由に、99年間の租借することを認めさせた。

当時の船は石炭を燃料にしていたので、石油よりも頻繁に補給する必要があったが、広州湾のすぐ近くにはフランス植民地のベトナムがあったし、しかもベトナムは良質炭の産地だったから広州湾にわざわざ石炭の補給基地を設けるというのはヘンな話。ようは、単なる口実ということでしょう。

租借地は当初、広州湾村のまわり20平方kmのはずだったが、具体的な境界線を決める前に上陸したフランス軍は、南三島のみならず本土も含めてそれよりはるかに多くの地域を占領。翌1899年に結ばれた条約では既成事実をタテに、租借地は518平方km(水域を含むと2130平方km)に拡大することを認めさせた。フランスは清軍の砦があった海頭をフォート・バイヤード(中国名は西営、現在の霞山)と改名して、ここに要塞と政庁を設置したが、経済的には租借前から町があった赤坎が中心地だった。広州湾は1900年からハノイのインドシナ総督の管轄下に置かれ、実際には仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)の飛び地のような存在になり、通貨も仏領インドシナで発行されたピスアトル(中国語では安南幣)が使われた。

フランスは広州湾を自由港(フリー・ポート)にして香港のように繁栄させようと計画していたが、貿易はさっぱり振るわず、人口21万人(1926年)のうちフランス人はわずか225人しかいなかった。そんな広州湾がいきなり活況を呈したのは1940年代のこと。日中戦争で中国沿岸部の都市が次々と日本軍に占領され、1941年末に太平洋戦争の勃発で香港も日本軍に占領されると、広州湾には難民が殺到し、中国の対外貿易拠点としても賑わった。第二次世界大戦でフランスはドイツに占領され、仏領インドシナ総督はドイツ占領下で発足したビジー政権に従っていたが、広州湾は自由フランス(ドゴール将軍がイギリスで樹立した亡命政権)に従ったので、「日本軍に占領されない安全地帯」だとして脚光を浴びたというわけ。

しかしそんな繁栄も永くは続かず、1943年2月に日本軍は仏領インドシナ政府と「広州湾共同防衛協議」を結んで占領。日本の敗戦によって広州湾は国民党軍が接収して湛江市と改称し、フランスも統治継続を断念してそのまま中国へ返還されることになりました。
 

●関連リンク

湛江政府金網 現在の湛江市の公式サイト(中国語)
赤坎史話 フランス時代の広州湾の写真があります(中国語)
 

参考資料:
伊東 祐穀『世界年鑑 第7回』 (博文社 1911)
南洋協会・編 『仏印案内』 (目黒書店 1942)
『世界地図』 (三省堂 1942)
『世界年鑑 昭和17年版』 (日本国際問題調査会 1942)
植田捷雄 『支那租借地論』 (日光書院 1943)
費成康 『中国租界史』 (中国:上海社会科学院出版社 1991)
 
 

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