わずか十数年の統治でビールを置き土産

膠州湾

旧ドイツ領

 
1897年 ドイツが占領
1898年 ドイツが清朝から膠州湾を99年間の期限で租借
1914年 第一次世界大戦の勃発で日本軍が占領
1922年 日本が中国へ膠州湾を返還。飛び地消滅

  

山東半島の地図(1921年) 左下の緑枠で囲まれた部分がドイツ租借地(日本が占領中)。その周りのオレンジ色の部分は中立地帯
膠州湾の地図(1919年) 日本軍が占領していた時代の地図。左側に「塔埠頭」があります
青島市街地図(1920年) 日本軍が占領していた時代の地図。通りの名前(町名)は日本風と中国風がごちゃまぜ
青島市街地図(1933年) 中国に返還された後の地図。通りの名は中国風です
現在の膠州湾の地図 「紅石崖」が載っています

今から20年くらい前の話。中国へ旅行に行って、街中の食堂でビールを頼んだら、「丼ビール」が出てきました。店先のポリタンクからひしゃくで汲んで丼に入れたというシロモノで、もちろん冷えてなんかいません。なんだかドブロクみたいなノリです。ビールの銘柄を選択するなんて余地もなく、北京だったら北京ビール、チチハルだったらチチハルビール、ようは地元の国営工場が作ったビールしかありません。もっとも外国人御用達(と中国政府が定めていた)の高級ホテルやレストランへ行くと、かなりマトモな瓶に入った青島ビールがありました。当時、青島ビールと言えば中国では唯一の高級ビール。なぜ青島でビールかといえば、かつて青島は膠州湾(※)というドイツの植民地(租借地)の中心都市で、その当時からビール生産のメッカだったから。もっともドイツが青島を統治していたのは十数年に過ぎなかったのですが、ビールだけはしっかりと置き土産にしていったということですね。

※中国語ではこの旧ドイツ植民地を「膠澳」と表記した。ドイツ語ではKiautschou、英語ではKiaochowでいずれも「膠州」をアルファベット表記したものだが、膠州は本来は租借地外にある内陸部の都市の名前。そういえば日本語で餃子(Jiao zi=ジャオズ)を「ギョーザ」と発音するのは、満州に多く住んでいた山東半島出身者の方言がもとになっているからだが、膠州(Jiao zhou=ジャオヂョウ)をKiautschouとかKiaochowと書いたのも、おそらく山東半島の方言なんでしょうね。
さて、膠州湾がドイツの租借地となったきっかけは、1897年11月に山東省で起きたドイツ人宣教師の殺人事件。ドイツは「宣教師の保護」を名目に、上海に停泊中だった軍艦をただちに出動させ、720人のドイツ兵が「演習をしに来た」と偽って膠州湾に上陸し、まんまと占領。既成事実を作った後、翌98年3月に清朝と条約を結んで膠州湾を99年間租借した。

しかし実際には、ドイツは以前から膠州湾に目を付けていた。1895年に日清戦争で日本が清朝に満州の遼東半島を割譲させようとすると、ドイツはロシア、フランスと手を組んで三国干渉で割譲を阻止したが、その後ロシアは満州に、フランスは華南に着々と勢力圏を築いたのに比べて、ドイツは得たものがなかった。そこで「中国のどこか」にドイツの勢力圏を築こうと96年に調査団を派遣。まずマカオ周辺に足場を築こうとしたがポルトガルに抗議され、福建省沿岸を物色したが注目すべき場所がなく華南は断念。目標を華北に転じて膠州湾に着目し、詳細なレポートをドイツ本国へ送っていた。そんな最中に山東省でドイツ人宣教師が殺されたわけで、ドイツとしては願ってもない事件だった。膠州湾の租借と同時に、ドイツは青島〜済南の鉄道建設と沿線での鉱山開発権、その他山東省での事業優先権を獲得している。

こうしてドイツは膠州湾を保護領と宣言して、総督を派遣。さっそく青島港と鉄道の建設に取りかかった。ドイツが建設した青島市は、外人居住区の青島区と中国人居住区の大鮑島区、オフイス街の埠頭区、競馬場やビーチのある別荘区の4つの地区に分かれ、郊外には台東鎮と台西鎮のニュータウンが建設された。1902年には1万5000人(うち外国人766人)だった人口は、1913年には5万5700人(うち外国人2411人)に増え、ドイツが統治した十数年足らずの間に、青島は山東半島有数の都市に変貌した。

ドイツの租借地経営は日本の関東州とともにかなり積極的で、関税のかからない自由港として貿易振興を図りつつ、ビール工場建設で産業育成を図ったほか、教育にも力を入れ、村々に小学校を設置して5年生以上にドイツ語を習わせ、1909年には清朝と共同で徳華大学(青島特別高等学堂=第一次世界大戦後は上海へ移転して現在は同済大学)を開設した。またドイツの13の銀行が共同出資した独亜銀行(中国語では徳華銀行)が青島ドルの紙幣と硬貨を発行し、租借地内で中国通貨の使用を禁止したほか、租借地外でも山東鉄道の運賃支払いは青島ドルで行うことが強制された。

※ドイツ植民地なのに「青島マルク」じゃなくて「青島ドル」だったのは、19世紀に東アジアで広く流通していたメキシコドル銀貨(洋銀)を基準に作られた通貨だから。「香港ポンド」じゃなくて「香港ドル」なのも同様。香港造幣局の機械を中古で購入して作られた明治初期の日本円も、メキシコドルと同価だった。ちなみに「ドル」という名称は、16世紀にハプスブルグ家の神聖ローマ帝国のSankt Joachimsthalという銀山で作られたThaler(タラー)銀貨がルーツで、同じハプスブルグ家が支配するスペインの通貨となり、スペイン植民地だったアメリカ大陸の通貨になった。だから「ドルはもともとドイツの通貨」と言っても、間違いではなさそう。


そんなドイツの統治も17年間で幕となる。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、中国(北洋政府)は当初中立を宣言したが、膠州湾は南洋諸島とともにたちまち日本軍が占領。翌15年に日本は北洋政府に対して対華21ヵ条を突きつけて、膠州湾の租借権や山東半島での利権を日本がドイツから引き継ぐことを認めさせ、1919年のパリ講和会議でも日本の利権継承が認められた(※)。

※21ヵ条の内容は、他に関東州の租借期限や満鉄の経営期限の延長、中国政府への日本人顧問の登用、中国警察の日中共同化など


膠州湾は日本の植民地となり、青島市内の道路名はドイツ語から日本語に改名され、日本企業が相次いで進出(ビール工場は大日本麦酒=現在のアサヒビールとサッポロビールが経営)したが、これに憤慨したのが中国の民衆。中国も1917年にドイツやオーストリアに宣戦布告し、第一次世界大戦では戦勝国の一員だった。各地のドイツ租界は中国が接収したのに、日本の対華21ヵ条や膠州湾の植民地化はまるで火事場泥棒だと、パリ講和会議の内容が明らかになると各地で反日デモが勃発した(五四運動)。これを契機に、中国では反帝国主義のナショナリズムが高揚し、アメリカやイギリスの反発もあって、日本は1922年に膠州湾を中国へ返還することになりました。

返還後の膠州湾は、北洋政府の下で中央政府直轄の特別行政区として「膠澳商埠」となり、財政や公共事業の委員に在留外国人(=日本人)が任命された。やがて蒋介石が率いる国民党の北伐軍が山東省に接近すると、1926年から29年にかけて日本は「居留民保護」を理由に山東出兵を繰り返し、国民政府による統治の下で、29年に「膠澳商埠」は取り消されて青島特別市に、翌30年には青島市として一般の市になって、外国人の市政関与制度は廃止されました。


★膠州湾の飛び地:海西岬(イエシケ岬)

膠州湾の塩田の衛星写真 (google maps)

イエシケ岬(左下の赤色)が飛び地になっている地図
膠州湾のドイツ租借地は、青島がある東岸の半島のほか、膠州湾内の全水域と湾内に浮かぶ陰島(現在の紅島)や黄島、そして周囲にある合計25の島々、さらに膠州湾西岸の海西岬(ドイツは青島で死亡した第二代総督の名を取ってイエシケ岬と命名)で構成されていた。海西岬は膠州湾の入口を挟んで青島と向かい合う格好だが、湾内の海岸線は地図によっては細長いドイツ領になっていたり、中国領になっていたりでまちまち。もし海岸線がドイツ領なら、海西岬は膠州湾を取り囲む細長い領土で青島と繋がっていることになるし、海岸線が中国領なら、海西岬はドイツ租借地の飛び地ということになってしまう。一体どっちだったのでしょう?

実はこれ、塩田を陸地として地図に描いたかどうかという違いらしい。塩田とは遠浅の海に堤防を築いて田んぼのように区切り、そこで海水を蒸発させて塩を作るという場所で、膠州湾の西岸から北岸にかけてはほとんどが塩田だった(右下の地図参照)。膠州湾の租借条約では「膠州湾の満潮時の水域はドイツ租借地とする」となっていて、海岸線は中国領だが、塩田は本来なら満潮時には水面下に沈む場所を堤防で仕切ったということでドイツ領になった。膠州湾で作られる塩は朝鮮などへ盛んに輸出されていて、膠州湾総督府ではこれらの塩田を官有地として収益源にいていた。

つまり海西岬から塩田の堤防を何十kmも伝っていけば、ドイツ領だけを通って対岸の青島へたどり着けたわけだが、膠州湾と中国領との間は入管などはなく行き来は自由だったし、ドイツ軍も膠州湾から50km以内の地域(中立地帯)は自由通行が認められたし、何より船で渡ればすぐだったので、そんな酔狂なことをする人はいなかったでしょう。


膠州湾の塩田(1910年代末)


★膠州湾の飛び地:塔埠頭と紅石崖

塔埠頭と塩田の地図。クリックすると拡大します
また、膠州湾の西北部の海岸にあった塔埠頭(人口360人=現在の営房鎮)と、その南側の紅石崖(人口240人)もドイツが飛び地のように支配し、警察署や郵便局、小学校などを設置していた。租借条約では海岸にある村々は中国領のはずだが、当時の地図(右)を見ると、塔埠頭村は海(塩田)の上に存在するように描かれている。ひょっとして水上生活者の村だったのだろうか?

塔埠頭は古くからの漁村で、ドイツが青島市が建設するまではここが膠州湾の貿易港として栄え、税関が設置されていた。そういう拠点だったので、1897年にドイツが膠州湾を占領した時には塔埠頭も占領し、翌年正式に租借条約が結ばれた後も「塔埠頭は海の上」ということにして、そのままドイツが支配したようだ。塔埠頭は水深が浅くて大型船が入れないため、青島築港後は貿易港としての役割は終えたが、膠河の河口に位置していたので、山東半島内陸部への入口としてドイツにとっては重要な場所だったようだ。

一方の紅石崖は清朝末期に小さな港が作られた村で、その名の通り赤い岩(つまり粘土質)の崖があった。そこでドイツはここを占領して青島市の建設に不可欠だった煉瓦工場を建てた。この煉瓦工場はドイツが引き揚げた後も発展して、現在の紅石崖は建材の生産拠点として開発区になり、膠州湾を跨いで青島市街と結ぶ橋も建設中だ。

★膠州湾の中立地帯:膠州

こちら を参照してください
 

●関連リンク

ドイツ植民地―膠州湾 ドイツ租借地時代の郵便事情
日独戦争 第一次世界大戦で日本軍が青島を占領したときの戦史
ドイツによる青島経営 瀬戸武彦氏の論文です
時刻表に見る戦前の山東鉄道 大正11年の日本占領時代の時刻表
膠澳総督府 ドイツ租借地時代の総督府(中国語)
百年青島 青島の歴史について(中国語)
Auf den Spuren der deutschen Schutzgebiete-Kiautschou  ドイツ時代の膠州湾の資料や写真がたくさんあります(ドイツ語)
Kiaochow, China ドイツが青島で発行していた切手の写真があります(英語)
Kiau Chau 1909 10 Cents  ドイツが青島で発行していた10セント硬貨の写真があります(英語)
山東青島 たぶん青島市政府の日本語サイト。「青島の古い写真」もあります
青島日本人会 1990年に結成された青島の在留邦人団体
中国青島オンライン 青島の生活・観光情報
青島ビール飲み比べ大会  いろいろ種類があるんですね
 

参考資料:
伊東 祐穀『世界年鑑 第7回』 (博文社 1911)
田原天南 『膠州湾』 (満州日日新聞社 1914)
『租借地略図』 (出版者不明 1919)
『山東鉄道旅行案内』 (青島守備隊民政部鉄道部 1920)
西山栄久 『改訂最新支那分省図』 (大倉書店 1921)
日下伊兵衛 『実用帝国精図』 (国際商工通報社 1926)
植田捷雄 『支那租借地論』 (日光書院 1943)
費成康 『中国租界史』 (中国:上海社会科学院出版社 1991)
青島之窓 http://www.qingdaochina.org/culture/lishi/index.htm
青島市情直通車 http://202.110.193.6/shizhi.nsf/lanmu?readform
網上培訓−近現代的青島 http://www.qdta.gov.cn/peixun/daoyou/dy001.htm
 

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