ヒガチモで2番目にエライ人に突撃インタビュー


  

東ティモールの政治の中枢はこの建物。いかにもコロニアルな感じですね。左の写真は99年で「インドネシア東ティモール州庁」だった頃、右の写真は00年で「国連暫定統治機構(UNTAET)」になっています。99年の暴乱で併合派民兵にメチャクチャに荒らされたのを修復したのですが、ワタクシ的には2階の中央にエアコンの室外機が取り付けられた変化に注目してます。

この建物は1960年代にポルトガルがティモール政庁の総督府として建てたのですが、40年足らずの間にポルトガル→インドネシア→国連→東ティモール民主共和国と主が変わったわけですね。

UNTAETで働いているのはほとんどが外国人スタッフで、ティモール人のスタッフは守衛ぐらいでした。UNTAETの説明によれば、「ティモール人には行政運営ができる人材がほとんどいない」「インドネシア時代の職員は大部分が西ティモールへ逃げたまま帰って来ない」とのこと。そういえばインドネシアが占領していた時も、「ティモール人には行政運営ができる人材がほとんどいない」と言うのを理由に、ジャワ島などから送り込まれた職員が要職を占めていたそうですが・・・。

インドネシア時代のティモール人職員が登用されない背景として、どうやら国連は「インドネシア式の行政運営は非民主的なやり方が染み付いているので、1から仕組みを作りかえるべき」と考えているようです。また西ティモールからティモール人職員の帰還が進まないのは、インドネシア領内でなくなった東ティモールに来るとそれまで働いた分の退職金や年金をもらう資格がなくなってしまうという事情もあるとか。

国連のオフイスにはパソコンが完備されていますが、これもティモール人職員の登用が進まない原因でした。ティモール人でパソコンを使える人はほとんどいないし、テトゥン語版ソフトなんてないですからね。UNTAETの公用語は実質的に英語ですが、ティモール人で英語のできる人もほとんどいません。

UNTAETの建物を出ると、新聞売りの少年たちが「ハロー!ミステル!(Hello! Mister!のポルトガル風)」と群がって来ます。敷地の外には両替屋がたくさんいて「ハロー!ミステル!」。

ディリにはもともとホテルが少なかった上に、99年の暴乱でどこも破壊されてしまいました。そこで国連スタッフ御用達のコンテナ船式洋上ホテルがオープン。ディリの街はしょっちゅう停電していますが、ここだけは夜通し煌煌と明かりがついて別世界です。宿泊料は1泊US$100ヨリと、これまた別世界。

洋上ホテルの対岸にいち早く修復された建物。ポルトガル植民地様式といった感じですが、これは華僑会館です。もともと東ティモールの経済的な実権はポルトガル時代から華人(中国系)が握っていましたが、UNTAETの統治下でも国連スタッフ相手にホテルやレストラン、スーパーなどの店を構えているのはもっぱら華人でした。洋上ホテルもシンガポール人の経営だそうです。

洋上ホテルと華僑会館の間には、ティモール人たちのバラックが並んでいます。

  

日本でもありそうな干物ですね。醤油をつけて焼いたらうまそう・・・。国連スタッフ向けのレストランと比べたら格段に安いのですが、物価はお隣り西ティモールの2倍くらいでした。魚や野菜は地元で獲れますが、日用品のほとんどすべてはインドネシア製品です。インドネシアから独立するので輸入税が導入されることになり、物価がさらに上がりそうだと懸念されていました。

外国人がディリの街を歩いていると「ハロー!ミステル!」の声が盛んにかかります。99年に行った時もそうでしたが、この時は住民投票の実施が決まり二十数年続いたインドネシアの圧政から独立できそうだ!という喜びに沸いていて、外国人に嬉しさを伝えたいといった感じでした。しかし00年に「ハロー!ミステル!」と声をかけて来るのは両替屋、物売り、そして物乞いたちです。

商売上手なオーストラリア人がいて、UNTAETの庁舎のそばにその名も「ハロー ミステル」というスーパーをオープンさせました。店内にはオーストラリアから輸入した商品がズラリと並んでいて、これで外国人スタッフも生活に不便を感じなくなりました。開店セールにはティモール人たちもたくさんやって来ましたが、買い物をする人はほとんどいなくて、みんな野次馬です。何しろティモール人の失業率は7〜8割なので、先進国からの輸入製品など買えるわけないですね。

鳴り物入りで開店した「ハロー ミステル」ですが、その後2002年12月の暴動でティモール人たちに焼き討ちされてしまいました。

  

ティモール人相手の店はもっぱらマーケットか路上です。コーヒー屋(左)に飲み屋(右)。

  

タバコ屋と両替屋は景気が良さそう。この頃、米ドルが法定通貨と決まったにも関わらず、ティモール人のほとんどはスハルトの肖像が描かれたインドネシア・ルピアを使っていました。NTAETは米ドルを使い、さらに各国のPKF部隊がポルトガル・エスクードや豪州ドル、タイ・バーツなどをばら撒いていたので、東ティモールにはいろんな通貨が出回っていました。ティモール人は見慣れないお金を外国人から受け取ったら両替屋でインドネシア・ルピアに替えていたのです。1年後には米ドル以外の現金は流通停止になったので、両替屋もこの頃が稼ぎ時だったのでしょう。それにしても、タバコ屋さんが被っていた帽子、台湾の総統選挙の候補者名が書かれていましたが、選挙で使った帽子が援助物資になって流れてきたのかな?

 

マーケットのまわりが何やら騒がしくなっていました。警官隊が出動して群集を追い払いはじめましたが、国連の警察は各国の混成だし、テトゥン語はできないしでもたついています。

 

結局、言葉抜きでも通じる形で群集を追い払います。私もこの写真を撮っていたらえらい剣幕で怒られてしまいました。この当時、東ティモールの警察官はすべて外国人で、新しく警察学校を作り、ティモール人警官の養成を始めたところでした。インドネシア時代に警官をしていた人は、雇わない方針だったようですね。

この騒動の原因をティモール人の野次馬に聞いたところ、「ドラッグやってたやつが叫んで、みんな集まって来て、物騒な雰囲気になった」とのこと。国連バブルで物価が上がったにもかかわらず失業率が高いことや、国連スタッフとの生活格差を毎日見せつけられていることで、この頃からだんだんUNTAETに対する不満も高まってきたようです。銀行はポルトガルの銀行が、通信会社はオーストラリアの企業が接収したので、英語かポルトガル語ができないとなかなか職にありつけない状況も生まれ、地元政党による「職よこせデモ」が起きていました。

 

「東ティモール独立の聖地」とでもいうべきサンタクルス墓地です。1991年11月12日に民衆がここに集まりインドネシア軍に殺された2人の追悼集会を開いていたところ、インドネシア軍が乱入して無差別発砲し、たくさんの犠牲者が出ました。その一部始終を外国人ジャーナリストが撮影していたため、現場の映像が世界に流れ東ティモール独立紛争が注目されるようになったのです。

墓地の近くに赤旗が翻った建物がありました。PST(ティモール社会党)という政党の本部みたいなので、さっそく野次馬的に話を聞いてみたところ、インドネシアにある左派系政治団体の友党のようで、「ポルトガルの公用語化など旧植民地勢力の復活には反対」「東ティモールの独立は当然だが、インドネシアの民主的な勢力と連携していくべき」と主張していました。

「我々はコミュニストではない!」と言っていましたが、党のマークは赤旗に★、それとペンとトンカチで、どうみても「共産党よりも左」っぽいです(笑)。そういえば、日本にも「鎌とトンカチ」をマークにした新左翼組織があったな〜と思ったので、「似たようなマークの団体が日本にもあるよ」と言ったら、相手はばれたかといった感じで「実はその人たちは同志だ」と言っていました。なんでもパリに本部がある某国際組織の一員だそうです。その辺の事情はここのサイト が詳しいかも?泡沫政党かと思ってましたが、翌年の制憲議会の選挙でPSTは1議席獲得していました。

PSTの話が面白かったので、じゃあ一番大きな政党にも話を聞いてみようとCNRT(ティモール民族抵抗評議会)の本部にやって来ました。CNRTは独立派の共闘組織で最大政党のフレテリン(東ティモール独立革命戦線)やUDT(ティモール民主同盟)などが加盟しています。

受付で「スポークスマンに話が聞きたい」と言ったところ、さっぱり英語が通じず、「スポークスマンって何?」と聞き返されてしまいました。う〜ん、困った・・・。「いや、誰でもいいから話が聞きたいのです」と粘っていたら、「インタビュー?」と言われ、YESを連発したら「じゃあ、明日10時に来てくださいネ」。

で、翌日10時に再び行ったところ、2時間くらい待たされてようやく「スポークスマン」が登場。周りのティモール人はペコペコしてるし、スポークスマンなのにずいぶんエラそうな感じの人だな〜と思いながら、20分くらいいろいろ質問しました。終わりに記念撮影したら急ににこやかな顔に変身しちゃうし。とりあえず名前を聞いておこうと「名刺を下さい」と頼んだら、渡された名刺には「ノーベルなんとか」という肩書きがついてます。ノーベル・・・って、ノーベル平和賞もらった人?げっ、ラモス・ホルタだよ!この人!!

「スポークスマン」って頼んだのに、シャナナ・グスマンに次ぐ副議長がお出ましになるとは夢にも思いませんでした。「What's your name?」なんてストレートに聞かなくて良かったですね(苦笑)。私も周りのティモール人と同じようにペコペコして部屋を出ました。現在、この人は東ティモールの外務大臣に就任してます。

そういえば、カンボジアを国連が暫定統治していた時も、PKOの野次馬に出かけたら、ひょんなことからシアヌーク国王のご令嬢とディナーを食べるはめになった のですが、暫定統治されてるとこって、エライ人に会いやすいのかも知れないですね(謎)。インタビューをしておいてメディアに書かないというのでは、なんだか「ペテン師」みたいになっちゃうので、とりあえず香港の某メディアにこの時の話を少し書かせてもらいました。で、肝心なインタビューの内容は?う〜ん・・・と、またいずれ、ということで。
 
 

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