ゲリラ支配地区を通って高原リゾートへ


ディリの国連庁舎をウロウロしていたら日本人の職員に声をかけられました。「時間があったらマウビセへ行くといいですよ〜。もとリゾートだった場所で、東ティモールでまともなホテルがあるのは、たぶんあそこだけですから」だそうで、さっそく行ってみることにしました。ディリから乗合トラックの荷台に揺られながら、ものすごい急な峠道を登ったり降りたり、ティモール特産のコーヒー畑を見わたしながら半日ほどかかってマウビセに着きました(マウベシとも言うみたいですね、どっちがホント?)。

そのホテル「ポウサダ・マウビセ」は丘のうえにあります。もともと東ティモールがポルトガルの植民地だった頃の総督の別荘で、インドネシアが併合した時、ここをリゾートホテルにしました。99年の暴動でインドネシアの管理者がいなくなり荒れていた建物を、マウビセにPKF(国連平和維持軍)で駐屯しているポルトガル軍が修理し直して、再び営業を始めたとか。

  

もともと別荘なので部屋数は10くらいしかない小さなホテルです。食事はステーキとかチキンとかでしたが、あらかじめ頼めばポルトガル料理も出るみたいです。タコやイカが入った雑炊は日本人の口に合っておいしかったですよ。

宿泊客は私ともう1組しかいませんでしたが、とっても陽気なポルトガル人のグループが食事に来て騒いでました。このホテルの管理人もポルトガル人で3ヵ月交代で来ているそうです。「毎日退屈・・・早く帰りたい」とこぼしてました。

さて、マウビセの観光です。車があればいろいろな場所へ行けるんでしょうが、たまにディリと反対側の海岸を行き交うトラックが通るだけで、バスやタクシーというものはないし、町(というか村)を歩き回るだけです。ホテルを除いて一番立派な建物は教会でした。

マーケットは店がほとんど閉まっていましたが、道端に商品を並べている人達はいました。

商品は近くの農家で獲れた芋や野菜とか。高原は昼は暑く、朝や夕方は寒いので毛布は必需品ですね。

  

東ティモールにはいろんな部族の人たちが住んでいますが、マウビセ一帯に住んでるのはマウベレ族で、男性がかぶっている帽子が特徴的です。なんか手品で使いそうな感じですね。また中年以上の女性は檳榔の実を噛んでいる人が多くて、口が真っ赤です。檳榔は台湾でも男性がよく噛みますが、胸のところがジュワーッと熱くなってなかなか病みつきになります。実は私も大好きです(笑)。

東ティモールではどこでも最大の娯楽は闘鶏で、ここでも毎週闘鶏の開催日にはマーケットが賑わいます。

店に入ると「忍」の字が・・・?東ティモールがポルトガル植民地だった頃、町や村で店を構えていたのはほとんどが華人(中国人)で、今でもその頃からの建物が残っています。もっとも内乱やインドネシアによる支配、そして独立紛争に99年の暴乱と、戦乱が続いてきた東ティモールでは多くの華人が逃げ出してしまい、現在ではティモール人が経営している店がほとんどです。

教会横の広場でポルトガル軍がセレモニーをやってました。こうやってポルトガル兵が町を行進するのは25年ぶりのはずで、地元の住民たちも感無量でしょう。兵隊の中から声がかかったので、何だろうと思ってみたら、昨夜ホテルで騒いでいたポルトガル人でした。

なんか見たようなトラックが・・・。日本から援助で送られた車がそのまんまの塗装で使われてます。

  

マーケットでさまざまな国連からの住民向け広報チラシが配られていました。当時はまだテレビやラジオは放送を再開していなかったし、新聞もディリしか売っていなかったので、チラシが重要な伝達手段でした。この日配っていたのは「武器や爆弾を供出せよ」と「米ドルの見分け方」というお達し。山岳地帯は独立ゲリラの拠点になっていたので武器が相当出回っているようです。米ドルは国連統治によって法定通貨になったのですが、この時点では豪ドルやポルトガル・エスクードも出回り、住民はもっぱらインドネシアのルピアを使っていました。ディリ以外では米ドルなんて見たことない人がほとんどだったので、「これが米ドルのお札です」と知らせる必要があったのでしょう。現在ではインドネシア・ルピアは流通禁止になったそうです。

結局マウビセには2泊してディリへ戻りました。帰りもやはりトラックです。トラックはタイの山岳地帯や香港の田舎でもバス代わりに使われてますが、ちゃんと屋根や幌がついてて椅子も並んでるし、乗降用のデッキもあって人が乗るために改造されています。香港ではワンマンバスみたいなブザーまで付いてました。でも東ティモールではダンプそのまんまの車に乗ります。

行きのトラックは直通でしたが、帰りのトラックはアイレウという町で乗り換えで、銃を持った人達が乗客を検査していました。最初は警官かな?と思ったのですが、よく考えたら警官が持ってるのはピストルでこんな戦闘用の銃など持ってないし、迷彩服も着ません。それにこの当時、警察は国連がやっていてティモール人の警官はほとんどいないはずです。実はこの町はファリンテルという独立派の武装ゲリラが国連と協定を結んで支配していたのでした。

ちょっと写真では見えづらいのですが、彼らが使っていたテントには「JAPAN」の文字が・・・。何かのスポーツ大会で使ったテントのお古みたいです。

ゲリラに誘拐された華僑・・・じゃないですよ(笑)。

実はこの時期、ファリンテルでは内部紛争が起きてアイレウでは銃撃戦があったり、集団離脱などの事件も起きていました。また国連暫定統治機構(UNTAET)と対立してトラブルになったりしたようですが、一介の野次馬に過ぎない私はそんなことまでは知りませんでした。当時、国連は「独立ゲリラが政権を握ると、民主主義が定着せず、アフリカ諸国のようにロクなことにならない」と判断していたようで、彼らはUNTAETによる行政には参画できず、「アイレウを支配地区として公認する」と言うのはその実、独立ゲリラをアイレウに隔離するというのが実態だったようです。そんなわけでこの時期、ゲリラたちはかなりストレスを貯めていて、NPO関係者の間では「ゲリラに笑いかけてもあまりにこっとしてくれない」だなんて言われてたらしいですが、この写真ではみんなニッコリしてますよね・・・なぜでしょう?思い当たるフシはいずれ『インドネシアから強制送還に・・・の巻』で書くつもりです。

ファリンテルはもともと独立派政党「フレテリン」のゲリラ組織だったのですが(つまりかつての中国共産党と人民解放軍みたいな関係)、その後行われた制憲選挙ではフレテリンが圧勝して、元ファリンテル司令官のシャナナ・グスマンが東ティモールの初代大統領になりました。となれば、インドネシアの占領軍を相手に25年間山に立て篭もって戦い続けた彼らが政権を握ったのかと思えばそうではなくて、政府高官はほとんどがポルトガルなど海外に亡命していた人達に占められました。ファリンテルは解散して新たに国防軍が作られましたが、ゲリラ兵士の大部分は国防軍に採用されず、ポルトガル語が公用語になったため公務員にもなれず、元兵士たちの多くは失業しているようです。彼らはたびたび抗議集会を開いていて、元兵士に対する処遇問題は東ティモール国内の不安定要因の1つになっているようです。
 


東ティモール9:『東西ティモールの国境最前線をゆく』へ

indexへ戻る