〜 繁栄の象徴 ・ 先人よりの遺産 〜

西 光 寺 野 疏 水


 神崎郡田原村・八千種村・船津村・山田村・豊富村は総面積三百三十七町七反の荒地でした。これが俗に西光寺野と呼ばれる台地です。
 西光寺野は姫路藩の狩場でしたが、肥沃な土地で水田に適しており、古来より開拓地として着眼され、天保年間、姫路藩(藩主:酒井雅楽頭)家老・河合寸翁(道臣)が田原・亀坪谷に溜池を増築して、田原・船津の一部分を開拓したが失敗に終わりました。元々市川東岸は河岸段丘であり、豊富な水を目前にして十分な水利が得られず、畑作や牛の放牧が行われているだけでありました。
 明治に入り、村民たちの水利を求める要望が高まり、西光寺野に灌漑用水を引くため、明治41〜43年にかけて調査された結果、水源を保喜山を隔てた北方の神崎郡瀬加村の岡部川より取り、疏水路を開削して溜池を作り、引水貯溜することで灌漑用水の不足はないと見込まれ、明治43年12月に水利組合設立、また開墾整理工事のため明治44年5月、耕地整理組合を設立(それぞれ神崎郡長・森田久忠氏が組合長)、大正元年11月より工事が着工されました。
 工事には西光寺野周辺の村民はもとより、日雇いを目的とした人夫が日本全国から集まり、難関を極めた七號隧道の工事では犠牲者も出たが、大正3年に長池までの水路が出来ると通水され、全ての完成が宣言されました。総工費411,550円(100億円余り)
桜池拡張工事の様子 竣工式を報じる当時の新聞



**西光寺野疏水今昔**

七號隧道工事(大正2年) 七號隧道付近(北野・井ノ口)

七號隧道(木枠のみの隧道) 七號隧道(コンクリート普及後)

妙徳山神積寺山門前(大正3年) 風景が一変した妙徳山神積寺山門前

妙徳山前煉瓦水道橋(大正3年) 妙徳山前水道橋(コンクリート普及後)

北条街道吹上(大正3年) 旧北条街道前(転落防止のフタを設置)

桜上池(昔は中央に島があった) 桜上池(遠方の集落は大門)

桜下池(右遠方は播磨富士・春日山) 桜下池(中央に中国道が貫いている)

長池(大正3年) 長池(福崎東中学校南側)

北浦谷新池(大正3年) 北浦谷新池(加治谷・亀坪)