IBM Personal Computer


いわゆる「PC」の誕生、すなわち1981年発売のIBM PCとともにこの世に生を受けた記念すべき鍵盤です。発表レターに言う質量は実に2.8kg。現代のノートパソコンのほとんどを凌ぐ数値です。金属製の筐体、コルク製の足、そして美しい反跳を奏でる静電容量式スイッチ。この鍵盤の質感はまさに鍵盤の最高峰と呼ぶにふさわしく、無言の神々しさを放っています。この、今にして思えば過剰な贅沢は、IBMという会社がおおらかに横綱相撲を取ることができた時代の特異な記録として、きわめて興味深いものです。

この贅沢な鍵盤の未来を暗示的に物語るのが、IBM PCの開発と発売を指揮したPihlip Don Estridgeという人の生涯です。こちらで言及されているように,IBM PCは発売後たかだか1年でPCの標準機としての地位を得ました。IBM PCのすばらしい成功を見届けた後,ドン・エストリッジ自身は1985年に飛行機事故で突如悲劇的な最期を遂げます。IBMの栄華と落日を先取りして暗示していたかのようなこの事件は人々に強い印象を残しました。本鍵盤につき“The keyboard was designed by Don Estridge personally.”などと書いているサイトが存在するのはそのために違いありません。ひとつの事業部の長が,鍵盤の細部に直接指示を与えるというのは,とりわけタイプライターの名門メーカーであったIBMでは,まずありえないことだと思います。しかしそれだけドン・エストリッジが象徴的な存在として記憶されているということなのでしょう。

後のWindows系のキーボードの規格の多くは本機を原型に与えられました。この意味で,現代のWindows系のすべてのキーボードの元祖だと言えます。前史1の冒頭で言及しましたが,IBM PCが発売される以前から個人用のPCと言えるものはすでに存在しました。Apple IIがその代表的なものです。しかしApple II(写真はここです)では鍵盤とPC本体は不可分一体でした。Charles M. Kozierok.氏の主宰するThe PC GuidePC/XTの83-keyについての論考によれば,現代ではあたりまえになっている「PC本体と鍵盤の分離」の利便性を消費者に印象付けたという点でも,IBM PCは意義深いのだそうです。

IBM PC のロゴ写真
↑高級感あふれるロゴ

鍵盤の紹介に入りましょう。私の手元にあるIBM PC鍵盤は裏に何の表記もなく,製造番号や年月日は不明です。PC本体には"The PC"という,他のものはpersonal computerですらない(せいぜいマニア向けの「ミニコン」だ)と言わんばかりのある意味で傲慢なネーミングがなされたわけですが,この鍵盤も,品番を示す必要すらない決定版だ,ということなのでしょうか。以降、「IBM PC鍵盤」と呼ぶことにしましょう。

IBM PC鍵盤は、PC/XTにも添付して売られたため、しばしばPC/XTの83-key鍵盤とも呼ばれますが、ハード的にもソフト的にも同じものです。下の写真を一見して、ファンクションキーの位置が鍵盤の上側ではなく左側に、10個配されているのがまず目に付きます。数字キーとアルファベットキーの間に隙間がない点は、まるで現代の省スペース型のフルキーボードのようです。そのためどう見ても数字キーは打ちにくそうで、しかもリターンキーは小さく,見ただけでもリターンキー周りの誤打が多そうです。インターネット上で読める本機についての資料は例外なく,このキー配列には苦情が集中したと書かれています。何しろIBMはタイプライターの名門メーカーであり,消費者側からの要求も厳しかったのでしょう。次モデルのPC/AT鍵盤においてやたらと巨大化したリターンキーに,その苦情をIBMがいかに気に病んでいたかがしのばれます。

IBM PC鍵盤の正面写真
↑IBM PC鍵盤の正面図

キー配列を細かく見ていくと,さらに興味深い点を指摘できます。のちのenhanced 101鍵盤と異なり,Ctrlキーが「A」キーの左にあることはPC/AT鍵盤と同様です。PC/AT鍵盤との目立つ相違を挙げるとするなら,いわゆる英国配列のUNI04C6と同様に,「z」キーの左に「\」キーがある点です。「"」キーの右に「~」があるのも,標準101配列とは違います。

ロンドン大学インペリアルカレッジの計算機学科の主宰するデータベースに,配列の変遷についての記載があります。リターンキーと小さい左シフトキーの位置への苦情を受け,本機の次のPC/AT鍵盤ではこれらを改善した,とあります。ただ,バックスペースが小さくなったのは不評だったようで,PC/ATの次の標準101配列ではバックスペースキーが大型化されています。ちなみにこのデータベース,標準101配列においてファンクションキー位置などが移動し,それまでの配列に慣れていたユーザーが不便をかこったことを指して,"To the touch typist, these deficiencies are maddening."などと,インペリアルっぽくはない言い方で評しています。おかげで資料としての格が下がってしまっているのが残念です。人間は,習慣を変えることを強いられると,しばしば非理性的な反応を示すものですが,その好例ですね。

IBM PC鍵盤の裏面写真
↑IBM PC鍵盤の裏面。コルク性の足に高級感を感じる

ついでに,標準101配列で変更されたCtrlキーの位置について言及しておきましょう。IMEのローマ字かな変換で文章を作る日本人や,Unixの標準的な環境を使う人が,Aの隣にはCapsLockでなくCtrlを置くべきだ,と主張するのはもっともです。しかしながら,そういう環境にいる人は,1980年代においても現代においても全PC使用者の中ではそう多くはないのです。むしろ絶対多数は,英語など西欧語で,普通に(計算機のプログラム書き以外の用途に)単語や文章を入力する人々です。実際,The PC Guideにおける本機についての論考では,
Many users found the <Ctrl> key to be too large and in the place where they expected to find the <Caps Lock> key. In turn, the <Caps Lock> key is in an odd location. (I personally prefer this design, because the <Ctrl> key is used a lot more than the <Caps Lock> key, but I believe I am in the minority in this opinion.)
などと述べられています。あまり使わないCtrlが一等地にあって,よく使うChapsLockが冷遇されているのは変だと思う人も多かった,個人的にはChapsLockよりもCtrlを多用するのでこの配列は好きだが,自分は間違いなく少数派だと思う,という文章です。PC/AT鍵盤においてリターンキーを巨大化させ,標準101配列においてCapsLockをAの隣に昇格させたのは,言うまでもなく多数派の力です。vi使いが割りを食ったのは事実でしょうが,最大多数の最大幸福という意味ではある意味で当然の変更であったわけです。

IBM PC鍵盤のCtrlキーの位置の写真
↑Ctrlの隣にAが来ている

さらにこのテーマについての読み物として,Studio Sixnine.週刊鍵盤世界(特にChap.7「Capitals Lock」)を挙げておきましょう。著者みずからUnix環境に慣れていながら,上に引用した文章と同じく「通常の文章書き」の要請をも正確に把握しており,すぐれたエッセイだと思います。敬意を表して結論部分を引用しておきましょう。
大切なのは「計算機を使うユーザが、自分の好むキー配置のキーボードを常に使えるような環境にある」ことだと思うのです。 Caps Lock の位置にしても必要な人は使いやすい位置にあるキーボードを、使わない人は使いづらい位置にあるキーボード、あるいは最初から Caps Lock がないキーボードが選べるような、そんな環境になってほしいなぁ、とは思いますです。キーの配置くらいで、計算機を使う人間の生産性を落すようなことになったら、もったいないですよね。
その通りだと思います。現代のハードウェアの水準においては,ソフトウェア的にキーの入れ替えをすることに躊躇する必要はないわけですから,各人が思い思いにキー入れ替えを実行できるような環境を用意することが,ベンダーの態度としては正解だと思います。この意味でも,標準101配列の代表機・1391401でキートップが着脱可能(したがって入れ替え可能)であったのはすばらしいことだったと思います。Unicompはまだ健在だとはいえ,本物をわかる人のために,本物の鍵盤を復活させてほしいものだと強く思います。ちなみにこのUnicomp,最近,UNIX配列のLinux101という座屈ばね鍵盤も扱いはじめました。さすが本物の専業メーカーというべきです。

IBM PC鍵盤とPC/AT鍵盤の比較写真
(上)PC/AT鍵盤,(下)IBM PC鍵盤

PC/AT鍵盤の筐体の裏板はプラスチック製ですが,本機の筐体には裏も表も薄い鋼板が使われており,非常に重量感があります。当時は“built like a tank”(戦車みたいにできてるぜ)などと揶揄されたようです。裏につけられた滑り止めの足にはゴムでなく丸いコルクが使われており時代を感じます。爪足の方はPC/ATと同様の構造です。

PC/AT鍵盤と並べてみると,本機にはLEDがないこと,また,本機のほうがひと回り小さいことがわかります。打鍵感はPC/AT鍵盤とまったく同じものです。薄膜接点が採用されているenhanced 101系統と異なり,打ち抜き感が硬質で指に反跳を感じます。後に述べる非薄膜接点の賜物でしょう。電気接点機構は違いますが,これの感覚は5576-003などのブラザースイッチと通じるものがあります。

本機の大型キーは,スペースキーを除きすべて凸字型の断面に加工されています。この形状から示唆されるように,キーを支持するプランジ(さや)はひとつしかありません。下に写真を示します。打ってみて特に不都合はありませんが,そのさやを中心に水平方向にぐらぐらと回転する自由度があるのが気になる人には気になるかもしれません。このぐらぐらをなくすためにもっとも単純な解決策は,さやを二つにすることです。実際,PC/AT鍵盤では写真の通りこの改良がなされており,ぐらつきはおおむね解消されています。

キーの安定度を高める目的で針金の枠がキーからぶらぶらするつくりになったのはPC/ATが最初です。本機にはそのような機構はありません。キーを支持するプランジ(さや)部分の構造は1391401などと相違はありませんが,私の手元にあるものはばねがさびて灰色になっており,時代を感じます。

PC/AT鍵盤のキーの構造の写真 IBM PC鍵盤のキーの構造の写真
(左)PC/AT鍵盤,(右)IBM PC鍵盤

キーキャップは着脱式ではありませんが,上の写真の通りキー自体を引き抜くことができます。キーをはずして露出したばねを指で押すと,極板がカチカチと音を立てて接触するのがわかります。何度か上で引用したThe PC Guideにキースイッチの分解写真があり、鍵盤底の電気回路部分をはがすと,座屈ばね直接取り付けられた極板の列が見えます

ASCII25.comThinkPad学という記事によれば、本機には薄膜接点が採用されたことが述べられていますが、事実ではありません。少なくとも現在的な柔軟な薄膜フィルムは使用されていないことは確かです。下の写真に示しますとおり、本機の金属接点というのは固い樹脂板上にプリント成型されていて、その金属部をキースイッチの足が叩くというつくりになっています。私も2002年12月になって知ったことなのですが、実はこの鍵盤のスイッチは静電容量式であり、後の101鍵盤とは根本的に異なる機構となっています。

IBM PC鍵盤の容量式スイッチ(横田和隆氏提供)
↑IBM PC鍵盤の内部構造(横田和隆氏提供=詳細はここ

本機が静電容量式であるという事実は、2002年12月になって横田和隆氏の指摘を受け知りました。Qwerters Clinicの2002年12月の掲示板に関連した議論があります。関連する情報を書き込まれた、K-OCT氏、K.Tanaka//氏、keybow氏の情報に謝意を表します。静電容量式のスイッチ自身についてもQwerters Clinicに解説がありますのでご参照ください。内部構造の分解写真は、PC/AT/XT的話題の「静電容量スイッチの内部構造」のところで紹介しますので、詳しくはそちらをご覧ください。結論的に言えば、本鍵盤は、座屈ばね機構の基本特許(下写真)を忠実になぞった構造であり、1.非薄膜式接点を使っている(いわゆるメンブレンは使っていない)、2.非導通式(静電容量式)である、ということになります。

座屈ばね機構の特許の図
IBM's buckling spring technology, cited from US Patent, 4,118,611.

さすがに本機ほどレトロな鍵盤になると,論評した記事をインターネット上で見つけるのは難しいのですが,波多利朗氏の記事は興味深いです。本機のキータッチに賛辞を述べ,キーボードの粗悪化傾向をひとしきり嘆いた後,ジャンク品としての本機の購入談が出てきます。秋葉原のラジオデパート1階の某ジャンク屋さんで,6000円で購入したそうです。PC WAVE誌1994年09月号のpp 106-108に掲載された記事についてなのですが,現在もオークション等では数千円から1万円台の値がつきますから,その頃からあまり変わってないようですね。

IBM PC鍵盤については,IBMのタイプライターとの関係がよく言及されます。さすがにアメリカ式生活に長い間根付いた機械だけあり,タイプライターについての濃いサイトはネット上にいくらでも発見できます。たとえばBatchelor Business Machinesというタイプライターの会社が運営するeTypewriters.comというサイトには,このような完璧なカタログが用意されています。それによれば,1948年のModel Aですら,リターンキーは打ちやすそうな大型にできています。時代を下るとPC/AT鍵盤の逆L字型のリターンキーの原型も発見できます。そのカタログには,Model AからModel Dという文字が見えますが,標準101鍵盤に与えられたModel Mという名称がこの流れを継承していると考えるのは,ひとつの仮説として面白いと思います。

「電動タイプライター」という言葉ありますが、Brian Kunde論文によれば(日本語の素人向け解説としてはNHKのデジタル進化論年表があります),有名なタイプボール式の発明が1961年,磁気テープによるメモリ機能搭載が1969年のことだそうなので,機械的動作の一部を電化したという意味での半機械式タイプライターなのだと思います。なお,IBMのタイプライターについての日本語のエッセイがcl-lab.comというサイトの「ハイテク昔話」にあります。学生時代に聞いた教授連の回顧談と重なるところが多く,面白く読みました。

このタイプライターのキータッチがどのようなものだったか確かに気になるところですが,座屈ばね機構の特許が1977年に提出されていることから見て,また,構造上も機械式のタイプライターとPC鍵盤では本質的な相違があることから考えて,IBM PC鍵盤のタッチと直接の関係はない,というのが正解だと思われます。
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