バスティーユ広場|パリ名所案内

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バスティーユ広場|Place de la Bastille

フランス革命の発端、活気あふれるパリ東部の中心地

今若者の間で人気のパリエリアといえばバスティーユ。パリ11区、12区、4区の境にあり、ルーヴル美術館などがあるパリ中心部からは離れています。しかし最新のカフェやバーが店を開き、今ではパリジャンに人気のナイトスポットになっています。その中心にあるのがバスティーユ広場。もともとはフランス革命の発端になったバスティーユ牢獄があった場所で、名前も牢獄に由来しています。しかし牢獄を思わせる遺跡がほとんど残されてないのが非常に残念です。

バスティーユ広場に立つ革命の記念柱

バスティーユ広場は革命後の1792年にできた古い広場で、中央には黄金に輝く自由の天使の像が乗った革命記念柱が建っています。これは1830年の7月革命(※)の犠牲者を追悼して1833年に作られたものです。現在バスティーユ広場はパリ東部を代表する活気ある広場になり、新オペラ座(オペラ・バスティーユ)もある最新流行のエリアです。若者に人気のカフェやバーもあり、多くのアーティストも住んでいます。また下町フォブール・サン・タントワーヌにも近いこともあって、気さくな雰囲気が漂い、気どらないパリの姿を見ることができます。

七月革命
1830年7月にフランスで起きた市民革命。ナポレオン失脚後、ブルボン朝が復活していましたが、この革命により王朝は再び打倒され、市民推薦のルイ・フィリップが王位に就きました。しかし「ブルジョワの王」と呼ばれたルイ・フィリップの政権も労働者の間では不満が多く、2年後の1832年には王権打倒を目指した6月暴動が起きています。ちなみにこの暴動はヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』のクライマックスとして描かれています。
"Dernier projet pour la fontaine de l'Éléphant de la Bastille" (1809-1810、水彩画)
Jean-Antoine Alavoine (1776-1834)

かつて広場の中心に巨大象が建っていた?

広場の中央にある黄金の天使が乗った革命記念柱は、フランス7月革命(1830年)を記念して建てられました。しかしその記念柱が建つ前、ここには巨大な象がいたことをご存知でしょうか。もともとのアイディアはナポレオン1世が思いついたもの。フランス革命後の記念碑(勝利のモニュメント)としてバスチーユ広場に青銅製の巨大な象の彫刻を建てる予定でした。その後ナポレオンの指示により、原寸大の模型として石膏製の象が作られます。建築家アラヴォワーヌによる高さ24メートルの巨大な象はパリ市民の間で話題になりました。

しかし模型を元にした本体の建設工事はナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた1815年に中止となります。そして象の模型だけがそのまま広場に取り残されました。ヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』では主人公の隠れ家として登場することによって永遠にパリジャンの記憶に留められることになりました。また象の足の一つには階段が設けられ、展望台に上ることができる設計だったそうです。1820年代の終わりにはバスティーユ広場近くの住人が、模型の中に住むネズミによる被害に苦しみ、象の撤去を要求する声が大きくなりました。それでも長い間象の模型は放置され続け、1846年にようやく撤去されることになりました。フランス人の「モノもちのよさ」が分かるエピソードです。今では象が建っていた円台のみが残り、バスティーユ広場の記念柱を支えています。

バスティーユ牢獄とはどんなものだったか

かつてこの広場辺りに存在したバスティーユ牢獄は、1370年にパリ東部にあるサン・タントワーヌ門を守るために作られた要塞でした。当時のフランス国王シャルル5世の緊急避難場所としての役目もあり、要塞の壁は幅3メートルもある頑丈なもので、城壁には8つの櫓が建てられ、周囲を幅25メートルものお濠で囲まれていました(そのお濠の一部が現在のアルスナル運河です)。17世紀に要塞としての役割を終えると、ルイ13世の宰相だったリシュリュー枢機卿はバスティーユ要塞を政治犯を収容する牢獄に変えました。その後要塞の近くにある下町サン・タントワーヌの人々の間では、恐れられましたが、実際には囚人は少なく、フランス革命時にはわずか7名しかいなかったそうです。手形偽造者が4名、気の狂った男が1名、殺人容疑で服役中のソラージュ伯爵、ルイ15世を襲ったロベール・フランソワ・ダミアンの共犯者タヴェルニエでした。その少し前までは精神病院に移されたマルキ・ド・サドもいました。有名なバスティーユ襲撃は1789年7月14日に起こり、フランス革命の発端になったと言われています。7月16日にはバスティーユ要塞の取り壊しが決定し、解体された石材はコンコルド橋の建設に使われました。今では要塞の姿は何もなく、ただバスティーユの名がついた広場があるだけです。

バスティーユ牢獄に収監されていた鉄仮面の男

破壊直前にはわずか7名でしたが、それ以前バスティーユにはどんな人々が収監されていたのでしょう。政治犯が多かったと言われていますが、ポンパドゥール夫人への陰謀のかどで逮捕されたジャン・アンリ・ド・ラチュド、マルキ・ド・サドなどがいます。中でも有名なのが鉄仮面の男。彼は1669年にルイ14世の大臣からピネローロ監獄の監獄長のもとに預けられ、監獄長自らが世話をしたといわれています。その後南仏沖のサン=マルグリット島の砦など様々な監獄で服役した後、1698年から1703年に亡くなるまでバスティーユ牢獄にいました。当時の証言によると、バスティーユ監獄で彼はとても丁重に扱われ、副監獄長に世話を受けていました。また実際には鉄仮面ではなく、黒いビロードの仮面を顔に覆っていたそうです。彼の正体は誰も知らず、一説によるとルイ14世の異母兄だとも言われています。彼は死後、パリ4区のサン・ポール・サン・ルイ教会にマルシオリの名前で埋葬されました。鉄仮面の男の逮捕状と彼が身に着けていた鉄仮面は、現在元兵器庫だったアルスナル図書館に所蔵されています。鉄仮面の男はその後、文学作品でも題材となり、映画にもなっています。

バスティーユ牢獄の痕跡を求めて

かつてのバスティーユ要塞の名残はほとんどありませんが、注意深く歩いてみるとバスティーユ広場周辺にいくつか残っています。広場の西北、アンリ・キャトル大通り(boulevard Henri IV)とサン・タントワーヌ通り(rue de Saint-Antoine)の角にある地面を見ると、褐色の舗石が円を描いて埋まっています。これはバスティーユ要塞の輪郭を示すもの。バスティーユ広場広場3番地の建物の入り口の上には、バスティーユ要塞の全体図を描いたプレートが残っています。バスティーユ広場とセーヌ河をつなぐアルスナル運河は、かつてバスティーユ要塞を囲んでいたお濠の跡です。アンリ・キャトル大通り沿いにあるスクワール・アンリ・ガリ(Square Henri-Galli)という公園の中には、バスティーユ要塞の塔の土台が置かれています。またメトロ5番線バスティーユ駅のホームには要塞の土台の一部が展示されているので、駅を降りるついでに見ることができます。

バスティーユ広場
パリ東部にある広場。かつてバスティーユ要塞があった
最寄りメトロ:バスティーユ(Bastille)


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