モンマルトル墓地|パリ名所案内

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モンマルトル墓地|Cimetiere de Montmartre

多くの作家や画家が眠るパリ18区の墓地

モンマルトル墓地はパリ18区にある墓地です。多くの作家や映画監督、画家が眠り、毎日多くのファンが訪れます。サクレクール寺院ムーラン・ルージュなどの観光地にも近く、モンマルトル観光の合間に散策することができます。

採石場の跡にできた墓地

モンマルトル墓地は1860年にできました。元々この辺りはグランド・カリエール(大きな石切り場)と呼ばれ、モンマルトル採石場があった場所でした。18世紀まで、パリには共同墓地しかありませんでした。魂を失った亡骸は巨大な穴に次々と落とされ、適切な処理もされずに朽ちていきました。それは中世のパリが悪臭を放つ大きな原因の一つでした。その代表がパリ中央にあったイノサン墓地でした。しかし12世紀から続いたイノサン墓地は1786年に撤去され、パリ中心部に造ることを衛生上の理由から禁止されていました。フランス革命後の1798年9月、総裁政府がモンマルトル採石場の一部を買い取り、セーヌ右岸の人々のための墓地を作りました。それがモンマルトル墓地の原型になりました。当時はシャン・デュ・ルポ(休息の園)やシメティエール・ス・モンマルトル(モンマルトルのふもとの墓地)などと呼ばれていたそうです。その後、墓地は拡張され、1860年には今の形になりました。このようにパリの墓地は18世紀後半から19世紀にかけて生まれました。多くの墓地はナポレオンの指示により、当時のパリの境界周辺にできました。モンマルトル墓地以外では、南のモンパルナス墓地、東のペール・ラシェーズ墓地、エッフェル塔の近くにあるパッシー墓地などが代表的なパリの墓地です。当時モンマルトル墓地はパリの境界に位置していたんですね。

スタンダールやトリュフォーが眠る

モンマルトル墓地には多くの作家や芸術家が眠っています。シャルル・フーリエ(1837)、スタンダール(1842)、アルフォンシーヌ・プレシ(1847)、ハインリッヒ・ハイネ(1856)、アドルフ・サックス(1894)、アレクサンドル・デュマ・フィス(1895)、エドモン・ド・ゴンクール(1896)、エクトル・ベルリオーズ(1869)、アンリ・ミュルジュール(1861)、ジュール・ド・ゴンクール(1870)、テオフィル・ゴーティエ(1872)、エミール・ド・ジラルダン(1881)、アンリ・ロシュフォール(1913)、エドガー・ドガ(1917)、ジャン・ジロドゥ(1944)、モーリス・ユトリロ(1955)、サッシャ・ギトリ(1957)、フランソワ・トリュフォー(1984)など。※死没年順です

『椿姫』のヒロインが眠る

多くの作家が眠っていますが、モンマルトル墓地で作家以上に有名なのはアレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』(La Dame aux camelias/1848)のヒロインであるマルグリット・ゴーティエ。彼女のモデルとなったマリー・デュプレシ(Marie Duplessis, 1825-47)のお墓がモンマルトル墓地にあります。本名はアルフォンシーヌ・プレシ(Rose Alphonsine Plessis)で、パリのドゥミ・モンド(裏社交界)で生きる娼婦でした。彼女を愛した原作者デュマ・フィスもすぐ近くに眠っています。彼らは死後も2人で近くにいたかったのでしょう。

デュマ・フィスが高級娼婦アルフォンシーヌ・プレシに出会ったのは1844年、劇場でのことでした。彼はすでにその世界の花形だった彼女に一目ぼれしますが、お金で男と時間を供にする彼女を自分だけのものにすることはできませんでした。デュマ・フィスが彼女との関係を絶った約2年後の1847年2月、アルフォンシーヌ・プレシは肺結核で亡くなります。まだ23歳の若さでした。彼女の死の翌年にデュマ・フィスは彼女をモデルにした小説を発表します。高級娼婦マルグリットとアルマン青年との純愛を描いた『椿姫』は人気となり、1853年にはジュゼッペ・ベルディによってオペラとして舞台化されました。オペラの原題は『ラ・トラヴィアータ』(La Traviata)で、「道を踏み外した女」を意味します。

小説と劇で有名になった彼女の墓には今も多く人が参拝にやってきます。私も原作を読んでから彼女のお墓に参拝に行きましたが、陶器製の赤椿に彩られた彼女のお墓にはファンからのメッセージや新鮮な花束が供えられていました。

ハイネの死

ハイネの墓を飾る大理石の頭部像はデンマークの彫刻家ルイス・ハッセルリーフによるもの。オーストリアのエリーザベト皇妃に依頼されて制作されたものです。皇妃はもともとハイネの頭部像を彼の故郷デュッセルドルフに寄贈するつもりでしたが、市がそれを拒否したため、その後頭部像はギリシアの島にある皇妃の別荘アキレオンに置かれます。故国を捨ててパリに移住したドイツの詩人ハイネはドイツ国民から嫌われていたといいます。皇妃暗殺後、彼の像はモンマルトル墓地のハイネの墓に置かれることになりました。

彼がパリにやってきたのは1831年5月。政治新聞の通信員としてパリで働き、文章を書きました。彼はパリで多くの作家・作曲家たちと交流しました。その中にはヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザック、アレクサンドル・デュマ、リヒャルト・ワーグナー、フランツ・リスト、フレデリク・ショパンなどがいました。
1848年以降は持病の脊髄の病が重くなり、1854年にはシャンゼリゼのロン・ポワンに移って靴屋の売り子だった妻ウージェニー・ミラと愛人エリーゼ・クリニッツに看取られたまま亡くなったと言われています(一説によれば、サン・ラザール駅近くのアムステルダム通りにある狭いアパルトマンで亡くなったとも言われています。彼はここに1848年から1854年まで住んでいました)。ハイネの埋葬には100名ほどの参列者がいて、その中には作家テオフィル・ゴーティエや妻の知り合いであるドイツの靴職人たちがいました。

スタンダールの死

パリを愛したハイネとは反対に、スタンダールはフランスを嫌っていたといいます。『赤と黒」』で有名なスタンダールの葬列には3人しか来なかったと言われています。イタリア遠征に参加して軍人となったスタンダールは、母方の家系がイタリア系だったこともあり、イタリアを第二の故郷として愛するようになりました。その後、軍人としては仕事がうまくいかなかったスタンダールは輸入問屋を経てフリーのジャーナリストなり、ナポレオン没落後に再びイタリアに渡ります。しかしフランスのスパイだという噂が広まり、失意の中でフランスに帰国。1822年に『恋愛論』、1830年に『赤と黒』を発表します。七月革命が始まると、自由主義者として政治の世界に戻り、ローマ教皇領チヴィタヴェッキア駐在フランス領事に任命されます。その後休暇をとって『パルムの僧院』を書きます。1842年3月22日、パリでの休暇中にカピュシーヌ大通りにあった外務省を訪ねた帰り道、突然の脳卒中に襲われました。従兄によってダニエル・カサノヴァ通り22番地のド・ナント館に運ばれますが、意識を取り戻すことはなく翌日亡くなりました。彼の墓石には〈ARRIGO BEYLE MILANESE SCRISSE AMO VISSE〉(アリゴ・ベイレ ミラノ人 書いた 愛した 生きた)と書かれています。

モンマルトル墓地
パリ18区にある墓地
オープン:1860年
最寄りメトロ:ブランシュ(Blanche)、プラス・ドゥ・クリシー(Place de Clichy)


モンマルトル墓地の写真
『椿姫』のモデルとなったマリー・デュプレシの墓(モンマルトル墓地) マリー・デュプレシの墓(モンマルトル墓地) マリー・デュプレシの墓(モンマルトル墓地) アレクサンドル・デュマ・フィスの墓(モンマルトル墓地) アレクサンドル・デュマ・フィスの墓(モンマルトル墓地) アレクサンドル・デュマ・フィスの墓(モンマルトル墓地) アレクサンドル・デュマ・フィスの墓(モンマルトル墓地) モンマルトル墓地の猫 モンマルトル墓地の入り口
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