ペール・ラシェーズ墓地|パリ名所案内

パリ観光|パリの名所案内

ペール・ラシェーズ墓地
Cimetiere du Pere-Lachaise

多くの作家が眠るパリ最大の墓地

毎年11月1日になると、多くのパリジャンが菊の花を持ってお墓にでかけます。この日はトゥッサン(万聖節)というカトリックの祝日で、諸聖人をお祝いするための日です。パンテオンに祭られた全ての聖人を讃えます。日本で言うとお盆に当たる日になり、フランス人は先祖のお墓参りをします。しかし日本と違うのは、自分たちの家族の墓地だけではなく、愛する作家や芸術家のお墓にも参拝するところ。特にパリ東部にあるペール・ラシェーズ墓地は毎年パリジャンだけでなく多くの観光客が敬愛する著名人の参拝をしに訪れます(年間約200万人)。ここは19世紀の始めの1804年に作られたパリ最大の墓地で、多くの作家や芸術家が眠っていることで世界的に有名です。ペール・ラシェーズ墓地の名前はルイ14世の「告白」を聞いた司祭ペール・フランソワ・デクス・ド・ラ・シェーズの名前に由来しています。

悪臭の根源から魂の休息地へ

古代のパリでは墓はパリ市外にしかありませんでした。その後、メロヴィング朝の時代になって死者を敬い殉教者のそばに眠らせる習慣ができると、パリ市内に教会墓地や共同墓地ができあがります。しかし人口増加にともなって埋葬する死体が増えると、埋葬場所がなくなってきます。18世紀になってもまだパリには共同墓地しかありませんでした。魂を失った亡骸は巨大な穴に次々と落とされ、適切な処理もされずに朽ちていきました。それは中世のパリが悪臭を放つ大きな原因の一つでした。その代表がパリ中央にあったイノサン墓地でした。しかし12世紀から続いたイノサン墓地は1786年に撤去され、パリ中心部に造ることを衛生上の理由から禁止されました(そのとき墓地の遺骸はパリ郊外の石切り場に移送されました。現在はカタコンベとして一般公開されています)。19世紀の始め、ナポレオンの指示によりいくつかの新しい墓地が当時のパリの境界周辺にできました。その一つがペール・ラシェーズ墓地でした。他には北のモンマルトル墓地、南のモンパルナス墓地、エッフェル塔の近くにあるパッシー墓地があり、中でもペール・ラシェーズ墓地は最も古いパリの墓地です。死者を悼み最後の休息地へ届けるという習慣ができたのもこれらのパリの墓地が完成してからのことでした。

ペール・ラシェーズ墓地の歴史

19世紀にできたペール・ラシェーズ墓地ですが、もともとここはジェスイット教団の所有地でした。1682年に教団はジェスイット僧でありルイ14世の司祭だったペール・ラシェーズの家を建てます。彼は20万名ものユグノー(プロテスタント)を追放した『ナントの勅令撤回』を強く要求したことでも知られています。彼の家があった場所は、今では礼拝堂が立っており、墓地の中で一番見晴らしのいいところです。その後第一帝政期の1803年にパリ市がこの丘を買い取ります。そしてナポレオンによってパリに初めて近代墓地が完成しました。

孤独な散策者に最適な場所

墓地内は広大で、他の墓地の例に漏れず静かな世界です。世紀末の退廃を描いた「さかしま」で有名な作家ユイスマンスは、ペール・ラシェーズ墓地がお気に入りで、「ここは孤独を求める芸術家が探し求めている隠れ家だ」と言っています。グループ旅行で行くのではなく、一人や二〜三人で静かに散策するのがオススメです。また石畳の道なので歩きやすい靴でお出かけください。

オスカー・ワイルドが眠る

ペール・ラシェーズ墓地には多くの作家や芸術家が眠っています。その中でも有名なのはアイルランド人の作家オスカー・ワイルドです。パリ左岸のホテル・ダルザスで貧困の中で亡くなったワイルドはこの墓地に埋葬されました。彫刻家ジェイコブ・エプスタインが作成した彼の墓は翼の生えた男性の裸像で当時問題になりましたが、今では当時の形のまま多くのワイルド愛好者を迎えています。その像は熱狂的なファンからの無数のメッセージで埋め尽くされ、何者かによって男根が持ち去られています。墓碑には"He died fortified by the sacraments of the church"(彼は教会の秘蹟によって心を強められて死んだ)と書かれています。異国の地パリで衰弱したオスカー・ワイルドは、死ぬ前にカトリックの洗礼を受けていました。墓碑の後には彼が獄中で書かれた詩が書かれています。埋葬の際に、ワイルドの棺を飾った花環は、彼の臨終を見届けたオテル・ダルザスの亭主のものだけでした。その花環のリボンには"a mon locataire"(わが寄宿人に捧ぐ)と書かれていました。

エディット・ピアフが眠る

フランスの国民的歌手エディット・ピアフもペール・ラシェーズ墓地に眠っています。ピアフ(Piaf)とはフランス語で雀の意味で、彼女の本名はエディット・ジョヴァンナ・ガションといいます。彼女の人生は波乱に富んだものでした。パリ19区の貧しいベルヴィル通り72番地の階段で生まれたと言われ(実際にはベルヴィルの病院で生まれた)、8歳の時に失明しましたがリジウの聖テレーズにお参りに行った後に視力が回復したと言われています。凱旋門近くの娼家パヴィヨン・ヴィルジュストの娼婦になりましたが、生まれつき小柄な彼女を相手にしてくれる人はいませんでした。14歳のときにはサーカスの曲芸師だった父と一緒に行動を共にしますが、その後父と別れてパリ郊外でストリートシンガーとして歌を歌うようになります。

彼女に転機が訪れたのは1935年。ナイトクラブのオーナーであったルイ・ルプレーに見いだされ、彼のお店で歌うようになります。小柄だった彼女にルプレーは「小さな雀」(La Mome Piaf)という芸名をつけます。この年に彼女の最初のレコードが録音され、その後人気が出て彼女はフランスの国民的な歌手になっていきます。ジャン・コクトーが彼女のために脚本を書き、ピアフは俳優のモーリス・シュバリエなどの有名人たちと知り合うようになります。彼女の代表作『ばら色の人生』は第二次世界大戦中のドイツ占領下に書かれています

戦後は世界中で公演を行い、アメリカの女優マリーネ・ディートリッヒと交流を深めます。シャルル・アズナヴールやイヴ・モンタンなど多くのシャンソン歌手のデビューを手助けしたりもしました。ピアフは多くの恋愛を経験し、生涯に2度結婚しています。そして1963年10月、47歳の時に癌で亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました(同じ日にジャン・コクトーが亡くなっています)。彼女の葬儀には5万人を超すファンが参列したと言われています。ピアフの墓には父親ルイ・アルフォンス・ガションとピアフの最後の夫テオ・サラポが一緒に埋葬されています。

バルザック、プルースト、モディリアーニ、多くの作家・画家が眠る

ワイルドの他にも、ペール・ラシェーズ墓地には多くの作家や芸術家が眠っています。作家ではモリエール、ラ・フォンテーヌ、バルザック、コレット、マルセル・プルースト、レイモン・ラディケ、アルフレッド・ミュッセ、ギョーム・アポリネール、アルフォンス・ドーデ、ヴィクトル・ユゴー、ジェラール・ド・ネルヴァル、ガートルード・スタイン、ジョルジュ・ペレック。画家ではモディリアーニ、ドラクロア、アングル、ドレ、コロー、ドーミエ、スーラ、ピサロ、ローランサン、ジェリコー。俳優・女優ではサラ・ベルナール、イヴ・モンタン。歌手ではエディット・ピアフ、マリア・カラス、ジム・モリスン。バレリーナではイサドラ・ダンカン。写真家ではナダール。作曲家ではロッシーニ、ショパン、ビゼー、プレイエル。哲学者ではオーギュスト・コント、シラノ・ド・ベルジュラック、エジプト象形文字の解読者シャンポリオンなどの著名人がこの墓地で眠っています。自分の好きな作家の作品を再読して、ここを訪れるのもよい記念になりますね。

パリ・コミューンの戦いの跡が残る

1871年、パリ・コミューンという市民軍(パリ市民による革命政府)の蜂起がありました。ジャーナリストのヴィクトル・ノワールがナポレオン3世の従弟ピエール・ボナパルトによって殺された事件をきっかけに、多くのパリの労働者たちがデモを決行しました。のちの社会主義運動に大きな影響を及ぼしたこの蜂起では、多くのコミューン派の兵士が政府軍によって鎮圧されました。労働者たちの抵抗は1871年5月まで続き、ペール・ラシェーズ墓地は彼らの最後の拠点の一つでした。そして、最後に147名の市民兵士たちが銃殺された場所がここペール・ラシェーズ墓地でした。弾痕で傷ついた壁は今も墓地の中に「コミューン兵士の壁(連盟兵の壁)」として残り、世界中の革命家たちの聖地にもなっています。この壁は貧民街ベルヴィルに生きる少年を描いたマルセル・ムルージの小説『エンリコ』の中にも登場します。

ペール・ラシェーズ墓地
パリ20区にあるパリ最大の墓地。著名人のお墓があることで有名
最寄りメトロ:ガンベッタ(Gambetta)、フィリップ・オーギュスト(Philippe-Auguste)

ペール・ラシェーズ墓地の写真
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