コンシェルジュリー|パリ名所案内

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コンシェルジュリー|Conciergerie

マリー・アントワネットが投獄された牢獄

パリのセーヌ川の風景を彩る一際美しいゴシック様式の建物。これは元々中世の宮殿でした(10〜14世紀頃)。現在パリに残るフランス王家初代の栄光を偲ばす貴重な建築物になっています。テンプル騎士団を弾圧した冷酷な国王フィリップ4世の宮殿として建てられましたが、14世紀後半シャルル5世が王宮を去った後には牢獄として使われるようになりました。後のフランス革命の際にはマリー・アントワネットを始めとして革命の敵とみなされた人々が収容され、「死の牢獄」と呼ばれるように。革命後の恐怖政治の間は、コンシェルジュリーから約2700人の囚人が護送馬車に乗せられてギロチンの断頭台(現コンコルド広場)へ連れて行かれました。

中世から残る宮殿の痕跡 衛兵の間が有名

コンシェルジュリーは中世に建てられた宮殿ですが、当時からそのまま残っている部分はごくわずかです。セーヌのオルロージュ河岸にある4本の塔(時計の塔、シーザーの塔、銀の塔、ボンベックの塔)、「衛兵の間」(Salle des Gens d'Armes)、「警備の間」(Salle des Gardes)などが中世のままの姿で残されています。そのほかの部分は19世紀にオスマン男爵によって改修されてしまいました。時計の塔はフランスで初めて掛け時計がかけられた場所です。「衛兵の間」は王宮で働く人々の食堂、警備の間は待合室として使われていました。なかでも見どころはゴシック様式の「衛兵の間」。現存ずる中世の部屋では、ヨーロッパ一広いものです。またマリー・アントワネットが過ごした独房や囚人たちの部屋も再現されています。

コンシェルジュリーの名前の由来

なぜこの宮殿(後に牢獄)はコンシェルジュリーと言われるのでしょうか。コンシェルジュといえば、現在ではアパートの管理人のことを指します。しかし中世の時代、アパルトマンの管理人という職業は存在せず、コンシェルジュといえば王宮を管理する総監督を意味しました。
シャルル5世が宮殿を去ってから、コンシェルジュリーは王の住居としての役割を終えました。そして1392年から1914年までの500年間、コンシェルジュリーは牢獄として使われることになります。そのとき宮殿が王不在となったため、そこを管理する総監督だけが残ることになりました。そのため、王宮を門衛室(コンシェルジュリー=総監督のいる場所)と呼ぶようになりました。元々コンシェルジュリーはこの宮殿に設置された門衛室のみを指す言葉でしたが、宮殿としての役目を終えてからは建物全体をコンシェルジュリーと呼ぶようになりました。

最寄メトロ:シテ(Cite)/パリ1区

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