ノートルダム大聖堂|パリ名所案内

パリ旅行|パリの名所案内

ノートル・ダム大聖堂
Cathedrale de Notre-Dame de Paris

パリ観光の中心地へ

パリの発祥地シテ島に建つ大聖堂で、1163年に建造が始まり200年の歳月をかけて1345年(1350年)に完成しました。すでに700年近い歴史を持っています。19世紀に建築家ユージェーヌ・ヴィオレ・ル・ドュックが修復しました。ノートル・ダムとは「われらの貴婦人」という意味で、聖母マリアを讃えています。

ヴィクトル・ユーゴーの小説で有名に

またノートルダム大聖堂は、ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートル・ダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)』の舞台として有名です。『ノートル・ダム・ド・パリ』は1831年にヴィクトル・ユーゴーが発表した小説。この小説を読んだ当時の人々は、ノートルダム大聖堂の歴史的な意味と芸術的な価値を再発見し、当時荒廃していた大聖堂を復元したいと願うようになりました。小説のおかげで、修復工事が始まり、中世の面影を残す現在の美しい姿になりました。フランス文学は国の遺産さえも蘇らせてしまう力があるのかもしれません。

ノートルダム大聖堂の外観

写真などでよく見るイメージは2つの四角い塔がそびえる正面です。高くそびえたつ双塔に細かな彫刻が彫られ、訪れた人々に壮大な印象を与えます。また背後から眺めるノートルダム(写真)もまた趣があります。その姿は巨大な甲殻類のようにも見えます。内部のステンドグラス(バラ窓)や建物の壁面についているガーゴイル(怪物の石像)も有名です。ゴシック様式を代表する建物で、パリ随一の観光名所です。またヴィクトル・ユーゴーは若い頃ノートル・ダムの塔に登るのが好きだったようで、塔の上からはエッフェル塔などのパリ遠景を眺めることができます。眺望の美しい大聖堂南塔の上へは延々と続く螺旋階段で上ります。高さは69メートル、387段もあります。ちなみに凱旋門の高さは約50メートル。ノートルダム寺院より19メートル低いです。

2000年前には多神教の神殿があった

パリがパリと呼ばれる前、この辺りは一面の沼地で、シテ島にはガリア人(パリシイ人)の小さな神殿と葦で葺いた円形のあばら家があるだけでした。その後、ローマ人がこの地を支配し、ルテティアの建設が始まりました。パリの祖となった古代都市です。ローマによる支配後も、シテ島ではガリア人の信仰は残り、ローマの神々と共存することになりました。ローマの最高神ユピテルを祀った神殿が建てられたと言われています。まだキリスト教がこの地へ伝わる前の時代です。ノートルダム大聖堂のあった場所は、当初多神教の聖地だったのです。

大聖堂の地下には古代パリの城壁が残る

パリは3世頃から「パリ」と呼ばれるようになりました。当時蛮族の侵入が激しくなり、ローマ都市がセーヌの中に浮かぶシテ島に限定され、島には堅固な城壁が作られました。ローマ人が減り、元々この近く(シテ島とナンテール)に住んでいたガリアの民族であるパリシイ人が住む町になったため、パリと呼ばれるようになりました。その当時の城壁がノートルダム大聖堂広場の地下にあるクリプトに保存されています。保存状態はとてもよく、4世紀のパリの住居跡と歩道の舗石が残されています。ちなみに大聖堂南側の土台は、このローマ時代の城壁の上にすえられています。

ノートルダム大聖堂の前にあった大聖堂

ノートルダム大聖堂のあった場所にはローマ時代にユピテルを祀った神殿がありましたが、500年ごろには荒廃し廃墟となっていました。この頃はローマの支配からフランク族の支配となり、フランク王国の首都としての中世のパリが始まっていました。フランク族の王クロヴィスの息子キルデベルトは、廃墟となった神殿のある場所に修道院を建設することを決めました。ローマのサン・ピエトロ大聖堂に匹敵する修道院を建て、新たな精神世界をパリに作るという壮大な計画でした。こうしてフランク王国最大の教会堂であるサン・テティエンヌ大聖堂が完成しました。全長70メートル・幅36メートルでフランク王国最大の教会堂でした。これが現在のノートルダム大聖堂の前身となりました。現在のノートルダム大聖堂の前にある広場には、当時のサン・テティエンヌ大聖堂の正面入り口の様子が敷石で描かれています。

180年の歳月がかけられたノートルダム大聖堂の建設

サン・テティエンヌ大聖堂はどのようにして現在のノートルダムに変化していったのでしょう。1160年に当時のパリ司教だったモーリス・ド・シュリーは、より壮大な聖堂の建築を計画しました。新しい大聖堂の建設のための工事は60年以上も続きました。1225年に完成しましたが、正面を構成する2つの塔の建設は1250年まで続けられ、最終的に完成したのは1345年でした。

フランス革命で一部破壊され、その後修復

フランス革命はノートルダム大聖堂にとって危機的な状況でした。反革命派の大本山とシテ、破壊されかけました。なんとか難を逃れましたが、聖堂内は剥落し、当時の姿は失われてしまいました。1831年、ヴィクトル・ユーゴーが小説「Notre-Dame de Paris(ノートル・ダム・ド・パリ)」を発表します。この小説は当時の人々の心を動かし、ノートルダム大聖堂の歴史的な意味と芸術的な価値を再確認させました。そして当時荒廃していた大聖堂を復元したいという希望が多くなり、ついに建築家ユージェーヌ・ヴィオレ・ル・ドュックによって修復工事が始まりました。工事は20年近くかかりましたが、中世当時の美しい姿を取り戻すことができました。

小説・エッセイから読むノートル・ダム大聖堂
「初めて実物のノートル・ダムを見たのは、1950年の9月の末、寒い霧の朝であった。細雨も降っていたように思う。それは私が初めてパリへ着いた朝であった。未知のパリがそこに黒々とあった。大学都市へ向かう車が、リヨン駅からオステルリッツ橋を渡る時、霧にけむるセーヌの中の島にノートル・ダムが影絵のように立っているのが見えた。距離が遠く、霧のために視界も定かではなかったが、それがノートル・ダムであることは瞬間に判った。」 森有正『パリだより』


ノートルダム大聖堂の写真
ノートル・ダム大聖堂周辺のパリガイド
ノートルダム大聖堂のエリア(パリのカルティエ)

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