新陰流兵法転会 高崎支部
 稽古案内
新陰流流祖 上泉伊勢守信綱公
         
更新日 2016.8.14
稽古場所・稽古日
 
高崎市武道館高崎市石原町3892-7曜日 午前8時30〜11時30分
注1)ただし、行事等で利用できない場合は、場所を変更したり、お休みする場合があります。
 
◆8月の稽古日:13日(土)、20日(土)、27日(土)
◆9月の稽古日:10日(土)、24日(土)
3日(土)及び17日(土)は場所・時間を次のとおり変更します。
★9月3日(土)12時〜15時→藤岡市民体育館(藤岡市藤岡2623-1)
★9月17日(土)9時〜11時→未定
 
 
高崎市立乗附小学校高崎市乗附町155-1)/木曜日 午後7時〜9時
 
◆8月の稽古日:4日(木)、18日(木)、25日(木)/11日(木)はお休み
◆9月の稽古日:1日(木)、8日(木)、15日(木)、22日(木)、29日(木)
 
 
見学について
新陰流兵法に興味のある方は随時見学できます。

稽古の日程が変わる場合もあるので、事前に下記までご連絡の上お越しください。
連絡先(携帯):080-3171-3446(代表:赤石まで)
連絡先(メール):takasaki-marobashikai@softbank.ne.jp

新陰流兵法転会(本部HPへ) 
甲冑演武
           


平成28年2月21日前橋市西林寺奉納演武 

 

上泉氏の来歴

1453年、足利将軍家の一族で、丹後・伊勢・志摩三国の守護、一色左京大夫義が孫の源五郎義秀を当時衰退していた親族の大胡家に送り入れ、名家の再興をはかり、大胡城の西の防御として上泉城を構築し、上泉姓を称する至る。

大胡氏は俵藤太秀郷(平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出)の末裔である。

上泉義秀は京で中条流・念流・京流などの諸流を学び、武門の誉れ高き若者であったが、応仁の乱で京都にて戦死した。その嫡男、時秀は飯篠長威斎に入門し香取神道流兵法を収め、21歳の時に従五位下・伊勢守に任官し、上泉家の初代となり、その嫡男憲綱は武蔵守に任ぜられた。信綱は憲綱の次男であったが、二歳上の兄主水佐(もんどのすけ)が夭折したため、若干21歳で上泉家の家督を継ぎ、祖父時秀についで伊勢守となる。

信綱の父、憲綱も鹿島神当流の松本備前守に入門しており、義秀、時秀、憲綱とつづく上泉家の家柄は武門の名門として上州の地に根を下ろし、信綱は物心つくかつかないかの幼少時から剣・槍・軍略など兵法全般を祖父、父から厳しく叩き込まれたのである。

新陰流流祖 上泉伊勢守信綱公の年表

西暦 年齢         出来事等
1508   0歳 ・上泉城(前橋市上泉町)の城主、上泉憲綱の次男として出生(幼名は源五郎秀綱)

1514   6歳 ・父、祖父から武芸・学問全般を学び始める。
1518  10歳 ・鎌倉にて念阿弥慈恩を流祖とする念流を修行する。
1521  13歳 ・松本備前守政勝に入門・鹿島之太刀を学ぶ。
1525  17歳 ・鹿島之太刀の奥義を授かる。
1529  21歳 ・最初の結婚(
大森式部少輔泰頼の娘?泰頼はかつて小田原城主で明応四(1495)年に北条早雲の謀略により城を奪われた大森実頼・藤頼親子の子孫)                             1530  22歳 ・愛州日向守移香斎久忠から陰流を学ぶ。
             ・翌年嫡男秀胤出生。
1531  23歳 ・陰流の奥義を授かる。
1532  24歳 ・小笠原武勇入道氏隆から兵法・軍法軍配を相伝する。
1538  30歳 ・師の愛州移香斎が逝去。
    30歳頃・ひきはだしない(割った竹を動物の皮で覆った袋竹刀)を考案。
1543  35歳 ・兵法諸流を日夜鍛錬し、陰流に「転」の極意を見出し、新陰流を大成する。「予、諸流の奥源を究め、陰流に於いて別に奇妙を抽出し、新陰流と称す」
               信綱の明晰な頭脳は、兵法を合理的に分析・理論づけ、整然と系統立て、戦場における甲冑武者剣術(介者剣術)の術理を革新する。
 −   −   ・奥山休賀斎が入門(後の直心陰流の系統へ)
1545  37歳 ・北条氏康、綱成ら入門、北条家兵法師範となる。
           ・再婚(
北条綱成の娘

  9月・河越夜戦戦国三大奇襲戦の一つ。山内上杉憲政は扇谷上杉朝定とともに東国勢六万五千を率いて北条方の勇将北条綱成の守る武蔵河越城を包囲する。古河公方足利晴氏の一万五千の軍も    .      これに合流し、計8万の大軍で河越城を囲み北条氏康に宣戦布告。翌年4月、北条氏康は河越城救援に向け小田原を発し、武蔵三ツ木に布陣、軍勢はわずか八千余り。しかし、氏康が上杉          .      憲政・朝定・足利晴氏連合軍を謀略により油断させ、突如夜襲をかけ撃破、扇谷上杉朝定は戦死(享年22歳)、憲政は上野平井城に、晴氏は古河に奔るという結末を迎える。)
1548  40歳 ・次男有綱出生(北条氏滅亡後、上杉家に仕官)。
1551  43歳 ・北条氏康、上州平井城に攻め、山内上杉家滅ぶ。
            ・信綱、長野家へ被官。
            ・三男行綱出生(北条氏滅亡後、上杉景勝に仕官)。
1553  45歳 ・古河公方家兵法師範となる。
1557  49歳 ・武田信玄箕輪城来攻するも、長野勢が撃退する。
1559  51歳 ・武田信玄箕輪城再来攻するも、長野勢が撃退する。
1561  53歳 ・9月
 戦国史上に名高い、第四次川中島合戦(武田信玄vs上杉謙信)

     ・11月 箕輪城主、長野業政没。                                                                       1563  55歳 ・武田軍の猛攻により箕輪城落城する(現在1566年落城説が有力視されている)
           ・信綱、武田信玄の被官要請を辞退し、兵法弘流に旅立つ。        
1564  56歳 ・嫡男秀胤、北条氏と里見氏による
国府台合戦で戦死、享年三十五歳。
             ・伊勢の北畠具教を訪問。また妙興寺にて幼児を暴漢より救出、このとき無刀取りの技を使う。
           ・奈良の柳生宗厳と試合、宗厳、宝蔵院胤栄、松田織部之助等が入門。
            ・京にて丸目蔵人佐が入門。
1565 57歳 ・足利御所で兵法上覧、将軍足利義輝より感状が贈呈。
       “上泉兵法、古今比類無し 天下一・・・・・”
            ・御所兵法師範・千秋刑部と試合、義輝、刑部が共に入門。
            ・柳生石舟斎宗厳及び宝蔵院胤栄に新陰流印可状。
1566  58歳 ・柳生宗厳(新陰流第二世)に新陰流影目録を相伝。
1567  59歳 ・丸目蔵人佐に新陰流印可状。
1570  62歳 ・兵法天覧、従四位下に叙せられる。菊花御紋章入御前机を下賜(菩提寺西林寺に現存)                                                                          1571  63歳 ・嫡子秀胤七回忌供養のため京から帰郷。
1572  64歳 ・塚原卜伝没。
1573 65歳 ・武田信玄没。
1574  66歳 ・小田原北条氏政に招かれて兵法、軍学師範となる。
1577  69歳 ・上野国西林寺に於いて、秀胤十三回忌供養。                                                  

     ・その後の行跡は不明である1582年小田原にて74歳で没とする説もある)。

    西林寺本堂に現存する『菊花御紋章入御前机』

 

◆稽古道具

上から一段目 木剣(一般の木剣よりも細く軽い、主に燕飛六箇之太刀内伝の稽古で使用)

   二段目 袋竹刀(新陰流剣術の稽古全般で使用)

   三段目〜五段目 居合刀(併伝武術である制剛流抜刀術で使用、刀身は二尺二寸五分程度の短めの刀を使用)

その他、新陰流杖術用の杖があります。