

町坪城の戦いは天正八年(1580) 羽柴秀吉の英賀城(三木氏)攻撃の緒戦であった。
英賀城の陥落は四月二十六日なので、その少し前のことと思われる。
町坪城主は町之坪弾四郎(主水佐)で、英賀城三木氏の幕下である。代々相続して団五郎重種の時に秀吉軍に攻められて落城した。下に記されたよう一度は奪還したが、黒田官兵衛孝高によって再び攻め落とされた。秀吉は其跡を黒田兵庫頭利高(官兵衛の弟)に守らせた。
城跡は南北123M。東西150Mで、その周りを幅5M以上の水濠が二重三重にめぐらせてあった。現在は宅地化が進み一部の水路以外に面影はない。
「黒田家臣伝・村田出羽伝」 江戸時代
本姓は井口(筆者注=いのくち)なり。父を井口与二右衛門と云。
(中略)その嫡子猪之介をば孝高(筆者注=黒田官兵衛)に仕えしむ。
(中略)長の坪といふ城を攻落し給ひし時、猪之介敵あまた討取、比類なき働しければ、孝高感じ給ひて、その長の坪の城を猪之介と、三宅藤十郎(後号若狭)両人に預置て、自からは秀吉の先手を勤、そこには在城し給はず。
其跡にて其城より落たる者ども、其外一族相催し、大勢にて夜討を懸たり。其前攻破りて未普請をだにせず、人数も少なき城なれば、中々此分にては守がたし。
孝高未程遠くは行過給はじ、藤十郎は急ぎ追付此趣を注進して、後詰(筆者注=ごづめ)し給ふ様に申べしと検議し、藤十郎は人数百二十人許にて搦手をかためたるを、多くは残し置て城を守らせ、其身は手勢二十人許にて切ぬけよと言合たれども、俄の集り勢、藤十郎が下知にしたがはずして、我先と搦手をあけてのく。
敵是に所を得て、さはりもなく攻入たり。大手は猪之介受取なれば、門をうち、そこをこだてに用ひ、内外をふせぎたれば、左右なく敵も破得ず、夜も概に明はてて辰の刻許に、後詰の旗先みゆる程にて、猪之介敵の長刀にて片股をなぎ落され、石垣に寄かかり居たれども、敵恐れて寄付ず。
猪之介最後に大音あげ、此城の大将井口猪之介切腹ぞ首をとれとよばはって、腹切てぞ死ける。手勢五十人、彼是合百八十人残らずそこにて討死す。死人の内手負一人生残り、其次第をば後にぞ孝高へ告にける。
(中略)末子与一之助則出羽なり。