黒田官兵衛の妻の名は?


 
 鉢かづき姫    合子に見える妻鹿城

 黒田官兵衛の妻は黒田系図だと「光姫」、実家櫛橋家では「照姫」。どちらも「てるひめ」と読みます。「照」は晩年の法号「照福院」と混同している節があります。幕府に提出した系図には女性は全て「女子」と書かれ、名前は載っていません。でもそれは女性をバカにしていたわけではなく、政治に係わっていなかったし、むしろ大事な人だから、赤の他人に名前を教えなかったまで。
 余談ですが、うちの系図も全員娘の名は記されております。

 官兵衛妻の名として不幸にも広まってしまった「幸円」というのは、大宰府で歌会をやった際、ただ一回使った雅号です。坊さんの名前ですよ、まるで。たぶん光姫の別名であろうという程度のもので、もしかしたら別人の号の可能性さえあります。
 大正時代に出た金子賢太郎著「黒田如水」にこの雅号が初めて紹介されて、後、平成四年、新人物往来社の「黒田如水のすべて」で、「幸園」と誤植で紹介されて広く世に知られてしまいました。(無知な小説家たちがとびついたからです。誤植だったということは当時の編集者・著者から証言をとっております)

 その筆者は校正もしなかったということで、熱意も誠意もありませんね。さらに近年、官兵衛は蚤の夫婦とか言い出していますが、それ大石内蔵助の話ですよ。また、福岡崇福寺に電話取材したら、官兵衛の号「如水円清」の「円清」は「えんしん」と発音したとも。それじゃああなた、栗山備後利安が建てた円清寺(えんせいじ)はどうなるんですか?
 仮に崇福寺の坊さんがそう言ったとしましょう。官兵衛の墓は京都龍光院と博多教会と福岡崇福寺の三説ありますが、崇福寺のは墓移動の時、遺骨出てきていませんから本墓じゃない。如水は中津時代に如水自らキリスト教の使途名をもじったもの。円清は朝鮮役で秀吉に切腹を命じられた際、対馬の僧・玄蘇に付けてもらったもの。崇福寺は関知していません。

 平成三年に同社から「キリシタン大名の妻たち」という本も出ましたが、もう、著者をぶんなぐってやりたいほど何も知らない。ただ、呆れるばかりです。

 平成六年、学研「黒田如水」は私も執筆したので、目次で気付いて「幸円」に訂正させましたが、他人の執筆箇所だったので、それ以上は強要できませんでした。 その人は「すべて」をパクっただけで、何も調べていません。だって、編集部がお抱えのもの書きに適当に分配して書かせていたのが「すべてシリーズ」ですから(笑) 学研はささやかな抵抗か円を旧字で使用しています。それならあなた、如水円清の円も旧字にしなさいよ。編集部の言い分。「執筆の先生に納得して頂きました」納得ってあなた、感謝しろよって言いたい。

 このように黒田家も櫛橋家も知らぬ「幸園・幸円」なる変な名前が世にこれ以上広まるのは心外です。ちゃんと名前が分かっているのに世の中の人はろくに調べもしないで知ったかぶりをするものです。2008年の福岡市博物館「黒田長政と二十四騎」展で初めてその画像が公開されて、姿も知れることになりました。

 また、官兵衛との婚姻の際、櫛橋家が甲冑を贈ったという話が同家に伝わっていますが、それを合子の兜と唐革威の胴丸という人がいます。無理です。合子の兜・唐革威の胴丸も如水の最晩年の形式です。三つに分かれた下散シコロも豊臣時代の作風です。強いて言いますと、合子の兜は土台となっている六枚張椎形兜の鉢だけは古い形式なので、婚礼の時にもらった兜を再利用したと。合子は鉢かづき姫の説話・妻鹿城の地形などを懐かしんで象ったのではないでしょうか?赤合子と言われていますが本歌は赤のメタリックです。



 こういったこと、もし大河ドラマ化がかなっても出鱈目な考証がなされるでしょうね。NHKの電話取材、二回受けたことがありますが・・・もうダメ。製作サイドが何も分かっちゃいない。「歴史が動いた」すごかったでしょう。バリバリのキリシタン大名・如水をまるで禅僧扱い(大笑) 民放じゃないのに、視聴率を取ればそのプロデューサーの天下ですから。

 小生、長年のこうしたストレスから糖尿病になって目に来ちゃってますから、今のうち言わせてもらいます!


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