数々の一等史料の出現により
福岡城には天守閣が存在していた
と考える方が妥当である
(後世の編纂物は虚構がある
それは死ぬまで黒田如水がキリシタン
であった事を棄教したかのように書き記す
文献にも言えることである)


南蛮天守は破風を除いて西洋の城に近づけようと試みた
ものであるが、西洋人の大工は渡日しておらず、この辺が
妥当であったのではないか。秀吉生存中の天守は最上階が
三間四方と決まっていたが、没後はこぞって広い最上階を
持つ天守が続々と建てられた。大坂城天守はもはや
時代遅れになっていたのである。




福岡城の特色は軒下の方杖でこれは西洋建築の影響である。
入母屋を極端に減らし、切妻屋根が多いのも和風のイメージから
脱却しようとする表れではなかろうか。
石垣を築く時に幕を張って技術を隠したという伝説も西洋の話
(ギルド職業特権を守るため)


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