
金子賢太郎はその著書で、黒田家が姫路に来る前、龍野の赤松政秀に仕えたと言い放っていますが、それは氏の妄想でしかありません。
官兵衛の叔父・休夢が「龍野の産」と系図にあることからの推定です。でも、詳しい系図を見ると「井ノ口の産」とあります。つまり、栄城のことです。今では龍野市内ですから(笑)

栄城跡(竜野市)
つまり、ここにやっかいになった事はありそうです。娘が黒田家養女として室津の浦上氏に嫁いだり、一族の者が兄弟そろって官兵衛に仕えました。兄弟三人が討ち死にし、末っ子が24騎の村田出羽です。出羽の叔母は人質、またはその世話役として摂津国伊丹の有岡城にいました。囚われの官兵衛の衣服を洗ったりして、勇気づけました。
井口氏は赤松氏の血を引く名門で、播磨国美嚢郡古川城や美作国などにも分布しています。蜂須賀家に仕えた井口氏もいますが、直系は秀吉の播磨平定後に土着帰農しました。
で、竹森家ですが「夢幻物語」という江戸半ばに成立した講談まがいの俗悪本に、流浪の黒田一家を養い、家まで提供した忠臣として描かれているわけです。ご丁寧に目薬売りの逸話までくっつけて。そもそも広峰神社を広宗神社としたり、人名も滅茶苦茶です。金子の犯した功罪の一つです。筆者の五代前は金子の武術の師でしたから、あの世で怒ってもらいたいものです。官兵衛の父が香山城を攻めて、小寺家への手土産にしたというのも出典は「夢幻物語」で、この城が落城したのはずっと後年です。当時そんな遠くまで敵地を通過して攻めていけるわけもない。笑い話もいいとこです。
竹森家(清原姓猪上氏)は豪農などでなく、神主だったことが数種の系図で明白です。神主の子孫ですから教養があったらしく、幕府が寛永諸家系図編纂の時、草稿を提出しました。また、漢文の自家系図を残しているのもその表われでしょう。神社が焼かれて黒田家の下僕になってから、官兵衛に言われて竹森姓を名乗っています。息子が黒田24騎の竹森石見です。兄たちは神社が焼かれた際に討ち死にしましたが、猪上(いがみ)姓です。
一番古い「黒田家臣伝」で、播州飾東郡大野の日岡神社の神主だったとあるわけですけど、福岡へ移って伝承が不確かになったのでしょう。姫路近郊の大野にはそういう神社の跡地が伝わっておりません。独協大学の南側あたりです。系図2では、白国神社の間違いか加古郡大野の日岡神社かもしれないという書き込みがあります。家臣の系図にはそういう郡名の間違いがまま見られます。姫路を離れて百年やそれ以上たてば当然のことと思います。
さて、どの系図も永禄二年にはるばる佐用郡の舟曳杢左衛門が攻めて来て焼かれたと記されているのですが、飾東郡大野なら当然姫路城下も焼かれそうなもの、何も記録が残っていません。この年号は竹森石見の兄が二人死んでいるので間違いないでしょう。では、誰がどこに攻めて来たのでしょうか?考えられるのは三木城主別所氏かその家臣です。加古郡なら絶えずそういう攻撃がありました。
日岡神社は丁度その頃、焼失していて記録類も残っていないようです。また、こちらが本当と確信に至ったのは、竹森の血を引く尾形大作の家で加古市の日岡神社だと伝えている点です。
お願いです!とにかく偉そうに本を書く諸先生、他人の本をパクって都合よく纏めて、「俺って賢い」と舌を出してるだけでなくちゃんと原本資料を読みましょうよ。黒田家臣伝は昔から活字になっていますよぉ。私は文才も地位もありませんから。
左、貝原益軒著「黒田家臣伝」と、右は「竹森系図」の二種
竹森家の遠祖にあたる清原武則の画像(左)
右は主君の源頼義