黒田家のルーツについて




官兵衛の本当のルーツと思われる播州黒田庄


黒田庄系図というものが最近注目を集めている。筆者も江戸時代になって福岡藩が作った系図より、こちらの方が真実に近いと感じており、その根拠をここに記したい。(ただし、黒田重隆以降の記述は勘違いと誤りが認められる。重隆以降は福岡藩の伝承が正しい)
黄色く塗ったものは黒田重隆の頃の親類である。また、緑は家臣になった者を示す。こうして見ると家臣団は加古川沿いに集中しており、いずれも別所氏の台頭によって行き場を失った感がある。他国から突然やって来たよそ者がイキナリ小寺氏の重臣になって権力を持つよりよほど自然なのである。

『播磨古事』によると「多可郡黒田村多田の古城と申すは今の筑前国主の御先祖の城跡にて姥ヶ懐というは此邸宅の古跡にて畑の字に残れり。年号は存知申さず候えども、九月五日の夜とかや。加西郡野間郷野間谷の領主中野間伊賀守政広と申せし人(この政広は別所一族なる由)多可郡黒田村多田の城を夜に紛れて襲い来たりし事あり。此時多田の城主は幼少にて(今は筑前国の大祖なり)折節家来も微勢なりければ、家老何某とかや、主人幼少なるを抱き守り御母堂の手を引きて姫山(今の姫路をいう)の城を志して落行しが、此村外に流るる滝の川(加古川)此比類に降りたる秋雨に満水して渡るべき様無ければ、敵跡より襲い来たる故、幼主を抱き守りし家老、御母堂の手を取り、夜中に川を越して、水勢急流の所にて御母堂は終に流失して溺死せらる。其所を今も松ヶ瀬という。松ヶ瀬というは御母堂の名をお松(松の前)と申せし故とぞ。幼主は難無く家老抱き取りて姫山の城に遁て助命し給う。これ即ち黒田家の祖にて小寺美濃守殿居城せられしと今以って申し伝え候」

播磨・備前・美作三カ国の守護に赤松氏の勢力が伸びた際、多くの国人が移転して勢力を広げた。そして戦国末期に衰えると、また大幅な領地替えが行われた。つまり黒田家は黒田庄から備前福岡を加増されたが戦国乱世に支えきれず、黒田庄さえ失って赤松氏から姫路を与えられて移ったという考え方である。当時赤松氏は小寺氏の傀儡になっていたから、小寺の重臣となった。姫路城が空くまでは井口氏のやっかいになっていた。当時姫路城は八代氏が城代であった。(ただし黒田家が備前福岡城主であったと記す書は偽書といわれる「江源武鑑」のみであり、筑前国福岡の地名も黒田家が名づける前から存在していた)

井口氏はもともとは加古川の出であるが、竜野近辺の栄へ移されている。明石近辺と美作国にも一門が分派したが滅んでいる。御着で帰農した一族が黒田家の家臣になった。

中野間政広はその後、やはり別所氏の力添えで有力国人の在田氏を滅ぼし、その居城・野間山城主になっている。

上月氏は城を七条赤松氏に譲って黒田庄の近く移っている。七条赤松が滅んだ後に城を取り返したが秀吉に攻められて滅亡。遺族は黒田家に仕え、土着した者もいた。

曽我氏は黒田家の初代家老を務めている。黒田家の家老は曽我大隅−吉田重生(旧赤松家臣)−久野重勝−栗山利安・母里友信・井上之房(豊前国中津に移ってから)となっている。

当時栗山氏は姫路近郊手柄山からここへ移されていた。一族は別所氏滅亡までそれに組するが、利安一人が単身黒田家に仕えて出世した。

久野氏は別所氏に追われて黒田を頼って姫路へ移動。

猪上氏は日岡神社の神主であったが別所氏の焼き討ちにあって姫路城主になっていた黒田家を頼った。官兵衛から屋敷跡が竹林になっていたことから「竹森」と名乗れと改姓させられている。偽書「夢幻物語」では流浪の黒田家を迎え入れて家を譲ったとされるが、数多くの史料でそれはありえない。

黒田家が姫路城主になってから従った者は八代・母里・尾上らである。

井手氏は黒田家から養子入りしたが支えきれずに姫路に退転。

恒屋氏は別所に組して敵対したため、滅ぼして小寺休夢が一時恒屋姓を名乗っている。末孫は黒田家に仕えて明治に至る。

八代氏は吉田に改姓して黒田家重臣として明治に至っている。

菅氏は美作国の名門の出で、ここへ移ってきたが領地を支えきれずに、秀吉の時代になって黒田家に仕える。

香山氏は宇野広瀬氏の幕下で、秀吉に攻められて滅亡を共にした。江戸時代半ばに創作された荒唐無稽な『夢幻物語』では黒田職隆(官兵衛の父)が小寺氏に仕える時に攻め落としたとされるがあり得ない。黒田氏は官兵衛の祖父下野守重隆の代にすでに小寺氏の重臣であった証拠の文書が残っている。

大塩氏は小寺と血縁を結ぶ同盟軍であった。小寺氏とともに滅亡。黒田家に仕えた。

田原氏は宮本武蔵の実家。山間部から豊かな平地に領地替えとなりここにいたが、小寺に組して滅亡。

別所氏と黒田氏は宿敵であったため、別所氏の離反と滅亡は黒田官兵衛の策略だったという説も古くからある。秀吉は別所氏の官兵衛に当たる別所重棟娘と黒田官兵衛の息子長政を婚約させたが、実現には至らなかった。


官兵衛の伯父・小寺休夢の有明山構(地蔵院)跡
別所氏の攻撃で随願寺と共に焼け落ちた


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