

城井氏館跡(築城町松丸立屋敷)
掘立柱建物跡9棟
空堀1条・柵列・溝
出土陶器多数
14〜16世紀
城井鎮房についてはネット上で色々出でくるので語るつもりはなかったが、最近M新聞社の本であいも変わらずインチキなお話を史実の如く展開されていたので一筆。佐賀の鍋島家の化猫騒動のように伝説として語るのは大いに結構だが、最近の歴史研究成果を全く省みない、ただ頑固なだけの偏った歴史観、ならいいが調べもせずに古い本をパクるだけの安易な著述には辟易とするのである。
城井氏は宇都宮氏の流れだが、豊前国に土着してからは宇都宮氏を名乗っていない。鎮房の孫の種房や旧臣たちが、お家再興運動を興し、宇都宮氏の直系であることを強調して数々の文献・軍記を残した。それらの資料群は年号を偽って後から作ったものであるから、家臣の領地を石高で記すなど矛盾だらけである。(越前松平家で500石の禄を食んだ)
城井氏の領地は2〜3万石程度であるから、秀吉が四国で25万石で移封など提案するはずもない。筑前の麻生氏に対して500町の提示があったというが、その辺が妥当である。
鎮房の娘(鶴姫)を黒田長政室にし、あげくに処刑したなどという話も笑止千万。名族であろうが豊臣政権下では縁組するにも格が違いすぎるのである。人質として提出されたと見るのが最も妥当であり、黒田家サイドでは処刑せず尼となって天寿をまっとうしたとある。
鎮房暗殺時、家臣らの詰所だった合元寺でも斬り合いがあり、その血で塀の壁が染まって以後、赤く塗るようになった。この伝説も可笑しな話で、血は乾けば茶色になる。茶色に塗ればいいものを、赤くしたのは創建当初は儒教の寺であったからだという。このように寺伝も妖しいものが多く、一般人はまた、そういうおどろおどろしい話を好むようである。
余談であるが秀吉の九州平定後、黒田孝高が宇佐神宮の社宝を悉く持ち去ったという話もあるが、そういう遺物は黒田家に一つも無い。孝高は切支丹で僧との交流は無いが神社には寛大であった。事実とすれば秀吉の命令で豊臣家に納まったのか?息子長政は戦乱で焼けた社殿を復興し、慶長役に際しては太刀なども奉納している。(太刀は第二次大戦中に供出されて現存しないという話)