
時に慶長5年(1600)関ヶ原合戦に際して

黒田如水は九千の兵を集めて豊後国へ討ち入り、
旧領を回復しようと企む大友義統(八千五百)を破った。
その後、九州を平定して加藤清正・鍋島勝茂・立花宗茂等を
従え十万の兵力で、天下を狙おうと目論んでいたが、
関ヶ原以後の政局の急展開に挫折している。兵力は
『豊後崩聞書』による。実際は半数くらいと推定されるが、
それはあらゆる合戦に当てはまる数値でもある。
(上)石垣原古戦場図
忠内堀と呼ばれるクランク状の空堀(境川の上流部分)が
激戦地帯となった。現・古戦場橋から七つ石稲荷にかけてである。
戦いは午前10時から午後6時まで三度に及んだ。
また友軍の加藤清正が西方より兵三千余で駆けつけたが
合戦終了を知って戻っている。そこを旗の台と呼び、石像が建っている。
(上)富来城跡。この城攻めでは
如水軍として宮本武蔵が初陣している。
富来城の籠城兵は鉄砲を釣瓶撃ちにし、弾は
巨大な唐団扇の指物を背に仁王立ちしていた吉田六郎太夫の
兜と頬に命中した。(この戦の如水の小馬印は白の四半)
吉田は如水に「御大将も具足(甲冑)を召し候え」と進言したが
「この程度の小事では具足を肩にせぬ」と答えたという。
ここから如水は陣中で鎧を全く着用しなかったという伝説も
生まれている。
安岐城攻めでは西洋兵器の亀甲車(タートル)が使用された
黒田水軍の活躍も目まぐるしく、母国へ逃げ帰る島津の
大船三艘を国東半島沖で焼き沈めた。
(島津義弘と立花宗茂は領国へ無事帰れた)
息子黒田長政は五千余の兵力で徳川家康に従っていたが、
重臣「黒田24騎」の大多数は如水の手許に残されていた。
それだけでも如水の本気度が覗われよう。
赤字は石垣原で戦功をあげた面々。
| 石垣原合戦の従軍家臣 | 留守居 |
| 麻田甚内(久野家臣)討死・久野の六神 荒巻十兵衛 池田九郎兵衛 石川勝吉(水軍) 磯村市兵衛(水軍) 井上九郎右衛門(後の周防守)石垣原の五本槍 井口兵助(後の村田出羽) 上原新左衛門 浦上新兵衛(水軍) 江見彦右衛門(黒田一成家臣) 大塩喜平次(野村家臣)武田作之進を討つ 大野勘右衛門(井上家臣)石垣原の五本槍 大野久弥(後の久太夫・上の弟)石垣原の五本槍 大村六太夫(井上家臣・吉良伝右衛門を討つ)石垣原の五本槍 岡田三四郎(後の黒田監物) 小栗次右衛門(後藤家臣・吉弘加兵衛の首を取る) 貝原市兵衛(益軒の祖父) 粕屋茂平衛(黒田一成家臣) 加藤源三郎(水軍) 菅七郎兵衛(六之助の父) 岸本五郎兵衛(後世、黒田姓を賜う)石垣原の五本槍 清田何右衛門(井上家臣) 久保庄助(久野家臣)討死・久野の六神 栗山四郎右衛門(後の備後守) 栗山甚太郎(栗山家臣) 栗山仁左衛門(栗山の養父) 黒田吉兵衛(兵庫助の子) 黒田惣右衛門(後の図書助) 黒田五郎右衛門 黒田安太夫(本姓宮成・宇佐神宮勢)峰野兵部を討つ 肥塚理右衛門 後藤太郎助(又兵衛の子) 小林甚右衛門 近藤加衛門(黒田一成家臣) 斉藤五左衛門 酒井弥次郎(野村家臣) 篠倉喜兵衛(野村家臣)岐部山城を討つ 志戸地喜右衛門(野村家臣) 下田作右衛門(久野家臣)討死・久野の六神 庄林七兵衛(水軍) 関勘六(黒田一成家臣) 曽我部五右衛門(黒川美濃守の子)討死 竹森新右衛門(御旗奉行・後の石見) 田代彦助(鉄砲の名手) 高瀬又左衛門(水軍) 高原次郎兵衛(水軍) 爪田清右衛門(野村家臣) 手塚孫太夫 時枝平太夫(宇佐神宮勢) 時枝作内(時枝家臣) 富田仁左衛門(井上家臣) 長井八郎右衛門 中村甚助 二宮右馬助(後藤家臣) 野間又六(水軍) 野間五兵衛(水軍) 野村市右衛門(太郎兵衛の子) 波賀新兵衛(井上家臣) 畑弥平次 林吉六(林直利家臣) 林四郎兵衛(野村家臣) 原弥左衛門 原吉蔵(原の子) 原与六郎(原の次男) 原喜右衛門(原の弟) 原田市蔵(井上家臣) 久野次左衛門(四兵衛の子)討死 久野五郎兵衛(黒田吉兵衛家臣・新免無二の弟子) 久田弥左衛門(船頭)討死 卑田九蔵(久野家臣)討死・久野の六神 平田彦右衛門(久野家臣)逐電 母里多兵衛(後の毛利但馬) 母里与三兵衛 堀尾久左衛門(井上家臣) 本田半三郎 馬杉喜右衛門 松本吉右衛門(船奉行・後の能登) 光留立右衛門(久野家臣)討死・久野の六神 三宅藤十郎(水軍・後の若狭) 宮本弁助(後の宮本武蔵) 村上長介(水軍・後の源左衛門) 安田与次兵衛(水軍) 山本勝蔵(久野家臣)討死・久野の六神 山脇弥七郎 吉田六郎太夫(後の壱岐) 吉村孫七郎(井上家臣) |
中津城守備 黒田修理亮 刈田松山城守備 衣笠久右衛門 馬ヶ岳城 桐山孫右衛門 高森城 黒田吉兵衛家来 |