広峯氏(広峯神社神主)


河内躬恒━勢恒━恒誉━恒快━広峯勢連━┓
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┗快与━智範━勝賀=家長━長裕━長重━貞長┓
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┗長種━長秀=長俊=直長━俊延━俊安━恒長┓
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┗純長━長続━高長=長職━元長━長許━説長

広峯氏は天津彦根命末流。河内姓を名乗った。代々広峯神社
の神主となり姓とする。
 家長は勝賀の娘の子。長俊は婿養子で後藤伊勢守の子。長
直は同じく婿養子で赤松裕尚の子。長職は小寺則職の次男で
ある(高長の嫡女が小寺則職に嫁いだから孫相続であった)。
 代々将軍家に仕えて合戦にも参加したが、赤松氏の血が入って
からは赤松家に属した。
 長職は天文七年、赤松晴政に従って和泉国堺まで従軍。天正
五年、66歳で没した。
 広峯氏は小寺氏が秀吉に背いて滅亡した後も神主として存続し、
明治以降に里に下りた。
 広峯神社は要害のうえ多くの御師を従えて武力も有していた。
山頂には神社の周囲には有力国人らの分家が御師(太夫)になっ
て屋敷を構えてもいた。
 慶長8年の文書によれば、西川・谷口・魚住・坂口・尾代・竹田・
大坪・栗野・石原・河間・内海・芝・武井・金田・池内・杉山・岸原・
安原・小又・広峯・小河・小林・小松・肥塚・神崎ら30の社家が存
在している。

 これとは別に黒田姓の禰宜的存在の家があるが大名黒田家と
の関係ははっきりしない。口伝によれば「広峯神社を守るために
黒田家から遣わされた家柄」という。幕末〜明治には社家のよう
になっているが元々は御師ではないという。現在でも広峯山に広
大な土地を所有していて江戸期の墓も残っている。

 峰を連ねる隋願寺には官兵衛の伯父小寺休夢が地蔵院という
寺を建てて姫路城の北の守りとしていた。(有明山構居とも呼ぶ)
この砦を兼ねた。寺は別所氏の攻撃で焼け落ちている。休夢の
関係者が黒田姓を名乗って広峯に居続けたとも考えられるが、
休夢直系の子孫は肥塚氏を名乗って黒田家臣として福岡藩で明
治に至っている。休夢の庶子か家臣の末裔ではなかろうか?
小豆島の黒田家石切場にはそこを守るように命じられた家臣が
明治まで居続けたが、ちゃんと禄を貰っている。この家にはそれ
が無い。江戸半ばに黒田家の系図を調べて桐の箱に入れて大事
にしているが、その時点で自家の系譜は分からなくなっているの
で官兵衛の子孫という口碑は残念ながら肯定しがたい。


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