
青山合戦で活躍した吉田六之助長利(後の壱岐守)の甲冑
吉田は姫路ゆかりの郷士・八代道慶の子である


甲山城から西を望む

永禄十二年に黒田家臣桐山孫兵衛(後の丹波守)が初陣した
英保(あぼ)構。相手は竜野赤松と別所が仕掛けた一揆である。
(上図の説明) 姫路城外堀の市川がかつて暴れ川と呼ばれて流路を変えたように
夢前川もかつては支流菅生川との合流点は複雑だった。
姫路上郡線と中国街道から攻めこんで青山で合流した竜野赤松軍は、二つの川を渡る格好となり、
その中州状の地形で窮地に立たされたと思われる。
江戸期になって河川改修が行われ、二本化されて夢前橋の下流で合流していたが、
現在は橋のかなり上流で合流している。
なお瓦山古城跡は小寺側の見張りと狼煙台の役割があったと思われる。
また、赤松本陣背後には標高250米の太田城があり、城主広岡氏は竜野赤松とも
小寺氏とも敵対していた(天正年間秀吉によって滅ぶ)。
瓦山かわらやま古城跡(姫路市下手野)は
城主山名大膳氏弘で応仁の頃に居住。赤松氏の再興で廃城。標高70米の山頂に
15米×18米の削平地がある。姫路城の西を守る天然の要害。


黒田官兵衛孝高が名を挙げた合戦(初陣ではない)として黒田家では有名ですが、黒田家が他国へ移転してしまったため、地元(姫路市青山)でも知る人が少ないのが残念です。原本資料をここに記しておきましょう。
永禄十年説と十二年説があり、月日も多少異なります。竜野赤松氏と小寺氏の間には青山を挟んで何度か戦闘があったのでしょう。木下秀吉※も絡んだ一番大きな戦闘があったのが永禄十二年八月と筆者は考えます。この翌年、赤松政秀も別所安治も没していますし、大きな意味のある戦いでした。小寺軍の追撃、あるいは落武者狩はすさまじかったらしく、赤松方の軍奉行衛藤但馬守忠家は山の尾根道を敗走して、竜野の目前笹山で没しています。別所氏は当然秀吉軍に兵を貸しているでしょうから、全軍での竜野赤松氏との同時攻撃はできません。
「黒田家譜」等が元で「で黒田官兵衛は先見の目があり、播磨で真っ先に織田信長に仕えた」という誤解があります。しかし「信長公記」を見れば西播磨の竜野赤松氏と東播磨の別所氏が先に使者を送っています。青山合戦はまさにその双方から攻撃を受けた(兵力各三千人)大きな戦いだったのです。
※ 永禄十二年八月一日、秀吉は摂津衆を含んだ二万の軍勢で但馬国に進攻、十八城を落として山名氏を追い、生野銀山を制圧、十三日に帰京した。銀山は結果として再び山名氏に取り戻されているが、別所安治の協力で播磨から攻め込んだと思われます。
詳しくは拙著(本山一城)「竹中半兵衛と黒田官兵衛」村田書店昭和63年刊に詳しく書いてあります。
「黒田家譜」 江戸時代
永禄十二年、孝高二十三歳。播州館野(筆者注=竜野)の城主赤松下野守政秀、三千余人を率し来たり、姫路の城を攻んとす。孝高是を聞て、姫路を出、わざと敵をむかへて、姫路の西一里青山に陣を取、大に合戦し、わづかの勢を以て一戦に利を得、敵の大勢に打勝、勇名是より大に顕はる。
又此比、赤松下野主政秀と、職隆、孝高播州土器山にて対陣せらる。敵方より味方の不意を窺ひて襲来り急にかこみ攻む。身方小勢にて危く見えければ、井手勘左衛門友氏(重隆の末子、職隆の弟なり)、母里小兵衛(佐々木の氏族古庵が父なり)、同武兵衛(小兵衛が子、古庵が弟なり)、同志の士と共に数刻防ぎ戦て、勘左衛門、小兵衛打死す。孝高其夜又兵を催し、明朝赤松と戦ひ給ふ。武兵衛は昨日の戦に七箇所疵を蒙りしかども、今日又出て戦ひ、敵数人にあふて打死す。昨今の戦に母里親戚二十四人戦死せり。
(筆者注=母里小兵衛の死は「家臣伝」を読めば、この戦い以前の事である。その未亡人が黒田職隆の後妻となって永禄七年に子をなしていることからも明白)
「黒田家臣伝・栗山備後(利安)」 江戸時代
永禄十年、利安十七歳、二月、赤松下野守・別所加賀守心を合せ、小寺氏を討んと評定有し処に、約束の日限違ひ、別所其日不出合、赤松ばかり青山へ打出けるを、小寺氏幸とおもひ、合戦を始む。此時利安、芝原弥十郎といふ敵と相たがひに刀にて切合、難なく芝原を討捕けり。
又同日、桑原勘解由左衛門といふ敵、朱柄の大身の槍を持、利安に馳向ひけるを利安は刀にて渡り合、即時に彼敵をも討捕けり。
(筆者注=「栗山覚書」同文)
「黒田家臣伝・吉田壱岐(六之助)」 江戸時代
六之助二十三歳の時(筆者注=永禄十二年)、播州にて別所小三郎士卒三千人計引率し、館野(筆者注=印南野の誤りか?)近辺を押通る。孝高、六之助に命じて、人数何程有可か、近く寄造に見届帰候へと仰せければ、六之助承て、敵の通る海辺より十間ばかり側に、竹森有しに槍をふせ、隠れ居て能見積りければ、人数三千一二百も可有と見ゆ。
(中略)藪の内より走り出ければ、案の如く敵の足浮立ちて逃げるを跡立たる者一人突倒しける。されども返し合する者一人もなく、皆々のきける。
(中略)播州置塩山の麓にて、別所と赤松小寺対陣の時、別所人数二三百人計出し置、此方よりも二三百人出し、互に遠ながら対陣しける。其間二町程有。孝高先の様子物見して参れと六之助に命じ給ひける。
(中略)六之助三人の首を取て味方の陣へ帰り、置塩山の南の麓にて、孝高に見せ申ければ、別所下人三人にまさりたる六之助なり、かやうの勇士を持ちたれば、向後の軍勝べきなりとて悦び給ふ事甚し。
又或時同国青山の麓にて、別所(筆者注=赤松の誤りか?)家頼七百程二備にして押出す。孝高も折節出張し対陣し給ふ。先手両方川原に備へたる中に、広さ二十間計の川あり。浅くして馬の中ぶしにひたる程なり。折しも極月(筆者注=十二月)にて、殊に河風烈しかりければ、敵味方備へをなしかねたり。引取んとすれば、三四十間に守り合たる事なれば、引揚る事も叶ひがたく、時を移しけり。
(中略)其儘前の川端に行て見れば、いまだ守合て居ける故、味方の備の右の手先に行き、一番槍我なりと名乗り、川を打渡り突て懸る。此勢ひに味方声を揚げ、一度に川に打入り押懸る。敵川端にて防がむと進来るを、真先に懸る黒具足着たる武者と槍を合す。六之助は
常に二間半の槍を持ければ、取のべ相づきにと心ざし、一度に突ければ、敵の左の脇下散はずれに当て、槍先向へ出る程突込ければ、左の膝をつき、後へ倒れたり。いそがしき場なれば、首は捕ぬぞと高声に喚り、その跡にひかへたる敵に突てかかる。味方屈強の者共劣らず槍を入進みかかる。孝高再拝を取て下知し給へば、敵悉く敗軍せり。味方の惣人数追懸敵を討取、馬上のものは落延けれども、歩行武者は二時ばかり川かぜに吹すかされ、手足も寒しかば、此処かしこにて大勢討れけり。六之助追討に又徒歩武者二人突伏首を捕、孝高味方も寒えたるぞ、永追なせそと制し給ひ、七八町にて追留、夫より引返し給ふ。六之助最前一番に槍を合、突伏たる敵其儘ありければ、首を取、合三つの首を孝高へ見せ申ければ、斜ならず褒美し給ひしとなり。
(中略)別所の家来の老士数年武功を重ね、首三十三取たる士あり。其頃上方中国辺には首三十三取たる士は首の供養をする習とて、彼士供養を遂げたりと、国中おびただしく沙汰に及び
(中略)孝高聞給ひて、六之助汝先ず首供養すべきよしを仰ける。(中略)米百石賜はりければ、六之助命に随て首供養をし、播州青山の南の方に塚を築置ける。(筆者注=中国街道は国道2号線だが旧道は船越山の裾から右に分かれ、夢前川をまたいで青山西で合流する。塚の場所はこの旧道と姫路新宮線の合流点、または稲岡神社参道との合流点と思われるが、筆者は確認できていない。痕跡でもいいからご存知の方がいれば、ご教示願いたい。)
「黒田家臣伝・母里雅楽(古庵)」 江戸時代
雅楽弟武兵衛又勇士なり。播州土器坂の戦にて疵七箇所蒙り、身体叶はず。其翌日の戦に、孝高宵より陣触して、疵ありとも、勤て明日の合戦に出べきよし、七度まで催促に及びしすば、武兵衛いかりていはく、是程の疵を蒙りたるを、しひて明日の陣に立てと宣ふは、我を死せよとの意にや、其儀ならば明日打死すべしとて、必死に極め、翌日敵に懸入ける。敵の槍七本にてつき指上ける。此時の戦ひに、母里一家の者ども二十四人討死す。是より雅楽は孝高をうらみて、武士をやめ、京に上りて安楽を事とす。長政筑前に来り給ひて後、孝高長政より呼下し給ふ。
「小寺政職家中記」 江戸時代
永禄十二年八月九日、竜野城主赤松政秀一族と御着城主小寺政職と合戦に及び、此時、野里芥田五郎右衛門家久、小寺に加勢して首二つ取る。青山にて戦乱ある姫路方へ加勢として、英賀城主一族得能与左衛門・有本兵庫・頭坊大学以下、毛度志呂武左衛門、是も小寺に加勢して雑兵其他、名ある士二百八十七人討死、首七十取りてと云。
「黒田如水伝」金子堅太郎著 大正時代
永禄十二年五月、赤松政秀・別所安治と謀り、小寺政職を攻めんと約し、兵を率いて青山に布陣せしが、安治期日を誤りて来り会せざれば、官兵衛其の虚に乗じ、撃って大に政秀の軍勢を破る。
六月政秀前役の恥辱を雪がん為、更に精兵を尽して来り攻む。官兵衛は乃ち職他隆と共に、土器山の要所に陣を構へ、陰かに敵情を偵察せしに、政秀は士卒を戒め、陣列を整えて、味方の軍勢を広原に誘致し、多勢を以て之を包囲し、一時に四方より厭迫せんと計画することを探知したり。
於是官兵衛政職より派遣したる士卒を戒めて曰く、敵は前役の失敗に懲り、今回は意を決して来り攻むるものなれば、汝等敵を侮りて、不覚を取ること勿れと。然るに政職の軍勢は、前日の戦勝を恃み、防備を怠れば、敵軍・夜陰に乗じ、土器山に来襲せり。
御着の軍勢不意の襲撃に驚き、一戦も交へずして遁走す。官兵衛憤慨して曰く、御着の奴輩果して大事を誤ると、直ちに手兵百五十騎を提げ、山腹の要害を扼して、防戦したれども、衆寡敵せず、終に危急に陥りたり。
職隆乃ち井手勘右衛門・黒田兵庫助・母里小兵衛等に命じ、官兵衛を救援せしめたれども、敵の大勢に逆襲せられて、味方は総崩れとなり、井手・母里の二人も戦死したれば、敵軍益々勝ちに乗じて、押し寄せたり。職隆此の形勢を見るや、俄やかに号令を下し、敵の正面を避けて、間道より其の背後を突かしめたれば、政秀・帰路を遮断せられんことを恐れ、俄かに進撃を止め、諸兵を勒して、本営引き揚げたり。
於是官兵衛・職隆に策を進めて曰く、敵は今日の戦勝に誇り、今夜は油断して、防備を忽かせにするならん。故に夜半襲撃せば、我軍必らず勝利を得んと、職隆賛同し、官兵衛を先陣とし、自ら後陣に将として、夜半遙かに政秀の本陣を襲撃したり。敵軍乃ち周章狼狽して、四方に敗走しね敵将政秀僅かに身を以て免るることを得たり。官兵衛が今回の戦功は、忽ち遠近に響き渡りて、小寺官兵衛の武名は、悠々世上に宣伝せられたり。
今や官兵衛父子は、小寺氏の為め、内憂外患を防遏して、威名を遠近に輝かしたれどもね当時彼らの地位を顧みれば、蕞爾たる姫路の城代にして、政職より派遣したる付人の如きも、僅に十五人なれば、如何に其の総勢を見積るも、三百人余に過ぎざりき。然れども官兵衛は蛟龍なり。