第三章

演劇の目覚めと展開

 


第一節 川上音次郎と貞奴の活動(女優養成)

 日露戦争後の演劇改良には目ざましいものがある。演劇とはいっても、この国の演劇は歌舞伎を主としていた。歌舞伎以外のものは、即席の茶番劇とか俄狂言のようなもので、まとまった演劇というほどのものはなかった。ただ明治になって壮士劇が生まれ、新派の演劇が舞台に演じられるようになると、従来の歌舞伎はそれらの刺激を受けて、改革を迫られる時代になろうとしていた。

 歌舞伎は、阿国歌舞伎から始まる。それが女郎歌舞伎となり、若衆歌舞伎となり、更に野郎歌舞伎へと変わる。つまり女の役者では、風俗を乱しかねないとあって、男の役者になるが、若衆歌舞伎になっても依然として風紀を乱すことがあったので、前髪を剃り落とした野郎頭の男優が舞台の上で演技を行うようになったのである。その結果、歌舞伎は容色だけでは芸が売れないとあって、演技に磨きをかけるろうになる。こうして江戸では初代市川団十郎、大阪では坂田藤十郎といった俳優が、東西相対して技を競い、正徳、享保のころ、つまり十八世紀の初めごろになって歌舞伎は急速に発達する。そのころになると上方と江戸の両歌舞伎は互いに交流して両者の間に見られたそれぞれの特色は次第に薄れてゆく。

 とにかく阿国歌舞伎以来、歌舞伎は三百年の伝統を持ちつづけてきている。和歌の歴史に比べるとはるかに短い。しかし和歌でもそうであるが、伝統となるとそれにとらわれて時々に必要な創意工夫を怠りがちになる。もっぱら先輩の権威にすがっておのれの体面をつくろおうとする。歌舞伎も同様で、舞台装置はもちろん、鳴り物からせりふ回しにいたるまで、伝統を守ることにとらわれて、時代の進歩についてゆけない。特に歌舞伎の場合、役者の動きがとかくにおおげさで、人間の微細な心理を表現することがむずかしい。能舞と同じで、象徴を重んじる演劇である。それはそれとして、捨てがたい味はあるが、近代の演劇としてはもの足らぬところが多々ある。そういう気持ちが演劇を愛する人たちの中にわき上がりかけていた。

 いろいろの面で、十九世紀に訣別しようとしている明治四十年代である。文壇ではすでに西欧の新しい思潮がかなり浸透しはじめているのに、この国の演劇界は世界の趨勢から、あまりにもかけはなれ過ぎている。近代人の心理を表現するには、歌舞伎は適しない。そんな不満もあった。殊に演劇に深い関心と理解を持っている若い人たちの間には、そんな焦燥を強く感じる者がかなりいた。

 明治になって、、歌舞伎役者の地位が向上した。それにともなって、彼らの間には誇りと自覚が持たれるようになった。これは結構なことである。しかし歌舞伎そのものが永年にわたって培ってきた動かしがたい伝統的な型は、盤石の重みをもって演劇界にどっかりと腰をおろしていた。このことは、歌舞伎以外の他の演劇に好ましくない影響を与えている。というよりも、それぞれの発展をはばんだと言ったほうが適切かもしれない。残念なことに、歌舞伎以外の演劇にたずさわっている他の役者たちは、役者というものに新しい自覚を持とうともしなかった。役者は要するに河原乞食であって、到底世間並の待遇など受けられるはずもない。そういった卑屈な気持ちが、いつもついてまわっていた。このため演出家によるせっかくの新しいもくろみも、水の泡に帰したことがしばしばである。こうして歌舞伎以外の演劇では、自分たちがはまりこんだ深い溝から起き上がるのに、かなりの時間を必要としたのである。

 壮士劇から出発した川上音次郎も、そのために苦労をしている。一時は豪放闊達な演技で喝采を博していたにもかかわらず、このままでは大衆が自分から離れてゆくような気持ちがしはじめた。殊に日露戦争後、文学や演劇に西欧の新しい影響があらわれはじめると、現在自分たちが行っている演劇ではとてもだめだと考える。そんな気持ちにつきまとわれるといても立ってもいられなくなった。あれやこれやと悩んだ末に、いっそのこと一座を率いて海外公演に出かけててみようかと思い立つ。単なる宣伝のためではなく、外国へ行けば西洋の新しいものを吸収することができるかもしれない。こう考えて、、彼は日本を後にしたのである。

 海外公演を終えて帰国したのは、四十一年の春である。川上は帰るとすぐに、女優養成所の設立に取りかかる。

 歌舞伎にしろ新派にしろ、従来の日本演劇は女の役を男の役者が演じてきた。この不自然さを、川上は前々から感じていた。海外に出て、外国の演劇を見て来たはいっそう女優を育てる必要を痛感した。このことは他の演出家の中にも切実に感じていた者もいる。それを改めることができなかったのは、ほとんどの演劇家が歌舞伎に影響されて、あえて改革する勇気を持ち得なかったからである。しかし、男はしょせん男であって、人生や社会を写実的に舞台の上で表現しようとするなら、どうしても女の俳優を使わねば実感が出て来ない。「いや、男だからこそ女では表せない雰為気を表すことが出来る場合もある。」そういって反発する向きもあるだろう。それももっともで、女の役を男が演ずることを頭から否定することは出来ない。殊に歌舞伎のような、写実よりも象徴的な効果を重んじる演劇の場合は、それでもよいだろう。

 しかし写実を重んじる近代劇においては、やはり女の役は女が演じた方が、よりいっそう効果があるにちがいない。評価の基準が異なるから、女の役を男が演じてよい場合だってある。だが西欧の新しい演劇では、写実的表現を重んじる。舞台の上に生きた人間、ないし生きた人間社会を表現しようとする。象徴性よりも現実的な表情・音声の抑揚・手足の動きなどに人間感情の微妙な推移を表現しようとする。歌舞伎の場合のような、おおげさな演技による象徴性は拒まれる。西欧における近代演劇では繊細な感情の表現にも、注意を払わねばならない。当然女を演ずるのに、男を使っていては不都合を感じる場合がある。どうしても女による演技でなくてはならぬ。川上ならずとも、このことはだれでもが気づいていたことだろう。ただ今までは歌舞伎の伝統に引きずられて、歌舞伎以外の他の演劇も、男の役者を女形として使ってきただけである。これからの新しい演劇に、それはは通用しない。川上は、そう思ったにちがいない。 「芸は虚と実との皮膜の間にある。」とは、大近松の言葉である。事実をそのまま演じたのでは効果が薄れる。彼はそう言ったが、川上が欧米で彼が見てきた演劇は、胸に突き刺さるほどの切実さを感じさせた。やはり女の役は、女が演じるに限る。川上の頭の中に女優を養成しなければならぬという気持ちが固まっていた。

 彼は、このことをまず妻の貞奴に相談してみた。演劇経験の浅い彼女ではあったが、何事にもしゃにむに立ち向かわずにはいられない夫の性格を知っていたので、即座に賛成した。川上は、これまで好意を寄せてくれた人たちにも相談する。その中には、実業家の渋沢栄一・大倉喜八郎・福沢桃介などがいた。彼らは、川上から意中を明かされると、即座に支援を約束してくれた。女優養成所を設立するために必要な人材を集めることについては、貞奴が骨折ってくれることになった。

 名称は「帝国女優養成所」ということにして、募集規則として次のような条項が掲げられる。

一、帝国女優養成所は、歴史・院本及び脚本の講義を為し、又和洋舞踊・和洋音楽・下方(笛・小鼓・大鼓・太鼓)・義太夫・和洋故実・礼式・三弦・琴・顔面の化粧・新旧の演劇等すべて俳優に必要なる課業を置く。
一、帝国女優養成所に入りて女優になるべきものは、満十六歳以上二十五歳以下にして、高等小学校を卒業したる者、又はこれと同等の学力・知能ある者・若しくは俳優に適すべき芸術の心得ある者に限る。但し、従来女優として一ケ年以上舞台を踏みたる者はこの限りにあらず。
一、帝国女優養成所は、当分無月謝にて授業し、卒業後二ケ年間は、実修として帝国劇場、もしくは帝国女優養成所が指定する劇場に出演する義務あるものとす。但しこの場合は、相当の手当を為す。
一、帝国女優養成所にある者は、個人として他人の招きに応じて芸を為すことを得ず。

 こうして、養成所は、芝桜田本郷町(現在の田村町)の大場理髪店の二階が当てられる。開所式は、四十一年九月十五日。この時の志願者は百余名といわれたが、実際に選ばれた者は十三名にとどまっている。ただしその中の四名は中途で退学しているので、究極的には、次の九名が入所したことになる。

 森律子
 河村菊江
 初瀬浪子
 田中勝代
 中村滋子
 佐藤千枝子
 佐藤はま子
 白井寿美代
 鈴木徳子

 以上のほかに、藤間房子、村田嘉久の二名が、少しおくれて入所している。結局第一期生は計十一名ということで、これだけが卒業詔書を受けている。

 川上貞奴が養成所の所長となって、これらの生徒の指導養成に当たることになる。ちょうどそのころ、帝国劇場の建築計画が進められていた。そのため、この養成所は帝国劇場の方に受けつがれることが決まり、四十二年七月には「帝国劇場付属技芸学校」と改称される。

 ところで、第一期生の中に加わった森律子は、元代議士森肇の娘である。そういう彼女が女優を目差していることを新聞が掲載すると、たちまち世間の話題になった。女優は要するに役者であり、芸人である。そんな観念が一般の頭にあった。ましてや彼女の父は代議士をつとめたことのある人物だという。良家の子女が役者にまで成り下がるということは、この上もなく奇異に受け取られた。そういう時代である。

 律子は、明治二十三年十月十三日、京橋日吉町に生まれている。生まれた家は、江戸時代の豪商紀国屋文左衛門が建てたものだという。しかし幼稚園へ上がるころには、采女町に移っている。小学校と幼稚園は、跡見学園であった。この学園では、稚児髷(ちごまげ)に紫袴というのが、服装の規定になっていた。この独特のスタイルが、また人の目を引いていた。律子は、そういう上流階級のお嬢さん学校に通った生徒の一人である。ただしこの学園は、律子が入学したころには一般の家庭からも入学するようになたので、その特殊な風格は薄れてぃた。 幼いころの律子は、お転婆で負けん気が強かった。この性格は、女優になってからも変わらなかった。

 明石町の築地女子英語学校専科生になった時、彼女はふと新聞の広告で、「帝国女優養成所」が、生徒を募集していることを知った。女優になることを決心したのは、その時である。だが、女優もしょせんは役者である。江戸時代には河原者などと言われて卑しめられた。特殊な階級である。だがそういう一般の意識は、明治も末年にはかなり薄れていた。しかし俳優といい女優といっても、しょせんは役者であり、芸人である。そういう世間一般の考え方は、すっかり払いのけられてはいたわけではない。養成所に入りたいという律子の希望は、当然のことながら両親に聞き入れられなかった。松山には彼女の祖父がいた。その祖父からもきびしく反対された。「河原乞食になるなら、縁を切る」とまで言ってきた。気丈な彼女も、これには二の足を踏んだ。とはいっても、今さら思いとどまる女ではなかった。根気よく両親の説得につとめた。その結果、ようやく許しを得ることができた。さいわい試験にも合格して、養成所入りを果たしたのである。

 女優養成に相当な熱意を示していた渋沢栄一は、そのころ男爵として華族に列せられている。実業界では、指導的な地位にあり、帝国劇場の重役でもあった。そういう渋沢の後押しもあったので、川上はたいそう気を強くしていた。もちろん女優養成所の入所式には、渋沢も出席してくれた。この時、渋沢はあいさつの中で、

 「日本で三百年來卑しむべからずして卑しまれたものは、実業家と婦人と俳優との三つであるが、、皆さんはその卑しまれていた婦人であって、しかも俳優になろうとする方だ。われわれも御同様に昔は卑しまれた実業家であるだけに、一層深い同情をする。それだけに品行については十分気をつけるよう・・・・・・・」

といった趣旨の訓示をして、女優志願の娘たちをはげましている。

 さて律子は他の同期生たちをしのいで、帝劇女優としての名声を博するようになる。昭和三十六年七月に七十歳の生涯をとじるが、明治から大正期にかけて、はなばなしく活躍したその栄光は、残念なことに昭和の長い戦争のために完全にかき消されてしまった。彼女が没した時には、新聞記者のあいだでさえ帝劇女優森律子の名を知る者は、数えるほどしかいなかったという。

 

第二節 小山内薫の自由劇場

 貞奴の女優養成は、画期的なもくろみとして、演劇界ばかりでなく各方面に刺激を与えた。特に演劇の方面では、かなり思い切った意見を持ち出す者が現れた。その中の一人が、小山内薫である。彼は四十一年に「芸術か娯楽か」という論文を発表している。つづいて「再び芸術か娯楽か」を書いて、この問題を究明する。演劇はいかにあらねばならぬか、という根本問題を追求した思索である。彼自身は長期にわたって、この線上を忠実に歩きつづけた演劇家である。それだけにこの方面では、いばらの道を歩きつづけた一人である。
 四十一年の十二月八日、彼が手紙の形式で書いた「俳優ヂ-君へ」という文章がある。これは、「自由劇場の計画」の最初の公開状である。その中で、彼はこんなことを述べている。
一、新しい演劇運動の名前が、「無形劇場」から「独立劇場」に変わった。
二、劇場は年二回三日ずつ明治座を借りて公演することが決定した。
三、出し物は西洋の近代劇、ただし一幕物から始める。
四、役者だということを忘れて、素人にならねばならぬ。
五、「演劇は娯楽ではない」ということは、演劇は芸術的快楽を提供すべきものだ。
つまり「演劇」というものは快楽は快楽を提供することを目的とするが、ここでいう快楽は世間一般が考えるような娯楽的なものではない。人間の心を洗いすすいでよりいっそう高めてくれるような快楽である。従来の演劇が単に大衆を楽しませるものであってはならない。演劇を通していろいろな意味を考えさせるものでなくてはならない。小山内薫の演劇に対する見解は、あたかも「大正」ないし「昭和の戦後」に発表されたいろいろな文学論に似ている。
 大正時代になって「通俗文学」とか「純文学」とか、文学をその内容ないし芸術性に従って区別されたことがある。また昭和の戦後にになって、桑原武夫は「文学入門」の中で、「純文学」と「通俗文学」の相違について説明している。それによると、文学(小説)を読む楽しさに、「インタレステイング」と「アミュウズメント」とがある。作品を読みながら「人生」や「恋愛」や「芸術」や、それらの意味を考える。そういうことに深い関心を持つて小説を読みすすめてゆくうちに、おのずからわいてくる興味、それが文学を読む者のほんとうの興味である。これを「インタレステイング」いう。これに対して、ただ単に筋の展開を追ってそのおもしろさだけにとらわれる。そういう浅い読書から得られる興味を、「アミュウズメント」という。こう述べて娯楽を求めるか、人生について深く考えさせてくれるものを求めるかによって、文学を二つに分けることができるというのである。
 小山内も新しい演劇の興味を世間的な娯楽から引き離して、桑原の意見とは少し異なる点はあるが、「インタレステイング」的な興味を、「芸術的快楽」という言葉で表現したものと思われる。彼の目指す演劇は世俗的な興味をわかすようなものではなく、単なる娯楽的な域を越えた、芸術としての美的要素を含みつつ、その一方では人生や恋愛やその他人間万般の問題について観客を深い思索に引き入れるようなものを指向したものであろう。
 そうい演劇をまとめるためには、役者自身がこれまで抱いていた意識を清算しなければならない。ただ単に観客を喜ばせたり楽しませたりするのではない。大向こうをうならせるとうな演技だけをねらってはいけない。真摯な気持ちで、いろいろな人生問題を観客と共に考えてみようとする演劇を構成したいと願わねばならぬ。それには一から出直さねばならぬ。つまりは役者はまず素人にもどることだ。小山内はそんな気持ちでいたのであろう。これについて小山内の言葉を聞こう。
 「僕が役者をもり立てるという意味は、『役者を素人』にするところにある。『素人にする』とは、歌舞伎役者としてのいろいろな『あか』を洗い落として俳優を一から出直させるということである。つまり非商業的で、しかも芸術的な演劇活動を実験的にやってみる。更にそれを発展させる。」
 つまりは演劇に中に、もっと写実性ないし真実性を含んだ演技を持ちこさせることを要求するのである。彼の意見を忠実に実行するには、これまで歌舞伎が表現してきたものや歌舞伎以外の他の演劇がとらわれていた一切のものを洗いすすがねばならぬ。意匠も舞台装置もせりふまわしも、そして演劇が目標としてきたものを投げ捨てて一から出なおさねばねならぬ。そこに小山内が進もうとした演劇の道がある。たとえば西欧に見られる無形の劇場、つまりは劇場を持たない演劇の場があってもいいのではないか。そのために、われわれは既成の演劇と絶縁せねばならぬと、小山内は言うのである。こうして彼は、市川左団次らと組んで「自由劇場」の結成に着手する。
 この劇団の規約として示されている「目的」の項目には、こんな言葉がある。
「本劇場は会員組織の一団体にして、会員の総数と興行資本主併せて観客と頼み、主として俳優を職業とする者を技術員として、新時代に適せる脚本を忠実に試演し、新興脚本のため、新興芸術のために、一条の小径を開くをもって目的とす。」
 こうして「自由劇場」は発足する。会員を当分一千五百人と制限し、会員は年二回会費として金二円五十銭を払うことにする。試演は年二回行い、会員は料金を払わないで観劇することができる仕組みとし、家族または友人・知己・一名を同伴しても差し支えないことにした。 役員は文壇・劇団・歌壇・その他各界の著名人に委嘱している。
主  事小山内薫
舞台監督市川左団次
会務主任岡嘉太郎
常  務木村錦之助・川上五郎・鈴木春浦
顧問役伊原青青園・岩村透・岩野泡鳴・長谷川天渓・徳田秋声・岡田三郎助・和田英作・蒲原有明・田山花袋・中沢臨川・中沢弘光・柳田国男・山崎紫紅・正宗白鳥・島崎藤村・北蓮蔵・杉贋阿彌
事務所浅草旅籠町、演芸通信社内

顧問役の中にイプセン研究会のメンバーと、背景や道具の援助をしてもらうために岡田三郎助の友人である画家たちが交じっている。
 陣容が整うと、早速活動を開始する。まず小山内と左団次は、上演する作品について相談する。二人だけで決めるよりは少しでも多くの知恵を借りた方がよいというので、岡田三郎助を訪ねる。岡田は小山内の妹八千代を妻としていた。小山内にとっては義理の弟である。八千代は、そのころすでに自分の書いた原稿が売れるほどの文筆家になっていた。後年は、れっきとした女流作家として活躍するほどの才媛である。小山内・左団次・岡田の三人は、出し物について協議をはじめる。だが、岡田はこの方面では、門外漢である。さすがに気が引けたとみえて、
 「その話なら、岩村を呼んで話し合った方がよい。」
と言う。岩村というのは、同じ顧問役の岩村透のことである。さいわい彼は岡田の近くに住んでいた。美術学校の教授で、何年もの間ヨ─ロッパに住んだ経験を持っている。向こうの事情に明るい。美術家であり、文学にも精通しいる。この方面の相談なら適任者だ。そう思って、岡田は岩村を推薦した。結局小山内・左団次・岡田・岩村の四人で、話し合いを進行させる。
 話し合っているうちに、ハウプトマンの『日の出前』を上演するとよい、という意見が出る。これを持ち出したのは小山内である。奥の方でこの話を小耳にはさんだ八千代が出て来て言う。呼ばれたわけではなかったが、話が文学に関係していることなので、自分から乗り出して来たわけである。八千代は、首をかしげて聞いていたが、小山内の提案に反対意見を述べる。『日の出前』には社会主義や労働運動の模様が描かれている。当局はおそらく許可しないだろう。事実、そのころの政府は社会主義運動が活発になって来たことに神経をとがらせていた。取り締まりもこれまでになく厳しくなっている。八千代の意見にも一理はあった。これに対して岩村が言う。
 「改革的な、新しい仕事をしようとしているのだ。世間をあっと言わせるほどのものを演じるのも一つの方法ではないか。」
 小山内も左団次も、岩村の言うことに同意した。
 そのあと、小山内は隅田川沿いの新片町に島崎藤村を訪ねて相談した。これに対して、イプセンの英訳をかなり読んでいた藤村は、
「『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演したらどうか。」
とすすめる。かねてから、小山内が尊敬していた藤村である。その意見には、心がうごいた。この作品は、旧時代の重苦しい圧迫に反抗して、自分の進んで行く若い世代を描いた作品である。小山内にはそれがすばらしく思えた。自分自身、以前からイプセンを上演したいと思ったこともある。
 第一次『新思潮』のころ、イプセン研究のために彼は会を開いたことがある。この会の模様は、雑誌『新思潮』に掲載して紹介されている。その時の研究会は、神田の学士会館で開かれた。集まった人たちは、田山花袋・柳田国男・岩野泡鳴・蒲原有明・長谷川誠也・島崎藤村などである。『小アイヨルフ』『野鴨』『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』『人形の家』などが次々に検討された。イプセン会は、「自由劇場」の創設を予定して持たれたものではない。しかし、結果的には、「自由劇場」の運動は、このイプセン会にその芽生えを持ったといってもよい。
 ともあれ、藤村の意見を聞いた小山内は、左団次をはじめ他の顧問に相談する。ほとんどの者が、賛成してくれた。話がまとまると、小山内は早速鴎外のところへ行って、『ボルクマン』の翻訳を頼んだ。かっては逍遥に対峙して、演劇改良に心を燃やした鴎外のことである。小山内に演劇改良の熱意のあることを知ると、快く引き受けてくれた。
 上演に当たって、左団次の持ち小屋を避けて、開場して間もない有楽座を選んだ。演劇に新風を吹き込もうとするためには、この劇場がふさわしいと思ったからである。有楽座は、明治四十一年十一月に開かれたばかりである。定員九百名といわれ、ほとんどが客席で占められていた。大正十二年の関東大震災で焼失するまでは、自由劇場、文芸協会、近代劇協会、土曜劇場、新時代劇協会などの活動の場にもなったことのある高等演劇会場である。
 さて小山内たちが決めた第一回公演である『ボルクマン』では、左のように配役が決められた。
ジョン・ガブリエル・ボルクマン(元銀行頭取)市川左団次
グンヒルト(その妻)沢村宗之助
エルハルト(学生、グンヒルトの息子)市川団子
エルラ・レントハイム(グンヒルトの同胞姉妹で双生児)市川延若
ファンニイ・ヰルトン河原崎紫扇
ヰルヘルム・フォルダム市川左升
フリイダ市川松蔦
グンヒルトの女中市川左喜之助

 上演は、十一月二十七、八日の両日である。予定していた鴎外の翻訳が意外に手間取る。製本の不完全な見本を手に入れたのは、その月の十日である。その間、小山内と左団次は舞台装置や衣裳などの準備をする。そのための金策にも駆け回る。
 予定よりずっと後れて、明治座の楽屋で稽古がはじまったのは十一月の十日である。開演までに半月と少ししかない。悠長にかまえてはいられない。午前九時から午後三時まで、その間に昼食の時間はあるが、それ以後は詰めきりである。従来の演劇とちがって、時には長いセリフが交じる。そこをこまかく演技して、単調にならぬように工夫する必要があった。 主役の左団次は、人事や経費のことにも頭を使わねばならない。会計主任や常務はいるが、直接演劇にたずさわる者でなければわからぬこともある。いわば小山内と左団次が大所高所に立って、采配を振っていればよいというものではない。細部にわたって頭を使い、自分で駆け回らねば円滑にはこばないことがある。このため左団次は稽古にも十分参加することができなかった。日が立つにつれて、あせりが加わる。時には、絶望的な気持ちになることさえある。開演の前日、有楽座では舞台稽古が行われる。顧問格の文士や画家たちも心配してやって来た。役者たちの演技が期待していたほどでないのを見て、だれもが失望した。セリフまわしも演技も従来の役者と格別変わったところがない。どこに近代演劇の新しさがあるのか。すべてが型にはまっていて、観客の心に迫るものがない。顧問たちの感じたところは共通していた。「役者たちの中には、日常性の中にも真実に触れるものがあることを知っている者がいない。技芸よりもまず教育の問題だ。。」そんなことを言う顧問もいた。
 あれこれしているうちに、十一月二十七日がやって来た。公演の第一日目である。観覧者の中には、顧問として関係していた文壇人のほかに、若い文士や学生も交じっていた。二日目には、鴎外や吉井勇や長田秀雄らが来た。そのころはまだ帝大の二年生だった谷崎潤一郎は、平土間のいす席で見ていた。
 二日間にわたる公演は、とにかく終わった。当事者の左団次も小山内も当てがはずれたという表情で、ため息をもらすばかりであった。予期していたほどには、成果がなかったからである。
 「これではとてもとてもだ。」
二人は望みの糸が断たれた思いで、頭をかかえた。顧問役の正宗白鳥は特別席で観覧していたが、めりはりのきかないセリフ回しや、感情のこもらぬ役者の動きにすっかり退屈してしまった。眠気さえ催してどうにも我慢ができなくなったので、とうとう四幕目を見残して帰ってしまった。そういう観客がいく人もいた。
 これまでの日本演劇は衣裳や背景で観客を引きつけてきている。セリフは独特の調子をもって、ある種の快感を覚えさせる効果を持ってはいる。役者は役者で、身振りや手振りで、およその感情を表現しようと努めて来たように見える。しかし、それらはどちらかと言えば微妙繊細な、瞬間にして移ってゆく人間の感情を表現するには、さして効果を表すまでには至っていない。時代物ならともかくとして、世話物、特に新派をはじめとする演劇では歌舞伎の演技をもってしては、人間の真実性を表現することはできない。もともと日本と西洋とは生活様式を異にしている。家屋の構造をはじめ、家具の類まで何かにつけて小さい。それに伴って立ち居振る舞いも、人の目につくようなおおぎょうな動きがない。しかも感情の表現を慎ましやかにすることが、礼儀作法にかなっていると教えられて育ったために極力ひかえめにしがちになる。あれやこれやの条件が重なって、新しい演劇の効果を上げるのに妨げになっているのである。
 だからといって、前にも書いたように、歌舞伎のおうぎょうな動きを演技の中に取り入れたところで、観客の目を引きつけはするが、微妙な心理や感情の推移を表現するには適しない。歌舞伎の演技は、振り付けみたいなもので一種の型である。
 小山内らの考える新しい演劇は、真実を表そうとするところにねらいがある。日常性の中に、なるほどと思わずためいきをもらさずにはいれない、そういう真実を盛りこむことをねらいとする。過去の演劇が、そしてまたこの国の生活様式が、小山内たちの行く手をはばんでいた。そのために、打開の道を見つけるのにむだな手数を取らされたのである。
 小山内も左団次も、言いようのない責任を感じた。題材が新しいだけでは何ともならぬ。演劇は、要するに総合芸術だ。そんな初歩的なことがわかっていながら、なぜもっと万般の準備を整えておかなかったのか。小山内の頭の中には、そういったさまざまな悔恨がうず巻いた。前途には暗たんとしたものが、大手を広げて立ちはだかっている。そんな気がした。
 観客の側からすれば、俳優たちはただ舞台の上を動き回っているに過ぎない。彼らの動作・セリフ・表情、どれ一つを取り上げても近代演劇らしいものが感じられない。鳴り物入りの宣伝が利き過ぎて、肝心の演劇をすっかりだめにしてしまった。西洋の演劇を見たことのない人たちにも、まったく新味のないことがわかった。もちろん観客の方にも責任はある。日本の演劇で、大まかなきめのあらい演技しか見ていない人たちにとって、近代演劇の長いセリフはやりきれないほど退屈だ。かなりの時間にわたる長いセリフを、辛抱づよく聞いて中身を味するだけの根気に欠けている。日本人は元来そういう体質の人種なのだ。だからどれだけ近代演劇の特質を観客になじませようとしても、当時としては不可能に近いことであった。とするなら、、これはどうしても演出者や俳優やそのほかの当事者を含めてみんなが、さらに研究を積まねばならぬ。
 そうはいっても、小山内たちの試みがすべて失敗だったというわけではない。白鳥のような人をのぞけば、かなり多くの人が好意的に辛抱強く鑑賞してくれた。開幕に当たって、小山内はこんなふうにあいさつしている。
「私どもが『自由劇場』を起こしました目的は、ほかでもありません。それは生きたいからです。」
 この言葉には、主催者としての熱意と真摯な態度がこもっていた。「生きたい」とは実生活上の欲求ではない。物欲以外の精神的に切実なものを目ざして進みたいと思う欲求がこめられていた。新しい演劇開拓の精神および、その演劇を通して人間の人間らしく生きる精神を、自分たちばかりでなく観客の内部生命にも植え付けたいとする、そういう切実な願いがこもっていたのである。観客の一人である谷崎潤一郎は思った。
「小山内は、藤村の『青春』に描かれた主人公がなし得なかった素晴らしい仕事をしている。いま小山内は、階上と階下にぎっしりと詰まった一流の観客の注目を浴び、栄光に包まれている。その若々しい明眸(めいぼう)と皓歯(こうし)は、この一夜のためにあるのだ。」
 谷崎の胸中を、羨望と感嘆が一つになって駆けめぐった。
 こうして、自由劇場は発足した。
 ところで、その二年前の明治三十九年二月、坪内逍遥は「文芸協会」を組織している。演劇界の停滞した空気を打破せねばという気持ちが、小山内薫だけではなく、文学者や演劇家の間に広がっていたのである。もちろん川上音次郎もその一人ではあった。だが、まだ模索の段階で、打開の道を見いだすまでには至ってはいない。そうした沈滞に、逍遥はもどかしさを感じたのであろう。彼は文学の研究に甘んずるだけの、並の文学者ではなかった。だから演劇改良にも新しい決意を固めていた。彼は倫理道徳の研究学者でもあり、教育家でもあった。従って文学に限らず演劇においても、とかく国家主義的な色彩を帯びるのは余儀ないことであった。このことは、次に示す「文芸協会」設立の趣旨の中にも、うかがい知ることができる。
 「(文芸協会は)わが文学・美術・演芸の改善、進歩及びその普及を計り、もって社会の風尚を高むるとともに国勢の勃興に応ずべき文運を振作するを目的とす。」
 興隆しつつある国家の盛運に合わせて、それにふさわしい文化活動を目指そうとするところに彼の目標があった。「国家を離れて文化なし」とする国家主義に立脚した組織、それが「文芸協会」である。従って、これに入会する者は、道徳的に品行方正であることが要求されている。
 それはともかくとして、協会の活動は、他方面にわたることを標榜していた。すなわち、演劇・雅楽・洋楽・能楽・歌舞伎・美術・講演など、広範なものである。つまり総合的な文化機関とする意図を持っていた。
 協会の会頭には、大隈重信を推し、早稲田に関係のある名士、学者が賛助員になった。しかしこの会のねらいがあまりにも多岐にわたったために、二兎を追う者は一兎も得ずのたとえの通り、多角的な活動の構想はたちまち破綻する。そのため後になって、活動の範囲を縮小せねばならなくなる。そして結局は、演劇団体としてのみ活動するということになるのである。
 先輩として逍遥を頂点に置いて、協会の運営は、伊藤敏郎・金子馬治・東儀鉄笛らが中心となって推進することとする。文芸協会にふさわしくないという不満はあったが、活動の範囲をせばめたことは、かえって活気をもたらすきっかけとなった。
 明治三十九年の十一月、文芸協会は演劇部大会という名目で第一回の公演を行う。場所は歌舞伎座、出し物は「桐一葉」「ベニスの商人」、歌劇「常闇」ということを決める。主演俳優は、東儀鉄笛のほか、水口薇陽・土肥春曙らである。
 演目の一つだった「桐一葉」は、従来の歌舞伎と大して変わっていないというのが一般の見方で、好評だったとはいえない。これに対して「ベニスの商人」の方は、演出において正統なヨ-ロッパの演劇を着実に伝えているというので、新鮮味を買われて好評を博している。
 それから一年が過ぎる。文芸協会の活動は、もっぱら演劇の分野に限られていたが、少なくともこれに関する面では、前途の光明が開けてきたように感じられた。とはいっても、逍遥自身はそれで満足してはいなかった。そのうちに、四十年十一月二十二日に第二回公演が行われる。今度は本郷座で四日間という契約である。演目には、「大極殿」と逍遥の[ハムレット」が選ばれる。後者には研究員たちも非常な肝の入れようで、全部を本格的に演じた。このため、反響も大きかった。中でも土肥春曙の演じたハムレットが、最も光っていた。
 こうして足掛け二年にわたる協会の活動は、演劇部門ではかなりの成果をあげた。二回目の公演が、それを証明している。その一方では大きな債務が残ったことが、逍遥にとっては痛みであった。だがそれよりももっと彼の気にかかっていたことがある。前に書いたように協会の活動部門が縮小されていたことである。「文芸協会」という看板を掲げていながら、この方の活動が全くお留守になっている。このままでは看板が泣く。逍遥はそう思った。設立当初に掲げた部門の中で、演劇以外に何一つ具体的な活動を行っていない。ここに至って、彼は新たな決意をしないわけにはいられなかった。。もちろん負債のことも気にかかっている。四十二年二月、彼はひとまず江戸川べりの貸席「清風亭」に文芸協会の幹事を召集して、善後策を講じることとした。その結果決まったのが、演劇研究所の開設である。
 研究所の正式の名称を、「文芸協会演劇研究所」とした。牛込余丁町一一四番地にあった逍遥の自邸を事務所に当てる。一応文芸協会の名を頭に据えることで、何とか体裁を保とうとしたわけである。この看板にしておけば、演劇を主とした活動をしていたところで、だれも文句は言うまいと思ったからであろう。逍遥の頭の中では、そんな気持ちが支配していた。 規定が決まると、研究所の内容を三月に発表した。その第一条には、「部員及び一般志望者をして演劇に関する技芸及び学理を研究せしめ・・・・・。」とある。「文芸協会」が本格的に演劇の研究指導に乗り出したのは、このように看板の塗り替えを行ってからのことである。
 逍遥みずからが監督となり、東儀を主事とした。委嘱された講師は逍遥のほかに、
芸術論島村抱月
実演東儀鉄笛・土肥春曙・松居松葉
舞踊藤間嘉舞八・坪内大造
歌舞伎立師市川新六

となっている。
 修了年限は二カ年で、一般からの志望者は学力・容姿・天稟・健康・操行等の資格について審査するという。最初の試験は、四十二年の四月に行われた。その当日、逍遥・抱月・土肥・東儀らが机を並べて席に着く。その前に受験生が居並ぶ。受験生の中には松井須磨子の顔が見えた。目立たない服装と容姿は、格別審査員の注目するところとはなっていない。
 この日の審査で、入学を許可された者は左の通りである。
男子武田正憲・佐々木積(夏川静枝の父)林和・柳下富司・伊藤理基・掬月晴臣・日高清・久里四郎・志田徳三(以上八名)
女子松井須磨子・三田千栄子・(後に山川浦路と改める)・五十嵐吉野(以上三名)

 予想していたより応募者の人数が少なかったので、九月に再募集を行う。これでやっと男女合わせて八名が新しく加わる。その中には、後年アメリカの映画俳優となった上山草人や幕末から明治にかけて脚本作者としていくつかの名作を残した河竹黙阿弥の養子河竹繁俊の名が見えている。
 四十四年五月、文芸協会演劇研究所による第一回公演が、土肥春曙の指導で行われることが決まる。さいわいなことに、その三カ月前に開場したばかりの帝国劇場が、舞台を貸してくれるという話があって、用意万端が整う。出し物は逍遥訳の「ハムレット」で、この時は須磨子がオフイリヤを演じている。
 以後、演劇研究所が行った公演の種目は、次の通りである。
四十四年十一月第二回公演「人形の家」(イプセン作)
四十五年五月第三回公演「故郷」(ズ-ダ-マン作)
大正元年十一月第四回公演「二十世紀」(バ─ナ─ド・ショ─作)
大正二年二月第五回公演「アルト・ハイデルベルヒ」(マイエル・フエルスキル作)

 第二回の公演の「人形の家」で、松井須磨子はノラを演じた。彼女の名が広く世間に伝えられるようになったのは、このときからといってよい。
 この「人形の家」が時公演された後、劇評家楠山正雄は『読売新聞』の紙上で、大要次のような意味のことを述べている。
 「誇張でも何でもなく、この女優のノラは、日本ではじめて女優問題を解決した記念として、、更には舞台の上に女性を解放した記念として永く忘るべからざるものと思う。」
 事実「人形の家」の反響は、劇団ばかりでなく、社会問題として大きい話題を世間に投げかけている。平塚らいてうはこれに刺激を受けて、機関紙『青鞜』の中で女性解放の叫び声をあげた。「人形の家」と『青鞜』と、この両者は期せずして同様の問題をもって、明治の女たちに目を覚まさせるきっかけを作ったのである。殊に須磨子の演じたノラは直截的であったために、強い刺激を当時の女たちに与えた。雑誌『青鞜』には、早速「ノラ」というヒロインについてさっそく同人たちの論文が掲載された。これがまた世間の話題になった。何しろ妻が夫を捨てて家を飛び出すという、その事自体が当時の日本の社会では厳しくとがめられねばならぬ時代であった。女は単なる飾り物の人形ではない。人格をそなえた一個の人間である。以上、女にも自由にふるまえる権利があるはずである。そういう自我の自覚の乏しかったこの国で、ノラのような行動を取り得た女性は、ほとんどいなかったといってよい。
 明治から大正にかけて「婦人矯風会」の会長をつとめた女性に、矢島楫子という人がいる。彼女は徳富蘇峰・蘆花兄弟の叔母に当たる。楫子は幼名を「かつ」といった。二十五歳の時、離婚歴のある林七郎という人物と結婚した。というよりは、無理やり結婚させられたといった方が正しい。もともと七郎は武家の出で、横井小楠の弟子である。人品骨格は人目を引いていた。かつの兄をはじめ親戚一同も二人の結婚には賛成であった。だが、七郎には酒乱の悪癖があった。酔うとたちまち別人のようになって、乱暴狼藉をはたらく。時には白刃を振りまわして子供をおどし、かつには危害を加えかねない暴れ方をしたこともある。結婚してから十年が過ぎた。夫の暴力は、いっこうに治まる様子もない。かつは極度の疲労と衰弱とで半盲状態におちいる。思いあまってとうとう家を出てしまう。夫を捨てたばかりでなく、わが子をも捨てたのである。もちろん愛児に対する切実な気持ちがないわけではなかった。しかし、このまま家に残っていては殺されかねない。地獄の責め苦から逃れる思いで、彼女は家を出たのである。
 だが、この行動に対する世間の見方にはひと方ならぬ厳しいものがあったのである。彼女の行動は、正常な女としてあるまじきことであるとして、親類縁者までも白い目を向けた。女が夫を捨てる。この事実だけでも、彼女は責められねばならなかった。子供を捨てたということは、もちろん大変なことである。だがそれよりも、いったん嫁した女が夫を捨てて家を出たということ自体が、この上もない罪悪とされたのである。しんらつな攻撃を受けたのみお無理はない。
 「人形の家」のノラは、矢島かつほどの虐待を受けたわけではない。ありふれた日常生活の中で、一個の人格をそなえた人間として扱われなかった。それだけの不満が積み重なったために家を出たのである。須磨子は、それを演技として舞台の上で熱演して見せた。観客は、ノラの不遇をそのまま女優須磨子の生活であるかのように錯覚を起こして、その胸が切りさいなまれるような気持ちにおちいってしまった。この時は、須磨子の不道徳を非難するような事態まで引き起こしている。倫理学者の中には女性にあるまじき行動として須磨子須磨子を激しく攻撃した者さえいる。その熱演ぶりが、どんなに真に迫っていたかがわかる。つまりは、それほどの興行成績が上がったということである。こうして、「人形の家」の公演は大成功のうちに終わった。
 「人形の家」が上演され、それが思いがけないほどの波紋を世間に巻き起こしたことで、逍遥はすっかり気をよくした。というよりも、逍遥自身がこの演劇に感動した。研究所で養成した弟子たちが、わずか二年の教育で、作劇の面でも演技の面でも、意想外の成績を収めたのである。今やわれわれの演劇は、まったく新しい方向に進みつつある。時代は好むと好まざるとにかかわりなく、変わってきたのである。だれがこの進展をはばむことができようか。逍遥はおのれの道徳的基盤を忘れて、ひたすら演劇の技術的進展に目を見はらせるのだった。
 しかし時が経つにつれて彼は、自分の矛盾に気づくようになった。倫理学者であり教育学者である彼の一面がのぞきはじめたのである。今度の公演が世間を感動のるつぼにおとしいれたとはいえ、これで日本の国民がふしだらな習慣に落ち込んでしまったら、国家が目標としていたものに反逆の矢を向けることになる。日本の良風美俗は、泥をかぶることになる。のではないか。そう思うと、今度の演劇が好評を浴びたことを、手放しで喜ぶこともできぬ。 この心配はさらに広がる。四十五年六月、文芸協会は有楽座で第三回公演の幕を開ける。出し物は、『故郷』である。須磨子の演ずる主人公マグダは、自我の強い女である。父のすすめる結婚には、どこまでも「うん」とは言わない。とうとう家を出てしまう。その後、彼女は有名な歌手となって帰郷する。両者の道徳観は、いつになっても対立したままである。父親は怒りのあまり、マグダを撃とうとする。その瞬間、再度の卒中で死んでしまう。この筋書きは、ひどく観客を興奮させた。幕が閉じて、時間が経つ。それにつれて演劇そのものへの、俳優たちのすぐれた演技をはじめ、それに付随する演出者たちの準備万端が、これを観劇した人たちにはかってないほどすばらしいものに思えてきた。実際この公演は、初日から大入り満員の盛況だった。
 ところが、中日を過ぎたころ、内務省の役人が公演を見に来た。さも興味深げに観覧しているふうであった。だが、実際には俳優たちの演技や舞台裏といった演劇の中身に触れた観劇をしていたわけではなかった。思想取り締まりといった職務的な立場で、妥当か否かを検討するために来ていたのである。「娘が親に従わないのは、国民道徳の根本が説かれれてい『教育勅語』の御趣旨に反する」 。彼はそう判断したのであろう。本省にもどって、上司にこのことを伝える。今度は警保局長の古賀廉造自身が、須磨子の演ずる『故郷』を見に来た。
 それから数日もたたぬうちに、内務省から「今後の上演を禁止する」という通達が送られて来た。心配していたことが、とうとうやって来た。逍遥はそう思った。協会の役員をはじめ俳優たちも、一様に当惑した。このことはひとり協会だけではなく、各界に大きな波紋を投げかけた。文芸協会には、すでに六月の地方公演が予定されていた。今ここで上演を禁止されては、経済的にも支障を来たす。まさに死活の問題である。
 いろいろと協議したあげく、島村抱月が協会を代表して陳情のため内務省に出頭する。次官の床次竹次郎が、面接してくれた。すでに古賀局長から報告を受けていた床次は、一通り抱月の説明を聞いた上でポツリと言う。
「省としての方針は、曲げることはできぬ。」
 抱月は若干の説明を加えて何とかして大目に見てもらいたいと願ったが、床次は「うん」とは言わない。抱月はやむなく協会にもどって逍遥に報告する。善後策を講じたあげく、結末の方に、マグダがそれまでのことを悔恨する場面を補足することを決める。こうして当局の禁令を解いてもらうことにした。だが、劇団をはじめ文壇を含む各界は、「この妥協は、芸術が政治に圧迫されたものである」として当局を激しく責めたてた。そればかりでなく協会の弱腰に対しても、厳しい批判が相次いだ。とにかく「故郷」の公演では、明らかに抱月らが、時の政府に頭を下げたわけで、世間の評判まで落とす結果になったことは事実である。
 このような敗北感を抱きながらも、抱月らは「故郷」を持って、大阪・京都・名古屋へと公演の旅に出かけることになったのである。
 そのころ逍遥は、すでに「人形の家」の公演について好ましくはなかったという反省を抱きはじめていた。思想的にイプセンを受け入れることはできない。今後はもっと日本という国柄にふさわしいもの、できることなら政府が考えている思想の善導にかなうものを考えねばならぬ。こうした気持ちから、彼は「国劇」というものを目指して進むようになる。
 ここで話はさかのぼる。明治三十七年の十一月、すなわち日露戦争のさ中であった。逍遥は『新楽劇論』という本を刊行して、その中で「国劇」ということを唱えた。川上音次郎の主張した「正劇」に対する反発として主張したものと思ってよい。つまりその言おうとしているところは、「演劇もまた国策の線に沿って発展させるように努めねばならぬ。そう考えてこそ、日本の演劇は世界に誇り得るものになるにちがいない」という見解を示したもで、国家主義的演劇でを起こそうとしたのである。
 このことに関連して逍遥は言う。
「私のはもっぱら技術上芸術上から国劇を刷新しようとしたのであったから、外国の諸種の小劇場運動とは一致した点もあれば、そうでない点もある。文芸協会は、その前身たる易風会から進化したものであるから、仏・独・英の自由劇場とはその成立において何の因縁もなかったのである。
 ところで、わが協会と前後して起こった他の諸種の新劇運動は、その名称によってもおしはらられるたごとく、明らかに外国のを模したものであった。多くは芸術本位、思想本意、本能満足本意をせんげんしてあくまでも自由と独立とを呼号していた。」
 ただしこれは後年(大正八年二月「逍遥選集」の第九巻所載)に当時を回顧して述べられたものである。いずれにせよ逍遥は、他の新劇運動とは明確に一線を画したものであることを明言したかったのであろう。
 ところで話は前後するが、演劇研究所の開設に当たって逍遥は次のような規定を抱月に執筆させている。
 一、本研究所は、わが劇団に新芸術を興すとともに、旧来の演劇及び俳優に纏着せる陋弊を一洗し、その社会的地位を高むるを理想とすべし。
 二、本研究生は、芸術に対して常に真摯厳粛の態度を持し、軽佻を戒めて大成の道を畢生の研究に求むべし。
 三、本研究生は、本所がその他の地位組織及び精進において、わが邦演劇研究期間の率先者    たるを自覚し、深く自ら重んずべし。
 要するにこの規定は、俳優を志す者はそれぞれの自覚によっておのれの品位を高めるとともに、社会的地位の向上に努めよとさとしたものである。今までは歌舞伎役者を含めて芸人たちは、河原乞食としていやしめられてきた。それから抜け出て国民一般から認められようと思うなら、自分自身の素行に気をつけて俳優としての地位を高めるようにせねばならないというのである。
 明治四十四年三月二十四日の夜、逍遥は研究生たちを自宅に召集する。第一回公演として「ハムレット」が幕開けになろうとする一カ月前のことである。席上彼は俳優としての品位素行について、改めて訓示を与えた。再三述べたように、倫理学者としてさらには教育者としての理想が彼にはあったから、それに従って、自分の研究所は自分の学校として、あくまでも清純な雰囲気を保ちたいとする意志がはたらいていたのである。国民道徳というわくからはみ出るような演劇を考えることは、出来ない相談だと彼は思っていた。
 逍遥の演劇改革に対する態度は、所内における男女の自由な交際を厳しく否定した。夕立の時、相合い傘で道を歩いていたというので、除名処分を受けた研究生もいる。そのほか風紀上の問題で、協会から除名された者は男女を含めて二十名を越える。文芸協会の俳優養成の方針は、研究所の解散に至るまで、変更を見ることなくつづけられる。後になって抱月・須磨子の恋愛問題が表ざたになった時二人が脱退するのも、「男女の不義はご法度なり」という旧時代的な環境がさせたものにほかならぬ。
 さて前に書いたように、明治四十五年六月文芸協会は「故郷」を持って関西方面へ興行の旅に出かける。まず七月九日からの十日間を御園座で公演する。それが終わると今度は京都である。これも予定の通り済ませることが出来た。しかし七月二十日になって、思いがけなくも「明治天皇御不例」という報道が新聞で伝えられると、大阪公演の方をあきらめねばならなくなった。こうして一座はひとまず東京へ帰るわけであるが、この時逍遥は後事を抱月と東儀に託して自分が先に帰京する。しかしそのあと抱月と東儀が、須磨子のことで確執を起こすに至る。それが抱月と須磨子を結びつけるきっかけを作り、更には両者の恋愛問題を抜き差しならぬところにまで追い込んでゆくのである。
 明治四十五年の時、抱月は四十二歳、東儀は四十歳という年齢に達していた。思慮分別を十二分に備えていた男でも男女間の愛情問題となる、とかくに常軌を逸するものらしい。殊にそのころの抱月は、いく人かの子供を抱えた家庭持ちである。そんな男たちが、二十七歳の須磨子をはさんで、もめごとを起こしたのである。常識をこえた彼らのいざこざは、しばらくの間つづく。
 そのころの抱月は家庭的にはかならずしも恵まれていたわけではない。妻のいち子との関係はしっくりとはいっていなかったし、五人の子ども(ほかに二人の子どもはすでに死別していた)を抱えてありきたりの生活をしていた。彼にとっては味気ない毎日であった。こうしたことから己を満たしてくれるものを求めるのは、当然といえば当然であった。
 関西公演中に、彼が詠んだ歌がある。
ある時は二十の心ある時は四十の心われ狂ほしく
 「かさかさとした毎日の生活に耐えられなくて、時には青春時代に抱いたような情熱をもって恋をしてみたいと思う。しかしその一方では妻子のある身であることを思えば、そんなことではならぬと己を戒める。あれやこれやと考えると気が狂うほどだ。」
 そんな心境を表したものである。
ともすればかたくななりしわが心四十二にして微塵となりしか
 堅く身を守ってきた彼ではあるが、ここに来たってすっかり緩んでしまった。そんな気持ちが表されている。
 世間の因習に閉じ込められ、妻や子の桎梏(しっこく)にしばられて、ここまでやって来た人生は、いったい何であったのか。考えれば考えるほど空しくなる。あまりにもかたくな過ぎた今までの生活ではないか。道徳や習慣の虜(とりこ)になって、君子ぶったところで、何になるものか。そのころの彼は、おのれを閉じ込めようとする一切のものから脱出したい気持ちでいっぱいだったのである。
 生きるとは心のままに生きることである。そうと知りながら今まで生きて来た。そう思うと、かたくなだった自分の心に対して言い知れぬ悔恨が込み上げてくる。彼はほとんど吐きすてるような気持ちから、右の歌を詠んだものにちがいない。
 振り返ってみると、もの心ついてからでも三十年以上経っている。この長い年月の間に自分は勉学と演劇修業とに励んで来た。しかしこれまでのわが人生に、安らぎを与えてくれたものは何一つとしてない。乾ききった行路に、心をうるおしてくれるものが欲しかった。
来し方の三十年は長かりき砂漠を行きてオアシスを見ず
 そんな思いでいた間に、抱月・須磨子の恋愛は協会の内部に波紋を広げていった。さまざまな思惑が飛び交い、内紛さえ起こりかねないところまで発展する。その上さらに、東儀・土肥・両幹部に対する芸術上人格上の不信任問題までがからみついた。
 東儀・土肥の二人は易風会以来の古いメンバ-である。文芸協会では講師として重要な存在だった。しかし研究生たちとは、世代がかけ離れていた。このちがいは、演劇の上では考え方のちがいにつながった。二人が若い俳優と同じ舞台に立つと、気持ちの上でおのずからすき間ができるというところまで来ていたのである。こうしてかなり順調に進んでいた演劇改良の足取りが、ここに来てあやしくなっていた。
 それにしても抱月・須磨子の恋愛問題は、逍遥としても黙って見ていられないほどのところまで来てしまた。ある日、逍遥は抱月を呼んで須磨子との関係を断つように迫った。だが、抱月は応じなかった。生まれてはじめて接触した野性的な女の魅力を、そう簡単に見すてることは出来ないと思った。彼の胸中には経験したこのとのない開眼の喜びさえあった。師はそれを払い除けよ言う。何のためにか。演劇のためにか、それとも自分のためにか。師の自分に対する期待は、そもそも何であろうか。、恋を捨てて、何かのために尽くすことがそれほど価値のあることであろうか。抱月は、こんこんと説得をつづける師の口元を見つめているうちに、ふとだれに対するというものでもなく何やら寂寞としたものを感じはじめていた。人間としてある一つの事にすべてを投げ捨てて没頭することが、それほど価値のあることとは思えないような気持ちがしはじめた。国家だの社会だの、そんなもののために尽くそうとするはなはだ崇高な精神もつことが自分にとってそれほど重要なことなのか。今の抱月にはまったく無意味なことに思えてきたのであった。
 今や抱月は、須磨子なくしては一日たりとも生きることは出来ないと思うようになった。
住吉の赤き社と白砂君がパラソル水色にして
かりそめに結びし紙の誓ひにも末をかけたり住吉の宮
住吉の塔の東の窓により人の世狭しと君かこちしか
 明星派ばりのこんな歌にも、二人で経験したそぞろ歩きの思い出が、彼の胸によみがえってくるのであった、。
 明治は改まって、年号が大正となる。その十一月、第四回目の公演が有楽座で行われる。演目は「二十世紀」と「思い出」である。逍遥は、二人を引きはなすために、松居松葉を起用して演出に当たらせる。須磨子を老け役にまわし、抱月を関西旅行に旅立たせた。こんな小細工を弄して二人を互いに近づけまいとする自分を、逍遥は浅ましく思わないでもなかった。これも、日本の演劇界を彼らに担ってもらいたいとする望みを託しているからである。そう思って、彼はみずからなぐさめるのであった。抱月が旅に出ている間も、逍遥は「島村と別れまさい。」と須磨子に忠告する。須磨子はただ頭を垂れているだけで、きっぱりと返事はしなかった。
 そうこうしているうちに、早稲田の学内では抱月を擁護する運動がまき起こる。抱月は学生たちの間に人気があった。ヨ-ロッパ帰りの学者であり、新進の文芸評論家でもある。帰国した翌年には、島崎藤村が『破戒』を出版し、更にその翌年すなわち四十年には田山花袋が『蒲団』を出している。長谷川天渓らとともに自然主義の騎手といわれた抱月は、『囚われたる文芸』を発表して注目を集めていた。このことは、師の逍遥も認めていないわけではなかった。それだけに彼が今やトップスタ-としての任期を高めつつある一女優と恋に落ちるとは。逍遥は一大痛棒をくわされた思いである。
 事実逍遥はすでに老境に入ろうとしていた。思えば『小説神髄』を発表して世に出てから、二十有余年になる。あのころは文壇も若かった。幕末期の戯作者たちも、明治二十年ごろにはすでに老い込んで、昔日のおもかげはなくなっていた。わずかに仮名垣魯文が文壇の大御所となどといわれて、幅をきかせていた。しかし文明開化の時代にふさわしい光を、呼びこむような文学者ではなかった。文学界は模索のさなかだった時代に、逍遥は明治の文学が進むにふさわしい指針を示したのである。それにつづいて『当世書生気質』を世に送った。その功績は四半世紀を過ぎた今でも、さんとしてかがやいている。
 それ以後の活躍は多伎にわたっている。演劇改良運動のよきライバルだった森鴎外とともに大きな足跡を残した。また早稲田大学では教育者として、すぐれた後輩をそだて上げるかたわら倫理学の研究に没頭し、シェ-クスピアの紹介につとめるなど、その功績は多彩をきわめていた。文字どおり八面六臂の活躍ぶりであった。大学の創設者大隈重信の信頼も厚く、その後継者高田早苗、その他早稲田系の学者との間に幅広い交流を保っていた。いわば早稲田大学の「金看板」であった。
 明治三十六年まで、彼は早稲田中学の校長を勤めている。そのころはすでに「春のやおぼろ」といったふるめかしい筆名を洗い落とし、れっきとした近代文化の一翼をになう一世の木鐸をもって任じていた。だが、、彼の骨髄は、謹厳な教育者としての精神に満たされていたところにある。近代日本文化の一方の指導者でありながら、中身は国家主義で固まっていたところに、当時の文化人とは大きく異なる。
 大正二年五月三十一日、抱月が文芸協会に提出してあった辞表は受理された。同時に須磨子は、諭旨退会を命ぜられる。六月、卒業生の伊藤理貴がこのことを『万朝報』にスク-プした。ほかの新聞も追いかけるようにして、協会の内紛と抱月・須磨子の恋愛事件を書き立てる。協会及び早稲田大学では、それぞれの内部が逍遥派と抱月派とに分かれて喧喧囂囂(けんけんごうごう)の論議が交わされた。
 混乱はしばらくつづく。そんな状態の中で、文芸協会は次回公演の準備を着々と進める。演目は「ジュリアス・シ-ザ-」と決まる。抱月が去り須磨子が消えたあとの協会内部は、さすがに秋風の吹きこむようなさびしさであった。六月には、帝国劇場で「シ-ザ-」の公演を行ったものの、客の入りはかんばしいといえるものではなかった。舞台監督松居松葉の指導にも問題があった。
 そのあと協会は、のっぴきならぬところに追いこまれて、ついに解散に余儀なきにおちいる。東儀と土肥は手を握って劇団「無名会」を組織する。これには、後年映画女優の酒井米子が参加している。これとは別に横川唯治・加藤精一・佐々木積・森英次郎・吉田幸三郎らの比較的若い世代の人々は、「無名会」に先んじて十一月にバ-ナ-ド・ショ-の「悪魔の弟子とウイルヘルム・フオンヌショルツの「負けたる人」を第一回公演として帝国劇場で上演した。劇団も名を「舞台協会」と名付ける。これらの動きに対して、文芸協会を退いた抱月は芸術座を作り、須磨子とともに再出発することを決意する。
 先にもふれた通り、逍遥は他の作家ないし演劇家とちがって道学者的なところがあった。従って文芸協会発足の当初、彼は言明している。「芸術によりてことさらに現社会の基礎を危うくせんとするがごときは、本協会の取らざるところ・・・・・・・」というのが彼の基本的態度であった。そういう認識のもとで、これからの社会がどのように組み立てられてゆくか、あるいはまた未来に対する展望がどれほど持ち得るかは、はなはだ疑問であった。
 薩長藩閥政府の力で形成された日本の現状は、天皇絶対主義の下で基礎固めされている。強者は弱者を抑圧し、富める者はいよいよつばさを広げ、貧しい者はますます軒を低くし暮らす。もしもこの状態を打破するために立ち上がろうとする人があれば、権力者たちはこれに圧力を加えずにはいない。またもし封建時代以来の因習にさかろうとする人が現れると、世間の人たちは異端者の目をもって、それを見る。当時の社会は多分にそういう傾向が根を下ろしていたにおである。ある倫理学者は著書の中で、「欲求の満足、これを善という」などと説明したことがある。これを真理とするならば、人間の欲するままに(ただし他人に迷惑をかけないで)生きさせことが出来るならば、善の倫理道徳は国内に満ち広がるであろう。ところが逍遥の胸中には、いわゆる良風美俗を守らせることによって国家の秩序が保たれ、ひいては「富国強兵」の国策に協力する事が出来るという論理が組み立てられていたのであろう。
 「時の流れるままに生きるとが善である」という逍遥の考え方は、自然のままに生きるということではなくて、時代の流れに逆らわずに生きるということである。つまり長いものにまかれて生きるとということである。これは何も逍遥にかぎったことではない。明治末期の文学者、演劇家、その他もろもろの芸術家をもって自認する人々に共通していた考え方である。自我の自覚を説き、人間の醜さを指摘していた作家でさえ国家が包含するさまざまな矛盾を指摘することをためらい、それらを改革しようとする努力を怠っていたのである。怠ったというよりもあえて避けていたとしか考えられない。そういう人たちのあるグル-プは人道主義を唱え、またあるグル-プは享楽主義に落ち込み、またある者は歴史小説の中に新天地を求めていった。共通するところは、権力者たちを恐れて別天地に逃避しようとしたのである。
 なるほど明治になってから、数多くの文化人が非常な努力を傾けてさまざまな実りを手中に収めている。殊に明治二十年代の末期から三十年代にかけては精神科学が盛んに研究された。哲学・倫理学・仏学・その他各方面にわたって、すぐれた学者が輩出した。学生の中にも、、人生の意味を問うて解決に悩んだあげく自殺した者さえいる。それにしては徹底的な自己改革の意志をつらぬき通した者はほとんどいない。国家の政策に背くことを恐れたからである。
 彼らが「象牙の塔」にこもって、単なる学究の徒としておのれの研究に没頭していた間はよい。しかし研究の対象が国家の改造に向かい、その矛盾を指摘して実際にその改革に手を染めようとするに至ると、たちまち当局から弾圧の手が伸びる。明治の末年は、そういう時代であった。