◆井上馨◆ |
●井上馨―1835〜1915― 【略年譜】 天保六(1835)年 周防国湯田村で萩藩士の井上家の次男として産まれる。 嘉永四(1851)年 明倫館に入門。 嘉永六(1853)年 江戸にて有備館に出入りし、敬親の御前警護の職に就く。 安政二(1855)年 萩藩士志道慎平の養子となる。 安政五(1858)年 江戸において岩屋玄蔵に蘭学を学び、砲術修行のため江戸川左衛門塾に入門。 万延元(1860)年 名を文之輔から聞太へ。 文久二(1862)年 御楯組結成。高杉らと品川御殿山の英国公使館焼討ちを決行。 文久三(1863)年 志道家を離別。伊藤らとロンドンに留学。 元治元年(1864) 帰藩。山口藩庁の帰途で襲撃され、重傷を負う。 慶応元年(1865) 正月 山口鴻城軍総督に。 明治元年(1868) 九州鎮撫総督の参謀となる。 同年 参枝兼外国事務掛に。 明治六年(1873) 渋沢栄一とともに大蔵省を辞任。 〜以後、新政府の重要な役職を数多く勤め、引退後は実業界へ。〜 大正四(1915)年 興津の別邸で病死。 周防国湯田村の長州藩士の家に次男として生まれ,藩校明倫館などに学んだ。18歳のとき同藩士志道慎平の養子となり,名を聞多と改め,江戸に出て有備館に学んだ。また,剣や砲術の修業もし,蘭学や英学も学んだ。尊王攘夷運動に参加してイギリス公使館焼き打ちを実行。文久三年(1863年)志道家を離れて井上姓に復し,伊藤博文らとイギリスへ留学したが,4国艦隊下関砲撃計画を知って帰国。砲撃事件後,和議成立に尽力し,また藩政権を握っていた恭順派を破り藩 論を倒幕へと回復した。 明治元年(1868年)九州鎮撫総督の参謀をへて新政府の官界に入る。造幣頭などをへて大蔵大輔となり財政に力を入れた。明治六年(1873年)司法卿江藤新平の放漫政策などによる財政危機を批判して辞職,一時実業界にあった。
官界復帰後,外務卿として条約改正の準備にあたり,明治十八年(1885年)内閣制度成立直後の外務大臣となって,条約改正のため欧化政策をとり,いわゆる鹿鳴館時代を現出させた。しかし,世論の批判を俗びて辞職。 その後農商務相・内務相を歴任。第3次伊藤博文内閣では大蔵大臣となって,金本位制を実施し,また紡績業・鉄道事業などをおこして殖産興業につとめた。明治三十一年(1898年)以後は官につかず元老となる。財界には大きな力をもち,三井財閥の最高顧問にもなって“三井の大番頭”ともいわれた。明治四十年(1907年)功により侯爵となり、大正四年(1915年)興津の別邸で病没。享年80歳。 大隈重信から見た伊藤博文と井上馨の人物評価がある。 「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。 井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。 伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また柄もずっと上格で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事に中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い。」 ●栄一と井上馨 ―栄一と井上馨の関係については本文の通りである。 また、明治三十四年(1901年)、伊藤博文と山県有朋は、井上に内閣を組織させようと意図していた。井上は、もし渋沢が大蔵大臣を引き受けるなら、と答えていた。芳川顕正たち2、3人がその使者として栄一を口説きに来たが、栄一は断った。 しかし、井上に対する情宜もあり、彼等の熱意にすげなく断るわけにもいかない。翌日、栄一は椿山荘に山県を訪ねた。そこに居合わせた西郷従道からも入閣を勧められた。日本銀行総裁からも、そして伊藤からも改めて直接勧告を受けた。しかし栄一には政界入りする意志は皆無で、一生民業振興に終始したい事を理由に断ったが、「一応、第一銀行の首脳部と相談した上で」と言葉を濁して帰宅した。むろん銀行側は「困る」といい、親族とも会議を開いて検討したが、一堂反対だった。栄一は山県、伊藤、井上の三氏に入閣謝辞の手紙を書き、みな手分けして断りの挨拶にまわった。維新前なら、町人が官僚の命令を断る事など言語道断だった。 結局井上内閣は成立しなかった。当の井上は「よくぞ渋沢が大臣を断ってくれた」と栄一を招きご馳走した。なかなかおつな雷オヤジである。 ●井上馨考察〜井上馨の働きを見直す〜 井上は殖産興業のために財閥育成に血道を上げた。その結果として一部の財閥との結びつきを強めることになり、西郷隆盛からは「三井の番頭さん」とイヤミを言われたという。新聞も、「井上は財閥にカネをもらっている」と書きたてた。 実際、井上は自分が設立した貿易会社を三井財閥に買い取らせ(後の三井物産)、またその他の面でもいろいろと三井に便宜を図っている。おそらく、相当なカネが井上に流れたことだろう。しかし、こうしたことを今日の視点からだけで考え、「腐敗政治」と糾弾するのは早計に過ぎるのかも知れない。当時の事情や井上の経験を考えれば、彼が財界を積極的にバックアップしたことにも納得がいくのである。 井上は、幕末に伊藤博文らとイギリスに密航し(秘密留学生)、ロンドンの繁栄を目の当たりにした。井上は、イギリスが強力な軍艦や大砲を持っているのはカネがあるからだということを、嫌というほど見たのである。一方、日本では、攘夷派が勢いを得て列国に無謀な戦いを挑んだ藩が惨敗を喫している。 このような状況で列国並みの軍備を持つためには、日本も金持ちにならなくてはと井上が考えたのは当然だろう。井上が新政府樹立後、財閥の育成を熱心に行った根源的な動機は、まさにそこにあったと考えてよいだろう。 |