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| スタッフ紹介 元気はつらつぅ〜 な人々の紹介です。 私たちの合言葉は ”振り向いたら忘れる” こんなんで大丈夫なんでしょうか!? | |
| 冨士田 シゲ子(代表) hujita shigeko (下中央) |
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| 駒沢 イエ子 komazawa ieko (下左) |
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| 森田 加世子 morita kayoko(上左) |
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| 東 史子 higashi humiko(下右) |
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| 小川町商店街の変遷 | |
| 町のはじまりと繁栄 長久年間(1040〜1044)の頃、現在の小川町の平坦部はまだ海に面していて商業取引のために山陰方面から、岩見船が盛んに出入りしていました。町は室町時代(1401〜1540)から、かたちをつくりはじめ、応永34年(1427)にはすでに市が開かれていたとあります。 寛永10年(1633)に肥後藩から正式に町としての許可がおりました。藩は新しい町の育成を図るために、無償で建築用材を支給したり、町家の基準を定めたりと3カ年間の地租免税の恩典を与えました。寛永13年(1636)には新しい町ができ、同19年には198の店舗が軒を並べたと云われ、小川町は薩摩街道に沿う宿町として隣町の吉本とともに、その地域の経済の中心地となり周辺農村の需要を充たしていました。 文化8年(1810)ころに駅馬が十八ヵ所に増えたことは、町の繁栄を物語っています。この頃山手産物、海産物の集散地として繁栄した小川町では、商人が豊富な商品の流通によって財を築き、卸商の性格をもつもの、船問屋、仲売りの性格をもつものが現れ、18世紀のはじめには豪商を輩出しました。塩屋もそのうちの一つと考えられます。その他にも、高砂事件で有名な豪商柏原太郎左衛門があります。太郎左衛門は武家の出身ですが、商才にたけ、屋号を「天野屋」といい海外貿易の利を町にもたらしました人物です。現在の柏原家には古文書が多く残され、当時を詳しく知ることができます。 | |
| 道路・鉄道の開通による町の衰退 明治28年(1895)には松橋・八代間の道路竣工式、明治29年(1896)には松橋・八代間の九州鉄道小川駅開通式(町から2`も離れて作られたため当時としては貨物輸送としては不便であった)、大正8年(1919)に宮原・柿迫道路開通式(これにより宮原町が小川に変わり山手の産物の集散にあたるようになる)というように次々と交通が変化を遂げ、従来のように山手の産物を小川町で独占するということが難しくなりました。 しかし、小川町では大正時代から昭和初期にかけては、製茶工場、製糸工場、木綿工場、製麺工場、寒晒し工場が存在し、傘、下駄、竹篭などの製造販売のほか、芝居小屋2つが興行を打つなどして活気を呈していました。こうして小川町は昭和初期までは衰退をたどりながらも、上記のような産業に支えられ、祭りなどには大勢の人出があったりとかなりの賑わいを見せていました。戦中は物資不足、戦後は農地改革、産業構造の変革などにより衰退は加速していきました。(小川町史より) |
小川町の楠の大木![]() |
昭和32年の初市の賑わい![]() |
| 塩屋の歴史 |
| 「塩屋しおや(旧岩崎邸)」は熊本県下益城郡小川町の県道小川・嘉島線に沿った商店街上町地区にあります。明治39年(1906年)に建てられた土蔵白壁建築の木造二階建て延べ床面積約530平方メートルです。玄関の格子戸や紅葉材の長押、松の丸太で組上げた梁など小川でも本格的な土蔵白壁造りは珍しいといわれます。塩屋は小川町が最も栄えた時代の商家の趣を残した数少ない建築物です。 岩崎家は建設当時には呉服商等を営んでいたらしく、詳細を知るひとは既にありませんが、古い呉服屋の木製の商標が残されています。昭和33年所有者の方が熊本市に移られ、平成11年に所有者の岩崎さんから「風の会」が建物を借り受け、町の人々の協力も得て修復を行いました。 「塩屋」の屋号についての起源は1330年代に遡る「塩売り勘兵衛」の話にあるようです。 |
| 塩売り勘兵衛 「塩屋」には、次のような話が伝えられています。当時の小川町は市場として繁昌し商圏として東方の山村「五家荘ごかのしょう」と物々交換による交易がひらかれたと思われます。 時は、菊池十三代当主武重(1330年代)の頃です。武重は肥後領内巡視の際に小川に来て、「クマ山」という名の秘境があることを聞き、使臣を柿迫・栗木あたりまで調査に差し向けました。しかしついにクマ山の実体をつかむことはできませんでした。 そのころ小川に「勘兵衛」という塩売りが居て、たった数年にして倉を建てるほどの金持ちとなったことを、町の皆は「不思議だ、塩ばかり小商いをしてあんなになるとは…」と囁きあっていました。この噂が庄屋太助から、時の代官代々木源内の耳にはいり、その代官が勘兵衛に泥棒の嫌疑をかけるという一芝居までうって白状をさせました。勘兵衛が云うには「クマ山」と呼ぶ山奥の村々があって、そこへ村人が欲しがっている「塩」を運んでは、山の幸と物々交換をしていました。そして、その山の幸を小川で高い値でさばいては大もうけをしました。勘兵衛は月に1・2回ほど日を決めておき、使用人に塩を背負わせて小川を夜中に出ていましたので、人目につかずに済んできたこともわかりました。代官佐々木はそこで勘兵衛に「よしわかった、しかしこれからは他の商人も、皆クマ山で商いをできるように手引きをするように」と言いわたしました。 この塩売り勘兵衛が、「塩屋」の屋号の由来と伝えられています。ここでいう「クマ山」とは、現在の五家荘一帯のことで、昔は狼も熊もいたことからこの名がついたものと思われます。五家荘は菅家(菅原道真の子孫)と、平家の落人村として知られ、このお話はその子孫と小川商人との深いつながりを物語っています。 |
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| 塩屋との出会い |
| 風の会について ここ小川町には、風の会という地元の主婦のグループがあります。風の会は1997年の暮れにクリスマスコンサートとしてギターリサイタルを開いたことをきっかけに誕生しました。子どもたちを自然の中で遊ばせたい、小川町の文化を盛り立てたい、町の活性化に役立つことは何か等々、自分たちの身のまわりにある様々なテーマについて共鳴する人たちが集まり、翌1998年に会の結成となりました。映画鑑賞会やコンサートの企画運営、風の子と称する子ども自然学級の主催等々をここ数年手がけてまいりました。 |
| 風の会と塩屋の出会い 当初、例会などは会員の自宅で行っておりましたが手狭になってきたため小川旧商店街沿いに事務所を探していました。そうした中、たまたま空家になっていた旧岩崎邸「塩屋しおや(昔の屋号)」と出会ったのです。この古い商家は、台風の被害で玄関口のガラスは破れ、母屋の屋根瓦は飛び、壁も痛々しいまでに朽ち外郭は廃屋寸前でした。 中に入って驚いたことには、長い間空家になっていたために雨漏りと埃でかなり汚れてはいましたが、さすがに往時の岩崎家の繁栄振りを偲ばせる頑丈な土台、大きな柱と梁それに襖の開閉のスムーズさに感嘆、その建築様式の魅力に皆とりつかれてしまいました。 なんとか修復して蘇らせたいという思いから、専門家に尋ねたところ「修復するには膨大な費用がかかる」と云われました。当初、この案に周りは誰も賛成していませんでしたが、私たちは「この建物は町の文化財でもあり是非残したい残さなければ悔いが残る」との一念で修復にとりかかることにしました。 |
| 塩屋の修復の道のり 修復費についてはまず、県や町の公的援助に打診をいたしましたが、個人所有の財産には何らの補助制度はないとのことでした。やむをえずメンバー9名の自己資金を投入することにし、相談役になっていただいた製材業、製瓦業、大工さんらのご協力でなんとか外郭の修復を終えることができました。内装や照明などの不足分につきましては、町の多くの方々のご協力を得てまた町外・県外居住の小川町出身の方々等に趣意書を送り貴重な支援金をいただきました。 1999年12月から掃除にとりかかり、翌2000年3月15日に起工式を行い、約1年にわたる修復工事が続き、2001年春にはほぼ修復もおわり4月には開館できる運びとなりました。 |
| 修復前の塩屋 | |
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