↑二十八将評伝↑
岑彭評伝 ― 敵国民衆にも惜しまれた仁愛の名将
 岑彭、字は君然。?~35。南陽・棘陽の人。征南大将軍となる。
 岑彭は、二十八宿の第六位。信義を守る義士であり、規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開し、秦豊を滅ぼし、隗囂を拒み、公孫述討伐に活躍した。

●人を助ける
 岑彭は信義に厚く、一度受けた恩は決して忘れなかった。
 かつて部下数百人を連れて、更始帝の河内太守韓歆の元にいた。光武帝が河内に進軍すると、抵抗するか降伏するか論争になったが、韓歆は抵抗するつもりでいた。ところが、光武帝の進撃が予想より早く、戦いの準備を整えることができなかったので降伏した。
 光武帝は、韓歆がもともと抵抗する気でいたと知ると大いに怒り、彼を殺そうとした。そのとき岑彭が、かつて光武帝の兄に助けられたこと、帰服したいと考えていることを述べ、さらに韓歆を助けるように願い出た。
 すなわち、かつて光武帝の兄・伯升に命を助けられた恩と、いまの主というべき韓歆の恩を返そうとしたのである。
 光武帝はこれにより怒りを収め、韓歆を許し、鄧禹の軍師として採用したのである。
 後、光武帝に従って洛陽にいる更始帝の将軍朱鮪を包囲した。
 岑彭はかつて朱鮪の元で校尉をつとめていた。そこで朱鮪を説得して降伏させることになった。
 朱鮪がなかなか降伏しなかったのは、彼が光武帝の兄を殺した謀略に加わっていたからであった。自分が光武帝の許しを得られるとは信じられなかったのである。
 朱鮪は、嘘でないというならここまで来いと、城壁に縄を垂らした。岑彭はすぐに縄を登ろうとした。これを見た朱鮪は信用し降伏したのである。朱鮪は許され、天命をまっとうすることができた。

●軍紀厳正にして巧みな用兵
 岑彭は、その軍の規律は高く兵士は精鋭、行軍速度が速く、長駆敵の予想しないところにあらわれて攻撃し、数倍の敵を打ち破った。
 建武三年、岑彭は、傅俊、臧宮、劉宏らと三万人あまりを率いて秦豊を討伐した。
 まず黄郵を抜いたが、その後、秦豊とその大将蔡宏が拒み、数か月進むことができなかった。
 光武帝が岑彭が前進しないのをとがめると、岑彭はその夜に兵馬を整えて、明日の朝、西に向かい山都を撃つと宣言した。このとき捕虜の警備を緩め逃げ帰られるようにした。捕虜は帰って秦豊に告げたので、秦豊は全軍で西に向かい岑彭を迎え撃とうとした。
 岑彭はひそかに沔水を渡り、秦豊の将軍張楊を阿頭山に撃ちこれを大破、さらに深い渓谷の間を道を切り開いて突破し、まっすぐに秦豊の本拠の黎丘を撃ち、その守備隊を撃ち破った。
 秦豊は大いにおどろき、救援に戻ってきた。岑彭は東山に陣をひいて待ち受けた。秦豊と蔡宏は岑彭を夜襲した。しかし岑彭はあらかじめ備えてあり、兵を出して反撃、秦豊は敗走した。岑彭は追撃し、蔡宏を斬った。
 さらに秦豊の相の趙京が宜城を挙げて降ったので成漢将軍とし、岑彭とともに秦豊を黎丘に包囲した。
 その後、岑彭は秦豊を攻めること三年に及び、首斬ること九万あまり、秦豊の兵はわずかに千人となり、また城中の食料もほとんど尽きた。秦豊が弱くなったので岑彭は朱祐と交代することとなったという。
 首斬ること九万とあるから、秦豊軍は十万以上であったことがわかる。岑彭はわずか三分の一以下の兵力で侵攻して敵を壊滅させたのである。
 建武八年、岑彭は光武帝の親征に従って隗囂と戦った。光武帝が潁川の反乱のため帰還し、さらに公孫述の援軍が死力を尽くして戦ったため、主力の呉漢らは敗戦し、撤退することとなった。
 このとき岑彭は殿として隗囂の追撃を防いだため、全軍が帰還することができた。最後に帰還した岑彭を、民衆たちは肉と酒を用意して歓呼して迎えた。岑彭こそ兵士となった息子たちの命の恩人とみなしたのである。

●長江をさかのぼる
 建武十一年、最後の敵、公孫述との戦いが始まった。岑彭は既に長江流域で公孫述と戦っていたが、公孫述の大規模な水上の要塞の前に、戦いは不利であった。
 そこで岑彭は、この要塞の浮き橋を攻めるため勇士を募った。これに偏将軍魯奇が名乗りを挙げた。東向きの強風の追い風にのり浮き橋に向かったが、途中の杭にひっかかって前進できなくなった。魯奇は決死の覚悟でその場に火を放ったところ、強風にのって火が広がり浮き橋まで届き、ついに浮き橋は焼き崩れた。
 岑彭は勢いに乗って全軍に攻撃命令を出すと、向かうところ立ちはだかる敵はなく、蜀軍は大混乱となり、溺死するもの数千人、守備の大将任満は部下の王政に首をとられ、程汎は生け捕り、田戎は江州まで撤退した。
 岑彭は上書して劉隆を南郡太守として残し、臧宮、劉歆を率いて長躯して江関に入った。軍中で一切の略奪を禁じた。通るところ百姓が肉や酒を奉じてねぎらった。岑彭は、長老たちにただ敵を討つための戦いであることを告げ、そのもてなしを受け取らなかった。
 これを聞くと民衆は大いに喜び、先を争って門を開き降伏した。
 光武帝は詔して、岑彭を益州牧として攻略した郡ではただちに郡太守の事を行わせた。その占領地での人事を一切任せたのである。
 これは注意してよいことである。光武帝の将軍は、その占領地における人事を皇帝にはかることなく決めることが許されていたのである。先に劉隆を南郡太守にしたときも事後連絡であった。
 他の時代の君主でこうしたことを許す者はほとんどいない。もし敢えてそのようなことをする将軍がいれば、それは謀反とみなされるのが常識である。これは君臣の信頼関係の厚さが決定的に違うことを意味している。

●神速の電撃戦
 岑彭は江州につくと、馮駿に田戎を包囲させて残し、自らは勢いに乗じてまっすぐ墊江に向かった。平曲を破り、その米数十万石を奪い、巴郡を平定した。
 公孫述はその将軍の延岑、呂鮪、王元と弟の公孫恢に蜀の全軍を与えて、広漢から資中を守備させた。また将軍侯丹に二万を率いさせて黄石で漢軍を拒ませた。
 岑彭は、多くの偽兵を用いて自分がここにいると敵に思わせて、臧宮に延岑らを拒ませおき、自らは江を下って一度江州に還り、都江を逆上って侯丹を襲撃してこれを大いに破った。さらに昼夜を分かたず二千里あまりを強行軍して武陽を抜いた。精鋭の騎兵を広都に派遣して嵐のように襲撃し、至るところの敵はみな逃げ去った。まさに電撃戦である。
 もともと公孫述は漢軍が平曲にいると聞き、大軍で迎え撃とうとしていた。岑彭が武陽にあらわれ、延岑軍の後方に回り込んだので蜀の地は震え上がった。公孫述は大いに驚き、杖で地を打ち叫んだ。
「これはなんと神技だ」

●刺客に倒れる
 公孫述は岑彭を恐れ、また以前に来歙の暗殺に成功したことから、間人(しのび)を用いて岑彭を暗殺しようとした。
 このとき岑彭は彭亡に陣営をひいていた。この名前を聞いて不吉に思い、陣を移そうとしていたという。その日の暮れに、蜀の刺客は降伏した奴隷になりすまして入り込み、夜なって岑彭は刺し殺された。
 岑彭の非業の死は、味方だけでなく敵にまで悲しまれた。岑彭は蜀での戦いにおいて、掠奪も一切なく、贈られたものすら受け取ろうとしなかったため、民衆の感謝と尊敬を集めていたのである。
 蜀の人は岑彭を憐れみ、武陽に廟を立て季節の祭を行うようになったのである。

●不器用な努力の名将
 岑彭の生涯は、決して順風ではなかった。岑彭が運命の君主である光武帝に仕えるまで、甄阜、厳説、劉縯、朱鮪、韓歆とめまぐるしく主を変えている。今の主のために常に誠実であったため、なかなか劉秀に到達することができなかった。
 蜀の討伐では神と称えられるほどの用兵を見せた岑彭であるが、戦いはやや不器用であり、戦いの緒戦では失敗していることが多い。
 鄧奉との戦いでは敵の数倍の九万の兵力をもってしても破ることができず、むしろ朱祜を生け捕られ、賈復が負傷するなど、さんざんな目に遭っている。光武帝は自ら遠征して鄧奉を倒すが、そのときに先鋒として再起用され敵を打ち破ることに成功している。
 秦豊との戦いでは、なかなか攻撃しないところを光武帝に注意されてから敵を破っているし、その後、敵を捕虜にせず皆殺しにしたことから、秦豊戦から解任されてしまっている。しかし後の蜀討伐では圧倒的な軍紀の高さで、無用な命を一切奪うことがなかった。
 蜀との戦いにおいても、緒戦ではむしろ敗戦が続いて荊州の領土を一部奪われている。その結果、水軍を養成することの重要性を認識し、蜀討伐戦で一気にその実力を発揮したのである。
 どんなに失敗しても、その中から学び取ることで、一歩一歩本物の名将へとステップアップしていったことがわかるのである。
 岑彭は悲劇的な最後を迎えるが、ある意味、不器用な男らしい最後であったと言えるかもしれない。

●略歴(西暦年)
 22年 ─ 棘陽県令として漢軍と戦う。
 23年 ─ 劉縯に投降。大司馬校尉、准陽都尉となる。
 24年 ─ 光武帝に帰参する。
 25年 ─ 廷尉、帰徳侯となる。
 26年 ─ 征南大將軍となる。鄧奉と戦う。
 27年 ─ 鄧奉親征に従う。
 28年 ─ 田戎と戦う。
 29年 ─ 田戎を大破。
 32年 ─ 隴西親征に従う。
 33年 ─ 公孫述と戦う。
 35年 ─ 蜀へ侵攻、荊門を突破、巴蜀を平定。蜀の刺客に殺される。