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耿弇評伝 ― 無敵の貴公子将軍
 耿弇、字は伯昭。3~58。扶風・茂陵の人。建威大将軍となる。
 耿弇は、二十八宿の第四位。二十一歳の初陣から三十一歳で引退するまで、武勇と謀略の硬軟取り合わせた用兵で、すべての戦いに勝ち続けた常勝将軍として知られる。

●父は二千石たる上谷太守
 耿弇の父、耿況は上谷太守である。これは北方守備の地方官であり、文武の権限を持った大きな地位である。
 その兵士には、漢帝国の最も精鋭の軍隊である烏桓突騎が配備され、その部下には、後に蕭何と比較されることとなる冦恂、突騎を率いる名将となる景丹らがいた。
 耿況は、規模は小さいものの、王莽末期における強力な群雄であるといってよい。
 この耿況の長男が耿弇である。
 上谷のような遊牧民と接した辺境の郡では、武が尊ばれる。年末には軍隊の演習としての狩猟が行われ、騎士の訓練や試験が行われていた。進撃の太鼓の中、旗を負った騎士たちが馬を疾走させて騎射を行う──こんな勇壮な場面を見て耿弇は育ったのである。
 こうした環境の中で、耿弇は自然と将軍たることを好むようになったという。まさに天性の将軍であったのである。

●有言実行の人
 光武帝の家臣の中の最年少、そして名門の御曹司というべき耿弇は、それにふさわしく大言壮語してそれをすべて達成していくのであった。
 父・耿況の使者として、耿弇が光武帝と面会したときのこと。
 王郎の勢力が猛威をふるい、寡兵で逃げ回る光武帝の前にあらわれ、
「上谷の兵を率いて邯鄲(王郎の本拠地)を攻略してみせましょう」と述べた。
 光武帝は、この二十一歳の青年を見て、
「小僧どもが大きなことを言いよる」と感心したという。
 耿弇はその後、上谷に戻り、漁陽郡と共同して精鋭の突騎を率いて二十二県を平定し、光武帝の元に帰参し、さらに邯鄲を攻略した。その言葉を実現したのである。
 その後、河北を平定した光武帝は、更始帝から蕭王に立てられると、兵士を解散させて功績を立てた将軍たちと長安へ帰るように命令を受けた。
 耿弇はそれを聞くと、邯鄲宮の温明殿で昼寝している光武帝のもとにかけより、更始帝の無能さを述べ、独立して天下を取るように進言した。むろん、この言葉も現実となる。
 これを寝ながら聞いていた光武帝は、起きあがっていった。
「そなたの言葉、斬らねばならぬ」
「大王は弇(わたくし)を自分の子のように接してくれますので、あえて本心を大王のために述べたのです」
 これを聞いて冗談だと弁解したのであった。
 光武帝は、このようなジョークを挟むことが多い。鄧禹、馬援、王常‥‥‥多くの家臣に心にもないことをいって驚かせたが、そのくせがここでも出たのである。
 建武三年、関中にいた延岑が南陽に進出してきた。延岑は赤眉の大軍を寡兵で大破したことで知られる、世に名高い猛将である。耿弇は延岑と戦い、斬首三千あまり、生け捕りにした兵士は五千あまりという、大勝利を挙げた。延岑は、わずか数騎で遁走することとなり、耿弇の名将ぶりが鳴り響くこととなった。
 さらに光武帝に進言した。
「わたくしに、上谷の残りの兵士を集めさせ、それにより漁陽の彭寵を平定し、涿郡の張豊を取り、軍を返して、冨平と獲索を降伏させ、東に張歩を攻めて、斉全体を平定させてください」
 光武帝は、この「みんな私が平定して見せます」と言わんばかりな意気さかんさを褒めて、許可したのであった。

●韓信を超える用兵
 耿弇の用兵の特徴は、情報操作により敵をミスリードして、こちらの思うように動かしてしまうことにある。そしてここ一番は、自ら精鋭の突騎を率いて急所を襲撃して力戦し、大破するのである。常に敵の半分以下で戦い、そして勝ち続けた。河北、南陽、斉、隴西を転戦、四十六郡を平定し、陥落させた城は三百、彼の行く手を阻むことが出来るものはいなかった。
 建武五年のこと。既に、彭寵、張豊、冨平と獲索は平定されていた。そして最後の張歩を討伐することになった。
 耿弇は、降伏させたばかりの冨平と獲索の兵士四万人を集めて軍を編成し、騎都尉劉歆、泰山太守陳俊を率いて張歩攻略に向かったのである。
 張歩はこれを聞くと、その大将軍費邑を歴下に、また別に兵を分けて祝阿に屯させ、さらに鐘城に数十の陣を列ねて耿弇を待ち受けた。
 張歩は斉王を称する山東の大勢力であり、その総兵力は二十万前後である。それにたいして耿弇の勢力は、劉歆と陳俊を合わせても五、六万程度。しかも新たに編成したばかりであるから、その兵力の劣勢は明白である。だが、この寡兵をもって斉を攻略する自信があった。
 耿弇は河を渡るとまず祝阿を撃った。朝から城を攻め、日中になってこれを抜いた。そのとき包囲の一角を開き、その兵士が鐘城に逃げられるようにした。(情報操作1)。鐘城は、祝阿がすでに潰れたと聞き、大いに恐れ陣を空にして逃げ出した。
 費邑は弟の費敢を遣わして巨里を守らせた。耿弇は兵を進めてまず巨里にせまると、多くの樹木を伐り、これで壁を登り堀を埋めて攻撃すると宣伝した。(情報操作2)
 敵の逃亡兵から費邑が巨里へ救援に向かおうとしていると聞くと、耿弇は軍中に攻め道具を整備するように厳命し、また諸部隊に三日後に全力で巨里城を攻撃すると宣言した。
 また、ひそかに捕虜の警備をゆるめ、逃げ帰れるようにした。(情報操作3)。逃げた兵は耿弇の宣言を費邑に告げた。そのため、費邑はその日に自ら精兵三万あまりを率いて救援にきた。
 耿弇は、三千人を分けて巨里の陣を守らせ、自ら精兵を率いて坂の上の丘に登って待ち受け、高みに乗じて逆落としに攻撃し、これを大破、陣中に突入した耿弇は費邑を斬ったのである。
 費邑の首を巨里城に示すと城中は恐慌を起こし、費敢は全軍を率いて張歩のもとに逃げ帰った。耿弇は残した物資を集め、兵を四方に派遣して残りの敵を撃ち、四十あまりの陣を平らげ、済南を平定した。

 このとき張歩は劇を都にしており、弟の張藍に精兵二万で西安を守らせ、諸郡の太守に一万あまりで臨淄を守らせた。
 耿弇はその二つの城の中間にいた。耿弇は、西安城は小さいが堅く張藍の兵士も精鋭であるのに対し、臨淄は有名で大きい城だが実際は攻めやすいと分析した。諸部隊を集合させ、五日後に西安を攻めると宣言した。(情報操作4)
 張藍はこれを聞くと昼も夜も厳しく警戒して守った。
 夜半になると、耿弇は諸将に命じて夜中に食事させ、明くる朝に臨淄に到着、これを攻め半日で臨淄城を占拠した。張藍はこれを知ると恐れて、その兵を率いて劇へと逃げ帰った。
 耿弇は軍中に次のように命じた。劇の下ではみだらに略奪をさせないが、それは、張歩がやってくるのを待ってただ張歩だけを取るのだと。張歩を挑発したのである。(情報操作5)
 張歩は豪傑として知られ、かつて少数の兵で、尤来や大肜の十万を越える大軍を打ち破ったことがあり、用兵に自信をもっていた。そのため、耿弇など兵士も少なく疲労しており恐るるに足りずと考え、兵を集めて出撃したのである。
 張歩は、三人の弟、藍、弘、寿ともと大肜の渠帥重異らの兵士、号して二十万を、臨淄の東に進め、耿弇を攻めようとした。
 耿弇はこのとき、光武帝にこう連絡している。
「旬日(十日)には張歩の首を取って見せます」
 恐るべき自信である。そしてその言葉もまた実現するのである。
 耿弇がまず重異の軍と遭遇した。すると耿弇は退却して、城の近くまで敵を引き寄せた。
 張歩は勢いにのって全軍で追撃し、劉歆らと合戦となった。
 耿弇は王宮の壊れた台から合戦の様子を観察していた。劉歆らの戦いぶりを確認すると、自ら精兵を率いて張歩の陣の横に突撃した。
 この激戦の中、矢が耿弇の股にあたったが、佩刀で切り取ったので、左右にも知るものがなかった。戦いは日暮れに終わった。
 このとき、光武帝は魯にいて耿弇の救援に向かおうとしているところであった。
 耿弇は明くる朝ふたたび兵をそろえて出撃しようとすると、陳俊が耿弇に兵士を休ませて、光武帝が来るのを待つようにいったが、
「乗輿(天子の車)がもうすぐ来るのなら、臣らは牛をつぶし酒を用意して百官を待たねばならなぬ。かえって賊を君父のために残してよいものか!」
 といって、耿弇は戦いを続けることにした。
 戦いは朝から暮れまで続く激戦となり、ついに敵を大破、殺傷した人数は数えきれず、城中の堀や溝は死体でうずまった。張歩は退却しようとしたが、耿弇はあらかじめその左右に伏兵を置きこれを待ち受けていた。計算通りの時刻に張歩はあらわれ、伏兵が起きて追撃すると、百里近くも倒れた屍があい続き、輜重二千両あまりを捕獲した。
 これにより、ついに張歩は劇に逃げ還ったのである。
 数日すると、光武帝が臨淄につき、軍をねぎらい宴会となった。
 光武帝はその戦いぶりを聞いて、その功績は韓信以上と絶賛した。また、耿弇が以前に斉の平定を進言したこと、それを本気にしていなかったことを述べ、志があれば事は成るものだと感心したのである。
 この光武帝の言葉は、
「有志竟成(やる気さえあれば事はいつか成就するもの:中国版 Boys,be ambitious である)」
 の故事となった。すべてを宣言して、そして実現していく耿弇にふさわしい言葉である。

●晩年の謎
 斉攻略でその名将ぶりを発揮した耿弇であるが、その後、功績はほとんどない。
 特に注目すべきは隴西遠征で、参加していながら何のエピソードも残していない。ただ名前を連ねているだけなのである。もちろん敗戦したこともないから、ただ兵を損じないようにだけ戦ったということである。
 この転換ぶりは謎である。知勇を奮って敵を倒すためあらゆる手段を駆使した耿弇が、逆に部下の兵士を一人でも傷つけないように守り戦うようになったのである。
 まるで血を見るのが嫌になったかのようである。耿弇の心にいったい何があったのか、なぜ戦いを回避するようになったのか?
 時に耿弇はまだ二十八歳、決して老け込むような年ではない。

●耿弇は道家か?
 耿弇は若くして学問を好み、父の学業を受け継いだとある。父・耿況の学業とは何だったのか?
 耿況は、安丘望之に老子を学んだという。安丘望之は、老子の徒であり、民間において医師として暮らしていたという。耿弇もまた、医学の知識のある老荘の徒──道家であったと考えられる。
 もしかすると、耿弇は厭戦思想を持っていたのかもしれない。そもそも隗囂討伐そのものに反対であったのかもしれない。
 隗囂や公孫述は、漢に敵対する勢力ではあるが、内に悪政をひいたわけではなく、外には積極的に漢に攻勢をとったわけでもない。ただ独立勢力たることを望んでいただけなのである。君主としての人望や統治手腕は、決して低いものではなかった。
 善を勧め悪を討つという観点からは、討伐すべき理由がない。漢の正統性のみが討伐理由なのである。だが、そんなものは一般民衆や兵士たちにとってはかかわりのないことである。
 隗囂と公孫述の国力は、二つ合わせたところで、光武帝の後漢の五分の一もない。にもかかわらず、この討伐戦は苦戦を強いられることとなった。これも彼らの人望が低くなかったことを示している。
 道家思想は、小社会をよしとしており、帝王というものの価値を認めていない。耿弇が道家であるなら、帝王の正統性については重んじることがないだろう。
 そのため隗囂討伐について反対であり、その無為の用兵は、無言の抗議であったのかもしれぬ。
 またずっと後、馬援の武陵五渓蛮討伐のとき、そこに参加していた弟から送られた馬援をそしる手紙を光武帝に見せている。これは事実上、五渓蛮討伐を取りやめさせる行為であるから、耿弇の厭戦思想のあらわれと見ることもできる。

●無数の命を奪う道から一個の命を救う道へ
 天下統一後、功臣を諸侯に封じると、耿弇も増封されたが、そのときに大将軍の印綬を返上した。これ以降は、首都にいて相談を受ける顧問格となった。光武帝は、何か事件があるたび、策略を請うたという。
 光武帝の家臣のうち鄧禹、賈復、李通、耿弇の四人は、天下統一後、官を返上して顧問格となり、陰で光武帝を支えたのである。また四人は学術研究も行ったようである。鄧禹はおそらく儒教一般であり、賈復は易、李通は讖(予言書)であろうか。
 では耿弇は何をしたのか?
 漢代の武威医簡には、建威耿将軍の文字があり、それは建威大将軍すなわち耿弇のことであるという。そこには、耿弇の処方箋が記録されている。
 耿弇は晩年、父の業であった医学の道を歩んだのかもしれない。
 また後漢には、災害時に医薬を携えた医師団が無料で民間に派遣される制度があるが、この成立に耿弇が関係したのではないか、といった推定も可能であると思う。
 
●武威医簡の処方
 武威醫簡‧引書‧脈書: 86: t醫.84乙 □〈蘇〉□□□□□陰有病如此名為少傷何巳□□□尚□」伏下已汻□孫□内傷」其坐〈則〉〈應〉中見□□□驚□□酒大樂久坐不起□便不」有病如此終古毋子治之方活樓根十分天雄五分牛膝四分續斷四分□□五分」昌蒲二分凡六物皆并冶合和以方寸匕一為後飯久病者日平復百日毋疾」〈苦〉建威耿將軍方良禁千金不傳也
 
●略歴(西暦年と数え年齢)
  3年(1歳)─ 生まれる。
 23年(21歳)─ 更始帝への使者となるも果たせず、光武帝と面会。
 24年(22歳)─ 突騎を率いて22県を平定、偏将軍となる。大将軍となり河北を転戦。
 25年(23歳)─ 建威大将軍となり厭新を平定。
 26年(24歳)─ 好畤侯となる。
 27年(25歳)─ 延岑と戦い大破。
 29年(27歳)─ 斉の張歩を平定。
 30年(28歳)─ 隴西の隗囂と戦う。
 32年(30歳)─ 隗囂への遠征に従う。
 33年(31歳)─ 中郎将来歙と安定、北地を平定。
 37年(35歳)─ 大将軍を返上し、列侯として顧問格となる。
 58年(56歳)─ 没す。