↑二十八将評伝↑
賈復評伝 ― 以心伝心の猛将
 賈復、字は君文。?~55。南陽・冠軍の人。執金吾、左将軍を歴任。
 賈復は、二十八宿の三位。驍勇無双の豪傑だが、学問もある。自らを一番であると自負して同僚にまったく譲らぬところなど、三国志の関羽を思わせる人物である。

●その容貌は?
 賈復は若いころ、李という先生に『尚書』を学んだ。李先生は賈復にこういっている。
「賈君の容貌や志気がこれほどであるからには、さらに学に勤めれば、将軍宰相の器であろう」
 容貌、志、気を褒めているわけである。おそらく、見た目にも虎か熊のようないかつい大男であり、大言壮語してはばかることがなかったのであろう。
 また、生徒である賈復を「賈君」と呼ぶあたりに、賈復を怖がっている様子がうかがえる。もしも孔子の弟子の子路が、気の弱い先生に学んだならこのようにいわれたかもしれない。
 後に、光武帝に仕官したときのこと。
 光武帝は賈復の馬が痩せているのを見て、自分の馬車の馬を与えたことがある。やはり体格が優れていたのであろう。
 また賈復を「千里に響き渡るほどの威がある」と評した。これも、その威風が想像される言葉である。

●一番あるのみ
 賈復は、後から加入したにもかかわらず、同僚たちに対して遠慮というものがなかった。
 光武帝に仕官して、破虜将軍の督となっていたときのこと。
 大司馬の督である段孝の横に座ろうとしたところ、
「そなたは将軍督、私は大司馬督。地位が違う。席を共にすることはできぬ!」
 そう言って段孝は賈復を追い払おうとした。すると、
「ともに劉公の官吏である。地位の上下などあるものか」
 こういって、強引に同席しようとしたのである。ちなみに光武帝は破虜将軍として大司馬のことを行っていたので、確かにどちらも光武帝の官吏であることには違いないのではあるが。
 賈復は他人に見下されることが我慢ならないようである。
 賈復の部将が潁川郡で殺人を犯したことがあった。その郡の太守である寇恂は、すぐに捕まえて市場で処刑した。
 賈復はこれを恥として怒りをあらわにしていった。
「わしと寇恂は同じく将軍であるのに、今やつに陥れられた。大丈夫たるもの怨みを懐いたまま勝負をつけずにおれようか!今やつを見たなら、必ずやこの手で斬り捨ててくれる!」
 これは明らかに逆恨みである。しかし、同時は法律が施行されたばかりで、兵士達の悪行は見逃されることが多かったから、賈復は自分が侮れていると感じたのである。
 この事件は、ついには寇恂が光武帝を呼んで取りなしを頼むこととなった。光武帝は賈復、寇恂と語り合った結果、以後、二人は親友となったという。
 もちろん、賈復は戦場においても同僚を押しのけて一番を目指した。
 更始帝の残党が多くいて激しく抵抗していたとき、光武帝は家臣にこう呼びかけた。
「郾の敵は最も手強く、宛の敵はそれに次ぐ。誰かこれを撃つものはいるか!」
「臣に郾を撃たせてくださるように!」
 打てば響くように、賈復が真っ先に名乗りを上げた。もちろん、一番強い敵こそ賈復が戦うべきなのであった。

●前進あるのみ
 賈復は、戦場において何度も敵陣を突破し包囲を破り、その身体には十二の刀傷があった。死力を尽くして戦い、死してのち止む、これが彼の信条である。
 若い頃、県の役人となったとき、河東郡へ塩を受け取りに行った。他の役人は盗賊に襲われて塩を手放して逃げ出したが、賈復のみは塩を死守して帰ってきたことがあった。彼は逃げるという言葉を知らないのである。
 河内郡の射犬で、青犢軍と戦っていたときのこと。
 激しい戦いが続き、それは昼に至ったが、敵は強く撃退することができなかった。光武帝は、賈復を呼んで言った。
「兵士たちもお腹がすいているだろう。しばらく休ませて朝飯にしよう」
 昼になっているのにまだ食事もしていなかったのである。
 これに対して賈復は、
「まずこれを破り、それから食べましょう」
 そういうと、自らの旗を背負い、先頭に立って敵に突撃、手向かうものを次々となぎ倒し、敵はついに敗走したのである。これには他の将軍たちも驚き、その武勇に感服したのであった。いわゆる「朝飯前」の語源である。
 さらに眞定で五校と戦いこれを大破したが、そのとき賈復はたいへんな傷を負ってしまった。
 光武帝は、驚いて言った。
「私が賈復を別働隊の将軍として派遣しなかったわけは敵を軽んじるからであった。はたして私は名将を失ってしまった。聞くところ彼の妻は妊娠しているという。もし娘が生まれたなら我が子に娶らせよう、息子が生まれたなら我が娘を嫁がせよう。妻子の心配はしなくてよいぞ」
 このセリフ、どう見ても別れの言葉である。あまりに傷がひどくもはや賈復は虫の息で、死んでしまうと思ったのであろう。
 重体の賈復は、その場に安置され、光武帝はさらに北へと進撃した。賈復はその後、傷も癒えたので光武帝を追いかけ、薊で再会した。もう死んでしまっていたと思っていた賈復が元気にあらわれたので、光武帝は非常に喜び、大宴会を催した。
 この賈復が休養中、先陣に立って勇猛さを見せていたのが馬武であったが、賈復が復帰するとやはり先陣は賈復となった。賈復は一番でなければならないのである。
 賈復はこのような命知らずの戦いぶりにもかかわらず、いまだかつて敵に敗れたことがなかったという。否、もし敗れることがあればそれは賈復の死を意味したのであろう。賈復には敵に背を見せることはあり得ないのである。
 歴史上、不敗の名将と呼ばれる人たちがいる。しかし、賈復の場合は、不敗の猛将とでも表現する以外にないところである。

●恐るべき生命力の男
 賈復の驚くべきなのは、その肉体的な快復力である。
 眞定で五校と戦って、瀕死の重傷を負ったのが、建武元年の始めの頃。その後、五月には劉秀軍に合流して、七月には洛陽攻めで先鋒となり攻撃している。回復までおよそ半年である。
 建武二年の秋には鄧奉と戦って重傷を負っている。しかし翌年の四月、鄧奉への戦いには復帰して劉秀とともに敵に突入している。こちらも回復までおよそ半年。
 死ぬほどの重傷も半年あれば全快してしまうのが賈復である。
 これほど命知らずで負傷が多ければ、早死にするのが常識である。
 ところが賈復の没年は劉秀より一年早いだけの西暦55年である。賈復は、その経歴や劉秀の賈復に対する尊称から、同世代ではなく五~十歳は年上と考えられることから、没年は七十歳前後とわかる。
 賈復は全身傷だらけで、大きな刀傷だけで十二もあった。さらに二度の瀕死の重傷を受けてなお当時は極めてまれな年齢である七十歳にまで到達した賈復、その生命力は驚くべきものがある。

●君は臣の心を知り、臣もまた君の心を知る
 古代、論功の席では、当の将軍たちも参加して自らの功績を述べ、その発言の内容により地位や報償が決定された。ところが、この場において賈復は何も発言することはなかったという。
 しかし、これは不思議なことである。何においても一番でなければ我慢のならぬ賈復が何故に功績を主張しないのであろう。
 それに光武帝は答えていった。
「賈君の功績は、わたしがすべて自ら見ている。何を述べる必要があろうか」
 賈復の戦いぶりはあまりに激しく、敵に突入して深入りし危険をかえりみない。光武帝は、賈復を心配して将軍として遠くに派遣することはせず、自分の身辺でのみ戦わせるようにしていたのである。
 ここには光武帝が賈復を思いやるようすがよくわかる。
 そして、賈復もまた光武帝の心を知っていた。
 天下が統一されると、賈復は兵力を削減することにした。そして、儒学を重んじ、特に『易経』を研究した。光武帝がもはや戦いを好まないことを知っていたからである。
 光武帝は、賈復の意志を知ると左右の将軍職を廃した。すなわち、左将軍賈復と右将軍鄧禹を解任したわけである。
 論功の席と同様に、二人は決して言葉にして相談することはなかったが、それで意志は通じていたのである。光武帝と賈復は、ともに剣をとり馬を並べ死地をくぐり抜けた戦友であった。彼らには言葉は必要なかったのである。
 他の時代の功臣たちと何とも違っている。他の時代の功臣たちは、戦い終わってもなお戦いを求め、より高い官位を求める。だが、武人である功臣は平和な時代には有能ではなく、その地位をまっとうできない。そして、望み敗れると敵を内に求めて戦い、ついには失脚し、失意の中の死が待ち受ける。
 だが、光武帝の家臣は違っていたのである。
 光武帝は、遠国の使者が来て珍味などあれば、まず功臣を集めて宴会をした。光武帝は何をおいても功臣とのコミュニケーションを大切にした。決して昔のことを忘れることがなかったのである。そのため、鄧禹も賈復も、ただ帝王の親友であることに満足することができた。
 光武帝は、朕という自己の地位を示す自称を詔を除くとほとんど使わない。功臣にたいして朕と自称したのは、賈復と冦恂を仲直りさせようとしたときが唯一である。地位をもって家臣にのぞむ必要などないからである。
 帝王とは孤独であるという。悪逆な皇帝なら自らの地位に溺れて楽しむものがあるかもしれない。しかし、世に知られた名君はみなその孤独を嘆き、その地位の重さに耐えきれず命を縮めることもあった。北宋を建国した趙匡胤は、いろいろな面で光武帝に似た英雄ではあったが、その重みと苦しさを嘆くことしばしばであった。
 しかし光武帝は違っていたようだ。
 かつて朝から晩まではたらいていたので、皇太子に健康のために休むように言われると、
「私はこれを楽しんでやっているのだ、疲れたりはしないぞ」といった。
 これは論語にある、
「良く知っているというのは、それを好きでやっているというほどのことではない。好きでやっているというのは、それを楽しんでやっているというほどのことではない」
 を受けたものであろう。聖人の最上級なみということで、不敵な精神を持つ光武帝らしいセリフである。
 光武帝が、このような言葉を出すことができたのも、鄧禹や賈復のような親友とともにおり、帝王の孤独を味わうことがなかったためなのである。

●略歴(西暦年)
 22年 ─ 数百人を集めて羽山にて将軍を名乗り挙兵。
 23年 ─ 漢中王劉嘉の校尉となる。
 24年 ─ 河北の光武帝のもとに赴き、督盗賊、偏将軍、都護将軍を歴任。
 25年 ─ 執金吾となる。
 26年 ─ 河南を転戦する。
 27年 ─ 左将軍となる。赤眉を平定。
 37年 ─ 膠東侯となる。兵士を解散し、左将軍を解任。
 55年 ─ 没す。