↑二十八将評伝↑
呉漢評伝 ― 剛直の死神
 呉漢、字は子顔。?~44。南陽・宛の人。大将軍、大司馬を歴任。
 呉漢は、二十八宿の第二位。烏桓突騎を率いて二十年あまり、その生涯を将軍として、河北、河南、匈奴、隴西、蜀に戦い、軍功一番の猛将として知られる。建国とともに大司馬となり、その死に至るまで後漢王朝の不動のナンバー2の権力者として皇帝の絶対の信頼を受けていた。

●南陽の漢なる壮士、亭長となる
 呉漢(二十八星宿の二位)は字を子顔、南陽宛の人である。血縁に有力者もなく、口下手で、容貌も醜くあまり才能がありそうにも見えなかった。しかし努力家であり学問に励み、文字を覚えて役人になる資格を得たが、貧であったために亭長になったと記録される。
 この時代、文書を扱う役人になるには文字をたくさん知っていることが条件であり、資格試験を受けて合格する必要があった。さらにもう一つ財産による制限があった。資産が四千銭以上なくては役人とはなれず、また役人として在任中も資産が四千銭を切ってしまうと失職してしまうのである。役人として仕事に使う車馬や服装は自分で用意しなければならないからである。そのため資産が四千銭ない者を貧と呼ぶのである。
 その資産制限の例外の役職が亭長という仕事である。亭長とは警察の末端の役人であり、とても危険な職業として忌避されて志望者が少ないため、財産制限がなかったのである。それで呉漢は亭長となったのである。
 かつて、沛の劉邦は亭長となり、ついに漢帝国を建国し高祖となった。この“漢”なる壮士もまた、高祖のことに思いめぐらしたに違いない。しかし、呉漢の賓客──亭長を取り巻くゴロツキが犯罪を犯したため、郷里を棄てて河北へ逃亡することになってしまった。そこで呉漢は、遊侠の徒と交わり、馬を売り歩いて生活していた。
 河北へと劉秀がやってくると、その援護に最も力を尽くしたのが呉漢であった。彼と光武帝劉秀とは、対照的な存在であった。劉秀の優れた容貌、さわやかな弁舌、良い血筋、悠々たる貴族ぶり。これらはすべて呉漢にないものであった。彼の劉秀への思慕は、貴族・英雄崇拝的なものであったのだろう。
 呉漢は鄧禹の推挙により重臣に取り立てられると、一身をすべて捧げて劉秀のために力を尽くしたのであった。
 
●剛毅にして、世に恐れるものなし
 呉漢は意志が強く、光武帝とともに遠征すると、光武帝が休養していないときは、決して休養しなかった。他の将軍は、戦いが不利になると動揺して平常心を失うことがあったが、呉漢はますます元気になり、攻め道具を整え兵士を指揮するのであった。
 こうした呉漢の剛毅さ、鉄面皮ぶりは、謝躬を捕まえたときのエピソードによく表れている。
 謝躬は、更始帝から派遣された人物で、いうなれば光武帝の同僚として河北でともに戦っていた。ところが、光武帝は更始帝から独立するため、謝躬を襲撃してその軍を奪うことにした。計略はうまく当たり、謝躬を捕らえることができた。
 そのとき、平伏して命乞いする謝躬を見て、岑彭らは躊躇して殺さずにいた。少し前までは味方で、だましたのはこちら側であったから、心情的にもやりにくいものがあったわけである。
 しかし、呉漢はそれを見ると、
「どうして幽霊と話などするのか!」
 こう一喝して、その手で彼を撃ち殺したのである。

●恐怖を呼ぶ戦場
 呉漢はその性格にふさわしく将軍として各地を転戦する。戟をとって騎兵を率いて戦い、その倒した敵は数え切れぬほどである。
 ある平和なとき、光武帝が大司馬の呉漢は何をしているか問うと、
「大司馬は武器を整備しております」
 とのこと。根っからの武人であり、軍事マニアというべきであろう。そのため、詔があると、その日の夕方には出陣することができたという。
 問題は、その戦いぶりである。かつて南陽を攻略したとき、軍が掠奪を行って問題となり、鄧奉の反乱を招いた。また、蜀を平定したときも成都で掠奪を行い、後の史歆の乱の原因を作ったと言われる。
 実際には、合戦の後の掠奪は常識であり、呉漢の軍も普通であったということであるが、光武帝の軍は規律が高く、掠奪をしないしさせない将軍が多いために目立つこととなる。
 なぜ、呉漢の軍は暴虐な面をもっていたのか?
 それは呉漢軍の中核が騎兵、しかも烏桓突騎であることと関係するだろう。呉漢軍の主力は、遊牧民なのである。遊牧民は、勝った方が負けた方をすべて自分のものとしてしまう。彼らは掠奪するために戦うのである。
 また、兵士として強いものには、盗賊あがりのならず者が多い。天下を取るのに、彼らを使わずに避けるわけにもいかない。光武帝の諸将に規律高いものが多いことは、こうしたならず者たちを呉漢に集中させたという面もあると考えられる。
 こうした荒武者の集団を率いた呉漢は、ここ一番の激戦において華々しく活躍することとなる。

●将来に禍根を残すなかれ
 呉漢は、常に敵にとどめを刺す。彼は敵を根絶やしにしてしまうのである。
 苗曾を奇襲して斬り捨て、謝躬をその手で殺し、董憲を襲撃して殺し、公孫述や延岑を家族もろとも皆殺しにした。
 この中に恐るべきエピソードがある。かつて赤眉軍の名将として能力と人望を兼ねた董憲が、呉漢に降伏しようと間道を進んでいた。呉漢はこれを察知すると、降伏を受け入れるのを避けるために、道中に襲撃して殺してしまったのである。
 また、同僚の将軍である朱祐が秦豊と戦い降伏させたとき、朱祐が降伏を受け入れたのは詔に反しており、将師の任務に違えていると弾劾した。敵は殺す以外にないと考えていたのである。
 呉漢は、その死に際しての遺言もまた、
「陛下、赦はおひかえください」
 であった。赦は、囚人を無罪放免することであるから、本来良いことではない。悪人に恩を与えるなどもってのほか。悪は根絶やしにしなければならないと考えていたのである。

●知将・呉漢
 史書に記録されるエピソードというのは、テーマがあるからこそ伝わり、生き残るものである。伝えたいテーマのないエピソードは、伝聞されず消滅してしまう。その人物がいかに武勇優れるか、知略優れるか、あるいは残酷であるかなど、エピソードには話者が話したくなるような主題が貫かれているのである。
 呉漢について、そのエピソードを整理分類してみよう。予想されるのは武勇に関するエピソードが大半を占めるだろうということである。ところが、一番多いのは意外なことに知略を示す、敵をだますエピソードなのである。

 1.彭寵を、偽の手紙を作って劉秀に帰順させた。
 2.苗曾に、備えがないと思わせおびき出して斬り、その軍を奪った。
 3.謝躬を倒すため、陳康を内応させた。
 4.鬲県が長官を追い出して反乱したとき、攻めずに長官を捕まえて城を降伏させた。
 5.公孫述の将軍、謝豊と袁吉に包囲されたとき、偽勢を張って抜け出して襲撃した。

 すなわち、呉漢は後漢建国期の将軍の中、一、二を争う知将なのである。呉漢の質朴な外見と弁舌能力の欠如にだまされてはいけない。鄧禹もまた、彼を勇鷲にして智謀ありと評していた。彼に失敗が多いのは、彼がどんな苦しい状況も避けようとしないためと考えるべきなのである。
 呉漢は、光武帝の命令のまま動き、戦いあればただ死力を尽くし、避けることがなかった。しかし、ただ戦いを好むというわけではない。呉漢は一度として自ら討伐のことを進言したことはなかった。このあたり、馬武、臧宮、耿弇らとは違うのである。戦うか戦わないかは皇帝が決めることであり、自分の任務ではないとしていたのである。

●劉秀に対する絶対の信頼
 呉漢と劉秀の信頼関係は、通常の常識を越えたものであった。
 劉秀の生涯唯一の敗戦である順水の戦いは、実は先鋒の呉漢が深入りしすぎたための敗戦であった。このとき劉秀は呉漢を自ら救出に出陣し、呉漢に先に帰って敗軍をまとめるように指示した。ところが敵の勢いが凄く、劉秀をもってしても止めることができなかったのである。
 このとき呉漢は帰陣したが、耿弇、馬武らは劉秀の指示に逆らい戦場に残っている。常識的に考えれば、耿弇、馬武の行動こそが忠義である。君主を最前線に残して逃げる家臣など忠義とは言えまい。
 さらにその後の呉漢の行動が凄い。
 最前線に君主たる劉秀が残りいつまでも帰ってこないため、兵士のなかで劉秀は既に戦死したのだという噂が広まり、逃げ散りそうになった。このとき呉漢は、
蕭王(劉秀)の兄の子が南陽にいるから連れてくればよい。主がなくなる心配はないぞ!
 と、宣言して、この動揺を収め、無事に軍をまとめたのである。劉秀が死んでも関係ないと宣言したのであるから、ほとんど謀反といってもよい暴言である。しかもそもそもこの敗戦の原因は呉漢なのである。まともな神経の人間にはこんな発言はできないだろう。しかしこの発言は、二人の関係に何ら影響しなかったのである。
 また建武十七年(西暦41年)、劉秀が病気で倒れ、首から下が麻痺し身動きができなくなったことがあった。このとき、劉秀は何を思ったか、南陽へ行くと言い出し、俺を車に乗せて南陽へ運べという。
 もちろんこの重病の皇帝を見て、皇帝の体を動かそうする人間はいなかった。医師はみな動かせば死んでしまうかもしれないと震え上がった。ところがこのとき大司馬呉漢は、ちゅうちょなく劉秀を抱えて車に運び南陽に向かったのである。
 もし劉秀がこのために死ねば、呉漢は皇帝殺人犯になってしまうという実に恐ろしい状況であったが、呉漢は全く一顧だにしかなったのである。
 これでわかるのは、呉漢は劉秀のことを文字通り完璧に信頼しており、それがどんなに恐ろしいことでも、劉秀の言葉に誤りなど有り得ないと信じていたということである。すなわち劉秀の考えは自分の理解を超えており、どんなに間違って見えても正しいと確信していたのだ。
 劉秀がかつて彭寵遠征に出陣したのに、すぐに帰還したことがあった。このとき誰にも理由が理解できなかったが、呉漢は、
陛下は兵法を知り尽くしている。帰るには必ずわけがある
 と述べている。理由がわからなくても劉秀の言葉は絶対だというのである。呉漢にとって劉秀は神に等しいほどの存在であったとわかる。

●国と君のため、子孫すらかえりみず
 光武帝は、呉漢を評して言った。
「将軍はいつも私を力づけてくれる。彼の勇気はまねをすることができるが、その忠義をまねることはできない」(『金楼子』巻四・立言篇)
 呉漢の伝記を彩る武勇や知略のエピソードを押しのけ、忠義こそがすごいというのである。
 しかし呉漢には、忠義を示すエピソードがない。孫権を守った周泰、曹操を守った許褚、劉邦を守った樊噲のように命がけで光武帝を守ったことはない。あるいは諸葛孔明の出師の表のようなエピソードもないのである。
 いったい呉漢の何が忠義であったのであろうか?
 呉漢はその生涯を将軍として戦い続け、非常にたくさんの人を殺してきた。それは戦国の名将・白起を思わせるほどの殺戮ぶりである。
 しかし、白起は終わりをまっとうしなかった。白起のように、殺すことが多いものは、必ずやその報いを受けると考えられていた。そのため、知恵のあるものは自己の保身のためにも、過剰な殺戮を嫌うのである。
 それは家族と子孫にも関係する。戦争は不祥であり、人を多く殺す者の子孫は繁栄しないとも考えられていたからだ。
 武は戈を止めると書くという。これは、本当の字の成り立ちではないが、春秋時代の楚の荘王の名言として知られている。この言葉を実行したとして賞賛されるのが、鄧禹や耿弇である。
 鄧禹や耿弇は、その晩年の半生を戦場から遠ざかった。鄧禹は二十七歳、耿弇は三十一歳で戦場を去っている。そのため、その子孫はますます繁栄したと考えられているのである。
 しかし、呉漢は殺戮を避けることなく、命があれば直ちに戦場へ向かっていった。そしてその格言の通り、彼の子孫は決して繁栄することがなかった。鄧禹、耿弇との違いは明確である。
 子孫と血脈──古代の封建的な中国において最も価値があり、君命を辞しても守るべきもの──これすら、呉漢には考慮するに値しなかった。
 妻子が田畑を買い集めると、叱りつけてそれを親戚に分配してしまった。自宅も古くなった部分を修復するだけで、新しく建てようとしなかった。呉漢はもともと貧しい家の出身であったため、血縁を重視しなかったのかもしれない。
 彼の行動はすべて計算ではなかっただろうか? 光武帝が反対するからこそ戦い、敵を殺すのである。もし賛成したなら、殺さずに反対したかもしれない。光武帝が戦いにおける殺戮に反対している以上、すべての怨みは呉漢に集中する。それを呉漢は望んだのであろう。
 これは社会心理学でいう「善玉・悪玉」の技法である。光武帝の寛容さは、呉漢の過酷さがあってこそ際立つのである。
 民衆に恨まれた呉漢は、その大きな功績にもかかわらず光武帝をおびやかすような名声を得ることがなく、疑惑が生まれることもなかった。その死に至るまで、将軍として生涯現役として戦い続けたのである。
 呉漢にとっては天下の安定と光武帝こそがすべてだったのである。
 呉漢の死後、役人が決めた謚は「武」であった。しかし、呉漢の心をよく理解していた光武帝は、よりふさわしい謚「忠」をおくった。
 士は己を知るもののために死すという。自分を知るもののためすべてをなげうった呉漢、彼こそは真の士であるといえよう。

●略歴(西暦年)
 23年 ─ 賓客が罪を犯し、彭寵とともに漁陽へ亡命。
 24年 ─ 彭寵を説得し、漁陽を劉秀に帰参させる。大将軍となり苗曾、謝躬を斬る。
 25年 ─ 大司馬となる。常に先鋒として戦う。
 26年 ─ 檀郷、西山、銅馬残党、五楼を平定。広平侯に封じられる。南陽の諸城を攻略。
 27年 ─ 青犢、蘇茂、劉永を平定。
 28年 ─ 五校、長直、五里を平定。
 29年 ─ 富平、獲索を平定。
 30年 ─ 董憲を滅ぼす。
 32年 ─ 隴西の隗囂と戦い敗北。
 34年 ─ 蜀の公孫述を攻撃する。
 35年 ─ 成都を陥落させ公孫述を滅ぼす。
 39年 ─ 匈奴国境の住民を内地へ護送。
 42年 ─ 史歆の乱を平定。
 44年 ─ 没す。葬儀は霍光と同じくす。