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郭聖通と陰麗華・二つの愛の行方
 劉秀の行動の疑問点として挙がるものに、建武十七年(西暦41年)の皇后の廃位がある。皇后郭聖通を廃して陰麗華にかえたことである。
 そもそも陰麗華と劉秀が結婚するのは、陰麗華十九歳のとき。しかし最初の子どもができるのが二十四歳のとき、皇后になるのは三十七歳のときというのも不思議なことだ。
 劉秀をめぐるこの二人の女性は謎が多い。『漢宮二十八朝演義』では、陰麗華は悪女として哀れな郭聖通を追い落とすことになっているし、陳舜臣の『小説十八史略』では、したたかで賢い女陰麗華が、嫌々に劉秀が妻とした名門の生まれで横柄な郭聖通を、追い落とすことになっている。
 あるいは研究書でも判断は異なっている。安作璋は『汉光武帝大传』で南陽豪族勢力による追い落としと見ているし、黄留珠は『刘秀传』で河北豪族勢力を劉秀が嫌ったためとし、臧嵘は『东汉光武帝刘秀大传』で純粋な男女関係の問題としている。
 皇后の交代を常識で考えれば、皇帝の色好みの問題か、女たちの権力争いとしか考えられない。実際、他の時代の英雄たちの皇后の交代は生きるか死ぬかの戦いである
 しかし、これは劉秀の場合にも当てはまるのだろうか。
 
陰麗華の出身と貴人への道
 陰麗華は劉秀と同郷の大富豪の娘である。遠縁の親戚にあたり、ある程度面識があった。既に述べたように許嫁であったようである。
 結婚するのは更始元年(西暦23年)十九歳のときであり、平均初婚年齢が十六歳であった同時としてはやや遅い。おそらく陰麗華は十歳年上でそれほど豊かでもない劉秀との結婚に乗り気ではなかったのではないかと思われる。
 その後、劉秀は洛陽に行くとすぐに陰麗華を郷里に帰している。さらに劉秀が河北に行くと陰麗華はそのまま郷里に残り、事実上の人質となる。
 劉秀は河北で郭聖通を夫人として容れる。身の危険な陰麗華だったが、陰氏の親戚に当たる鄧奉が挙兵し、陰麗華の兄陰識がその武将となってそのまま家族を率いて鄧奉の傘下に入り、鄧奉が陰麗華を庇護することになる。
 劉秀が皇帝となり洛陽を陥落させて南に道が開けると、すぐに陰麗華を呼び二人は再会する。建武元年(西暦25年)十月のことである。このとき郭聖通と陰麗華は共に貴人となる。劉秀は陰麗華を皇后としようとするのだが、陰麗華が自分には子どもがいないからという理由で拒絶する。
 建武二年(西暦26年)六月、郭聖通が皇后に決まる。二人が再会して皇后が決まるまで半年以上も後であるのは、劉秀はこの半年ずっと陰麗華を皇后にしようと説得していたのについに果たせなかったということである。
 建武四年(西暦28年)五月、陰麗華に最初の子ども劉陽(後の明帝)ができる。場所は洛陽の宮殿ではなく、劉秀の彭寵討伐に従軍して元氏で出産したのである。人間の妊娠期間は280日であるから、受胎したのは建武三年(西暦27年)七月もしくは八月。再会してから二年近くかかっている。陰麗華は男女八人前後の子どもを生むことからこの遅さはやや不自然である。
 陰麗華の長男ができるまでに郭聖通には次男が、さらに許美人(美人とは地位の名称)という女性との間も男児が生まれている。
 こうしたことから考えると、この頃の陰麗華は劉秀を拒絶していたのではないかと考えられる。
 
陰麗華の拒絶と怒り
 もともと大豪族の令嬢たる陰麗華、しかも幼い頃からの知り合いである。裕福ではない劉秀との力関係は、明らかに陰麗華が劉秀より上である。「妻を娶らば陰麗華」と言われて、そんなに言うならしょうがないわね、結婚してあげましょう、といった気持ちであったろう。
 ところがいざ結婚となると、その理由は兄の謀殺された後の、身を守るための保身の謀略であったし、河北行きに連れていかなかったのも更始帝劉玄を信頼させるための政略であり、さらに離れている間に別の女性を妻とし子どもまで作ったのである。
 しかも劉秀が河北で結婚した郭聖通は、前漢の皇帝と血縁まである桁違いに巨大な豪族の娘であり、陰氏を遙かに上回る。そして劉秀自身も皇帝になって再会するのである。力関係が完全に逆転してしまっているのだ。
 陰麗華の悔しさ、腹立たしさは相当なものがあったと推測できる。半年以上も劉秀の説得を断り続け皇后の位を蹴ったのも、最初の子どもができるのが遅いのもこのためなのであろう。
 陰麗華は、ちょっとしたことでも泣く感じやすい女性であったらしい。七歳のときに亡くした父が大好きで、父のことを思い出すたび涙したという。感情が理性を圧倒するタイプの女性であるのは間違いない。子どもがいないから皇后を断ったというのは、後に説明のために劉秀が勝手に言いだしたものだろう。拒絶されていたから皇后にできなかったなどと言えるはずもない。
 
明帝劉陽
 ところがある時、ついに劉秀の真心が通じたのか、二人は仲直りする。最初の出産はなぜか宮殿ではなく戦場である。劉秀が妊婦を戦場に連れて行くとは考えられないから、陰麗華が劉秀の制止を無視して、離れたくないとついてきたのだと考えられる。
 劉秀が彭寵を制圧するため大軍を率いて元氏まで進軍したときのこと。建武四年五月甲申(西暦28年6月15日)、陰麗華はここ元氏にて劉陽を生んだ。
 実は五月生まれの子供は両親を殺すという言い伝えがあり、当時の人たちは五月に生まれた子供は捨ててしまったり殺してしまったりすることがあったという。後にこの迷信を反駁するとき明帝の例が挙がるようになる。
 劉陽、字は子麗。史書によると幼くして既に聡明で叡智があり、容貌は壮麗で、下あごがふっくらしていたという。劉秀は口が大きかったと記載されるから、両親からの遺伝がはっきりわかる。
 名前が陽というのが面白い。陰麗華の姓は陰であるから、合わせると陰陽になるからである。大人になってからつける通名である字の子麗は、母の名前から一字を取っている。
 皇帝になる人物の名前の漢字は公文書で使ってはいけないというルールがあり、そのため皇太子にはよく使われる漢字の名前をつけない習慣がある。陽というありふれた名前をつけたということは、後継者として考えていなかったことを示している。劉陽は後に皇太子となると名前を荘に変更している。
 劉秀が劉陽の頭をなでて「呉季子」というと、幼い劉陽は「比べようがないほどのおろかものだ」と答えたという。呉季子とは春秋時代の賢者。呉王の子であり跡を継ぐように望まれたのに、それを断り続けてついて王にならなかった人物である。劉秀が劉陽に対して呉季子のように兄弟に位を譲る賢者になれと言ったところ、劉陽は私は皇帝の位を諦めるつもりはありませんと答えたという爆弾発言である。
 
郭聖通と劉秀の関係
 陰麗華を押しのけて皇后となったのが郭聖通である。郭聖通とはどんな女性だったのか?
 郭聖通の母は郭主と呼ばれ、帝王の血筋をひき、母としての徳を備えた賢い女性であったらしい。また、郭氏は多く劉秀に取り立てられたが、それぞれ謙虚な優れた人物として知られている。このことは郭聖通もまた教養のある優れた女性であったことを思わせる。
 郭聖通にも五人の男児があり、その寵愛期間のほとんどは陰麗華と重なっている。子どもの出産時期もほとんど重複しており、郭聖通から陰麗華へと交代する様子は読みとれない。何か日替わりで二人をまったく平等に待遇しようとしたのではないかとすら思わせる。二人は男児の数も同じだが、また驚くべきことに郭聖通の皇后在位期間(西暦26~41)と陰麗華の皇后在位期間(西暦42~57)も共に十六年とぴったり同じである。平等にも程がある!
 明帝の時代の記録として陰氏と郭氏はすべてにおいて平等に待遇された(禮待陰、郭,每事必均)とある。これはおそらく劉秀の方針を引き継いだものと考えられ、劉秀はすべてにおいて郭聖通と陰麗華を平等に待遇しようとしたと考えられる。
 郭聖通は政略結婚で劉秀の妻となった。兵力十万以上の勢力を持つ劉揚を味方にするための婚姻政略である。
 しかし建武二年(西暦26年)一月、郭聖通の背後勢力である劉揚は謀反により殺される。そしてその五ヶ月後、建武二年(西暦26年)六月に、郭聖通が皇后に決まる。だからもしも劉秀が郭聖通を嫌っていたのなら、このときすでに皇后にする理由はないのである。また息子だけで五人いることから、劉秀は郭聖通も好きだったことは間違いないだろう。
 歴史上の皇帝は寵愛する女性がたくさんのいることが多いが、子どもはたいてい一人か二人である。妊娠すれば飽きてしまうわけだ。
 しかし、息子だけで五人というのは、嫌いであったり興味がなかったりしてできる人数ではない。劉秀は陰麗華が一番好きだが、郭聖通も愛していたと考えねばなるまい。
 
許美人の謎
 さて実は劉秀にはもう一人女性が登場する。それが許美人である。
 第三の女性、許美人は寵愛がなかったとされ、一人の男児劉英を生んだ後は目立った記録がない。元和三年(西暦86年)まで生き、郭聖通、陰麗華よりもさらに長寿であったことのみ確認される。
 あまり有力視されていないが、許美人は郷里で陰麗華より先に関係を持った女性であり、息子の劉英は隠し子で長男はないかという説がある。身分が低すぎて妻にできない女性だったのだ。劉秀も健康な男性であるから、陰麗華と結婚する二十九歳までに子どもがいても不思議はない。そもそもこの時代の初婚平均年齢は男女ともに十六歳であり、劉秀の結婚は遅すぎてあまりにも不自然なのである。寵愛がなかったのに子どもがいるという矛盾した記録も、若い頃に作った子どもを連れて宮殿に現れたとすれば筋が通る。また若い頃の旧知をすべて忘れずに援助して回るという劉秀の行動パターンとも合致する。
 ただし史書は皇子の名前を列挙するとき、劉彊、劉輔、劉英、劉陽、劉康という順序を常に守っており、これは年齢順と考えられるから、隠し子説への反論になるだろう。
 
陰麗華の家族が襲撃される
 劉秀、陰麗華、郭聖通の三角関係がきしみ始めるのは一つの事件をきっかけとしている。
 建武九年(西暦33年)、盗賊が貴人陰麗華の母の鄧氏と弟の陰訢を殺したのである。
 『三国志』の注にある『光武紀』によると、盗賊が陰氏の邸宅に押し入り、陰貴人の母と弟を人質とし脅迫した。しかし官吏は人質を無視して盗賊に迫ったので、盗賊は二人を殺したのである。そしてこの官吏の態度は正しいものとして称えられている。
 多くの小説では、この事件を郭聖通、陰麗華の対立の産物と見て、盗賊の黒幕を郭聖通としている。しかしこの事件は実は人質を取っての立てこもり事件であるから、犯人も逮捕もしくは殺されたはずであり、背景も多く解明されたと考えられる。故に郭氏、陰氏の対立を背景とした事件とは考えにくい。
 ただし、当時の人の多くはそうは考えず、皇后郭聖通を疑う陰口が絶えなかったと思われる。もともと後漢の朝廷は南陽出身者が多く郭聖通より陰麗華を支持し、劉揚の謀反により謀反人の関係者という冷たい視線がさらに強くなったであろう。
 さらにその後の劉秀の対応が、郭聖通に傷を与えたようである。劉秀は悲しみに打ちひしがれる陰麗華の向けて詔を出した。この詔はある意味、ラブレターそのものなので汲古書院の全訳を挙げておこう。
私は微賎の身であった時に、陰氏を娶ったが、軍を率い征伐をせねばならなかったため、とうとう離ればなれになってしまった。幸いにも戦いに勝利をおさめることができ、ともに危機を逃れることができた。陰貴人には天下の母としての相応しい麗しい徳があるので、皇后の位に立つべきであるが、本人が固持して就かないため、側女に並んでいるのである。朕はその謙譲の徳を褒め称え、陰貴人の弟たちを諸侯に封建することを許可した。しかし印綬を与えられないうちに、姦人に遭遇して不幸にあい、母子ともども命を落とし、朕は心より哀れまずにはいられない。『詩経』小雅に『ともに恐れともに懼れて苦労したのは、僕と君だけ。それなのにこれから共に安んじよう楽しもうという時になって、君は僕を見捨てるのか』とある。『詩経』の詩の作者が戒めるところとあっては、慎んで随わねばなるまい。そこで追尊して貴人の父である陰陸を宣恩哀侯とし、弟の陰訢を宣義恭侯とし、弟の陰就に哀侯を継がせることにする。柩がまだ表座敷に置かれているうちに、太中大夫に印綬を拜授させること、国にある列侯の礼と同様にする。人の魂が霊となって残るのであれば、どうかのこの恩恵を喜んでほしい
 多くの本が指摘するのは、この詔書は郭聖通にとって衝撃であっただろうということだ。本当の皇后は陰麗華であると宣言しているようなものだからである。劉秀が愛しているのは陰麗華であり、郭聖通が皇后なのは陰麗華に譲られたからなのだ。
 当時の人々も皇帝劉秀と皇后郭聖通の関係がおかしくなったのは、この事件がきっかけと見ていたようだ。『後漢書』の天文志には、建武九年の七月乙丑(西暦33年8月29日)と十一月乙丑(12月27日)に、金星が軒轅の大星に重なったという記事を載せている。軒轅は後宮を示す星座であり、大星は皇后のことで、金星が大星に重なったのは皇后が勢いを失うことを示しているのだという。
 またこのとき陰麗華の性格を示す逸話がある。
 劉秀は、陰麗華の弟、陰興を侍中とし関内侯の爵を与えようとした。印綬を陰興の前に置いたとき、陰興は自分は功臣と違って戦場で功績を立てたわけではなく、その地位に値しないと受け取りを拒絶した。
 劉秀は陰興の謙譲を喜びその言葉に従ったが、陰麗華は不思議がりその理由を問うた。陰興が答えた。
貴人は書に記すことを読まないのですか。『亢龍有悔(極まれば悔いることがある)』と言います。いったい外戚の家は謙退を知らずに苦しむものです。富貴を極めれば満足することを知らねばなりません
 陰麗華はその言葉に感じ入ったという。
 このエピソードは陰麗華が理性の人ではないことを教えてくれる。もしも皇后の座を譲ったのが理性的に考えての判断なら、弟の謙譲の理由が理解できないはずがないからである。
 
郭聖通の心の動揺
 さて対して郭聖通はどうであったか。郭聖通は名門の教養ある女性で、妻が何人いようが、皇帝や大臣なら当然のことと知っており、それほど意に介さないだろう。
 しかしこの詔ははっきりと教えてくれる。劉秀の愛情は自分が一番ではないことに。劉秀はすべてにおいて郭聖通と陰麗華を等しく待遇するが、その心理において陰麗華が一番なのである。
 郭聖通の心理は複雑だ。最初から政略結婚ではあったが劉秀を信じていた。しかも後ろ盾の劉揚が亡くなって、言うなれば罪人の一族でありながら、それでも皇后に選ばれたのであるからなおさらであろう。
 おそらく周囲の皇后郭聖通への風当たりは強く、郭聖通の心を支えていたのはただ皇帝たる劉秀だけであったと思われる。
 しかし建武九年(西暦33年)の事件の詔で、劉秀が本当に愛しているのは陰麗華だというのは、国民みなが知る公然の秘密となってしまった。自分が皇后なのは陰麗華に譲られたからなのだ。
 女性として夫からは「君だけを愛している」と言われたいのであって、「君も愛している」では喜べまい。だが、驚くべきことにそれが真実であった。
 史書は、郭聖通は「寵愛が少し衰えるとたびたび恨みや反発の気持ちを懐くようになった」と記す。ここには劉秀が郭聖通を嫌ったとは書いていない。寵愛が少し衰えるというのは年齢を考えれば普通のことである。従ってあくまでも郭聖通が態度を変えたのである。劉秀からの変化は特にないのだ。
 郭聖通の心は徐々にむしばまれていたようである。
 郭聖通の精神に問題があったと考えるべき理由は、郭聖通の不満が劉秀へ向かったことである。常識で考えれば陰麗華に向くべきであるのに、劉秀に向かったというだけでも、異常を思わせるに十分である。郭聖通は陰麗華に取られたのではなく、劉秀に裏切られたと感じていたのである。
 元々政略結婚である上に、裏切り者の一族となり、さらに皇后という地位も愛情でなく譲られたものと広く知られてしまう。さらに問題となったのは、劉秀が自分の子どもたちを、母親に関係なく全く平等に待遇していたことである。自分が皇后でありながら実際にはすべて陰麗華と対等に扱われているのは、不満だがまだ我慢できた。しかし子どもたちまで自分同様に対等なのが納得いかなかったようだ。
 
建武十七年(西暦41年)の事件
 劉秀と陰麗華、郭聖通のミステリアスな三角関係は、建武十七年(西暦41年)に崩壊する。
 この年の二月乙未(4月19日)、日食があった。
 古代、日食は不吉なものとされ皇帝はそれを避けて宮殿に隠れることになっていた。劉秀はこのとき予言書を読書していたが、座席や廊下が寒く中風を発し、目が眩み激しく苦しみ動けなくなってしまう。側近は仰天して大司馬の呉漢に相談し、病気がひどく動かせないと告げた。しかし劉秀は郷里へ帰ると言い出し、強引に呉漢に自分を運ばせて車に乗った。皇太子と右翊公輔、楚公英、東海公陽、済南公康、東平公蒼が従う。数里進むと、病気はやや回復した。
 偃師につくと数日してさらに回復した。南陽の境界を越え、葉に着いた。ここで車騎を帰らせ数日泊まってから行くと、親衛隊である黎陽兵の兵馬千余匹が章陵に到着し合流した。ここでしばらく生活すると、病気が回復した。
 なぜ死の危機に面した劉秀は郷里へ帰ろうとしたのか。どうやら劉秀は陰麗華に会いに行ったようなのである。実は陰麗華は、郭聖通との対立を避けるため、洛陽を離れて故郷に帰っていたのである。後の皇后交代の詔に「会わなくなってもう三年になる(自我不見,于今三年)」とあるのだ。これは『詩経』の定型句の引用であるから、実際に三年と考える必要はないが、かなりの期間、二人は離ればなれになり会えなかったのである。
 体をまとも動かせないほどの重体となり、死を意識させられたとき、劉秀の頭に浮かんだのはただ陰麗華のことだけであったのである。
 だがこの事件は重大なこと生み出してしまった。
 さらに皇后廃立についての詔の内容を見てみよう。郭聖通は自分以外が生んだ子どもとうまく打ち解けたり教え育てることができなかった(不能撫順它子,訓長異室)という。陰麗華や許氏の子どもとの関係に問題が生じたということだ。
 劉秀は病み上がりであり、南陽への里帰りにあたり家庭のことを皇后郭聖通に任せただろう。おそらく郭聖通はこの南陽で、郭氏の皇子と陰氏、許氏の皇子に差を付けて見せたのではないか。劉秀はすべての子どもを全く平等に待遇していたのだが、これに不満だった郭聖通はこの機をとらえて、正嫡と庶子の差をはっきりさせようとしたのだと考えられる。
 このことが寛容な劉秀の怒りを買った。よりによって場所は南陽、ここは劉秀の郷里というだけではなく陰麗華の郷里でもあるのだ。劉秀はこの郭聖通の行為を許せないと感じたものの、郭聖通をかわいそうに思い説得を続けた。しかし郭聖通の体調や精神の異常を見て、むしろ皇后から降ろした方が郭聖通のためだと結論したのが半年後の十月。
 皇后とは、単なる皇帝の妻ではない。国母である。公的な役職でもある。皇后、貴人、美人とは法律で給与が定められた職務なのである。こうした職務は、神経をすり減らす心労の多いものであることは、英国王室や日本の皇室を考えればすぐにわかるだろう。
 このとき劉秀は郭聖通を皇后から降ろすことを決意したのである。
 
柔道をもって治める
 建武十七年十月辛巳(西暦41年12月1日)、劉秀は郭聖通の処遇を発表し、その三日後、十月甲申(西暦41年12月4日)、郷里に里帰りし、親族を集めて宴会している。このとき宗室の伯母は酒に酔って楽しみ、互いに語り言った。
文叔(劉秀の字)は若いとき慎み深くて、人見知りするし、ただ柔(おとなしい)だけだったのに。いまこんなになるなんて
 劉秀これを聞き心の底から大笑いした。劉秀のまじめぶりは演技であって、本当は兄と似たところがあり、だからこそ今の立場にいるのだ。ところがこの叔母は皇帝になった劉秀を見てもいまだに劉秀がどんな人間だったのか理解せず、真相に全く気づいていないのである。
 だがこの平凡で平和な世界こそ、劉秀の求める世界であり、これ以上好ましいものはなかった。そこで、叔母の言った柔の一言を使って、
わたしが天下を治めるのも、柔の道をもって行おうと思います
 と答えたのである。
 これは郭聖通の処遇を念頭に置いた発言であると考えられる。私は郭聖通について過酷な処分を与えるつもりはありませんということなのである。劉家、陰家の女性たちも郭聖通について同情の念があり、その行動は腹立たしくとも厳罰を与えるべきではないと考えていたのだろう。
 この柔の道発言はかつて土地調査を取りやめて豪族に従うという降服宣言だと、悪意をもって解釈されてきた。しかし劉秀が柔という言葉を使ったのは、叔母が柔という言葉を使ったから返しただけなのであって、何か象徴的な意味があるわけではない。劉秀は、赤眉が降伏したときは「待」を使って返し、馬援が訪問したときは「客」を使って返した。これは単に劉秀のユーモア話法なのである。
 しかも日付を見て欲しい。その三日前に皇后交代が発表されているのだ。皇后交代すなわち正妻を換えて三日後に親族のいる郷里へ帰っての発言である。このときの劉秀の頭にあったのは一年以上前の土地調査などではなく、三日前の皇后交代のことであり、そもそもこの里帰りも皇后交代を報告するものと考えるべきであろう。柔の道とは郭聖通の待遇のことなのである。
 
劉秀の郭聖通への想い
 その柔の道は本物であった。
 劉秀は郭聖通を皇后から降ろして中山王太后とし、陰麗華を皇后とした。中山王太后とは、郭聖通の次男劉輔を中山王として、その母という地位である。皇后すなわち皇帝の妻から、皇子の母へと変わったわけである。中山王太后は前代未聞の位であり劉秀が強引にひねり出したものだ。
 しかし郭聖通の長男である皇太子劉彊はそのままにしていた。このことは皇后廃位は突発事件であり、予定されたものは何もなかったことを示す。皇太子が陰麗華の長男の劉陽に変わるのは、その二年後である。劉秀自身はどちらも自分の子であることは変わらないことから、皇太子を変える意図はなかったものの、劉彊自身が何度も皇太子の座を降りることを望んだため決断したのである。
 また郭聖通は中山王太后となり地位が変わったものの、待遇は変わらなかった。ここは誤解されやすいところだが、中山王太后と言っても中山に転居したわけではなく、郭聖通もその息子たちも、相変わらず都洛陽に住んでいたのである。
 皇帝劉秀がいたのは南宮であるが、郭聖通は北宮へと移った。郭聖通の五人の息子も一緒に北宮に暮らしたと記録される。五人の王は、賓客を多く集め威勢も大きかったことから、その母である郭聖通の待遇も相当に裕福であったと考えられる。
 郭氏の一族の待遇も変化せず、むしろますます繁栄した。劉秀の息子たちはみな王に封じられていたけれども、郭聖通が亡くなるまで一人も任地に赴任することはなくずっと都に在住していた。母子が離ればなれにならないようにという、郭聖通への愛情がはっきりとわかる。
 建武二十六年(西暦50年)、郭聖通の母郭主が亡くなると、劉秀はその葬儀に望み、主要な大臣や官僚を集合させて国葬とした。使者を遣わして、先になくなった夫の郭昌の棺を迎えて郭主と合葬した。郭昌に陽安侯印綬を追贈し、謚を思侯とした。廃された皇后ではなく、皇后の一族という待遇を変えなかったのである。
 郭聖通の病状が悪化した建武二十八年(西暦52年)一月、もと皇太子である東海王劉彊の領土に魯国を追加し、さらにその宮殿、儀仗、車などすべてを皇太子と同じにした。これも郭聖通への愛情から、お前の息子劉彊は皇太子劉陽と対等なのだということを示そうとしたのだと考えられる。もちろん劉彊も都洛陽に住んでいる。本物の皇太子劉陽と同じ場所で同じ格好をさせたのであるから、これがどれほど異常なことかわかるだろう。大臣の反対も多かったと考えられるが、劉秀はただ郭聖通のためだけにこれを決めたのである。
 もしかすると郭聖通は既に精神的混乱が激しく、自分が皇后から廃されたことや劉彊が皇太子ではないことが理解できなかったのかもしれない。
 郭聖通はこの年の六月丁卯(西暦52年7月22日)に亡くなる。北芒に葬られた。
 八月には劉彊、劉輔、劉康、劉英が初めて任地へと赴任する。劉彊、劉輔、劉康の三人は郭聖通の子である。この三人は既に成人して、任地へと行くべき年齢であったが、それまでは代官を送るだけで、都洛陽で暮らしていたわけである。劉秀は郭聖通のためにできる限りのことをしようと考え、郭聖通が彼女の息子たちと生涯一緒に暮らせるようにはからっていたからだ。郭聖通が溺愛していた末っ子の劉焉のみは、死後も洛陽に残ることになった。郭聖通に愛児のことを何度も頼まれ、劉秀も手放せなかったのであろう。
 郭聖通の死後四年、劉秀は泰山封禅の儀式を行う。このとき東海王劉彊も随行している。これも劉秀の郭聖通への気持ちを表したものであろう。
 
郭氏と陰氏に対立はあったか
 郭氏と陰氏はともに繁栄して特に対立もなかったようだ。明帝劉陽と廃された皇太子劉彊は仲がよく、大臣に主従の別をはっきりするように叱られたことすらある。また明帝の即位に当たり、陰麗華との三男劉荊が、郭聖通との長男である廃皇太子劉彊に皇位をねらうようにそそのかす事件(未遂に終わる)こともあった。郭聖通と陰麗華に対立があったのなら、母親の心理に敏感な息子たちがこんな反応をするとは考えられない。
 研究者には、河北集団の推す郭聖通と、南陽集団が推す陰麗華の対立が背景にあるとするものが多い。
 しかし史書をどう調べても河北集団などというものの存在は確認できない。朝廷に南陽出身者が多すぎるという記述はあるが、河北をまとまりと見る記述はないのだ。
 南陽集団が強力過ぎて対立が生まれるとは考えにくいのである。郭聖通の後ろ盾として一番有力なのは劉揚であるが、劉秀の即位後の謀反により殺されている。劉秀と郭聖通を仲介した劉植は建武二年に早くも亡くなっている。呉漢と並んで河北で人望のあった景丹も建武二年に亡くなっている。河北集団はあまりに弱すぎて話にならないのだ。
 そもそも南陽は南陽郡一つだけなのに対して、河北は全部で数十郡もあり広大すぎる。これが集団を作ったりできるだろうか。しかも河北集団を挙げる人は、そこに南陽出身の呉漢や任光、関中が本籍の耿弇まで含めるのだ。恣意的にもほどがあると言えよう。
 また劉秀の娘は五人いるが、その四女劉綬は陰麗華の弟陰識の子の陰豊に嫁ぎ、五女劉礼劉は郭聖通の弟郭況の子の郭璜に嫁いだ。これは明らかに劉綬は郭聖通の娘であるから陰氏に嫁ぎ、劉礼劉は陰麗華の娘であるから郭氏へと嫁いだということである。郭氏と陰氏の関係が良好であったことを示している。
 よくある美人の新しい女性が出てきて皇后を追い落とす事件の場合、皇后は殺されたりひどい目に合うし、その家族もまとめて失脚するものである。ところが、この事件にはそうした要素は全くない。誰も得したり損したりしていないのである。
 
陰麗華とはどのような女性であったか
 晴れて皇后となった陰麗華であるが、こちらも以前と何も変わることはなかった。
 陰麗華は七歳のときに父を亡くし、父のことを涙なしに話すことができなかったという。劉秀も九歳のときに父を亡くしており、何か心通じるものがあったかもしれない。
 劉秀の陰麗華への思いは、二つの詔に引用された『詩経』の言葉が美しいので汲古書院の『後漢書』から訳文を書いておこう。
『ともに恐れともに懼れて苦労したのは、僕と君だけ。それなのにこれから共に安んじよう楽しもうという時になって、君は僕を見捨てるのか』
『君と会えなくなってから、もう三年になる(それでも二人の気持ちは変わらない)』
 劉秀の言葉には陰麗華への思いを示すものがいくつかある。たとえば、赤眉軍を降伏させたとき、赤眉の首領たちが偉くなっても妻を換えずに軍中に連れていたことを、大逆罪すら許される善の一番目に挙げている。このころはちょうど陰麗華と劉秀の関係が冷え切っていた時期であるのが興味深い。河北に陰麗華を連れて行けなかったことを後悔してたのかもしれない。
 劉秀の女性への態度として、『古今注』の丁邯のエピソードが興味深い。丁邯が漢中太守であったとき、その妻の弟が公孫述の将軍になった。丁邯は妻を獄につなぎ、自らは冠を脱ぎ裸足になって出頭した。そのとき劉秀は次のような詔を出す。
漢中太守の妻が南鄭の獄につながれているが、誰がその背中を洗ってくれるのであろう?牛頭を掲げて馬の干し肉を売るのは盗賊の行いだというのが孔子の言葉だ。丁邯が罪に服したのであるから、冠や靴に罪はないように、その妻まで罰する必要はない。」
 丁邯は剛直な正義の人であるので、連座の原理に厳格に従って妻を投獄したのであるが、劉秀はそれを返って怒っているのだ。劉秀は妻を大事する人を評価し、妻を粗末する人を許さないのである。また「誰がその背中を洗ってくれるのであろう」すわなち、妻の身の回りの世話は誰がするのかという言葉からは、劉秀が天性の世話好きであることを連想させる。
 また呉漢が公孫述を滅ぼし成都に放火したことを非難した言葉の中に、「家有弊帚,享之千金」がある。後に成語の敝帚自珍となった言葉であるが、この敝帚とは、古い箒、箒とは妻の象徴で、長年連れ添った妻ほどいとおしいものはないという意味をかけているのである。
 これほど劉秀にとってかけがえのない存在であった陰麗華とはどんな女性だったのか。
 陰麗華は趣味も少なく皇后になっても豪勢に遊ぶこともなかったとされ、地味な小市民的性格だったようである。面白いのは史書は陰麗華の性格について、ジョークを好まない(不喜笑謔)と記述していることである。劉秀とまるで反対ではないか。これはどういうことか。
 劉秀は極端なことや正反対のことを相手に言って人をからかい、相手がびっくりすると、冗談だよと言って笑うことが多い。耿弇、王常などたくさんの被害者がいる。おそらくこれを妻である陰麗華にもしばしば行ったのであろう。劉秀が陰麗華をからかったところ陰麗華が怒り出してしまい、「冗談だよ」とその場を収めようとしたところ、陰麗華が「冗談なんて大嫌い!」と言い切り、それが伝わったのがこの「笑謔を喜ばず」という記述を生んだのだと考えられる。
 さらに陰麗華の行動を見ると、劉秀の意志に反する行為が多く記録されている。皇后になるように言われたのに拒絶したこと、罪に問われた馬援の娘を寵愛して身辺に置いたこと、妊娠したとき強引に遠征軍に従軍してついて行って軍陣の中で出産したことなど。
 さらに父の死に言及するたび涙したことなどを考えると、陰麗華は直情的で自分が正しいと思ったことは相手が皇帝であろうと一切譲らない頑固な女性であると考えられる。
 これに少女の頃から美人として知られていたことを合計すると、陰麗華とはツンデレ美少女であるということになろう!
 後に皇后になってからも郭聖通と確執を生まず、子供たちにもそう感じさせなかったところなど、陰麗華には何か神聖なものを持っていたと感じさせる。陰麗華は死後、光烈皇后と謚(おくりな)される。歴史上初の謚を持つ女性となった。
 
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