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創業、守成、継承に成功した史上唯一の皇帝
 多くの皇帝は創業と守成を両立できず、建国後に混乱を迎える。武人皇帝に治世は難しいのだ。唐太宗李世民などわずか数人の名君のみが創業と守成を両立することができた。しかしその両立の名君の治世もその死までであり、次の代には混乱を免れ得なかった。そうした国がさらに繁栄できたのは、漢の高祖には文帝、唐の太宗には玄宗、明の朱元璋には孫の永楽帝など、建国のしばらく後に大きく方向転換する名君が現れることによって、国はさらなる発展へと向かったのである。彼らみな創業と守成は出来たものの継承には失敗したと言わざるを得ない。
 ところが劉秀のみは、史上唯一、創業と守成に継承まで成功した。劉秀の死後には後継者争いによる政局の混乱がなかったのである。即位に異を唱えた弟がいたものの、具体的な行動に移る前にすべて未然に防がれ、他の時代のような混乱が生まれなかったのである。
 しかも二代目明帝も、三代目章帝も名君ではあるが、特別に新しいことを生み出した君主ではない。明帝は「建武の制度を奉じて敢えて違えることがなかった」とされる。明帝も章帝もただ劉秀の決まりを遵守することで、国を発展させ続けたのだ。さらに『魏書刑罰志』は後漢の二百年間は法律に大きな変化はなかった(後漢二百年間,律章無大增減)と結論する。前漢は代々の皇帝や大臣により何度も法律が変化発達したが、後漢は劉秀がすべて完成させてしまい変更されることがなかったのだ。それはすなわち劉秀の治世がそのまま続いていたということである。
 しかも驚くべきことに後漢王朝がその人口記録においてピークを迎えるのは、劉秀の死後百年目、永寿三年(西暦157年)の五千六百四十九万人なのである。
 劉秀は死してなおその死後の世界を百年も発展させ続けたのである。百年の年月に耐えうる政治体制とはいったい何なのか。
 後漢王朝の発展は幼君が続き無政府状態となることで、遂に限界を迎える。しかしそれでも後漢は倒れなかった。後漢王朝は事実上百年以上の無政府状態にも耐え続けて、『三国志』の英雄たちの時代にやっと滅びるのである。
 『資治通鑑』を編纂した歴史家司馬光は、もしも一人でもまともな皇帝が即位できれば、後漢は持ち直し「永遠の王朝」となったはずだと分析している。すなわち漢の劉家が日本の天皇家のようになっただろうということだ。
 ここから後漢王朝のその後の発展を解説する。劉秀ととも発展し、劉秀の影とともに滅んでいった後漢王朝を知ることが、そのまま劉秀の統治の真の意義を解説することになるからである。
 
劉秀の残した人材
 まずは人材である。劉秀の次の皇帝もその次の皇帝も長男ではなく、儒教的な長子相続は行われていない。明帝は第四子であるし、章帝は第五子である。しかし二人には儒教など深い学問があったことが知られている。明帝は『春秋』と『尚書』に詳しく、章帝は『詩』や『春秋』に詳しかった。二代目、三代目の皇帝は劉秀に才能を評価されて皇帝となったのである。
 皇帝だけではない。明帝や章帝の大臣の多くは、そもそも劉秀が見いだした人材なのである。明帝の時代に名宰相として知られた趙熹、馮魴、虞延、鍾離意、章帝の時代の名宰相第五倫などは、みな若い頃、県令など小さな役職のときに晩年の劉秀と深く知り合う機会があったのである。
 これは漢の高祖劉邦が自分の死後の宰相として曹参、陳平を指名したり、三国志の蜀の諸葛亮が後継者として蒋琬、費禕を指名したのとは全く異なる。後漢の宰相はみな実力で昇進して宰相となった。あくまでも抜擢したのは明帝や章帝自身であるところが、巧みなところである。
 劉秀は自らの死後の統治を考えて、死がいまだ遠い時点から事前に新しい世代を養っていたことがわかる。
 その結果、劉秀と次代の明帝の政治は、後の人により二人の時代の元号にちなんで「建武の治、永平の政」と呼んで絶賛されるようになったのであった。
 
明帝の黄河治水の成功
 劉秀の次の皇帝は陰麗華との間にできた劉陽、後に改名して劉荘となった明帝である。明帝の時代、後漢は一直線に発展したが、その中でも最大の成果は黄河の治水である。
 黄河は王莽の時代に氾濫し、川筋が大きく変化して、巨大な災害を引き起こしていたが、王莽はそのまま放置していた。劉秀の時代にたびたび修復計画が持ち上がったものの、莫大な費用を考えて延期されていた。それが王景という天才的な技術者の出現により、明帝の時代についに大規模な治水工事が始まる。西暦69年から翌年にかけて行われた工事は大成功となり、黄河が安定したのである。
 黄河は中国文明のシンボルであるが、毎年のように氾濫を起こし、数十年単位で川筋すらも変わった。ところがこの王景の治水により、その後、唐末期までの八百年間にわたって川筋に変化がなく、再度、完全に黄河が氾濫したのはおよそ千年後の西暦1048年であった。これは後漢時代における水利工学の高さを示している。
 
世界史を揺り動かした後漢の対外政策
 明帝の次の次の皇帝、和帝の西暦91年には、匈奴を完全に打ち破ることに成功した。遊牧民と黄河の征服を達成し、このとき中国は史上初めての完全平和を達成した。
 前漢時代の衛青、霍去病などの名将との戦いに敗れてもすぐに勢力を取り戻した匈奴も、この敗戦は致命傷となり、モンゴルの平原を離れて遠く西方へと逃亡した。これがヨーロッパを恐れさせたフン族であると言われる。さらにフン族の出現は玉突き的にゲルマン民族を西へと押しやりローマ帝国へ侵入させ、ローマ帝国の疲弊と東西分裂の原因となったのである。複雑系のバタフライ効果、あるいは「風が吹けば桶屋が儲かる」理論にもとづいて言えば、劉秀がローマ帝国を東西に分断したことになる!
 ともあれ、この時代の隆盛は本物であった。当時の学者の王充は著書で、現代こそは伝説時代を超える中国史上最も繁栄した時代であると記している。儒教思想により昔ほど優れているという考えが常識だった時代としてはまさに異例のことであり、それほど当時は繁栄していたのである。
 三年後の西暦94年には、班超が西域を内属させた。放棄された西域が完全回復されたのである。さらに班超は部下の甘英を西方へ派遣した。甘英はペルシャ、シリアまで行き、ローマの魔術師とともに中国へと帰還する。
 後漢とローマ帝国との交流は、西域のシルクロードを通じてだけでなく、馬援が開拓した南の海のルートも多かったようだ。西暦166年には、ローマ帝国の使節がベトナム経由で到着したことが知られている。
 
農業技術に革命的変化
 後漢時代は新しい文化が全国的に広まった時期であった。農業では牛耕と水車が全土に広まった。食事における粉食が流行したのも後漢からである。水車の発明は後漢であり、これが粉食の増加を生んだのだ。小麦粉のウドンや団子が急速に普及したことは『四民月令』に記されている。麺類は後漢に始まるのである。
 前漢の鉄の農機具は鋳造であったが、後漢では鍛造にかわり強度も増し、鉄器の生産量も数倍となった。これが農業生産を大きく発展させる。中国の歴史家翦伯赞によると耕作面積が二・八倍になったとされる。
 農業の方式自体も変化した。広畝散播法から條播列條栽培法へと変化し、単位面積あたりの収穫も大幅に増加した。
 『東観漢記』によると章帝の時代に張禹が作った蒲陽陂は田千頃余あり、百万余石の収穫があった。一頃は百畝であるから一畝当たり十石である。『漢書・溝洫志』は、前漢では五千頃の面積で二百万石の収穫があるとしており、これは一畝当たりで四石であるから、後漢の単位当たり収穫量は二・五倍になったとわかる。
 機織りの機器も改良された。中国の研究者許倬云によると、前漢では一日平均五尺織ることができたのが、後漢では十三・三尺織ることができた。
 古代の主要産業は男耕女織と言われる。男が畑を耕し、女が機織りをするのである。この二つの基本産業でそれぞれ前漢の二倍以上を記録しているということは、後漢の国民総生産もまた前漢の二倍以上であることを示している。
 この時代の地方の様子を示すのが『四民月令』である。
 四民とは士農工商のこと、月令とは季節ごとの行政指導であり、『四民月令』は地方官吏のための行政指導書である。ここには当時の農業の様子が詳細に記されているが、後漢では前漢のような個人単位の農業ではなく、村単位で大規模な分業が行われていたことがわかる。これが後漢の農業生産力を大きなものにしていたのである。たとえば灌漑施設の維持、耕牛の所有など、個人では負担が大きいが、集団ならば可能だからである。そこには物価安定のための穀物売買なども指示されている。郡や県の倉庫に貯蓄した穀物や絹を利用して市場の物価が一定になるように調整していたのである。まるで現代の中央銀行のような働きをしていたわけである。後漢の経済発達の高さをうかがうことができよう。
 
商業が発展し農業人口が減少
 歴史家の間では、実は後漢は発展した王朝ではないと誤解されていたのであるが、その理由の一つに金属貨幣の流通比率の低下がある。著名な歴史家の宮崎市定は、後漢は金や銅貨などの貨幣が不足したデフレ社会であり、商業が大幅に停滞した遅れた時代と考えたのであった。
 もろちんこれは経済学的にも荒唐無稽な考え方で、金や銅が不足すれば違うものが貨幣として流通するだけのことである。後漢では、貨幣として最も多く使われたのは、絹や布であった。もちろん貨幣として使いやすいようにサイズに決まりがある。
 実のところ、後漢では商業が停滞したのではなく、急激に発展したため金銀や銅貨の生産が追いつかなくなり、絹や布も貨幣として多用されるようになり、そのため相対的に金属貨幣の使用率が減少したのである。
 考えてみれば建国の皇帝劉秀自身が商人出身と言って良い人物なのだ。商業を軽視したり抑圧するはずがないのである。これがわかりにくいのは、商業を否定的に見る農本主義の儒者が史書を書いているためなのである。
 後漢王朝は商工業が大きく花開いた時代であった。当時書かれた『潜夫論』には、農地を捨てて出稼ぎに出る人が多かったこと、農村から都市への人口移動の問題が指摘され、首都洛陽では農民は人口の十人に一人でしかなかったことが記されている。
 農業をやめて商工業へと転職する人が多く、首都洛陽は地方から遠く出稼ぎに来る人であふれかえっていた。洛陽の人口を戸籍記録から推定すると約三十五万にしかならないが、これは洛陽に農地を持つ、本籍地が洛陽の人の数である。仮に洛陽が本籍地の人の半数が農業をやめたとしても農民人口は十七・五万であり、その九倍の商工業人口を合わせると洛陽人口は百七十五万人となる。実際『後漢書』には、後漢末に董卓が洛陽を破壊したとき、洛陽には数百万の人口があったことが記されている。
 数百万とは詳しくはどのぐらいのことを表すのか。『後漢紀』では南陽郡の人口を数百万と称しており、その実際の統計記録は二百四十四万人であるから、洛陽の都市人口も二百万以上と推定できる。『前漢紀』は前漢の長安の人口を百万あまりと記すが、実際の人口は六十八万と推定されている。すると数百万とは百万あまりの数倍弱であるから、六十八万の数倍弱が洛陽人口の実数ということであり、やはり二百万前後と推定されることとなる。
 歴史上の有名な百万都市には、エジプト王朝のアレキサンドリア、ローマ帝国のローマ、唐王朝の長安、日本の江戸などがあるが、その国の人口は三千万~五千万人程度であり、みな後漢より小さな国である。商業の発展した後漢の首都洛陽の人口は百万人以上は確実で、もしかすると二百万人を越えていたのかもしれない。洛陽の城郭の内部にあるのは皇帝や役人の居住地だけである。一般住民は城外の商業地域である市場を中心を取り巻くように集まり、果てしなく広がる巨大都市を作り出したのであろう。
 もちろん経済発展はよいことだけではない。富裕層の腐敗もすすみ、経済発展は拝金主義に到達し、ついには金銭で殺しを請け負う殺し屋といった職業までが登場したことが記録されている。後漢末期には官位が売買されるようにまでなったのである。
 
科学技術と医学の発展
 急激な経済発展はさまざまな科学技術の進展を生み出した。
 織花機が使われ五色で花模様の織物の登場した。織物の複雑な手順の出現、水車による鉄ふいご、製紙、百回焼き入れした剣の製鉄技術は世界一とされた。また馬肩軛、水力挽き臼、鋳鉄技術なども後漢より始まるとされる。ただ燃やしていただけであるが、石炭や天然ガスも開発使用されていた。
 後漢で最も著名な科学者の張衡は、人が感知できないレベルの地震まで計測する地震計を発明したが、その地震計の原理は現代と同じ振り子の応用によっていた。この地震計は単なる科学実験ではなく実用され、震源地が正確に記録されるようになった。
 張衡は天文学者でもあり、天文観察を通じて、日食は月によって隠れたものであり、月食は地球の陰になっているためと指摘している。張衡自身は果たして、地球と太陽の関係を正しく理解していたかはわからないが、当時の中国では既に地動説が知られていた。『尚書緯』の考霊曜には「大地はずっと動いているが人が気づかないのは、大きな船の中で部屋を締め切っていると船が動いているのに気づかないようなものである(地恒動而不止,人不知,譬如人在大舟中,閉牖而坐,舟行不覺也)」と記載されている。
 おそらく後漢で最も発展したのは医学である。薬草と薬の百科事典『神農本草経』の成立、張仲景の『傷寒雑病論』、華陀の麻酔術など医学が発達し、疫病の流行時に朝廷から民間に医師が派遣される法律が定められたのも後漢からである。
 化学者魏伯陽の『周易参同契』という化学書も登場した。
 数学書の『周髀算経』と『九章算術』も登場した。天文学ではより正確な暦である、四分歴も登場した。
 動物学では、馬援が馬の見本の銅馬式なるものを作り、名馬の判定法を発表した。
 地理学の班固の地理志が登場する。
 そしてもちろん後漢最大の発明は、蔡倫による紙の発明である。それまでも紙に似たものはあったが、筆記に相応しい紙を完成させたのが蔡倫である。まさに人類文明の基盤は後漢にあったということができよう。
 
中国の思想が揃う時代
 後漢は思想が発展した時代でもある。
 仏教が伝来し、仏典の翻訳が始まり、白馬寺が建設された。
 劉秀はありとあらゆる書籍を読み、「人は満ち足りるということを知らずに苦しむものだ」と仏教の苦の思想に類似したことを述べているが、仏教は知らなかったと考えられる。しかし息子たちは仏教について知っていたようだ。
 仏教は、劉秀の息子明帝が夢で金色に輝く金人、すなわち仏陀を見てインドに使者を派遣し、仏典や僧侶を呼び寄せたことが中国への伝来の始まりと伝えられる。史書の正確な記録としては、明帝の弟である劉英が仏教の祭祀を行っていたことが記録されている。
 黄巾の乱に代表される道教が始まったのも後漢であった。
 そもそも道教の祭祀である大元宮は、劉秀が洛陽で行った天の祭祀が原型であるという。劉秀は道教の源流の一つでもあるのだ。
 後漢は現代中国の文化の核と言うべき、儒教、道教、仏教がそろった時代であった。故に中国の外形は秦の始皇帝が作ったが、中国の中身は後漢の光武帝が作ったと言えるのである。
 後漢は、いろいろな思想が花開いた第二の百花斉放の時代となり、儒教を中心に道教や仏教も広まった。当時の学者を挙げると唯物論者王充、科学技術者張衡、筆記用紙の発明者蔡倫、文字学者許慎、文学者班固、儒学者鄭玄、外科医華陀、医学者張仲景、天文学者郄萌、数学者趙君卿、化学者魏伯陽、イリュージョニスト左慈、五斗米道張陵、太平道張角、詩人にして兵法家の曹操も後漢の人である。
 前漢の文化のほとんどが宮廷を中心とした政府によるものだったのに対して、後漢の著名人は民間人も多く、その内容も為政者のためでなく民間の生活に関連することに注目したい。民衆の時代が到来したのである。
 
教育の発展と驚異の学生人口
 科学の発展の基礎にはもちろん教育制度がある。
 洛陽の太学は二百四十の校舎、千八百五十の教室があり、最盛期にはそこに学生三万人が居住した。また地方のそれぞれ郡県に公立の学校や、横学、精廬と呼ばれる私立学校にも数千の学生がいて、全土で数十万人に及ぶ学生がいた。
 首都には特殊な学校も設立された。西暦119年には皇族と外戚の子弟の学力増進のための学校が設立された。これは時の執政者である鄧太后の指導によるもので、男女共学であることが特徴である。この学校は後に皇族だけでなく一般に開放された。
 後漢は、女性の学識者が多いことも特徴である。鄧太后こと鄧禹の孫である鄧綏は、母から博士にでもなる気なのかと言われるほど学問をし、家族から諸生(学生さん)と呼ばれていた。鄧綏に学問を教えたのが、『漢書』を完成させた曹大家こと班昭であり、著名な学者である馬融に教えるほどであった。後漢末の蔡文姫も文才で名高い。
 西暦178年には、鴻都門という学校が設立された。これは詩などの文学と書道や絵画などを学ぶための芸術の専門学校である。こちらも才能があれば出身は一切問わず入学することができた。
 後漢の学問の隆盛を示すエピソードがある。後漢の二代目皇帝明帝劉陽は、明堂で講義を行ったが、そのときの聴衆は十万人に及んだと言われる。
 劉秀の孫の章帝の時代には、学者たちが集まって白虎観会議を行い、五経の整理をして、儒教経典の完全整備が行われた。
 基礎教育も推し進められた。各地方では、農閑期に十歳から十四歳の子どものすべてが小学という学校に通うように指示が出ていた。そして成績のよいものは、十五歳からは大学に通うことになるのである。
 十七歳以上男子は、成績により役人採用試験に挑戦した。九千字の文章を何も見ずに書き、漢字を六種の書体で書き分けさせて判定した。
 『論衡』の著者である王充は、八歳で書館へ通い勉学を始めたという。王充は決して豊かな家庭ではなく本も少なかったので、書店で毎日のように立ち読みして勉強したと言われる。
 貧民から学問により出世した人物もいる。鄭玄は小作人でありながら大学者となったのである。
 こうした学問の隆盛は書籍の発行量の増大となり、洛陽には書店が登場した。学生のアルバイトとして本を生産するたるの書写が流行った。こうした学問の需要に応じて最古の漢字辞典、許慎の『説文解字』が編纂されたのも後漢である。
 近代中国になるまでの歴史において、後漢は識字率が最も高い時代であった。これはおかしなことではない。中国だけではなく、同時期のローマ帝国でも同じく識字率が高かった。ローマ帝国では最貧の奴隷にも基礎教育があり、後漢では庶民にも礼があり成童はみな学校に通っていた。これは古代は皇帝の権力の浸透が中世より強いためで、識字率が高いのは偶然ではないのである。
 
元元を以て首となす・人民のための政治
 このように、後漢王朝は劉秀の死後もその基本構造を変えずに百年に及ぶ発展を見せたが、これは劉秀が百年先をも見抜く先見の目があったということではない。そうではなく、劉秀はあらゆる職業に知識があったため、人々が実際に生きるということはどういうことなのかよく知っており、そのため統治の本質を正確にとらえた政治を行ったということなのである。
 劉秀の政策をまとめると、小さな政府、公平な法律とその維持、最小限の経済規制、強い再分配政策と教育の重視ということなる。
 これらの政策は政治哲学者ジョン・ロールズの思想に類似するといえる。
 ロールズは格差原理を提唱し、他人の自由を侵さない限りの最も広い自由を与え、社会で最も恵まれない人の利益を最大にすることを述べた。
 息子の明帝は、即位するときに劉秀が政治方針として「元元をもって首とする(庶民を最優先とする)」とするように言い残したことを述べている。劉秀は常に一般庶民の支持こそが政権安定に不可欠と意識して、それを政治方針としていたのである。「元元を首とする」政治とは、現代の言葉で言えば「人民のための政治」といってよいだろう。
 劉秀の政治はまさに人民のための政治であり、その内容はロールズの格差原理を採用していたといえるのである。
 
世界史を先取りした後漢
 後漢では民間の文化や思想が花開いた結果、政治面でも中国史上初めて世論が生まれ、民間からの意思表示が行われた。人物評論が流行り、在野の人士を大臣に対応させて政府を批判した。これら後漢末の清議による三君や八俊は、シャドー・キャビネットに相当すると川勝義雄が指摘している。
 国家の統制が外れたため自由経済が発展したが、その半面、貧富の差も激しくなった。格差問題は後漢後半期における大きな問題となり、遂に後漢は衰亡を迎える。
 後漢はその後半期、皇帝が短命で、幼い皇帝の即位が続き、無政府状態となって腐敗が進み、格差問題に何ら対応できなくなった。格差問題と政府の腐敗は、太学の学生たちによる学生運動を生み出し、政府への社会運動となったのである。
 しかしもちろん、二十世紀中国にできなかったことが二世紀の中国にできるはずがなかった。学生たちが、政権を動かすべく運動し敗れ去った天安門事件は1989年のこと。党錮の禁は西暦166年と169年である。1830年も時代が違うのだ。
 劉秀の人権宣言は西暦35年だったが、リンカーンの奴隷解放令は1863年であり、こちらも1830年ほど時代が違う。劉秀はその思想性において時代を1830年ほど先に進めてしまったと言えるだろうか。
 さらに追加しよう。学問を好んだ劉秀は、毎年の正月に学者たちを集めて儒学の大会を開いた。経典の解釈を戦わせ、負けたものは地面に敷いた席を失い、勝利したものが座席を奪うのである。ある年の大会では、戴憑という学者が圧倒的な強さを発揮し次々と席を奪い、五十席以上を重ねて座ったという。
 日本において、参加者が知恵を競いその座席たる座布団を奪い重ねて座るテレビ番組――『笑点』が始まったのは1966年である。劉秀はここではついに1900年以上も時代を先取りしてことがわかるのだ!
 
史上最も繁栄した古代王朝である後漢
 冗談はともかく、後漢とはいったいどのような王朝であったのか、より客観的な指標で見てみよう。
 後漢の統計人口は前漢よりも少しだけ少ない。前漢の元寿元年(紀元前2年)は5959万人、それに対して後漢の永寿三年(西暦157年)は5649万人である。
 他の国と比較してみよう。同時期のローマ帝国は5400万人ぐらいと多く見積もる人がいるが、1000万ぐらいという人もいる。一番信頼できる見積もりでは、最盛期はアウグストゥス帝の頃で4550万人であるという。
 中国の場合は、隋は4600万人、唐は5300万人と統計数の時点で既に後漢を越えたことはなく、ずっと後の北宋の時代、西暦1080年に9000万人に到達した。これが世界が漢王朝を超えた瞬間である。
 しかし問題は後漢の人口統計である。
 流民の多さと豪族に囲われた戸籍外人口がどのぐらいか。後漢の戸口統計が信頼できないことは越智重明に指摘されている。後漢は他の時代に比較して戸籍外人口が非常に多かったと考えられているのだ。奴婢の数こそ劉秀の政策によって減少したものの、代わりに増えたのが流民である。流民といってもそれは赤眉軍のような食に困った飢餓民とは少し違う。詔には商売している流民から税金は取るなとあり、多くは商売人であったり、職人、芸人であったりするなど土地を捨て農業をやめた人たちのようだ。後漢王朝は居住地を基準に戸籍によって住民を管理していたから、定住地のない流民は戸籍を失っており人口記録から外れているのである。
 『後漢書』の記録によると、後漢政府は数年ごとに定期的に流民に対して土地に戻って戸籍に登録するように呼びかけ、ときには本籍地ではない、今いる土地でいいから登録するように呼びかけている。数年ごとに戸籍登録奨励が発布されるという事実は、この流民が一時的なものではなく社会階層として安定的に定着していることを示している。
 後漢末期にはこれが部曲という豪族内の人口となり、完全に戸籍から外れてしまった。その結果、董卓の遷都のときの数百万という洛陽人口など、戸籍人口と全く一致しなくなったのだ。そもそも前漢の二倍上の経済力がありながら、人口が前漢より少ないはずもない。
 仮に戸籍人口の二割が記録から外れているとすると、実際の人口はおよそ七千万となる。私はこの人口数が実際に近いと考える。後漢王朝の人口は前漢より多く、後に宋に抜かれるまで、人口の最高記録の王朝と考えられる。後漢王朝はその後、千年間も世界史上において超えることができないほど繁栄した王朝だったのである。
 
光武帝を超えることができるのはただ光武帝のみ
 驚くべき繁栄を誇った後漢王朝であるが、その後、千年近い時を経てついにそれを完全に超える王朝が誕生する。それが北宋というわけである。北宋は宋太祖趙匡胤が建国した。では趙匡胤とはどのような男であったか。史書の記述はこうである。
 武勇優れた名高い将軍であり、本来皇帝になる血筋ではなかったが、河北への討伐軍を率いている中で部下の将軍たちの推戴により断り切れずに皇帝となる。家臣の言論を許容し、将軍を一人も粛清しなかった。読書を好み、倹約家であり、家臣の諫めを聞かずに頻繁に微行に出る男――ここまで聞けば、読者はこの男を既によく知っている!と認めざるを得ないだろう。
 この趙匡胤には肝に銘じた言葉があった。

――赤心を推して人の腹中に置く(真心をもって人を信じて疑わない)

 である。劉秀の故事をモットーにして生きた、劉秀の忠実なる模倣者。劉秀の陵墓に参拝し、その業績を称える碑文を書いて掲げた男、それが趙匡胤である。人類は劉秀の帝国を超えるために千年の時間ともう一人の劉秀を必要としたのだ。なぜなら劉秀はただ劉秀のみが超えることができるからである。
 宮崎市定などの京都学派の中国史の時代区分では、古代から中世への変わり目を後漢、中世から近世への変わり目を宋とする。その考えに従えば、劉秀は中国を古代から中世へと塗り替えただけでなく、千年後に中国を中世から近世へと塗り替えたのもまた劉秀だということになる。そしてさらにその千年後である現在、劉秀の再評価の動きが広まっているが、このことは中国がまた新しい時代へと移行すること、劉秀がもう一度世界を変えることを示しているのかもしれない。
 
古代帝国が統治する中世経済の国家
 後漢王朝の驚くべき発展は、時代の狭間に生まれた奇跡であった。古代から中世へと移り変わる時代の裂け目に、劉秀という不世出の天才が現れ、歴史の運行を別次元へとねじ曲げてしまったのである。
 歴史は生産技術と情報技術のバランスによって変化してきた。生産技術の向上は個人の影響力を高めて地方分権へと働き、情報技術の向上は人々の統制を容易にして中央集権へと向かわせる。
 歴史区分について簡単に解説しておく。
 
 1.古代。古代文明は、文字の発明という情報技術により、強大な統一王朝を生み出す。
 2.中世。鉄の農機具の広まりが生産力を高め、豊かな経済と地方ごとに小さく分離した、中世を生み出す。
 3.近世。印刷技術の発達は統一された国民国家を、さらに世界へ伸びる巨大帝国を生み出す。
 4.現代。石油による生産力の向上は帝国を民族国家へと分解させる。
 5.未来。インターネットによるグローバルな情報化は、世界統一への圧力になっている。
 
 劉秀はこの1から2への時代の裂け目に生まれた。前漢は、生産力の高まりによる分裂圧力に対して、生産力を中央へと奪い取ることで対抗した。塩や鉄の専売、重い賦役により、向上した生産力をすべて中央へと吸い上げようとしたのである。だが、この時代に逆行する方法は民衆の不満に対応することができず漢王朝は倒れ、王莽の新王朝が誕生する。
 万人の期待の元に生まれた王莽の新王朝は、漢よりもさらに強力に中央へと吸い上げるシステムを構築しようとした。塩、鉄の専売はもちろん、各種の商業も徹底制御し、土地や資産まで国家統制しようとした。この歴史を逆行させる政策は全く通用せず、古代王朝は完全崩壊し、地方は分裂し、中世の幕が開ける。
 ここに現れたのが劉秀である。劉秀という一人の軍事的天才は、数十の小国家に分裂した中国全土を蹂躙して戦い続け、その豪腕で力ずくの統一を成し遂げてしまう。
 統一後、劉秀は前漢や新とは全く異なる政策をとる。官吏と兵力の大幅削減と減税、各種の経済統制をすべて解除し、重い賦役もなくし、牛耕や水利事業を推進し、漢や新が抑圧していた民衆の生産力を完全解放したのである。
 そして生産力の生み出す分離圧力を抑え込むため、地方に存在する軍事力のシステム、材官、騎士、都尉などをすべて取り除き、軍事力をすべて中央、皇帝個人に集めたのである。軍事は中央に、経済は地方に。これが劉秀の後漢王朝統治システムであった。
 また儒教を中心とした教育の普及、すなわち情報技術を高めることに重点を置いた。中央への求心力を強化したのである。
 その結果、分裂の中世へと突入するはずであった中国に、古代帝国が統治する中世経済の国家というキメラが誕生する。それが前章で述べた後漢王朝の驚くべき繁栄であった。
 劉秀は歴史の流れを有り得ない方向へとねじ曲げたのである。ただしこの魔術はおよそ二百年間のときをもって有効期限が切れ、三国時代という悪夢の大崩壊の時代を迎えることになる……。

三国志の面白さの源泉
 そして三国時代が面白いのもこのためである。
 中国史マニアは言う。三国時代は別に特別な時代ではないと。これは三国志だけしか知らない日本人への不満の言葉だが、ある一面では真実ではない。三国時代は、中国史においても特別な時代なのである。
 他の戦乱の時代と比較すればわかる。他の時代も確かに面白いのだが、三国時代よりも殺伐としたムードが著しい。関羽、張飛のような猛将が数え切れないほど出てきて肉弾戦を展開する凄まじい殴り合いの時代なのである。南北朝、隋唐の建国、安史の乱、五代十国、南宋と金の対決……、どの時代にも、関羽、張飛もかくやという人物が死闘を繰り広げる。
 対する三国時代は、知恵の時代である。三国時代は知能戦、謀略戦の時代なのだ。歴史上の主人公である曹操が、超一級の策士であったし、その謀臣も数え切れないほどいた。対する劉備や孫権にもたくさんの謀臣がいた。これは単なる思いこみではない。正史の伝記から謀臣の人数を数えればすぐわかることなので、真の中国史好きなら確認してみよう。中国の史書の伝記は、人物を参謀、勇士などのカテゴリーに分けて配列するルールがあるので、簡単に数えることができるのである。
 この三国時代の知恵の高さの原因は、後漢王朝における時代錯誤的な識字率の高さであり、民力の余裕が生み出したものなのである。全世界の三国志ファンは劉秀に感謝し、光武帝人気者化計画を推進しなければなりません!
 
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