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平等を目指す戦い・土地調査を始める
 だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
 真に平等な社会を作るには、経済を平等に把握する必要がある。
 こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
 だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
 調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
 このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
 劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
 このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
 陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
 河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
 この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
 他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
 欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
 だが劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。
 
豪族のゲリラ戦と皇帝の謀略戦
 劉秀に衝撃だったのは、建国の功臣である劉隆(二十八星宿十六位)も不正に連座したことで、周囲の者十数人を処刑し本人も庶人とせざるを得なかった。翌年に劉隆が南越討伐に派遣されているのは、その汚名払拭のためのようだ。
 劉秀の断固たる措置に汚職役人は打撃を受けたが、すると今度は郡や国の名門、豪族、群盗が次々と挙兵し、いたるところを攻め官吏を殺害した。汚職役人を粛清したところ、汚職役人と結託した土着豪族が、新しく刷新された役人を殺戮し脅迫を始めたのである。郡や県が軍を出して追いかけて討伐すると、軍の到着とともに解散し、軍が去れば集結した。ゲリラ戦を展開したのである。青州、徐州、幽州、冀州が最もひどかった。
 このゲリラ戦の戦い方は明白に農民反乱とは異なる。農民反乱は山林に集合して流浪するのであるが、この反乱では帰るところがあるのだ。それはもちろん豪族の邸宅である。今回の土地調査を、地方の豪族支配に対する中央政府による重大な挑戦と見なした豪族が、レジスタンス、あるいはサボタージュ作戦を始めたのだ。劉秀政権は挙兵当初より民衆反乱軍を自らの基盤にして、敵対する豪族政権を掃討して天下統一し、その後も一貫して民衆側に立った政治を進めていたが、ここでもまた豪族側の抵抗が始まったのである。
 劉秀は謀略を用いて対応した。使者を郡国に派遣し、群盗が仲間を訴えて五人につき一人を斬ればその罪を免除した。官吏で現地に赴任せずに道中で待機した者、敵から逃げた者、敵を放した者も、みな罪を問わず、これから敵を討って捕らえれば功績とした。現職の牧、太守、県令、亭長で、境界内の盗賊を捕らえなかった者、恐れて城を他人に任せて逃げた者、みなその責任とせず、ただ賊を捕らえた数の多少を重要とし、かくまったもののみを罪とした。
 さらにかつて赤眉戦で鄧禹軍随一の猛将と知られた張宗を派遣すると、その武威を恐れ、お互いを斬り捕まえて降伏するものが数千人となり、青州、徐州は戦慄した。
 こうして賊は次々と解散した。賊の首領を他の郡に遷し、公田を与えて生業につかせた。これより平和が訪れた。牛馬は放牧され邑の門も閉ざされることはなくなったと伝えている。
 この豪族反乱は、豪族が指導者とはいえ実行部隊は一般民衆である。劉秀はそこで豪族をねらい打ちにするため、かくまった者の罪を問い、首領である豪族の力を奪うため、豪族を他の郡へと転居させて民衆との連結を断ち切り、民衆の罪は問わないで済むようにしたのである。
 劉秀得意の敵を分裂させて自滅させる謀略を採用したのである。この謀略であるが、情報戦の達人耿弇の助言があったかもしれない。というのは、耿弇は列侯として朝廷におり、問題が発生するたびに顧問として策略を献じたとされ、しかも乱の発生した青州こそは、耿弇がかつて平定した張歩の領域だからである。
 
史家もまた豪族であること
 この土地調査については、失敗に終わり二度と実施されなかったと伝統的に解釈されてきた。その理由はただ土地調査についてこの後にまとまった記述がないこと、劉秀が豪族出身であるという先入観のためであった。しかし近年の研究の結果その評価は反転し、土地調査は大成功であり、後漢では定期的に行われるようになったとするのが有力だ。
 たとえば『後漢書』五行志には建武十七年(西暦41年)のこととして「各郡は新しい税が定まった後であったため(諸郡新坐租之後)」とあり、この土地調査の後に新しい税制が全国的に施行されたことがわかる。また『武威漢簡』には建武十九年(西暦43年)の記録に「度田は五月に行い、三畝以上の隠匿については……」という記録がある。さらに次の明帝の時代には田畑を過大に申告して、役人が統治成績を高く申告しようとして処罰されるというケースが劉般伝に記載されている。その次の章帝の時代には、秦彭が田畑の質を三段階に区分して測るにように進言し、それが採用されてさらに精密化していくのである。
 土地調査についてまとまった記述がないのは、史家自身が土地調査によって取り締まられる大土地所有者であり、この画期的な政策も、儒家の視点では論ずるに値しない法家的な政策として無視されたためなのである。
 そもそも劉秀の統治下では、豪族の弾圧や取り締まりの記事が歴史的に希有なほど多く、酷吏伝を中心に十七件もの記録がある。それほど劉秀は豪族と激しく対立していたのである。
 二十世紀の歴史研究者は、劉秀は豪族に迎合し法を曲げたと非難する。ところが史書では儒家の歴史家が劉秀は法を苛烈に運用して豪族を抑圧した圧政であると非難しているのだ。イデオロギーがいかに恣意的な分析を生み出すのかの典型例であると言えよう。
 度田は中国史上初の土地、住宅、人口の全国統計調査である。そして後漢以後に度田に相当することを再開したのは隋の文帝であり、それは六百年近くも後のことであった。
 土地調査の二年後に、劉秀は有名な「柔道をもって治める」という発言する。かつてこれを土地調査の放棄と豪族への降服宣言であると悪意をもって解釈されたこともあったが、発言時期や場所から見ても豪族対策とは何の関係もなく、そのまさしく同じ月に起こった皇后廃立問題についての発言と考えられる。柔道の発言の年には既に新しい税が施行されたとあり、土地調査の問題は終わっているのであるから、この発言が土地調査と関係があると考えるのはひどいこじつけである。これは後にも詳述する。
 
韓歆の自殺問題
 この土地調査の経緯を理解すると、劉秀の治世の失敗の一つとされる、韓歆を自殺に追い込んだ事件の謎を解くことができる。
 韓歆は建武十三年(西暦37年)に大司徒となったが、その諫言があまりに激しく劉秀が怒ってしまい、建武十五年(西暦39年)一月、韓歆を罷免して帰郷させ、さらに問責までしたために、韓歆とその子は自殺してしまったという事件である。諫言だけで死に追いやったのは不当であるとして評判が悪い。
 司馬光は『資治通鑑』で、劉秀ほど寛容な君主ですら許容できなかったのは残念なことだと述べており、釈然としていないようである。
 史書には、劉秀が隗囂、公孫述と文書でやりとりしていたことを韓歆が非難したこと、今年は凶作となりましょうと、天を指し地を線を描き、激烈に諫言したことが記載されるが、なぜこれで劉秀が怒るのかかなり理解に苦しむ内容になっている。
 だがこれは土地調査と関連していたと考えると謎を解くことができる。
 土地調査では、南陽の豪族の大土地所有のごまかしが問題になったが、韓歆こそはまさに南陽の大豪族であり大土地所有者であるのだ。しかも韓歆の問責に強く反対した人物に鮑永がいるが、鮑永も土地調査のとき虚偽報告により罪を問われている。
 そして決定的なのはこの事件が建武十五年(西暦39年)一月のことだということ。「今年は凶作となりましょう」の今年とは、まさに土地調査の年のことなのだ。
 土地調査のような大事業を突然思いついて行動するはずもなく、数年前から練って協議していたはずである。それを示す証拠が、同じく南陽出身の大臣である大司馬の呉漢の行動である。呉漢は、妻子が田畑を買い集めて土地を広げているのを知ると、それらをすべて処分させた。自宅も古くなった部分を修理するだけで、新しい邸宅を建てようとしなかったのである。呉漢はこれから始まる土地調査に備えて身辺を整理していたことがわかる。
 劉秀はここまで温めていた土地調査の実行をこの年に決め、大臣たる韓歆に相談したのであろう。そしてその返答が、天を指し地を画し、土地調査などすれば天は怒り「今年は凶作となりましょう」というものなのである。劉秀が韓歆を帰郷させ問責したのは、土地調査強行の意志表示なのである。反対派の親玉が執行者のトップでは話にならない。そして、それに対して韓歆が自殺したのは、大地主豪族グループのリーダーとしての決死の抗議なのだ。
 韓歆自殺事件とは土地調査における豪族の抵抗の序章だったのである。
 
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