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公孫述、刺客を放つ
 建武十一年(西暦35年)六月、蜀への攻撃は北からも行われた。
 中郎将来歙、虎牙大将軍蓋延、揚武将軍馬成が進軍し、公孫述の将軍、王元、環安と戦い、河池、下弁を陥落させ、勝ちに乗ってさらに進撃した。
 環安は恐怖し非常手段に訴える。刺客を送って来歙を刺したのである。来歙は刀を刺されたまま蓋延を呼び寄せた。蓋延はまだ刀が刺さったままの来歙を見ると、突っ伏して涙を流し仰ぎ見ることができなかった。来歙は蓋延を叱咤していった。
虎牙(蓋延)よ。なんとしたことか。いま使者は刺客に刺され、国に報いることができなくなった。ゆえに巨卿(蓋延)を呼んだのである。軍事を任せようと思っていたのに、かえって女子供のまねをして泣き崩れるとは。刃が刺さっているとはいえ、兵を指揮できないのなら公を斬る!
 蓋延は涙をぬぐって立ち上がり、印綬を受け取った。来歙はみずから書をしたためた。
みなが寝静まった深夜に、何者か賊が臣に傷を負わせ、臣の急所を突き刺しました。臣は決して自らの命を惜しみませんが、職務を全うできず朝廷を辱めたことが心から無念であります。国を治めるには賢者を得ることが土台となります。太中大夫の段襄は硬骨にて信用ができますので、陛下のご判断を願います。また臣の兄弟は愚か者で、いつか罪を得るのではないかと心配です。陛下が哀れみをもって、ご指導して頂きたくお願いします
 ここまで書くと筆を置き、体に刺さった刃を抜き絶命した。
 劉秀は聞いておどろき、書を呼んで涙し、策を賜っていった。
中郎将来歙、戦い攻むること年を連ね、羌、隴を平定し国を憂いて家を忘れ、忠孝は顕著である。害に遇いて命を落とし、ああ、哀しいかな
 太中大夫をして、来歙に中郎将、征羌侯印綬を贈り、諡して節侯とし、謁者に葬儀を行わせた。喪が洛陽に帰ると乗輿はそふくで葬儀を弔った。来歙の羌、隴を平定した功績を記念して、汝南の当郷県を征羌国と改名した。
 蓋延は河池を破れずにいたが、病気で帰還した。
 馬成は来歙に代わり中郎将となり、武威将軍劉尚らを率いて、河池を破り武都を平定した。隴西太守馬援が先零羌を撃ち破り、天水、隴西、扶風に移住させた。
 
神速の兵団
 公孫述は延岑、呂鮪、王元と弟の公孫恢に蜀の全軍を与えて、広漢から資中を守備させた。また将軍侯丹に二万を率いさせて黄石で漢軍を拒ませた。
 岑彭は、多くの偽兵を用いて自分がここにいると敵に思わせて、臧宮に延岑らを拒ませおき、自らは江を下って一度江州に帰り、都江を逆上って侯丹を襲撃してこれを大破した。さらに昼夜を分かたず二千里余りを強行軍し武陽を抜いた。精鋭の騎兵を広都に派遣して嵐のように襲撃し、至るところの敵はみな逃げ去った。まさに電撃戦である。
 もともと公孫述は漢軍が平曲にいると聞き、大軍で迎え撃とうとしていた。岑彭が武陽にあらわれ、延岑軍の後方に回り込んだので蜀の地は震え上がった。公孫述は大いに驚き、杖で地を打ち叫んだ。
「これはなんと神技だ」
 
天子に降伏なし
 劉秀は公孫述に書を与えて、禍福を述べ、信義を守ることを約束した。
 公孫述は書を見て嘆息し、信頼する臣下である、太常の常少、光禄勲の張隆に見せた。常少、張隆ともに降伏を勧めた。
 公孫述は言った。
興るも亡ぶも天命である。天子に降伏などあり得ようか!
 側近も敢えて諌めようとする者はいなくなった。
 
臧宮の奇襲
 延岑が沈水にいた。このとき輔威将軍臧宮は兵が多いのに食料が少なく、輸送も間に合っておらず、降服した兵士は逃げ出そうとしていた。漢に降伏しようとした郡も傍観しようとした。臧宮は退却しようにも、反乱を恐れてできなかった。
 そこへ皇帝の謁者が、兵と馬七百匹を率いて岑彭に詣でようとしていた。臧宮はこれを知ると、皇帝の命令と偽ってその馬を手に入れ、昼夜に兵を進めて、旗さしものをたくさん立て、ときのこえをあげて山に登った。右に歩兵、左に騎兵、まんなかに水軍として声を上げて山谷に驚かせた。延岑は不意に漢軍がやって来たので驚き、山に登ってこれを見ると大いに震え恐れた。臧宮はその恐怖をついてこれを撃ち、大破した。首斬溺死者は一万人あまり、川の流れが血で濁った。劉秀は、爾書で臧宮をねぎらい、兵士たちには赤のかとり絹六千匹を賜った。
 臧宮が皇帝の命令を平然と偽造していること、そしてそれが全く咎められていないこと、ここにも劉秀と臧宮の信頼関係の厚さが見える。
 延岑が成都へあわてて逃げると、残りの兵士は降伏し、その兵馬珍宝を取り尽くした。勝ちに乗じて追撃すると降伏するものは十万を数えた。
 臧宮の軍が平陽郷につくと、蜀将王元が兵士を率いて臧宮に詣でて降伏した。
 
公孫述、第二の刺客を放つ
 公孫述は岑彭を恐れ、また以前に来歙の暗殺に成功したことから、間人(しのび)を用いて岑彭を暗殺しようとした。
 このとき岑彭は彭亡に陣営をひいていた。この名前を聞いて不吉に思い、陣を移そうとしていたという。その日の暮れに、蜀の刺客は降伏した奴隷になりすまして入り込み、夜なって岑彭は刺し殺された。
 岑彭の非業の死は、味方だけでなく敵にまで悲しまれた。岑彭は蜀での戦いにおいて、掠奪が一切なく、贈られたものすら受け取ろうとしなかったため、民衆の感謝と尊敬を集めていたのである。蜀の人は岑彭を憐れみ、武陽に廟を立て季節の祭を行うようになった。
 十二月、大司馬呉漢率いる水軍が公孫述を伐った。
 呉漢は夷陵に残って小型船を準備していた。岑彭の異変を聞いて、南陽の兵と囚人から募った兵士三万を率いて長江を逆上った。暗殺された岑彭の軍も併せて率いた。
 驚くべきことは岑彭から呉漢までの引き継ぎに混乱がなかったことだ。呉漢は岑彭と行動を共にしていたのではない。岑彭の死を聞いて駆けつけたのである。岑彭軍は岑彭の死後もしばらくは将軍不在のまま、最前線で孤立していたのである。これは岑彭軍の驚異的な軍紀の高さを示すものである。
 
呉漢の進撃と降服勧告
 建武十二年(西暦36年)一月、小さな星が百以上も流れ、あるいは西北へ、あるいは真北へ、あるいは東北へと向かい、二夜しておさまった。
 大司馬呉漢と、公孫述の将、魏党、公孫永と魚涪津で戦い、これを大いに破り、武陽を包囲した。
 公孫述は、娘婿の史興に五千を率いさせて武陽を救出させた。呉漢をこれを迎え撃ち殲滅した。呉漢は犍為の境界に入った。
 蜀の各県は迎え撃たずに籠城した。呉漢は軍を進めて広都を攻めてこれを抜いた。軽騎兵を派遣して成都の市橋を焼くと、武陽より東の小さな城はみな降伏した。
 この頃から蜀の将軍は恐懼し、日夜離反するものが出て、公孫述は離反者の家族を誅滅したが止めることができなかった。
 劉秀は公孫述を降伏させようと考え、詔を下して諭した。
かつてもこのような詔書を下し、恩と信を示した。来歙、岑彭を殺したからといって疑わなくともよい。いま自ら詣でれば、家族はみな助かる。迷って悟らず、死に行くのは、なんとも痛ましいことではないか。将軍は倦み疲れ、兵士も降伏を願い、長く戦場にいることを楽しまない。詔書は何度も出すわけには行かない。朕に食言はない
 公孫述はついに降伏の意を持たなかった。
 
呉漢の成都攻略
 七月、威虜将軍馮駿が江州を抜き、田戎を捕らえた。
 九月、呉漢が、公孫述の大司徒謝豊、執金吾袁吉を破って斬り、成都を囲んだ。
 劉秀は呉漢を戒めていった。
成都の十万あまりの兵は軽んじることはできない。ただ広都に入って堅く守り、敵が攻めてくるのを待ち、その鋭鋒とは争わないようにせよ。もしやって来なければ、公は陣営を進めて敵に迫り、敵の力の疲れるのを待ち、すなわち撃つことができる
 呉漢は利に乗じて、自ら歩騎二万余で成都に迫り、城から十里あまり、江の北に阻んで陣営をなし、浮橋を作り、武威将軍劉尚には一万余で江の南に屯させ、その距離は二十里あまりである。
 ここで突然、劉尚が出てきたがずっと呉漢に同行していたようである。
 劉秀はこれを聞いて大いに驚き、呉漢を責めていった。
勅命である。公は千条万端に考えねばならないのに、どうして事に臨んで慌て乱れるのか。すでに軽々しく敵に深く入り、また尚とは別に陣営をおいている。危急の事あれば、ふたたび会うこともできない。賊がもし兵を出して公を足止めし、大軍をもって尚を攻め、尚が破れれば、公もすなわち破れるのだ。幸いにもまだ無事ならば、急いで兵を率いて広都へ還るように
 詔書が届かぬうちに、果たして公孫述はその将軍、謝豊、袁吉におよそ兵十万を率いさせ、二十あまりの陣営を作り、併せて呉漢を攻めた。別に一万あまりを率いさせて劉尚をおびやかし、互いに共同できないようにした。呉漢は一日を大いに戦ったが、兵は持ちこたえられずに陣に逃げ帰り、謝豊に包囲された。呉漢は諸将を召して彼らを励まして言った。
わたしと諸君はともに険阻を乗り越え、転戦すること千里、いたるところで敵を斬り生け捕り、ついに敵地の奥深くに入り、その城下にいたった。しかしいま、劉尚ととも二箇所とも包囲され、すでに接することもできず、その禍は量り難い。軍をひそかに江南の尚に合流させ、力を合わせて防ぎたいと思う。もし心を同じく力をひとつにすれば、人はおのずから戦い、大功を立てることができる。もしそうならなければ、必ずやあますところなく敗れるだろう。成敗の機敏は、この一挙にある!
 諸将はみな言う。
「諾(承知した)」
 これにより兵士をもてなし馬に馬草を与え、陣営を閉じて三日出ず、旗さしものを多くたて煙が絶えないようにして敵を欺き、夜に馬に枚を含ませて劉尚の軍と合流した。
 謝豊らは気づかず、次の日、江の北に兵を分けて、自らは江の南を攻めた。呉漢は全軍で迎え撃ち、朝から夕方になり、ついにこれを大いに破り、謝豊、袁吉を斬り、兜首五千あまりを獲た。これにより広都へ戻り、劉尚を留めて公孫述を拒ませた。劉秀に状況を述べ、深く自らを譴責した。帝は知らせていった。
公(呉漢)は広都へ戻ったのは、とても優れた作戦だ。公孫述は劉尚を無理に攻撃せずに公を攻撃するに違いない。もし先に劉尚を攻めたなら、公は広都から五十里まで歩騎の全軍でおもむき、その危険と困難を適切に計算すれば、必ず破ることができよう
 この後、呉漢と公孫述は広都と成都の間で八戦し、八つとも呉漢が勝ち、ついに呉漢軍は成都城の郭中に入った。
 
男児、死中に生を求めよ・勇将延岑
 公孫述が延岑にたずねた。
こうなってはどうしよう
男児たる者まさに死中に生を求めるのです。座して窮してよいものでしょうか!財物はまた集められます。惜しんではなりません
 公孫述は金帛をことごとく与えて、決死の兵を五千人あまり集めた。それを延岑に配して市橋におらせた。延岑は偽の旗さしものをたて、鼓を鳴らして挑戦し、ひそかに奇兵を出して呉漢の軍の後ろに出て、呉漢を破った。呉漢は水に落ち、馬の尾まで濡れて逃げることができた。
 このころ輔威将軍臧宮は、綿竹を抜き、涪城を破り、公孫述の弟の公孫恢を斬り、さらに繁、郫を抜いた。前後で節を五つ、印綬千八百を収めた。
 呉漢軍は南から成都へと進撃したのに対して、臧宮軍は弧を描いて北から成都へ進撃し、挟み撃ちするようにして成都で合流したのである。
 臧宮は続けて大城を破り、兵馬旌旗に勢いがあり、それに乗じて小雒郭門に入り成都城下を通り抜け、呉漢の陣営に至り、酒を飲んで盛大に会合した。呉漢はそれを見てはなはだ喜び、臧宮にいった。
将軍はこのたび敵の城下を通り、威霊を震わせ揚げ、風のように行きいなずまのように照らした。しかし、追い詰められた敵は量りにくいもの、陣に帰るときは他の道を通ってください
 臧宮は従わず、ふたたび同じように帰ったが、敵もあえて近づこうとしなかった。

公孫述、最後の戦い
 十一月、臧宮の軍が咸門に到着した。公孫述が占いをすると虜が城下に死すと出た。大いに喜び、呉漢らがこれに当たるといった。
 張堪が騎兵七千匹で絹の輸送して、大司馬呉漢に合流して公孫述の討伐に加わった。道中に追って蜀郡太守を拝した。このとき呉漢の軍には七日分の食料しかなく、ひそかに船をそろえてこっそりと退却しようとしていた。張堪はこれを聞き、馬を馳せて呉漢に面会して、公孫述は必ず敗れるから退却はよろしくないと説いた。呉漢はこれにしたがい、わざと弱ったふりをして敵に挑むと、公孫述は果たしてみずから打って出てきた。
 公孫述はみずから数万の軍を率いて城を出て呉漢を攻め、延岑には臧宮を拒ませた。激しい戦いとなり、延岑は三戦して三勝した。勇将延岑の面目躍如である。
 対して呉漢は護軍の高午、唐邯らの精鋭数万で公孫述を迎え撃った。朝から日中に及び、軍士は食べることができずに疲れた。呉漢は壮士に命じてこれに突撃させると、公孫述の兵は大いに乱れた。護軍高午が敵陣に飛び込んで、公孫述の胸を矛で刺し馬から落とした。側近が輿に載せて城に戻った。公孫述は延岑に兵を与えて、その夜に死んだ。
 明くる朝、延岑は呉漢に降伏した。呉漢は公孫述の首を斬って洛陽に送った。さらに公孫述の妻子を殺し、公孫氏の一族を皆殺しにし、延岑とその一族も皆殺しにした。兵を放って大いに略奪し、公孫述の宮殿や成都城内を焼き払った。長期の遠征で呉漢軍は既に狂暴化が止まらなかったようだ。
 劉秀はこれを聞いて怒り、呉漢を譴責した。また呉漢の副将の劉尚もなじった。劉秀の心づもりでは一族の劉尚に呉漢の制御役を期待していたようだ。
城が降って三日たち、官吏も民衆も降服している。赤ん坊や老いた母など一万人を数えるのに、兵に略奪と放火をさせるなど、聞くだけでも痛ましいことだ。使い古した箒ですら自分のものなら大切に思うもの(家有弊帚,享之千金)、火を放てば何もかも失ってしまうではないか。尚は宗室の子孫で、まして官吏として民を治めたこともあるのに、どうしてこんなことができるのか。天を仰ぎ見て、伏せて地を見て考えよ。春秋時代の孟孫が母鹿の哀れんで子鹿を放した故事と、魏の将軍楽羊が自分の子を煮たスープを吸った故事、この二つのどちらが仁だろうか。将軍を斬って人を弔うという戦いの信義を失っている
 この劉秀の言葉から「敝帚自珍」あるいは「敝帚千金」という成語が生まれている。劉秀は呉漢が略奪を行うことまでは想定できていたが、まさか火を放つとは思っていなかった。略奪は金目の物を奪うだけだからまだしも、放火すれば、使い古しの箒のような、他人には価値はないが本人には思い出が詰まった大切なものまで失われてしまう。それは本当に残酷なことだというのである。
 成都が陥落すると、張堪は城に入り、倉庫を検閲しその珍宝を回収して、記録して上奏し、一つとして自分の物にしなかった。民衆を慰撫したので蜀の人は大いに喜んだ。また再反乱を考慮し臧宮を広漢太守として蜀の地に残すことにした。
 かつて常少、張隆は公孫述に降伏を勧めたが容れられず、憂いの中で亡くなった。劉秀は常少に太常を、張隆に光祿勳を追贈し、礼を持って改葬した。忠節の士を称えたのである。また程烏、李育の二人の将軍が才能優れていたので用いることとした。こうして益州の民心は落ち着いていった。
 公孫述は軍事に政治に極めて有能であっが、惜しむらくは猜疑心が強く、一番重要な地位は弟二人をつけ、さらに二人の子供を王にするなど、一族で独占した。さらに延岑、田戎など外様の将軍を重用し、地元の益州の人間を使わなかった。これが人望を失う原因となった思われる。
 公孫述と運命をともにした延岑は、負けた側の宿命として敗戦が多いものの、延岑はこの時代における第一級の勇者であったようだ。かつて耿弇が張歩と戦ったとき、あの善く戦う延岑にすら勝ったと挙げられており武勇の代名詞的存在であった。最期に臧宮を三度も打ち破りその力を見せつけたが、自ら降伏したにもかかわらず最期は呉漢により一族皆殺しという非業の死を遂げた。
 
公孫述の国力は三国志の魏に匹敵するほど強大だった
 どうして公孫述は徹底抗戦したのか。そこには国力差が意外に少なかったことがあげられる。
 領土という観点から言えば、公孫述は益州の一州に過ぎず、天下十三州の残りをすべて平定している劉秀と比べれば、12:1となり全く勝負にならないように見える。しかし問題は領土の広さと国力には大きな違いがあることだ。
 漢書の地理志の人口数によると益州の人口はおよそ五百万人である。ただし益州郡は新の時代に長期の戦いがあり、人口が減ったと考えられる。しかしその他の地域では戦乱は公孫述の手腕により早期解決しており、人口減はなかったと考えられる。逆に、田戎、延岑など中原からの逃亡軍団が多数あり、ともなう難民の流入などを考えると人口は増加したとも考えられる。
 難民の流入による人口変動の例としては隗囂軍が挙げられる。天水の統計人口の数倍の兵力を擁していたが、その人口のほとんどが長安からの避難民から形成されているからである。これは赤眉、銅馬などが固定した領土なしに百万近いのと同じ原理である。
 従って、公孫述の成蜀の人口は三百万以上、五百万以下と見てよいだろう。
 対して、劉秀が後漢を統一した時の人口は千五百万人と推定されている。ここから成蜀の人口を引くと、劉秀の後漢の人口は千二百万から一千万人ということになる。
 すなわち、後漢vs.成蜀の国力差は、およそ2倍から4倍となり、領土差ほど圧倒しているわけではないことがわかる。ここに隗囂の隴西が加われば、更に差が縮まり、公孫述の野心が簡単に消えない理由もわかるだろう。
 劉秀の領土が広さに対して人口が少ないのは、その領土が緑林、赤眉、銅馬が暴れ回った地域そのものであり、土地が荒廃しきっていたからである。それに対し、公孫述の領土はいち早く貨幣流通にも成功し、その豊かさで知られていた。
 ちなみに三国志の魏の人口は四百四十三万人という記録があるから、公孫述の勢力は三国志の曹操に匹敵するものと言えるのである。
 
最後の強敵としての公孫述
 公孫述は、軍事においても規律の高い軍隊を作って鮮やかに蜀を統一したし、後の隗囂を援護する戦いでもたびたび謀略を駆使して、後漢軍を苦しめている。策士としての第一級の人物である。
 最後の戦いでも、既に六十を越える年齢でありながら、自ら馬上の人となり武器を取って前線で戦っている。相当な勇将と考えられる。
 公孫述はこそは、劉秀の建国物語の最後の強敵として描くにふさわしい人物である。ちょうど性格も劉秀と正反対であり、自分の信じる正義のために無実の人間を犠牲にすることをいとわない冷酷さを持っている。三国志演義における曹操に似た人物なのである。
 公孫述が低く評価される最大の原因は、馬援の「井の底の蛙」の評である。しかしこれも小説ならば、特別な解釈も可能であろう。すなわち、馬援は本当は刺客であり劉秀を暗殺するために面会したと考えるのである。
 暗殺のために劉秀と護衛なしに対面する、そのための芝居が馬援と公孫述の面会の様子と考えるのだ。馬援が護衛をぎっしり並べた宮殿で公孫述と面会し、それを馬鹿にして「井の底の蛙」と言ってから劉秀に会いに行けば、劉秀は当然、公孫述と逆の対応をすることになる。暗殺には絶好の機会を作ることができるのだ。
 そもそも馬援と公孫述は同郷の幼なじみであり、特別な関係なのであるから、こうした想定は決して荒唐無稽ではないと思う。

 
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