↑↑
馬武を誘う
 馮異軍と最も対照的だったのが謝躬軍である。
 謝躬軍は劉秀軍と合流し共同して邯鄲を平定したが、謝躬の将軍は略奪が激しく財物を独占したため、劉秀とその部下は深く彼らを忌み嫌った。
 劉秀軍と謝躬軍はともに邯鄲にいたが、城内で場所を分けて住んだ。
 劉秀は、謝躬や馬武ら謝躬軍の将軍たちと酒宴を催し、その場にて謝躬を殺そうとしたが、機がなくできなかった。宴会が終わってから、劉秀は旧知である馬武を呼び二人で叢台に登り気楽な感じに言った。
わたしは漁陽、上谷突騎を得たので、できれば将軍に率いてもらいたいと思うのだがどうかな
怯懦にして方略がありません
将軍は将たることが久しく兵を習熟している。どうしてわたしの役人たちと同じであろうか
 劉秀がこういうと馬武は喜び、劉秀に心を寄せたという。
 謝躬は邯鄲を引き払って鄴に戻った。馬武も謝躬に従って鄴に戻った。
 
銚期の提言・皇帝になれ三回目
 銚期は虎牙大将軍となった。
 あるときひまを見て銚期が言った。
「河北の地は辺境に接し人は兵戦に習熟し精勇であると号しています。いま更始が政治に失敗し、漢の大統はほとんど危うく、民衆は行き場を失っています。明公(との)は黄河と山岳の防壁に拠り、精鋭の兵士を擁しており、万人の漢を思う心に従えば、天下にあえて従わないものがありましょうか」
 劉秀に皇帝になれというのである。しかし劉秀は、
「卿はあの言葉の通り(薊を脱出するとき銚期が皇帝を示す言葉を使ったこと)、自分が先触れになりたいと言うわけだ」
 こう冗談を言って笑ってごまかしてしまった。
 
劉玄の帰還命令を拒絶・皇帝になれ四回目
 王郎討伐成功を聞いた更始帝劉玄から、侍御史の黄党がやって来た。
「大司馬の秀を蕭王とする。兵士を解散させ、功績を立てた将軍たちとともに都に帰還せよ」
 との詔である。さらに苗曽を幽州牧、韋順を上谷太守、蔡充を漁陽太守として遣わして交代させようとした。
 次の日、劉秀は邯鄲宮の温明殿で昼寝していた。耿弇が寝台の下まで入り時間を請うて言った。
「吏士の死傷者が多いので、上谷に帰って兵力を増やしたいと思います」
「王郎は既に破れ、河北も平定されつつある。国家は長安に都を置き、天下は安定してきたのに兵力を増やしてどうするのか」
「王郎は破れましたが、天下の革命は始まったばかりです。今、使者が来て兵士を解散するように言っていますが従ってはなりません。銅馬や赤眉などは数千万人もおり、誰も止めることができず、聖公(劉玄)には何もできず、遠からず敗れるのは確実です」
 劉秀は起きあがって座り言った。
「卿は失言した。卿を斬らねばならん」
 皇帝を平然と字で呼び、失敗すると公言したのだからただ事ではない。
「大王はわたくしを哀厚すること我が子のようですので、思い切って本心を明かしたのです」
「わたしは卿をからかっただけだ、しかしなぜそのようにいうのか」
「民衆は王莽に苦しみ、劉氏を再び思っており、漢兵が挙兵したと聞いて、喜んで従わないものはいませんでした。虎の口から逃げて、慈母のもとに帰ることができたようであり、それで武器を捨てたのです。明公(との)は南陽の挙兵の首謀者であり、昆陽では百万の軍を破り、今、河北を平定し、義をもって征伐し、善をたたえ悪を懲らしめ、自らを厳しく戒めましたので、命令を出せば誰もがすぐに応じます。天下は至って重いもの。公は自ら取るべきで、他姓(劉氏以外)に与えてはなりません」
「卿の言葉は人倫の道から外れている」
「このような重大なことは、人倫を守るわけにはいきません」
 この耿弇と、前の銚期の進言は、どちらも劉秀に皇帝になるように勧めたものである。『東観漢記』は将軍たちは劉秀に皇帝になるように述べたが劉秀は却下した(諸將議上尊號,上不許。)と記録している。
 劉秀は侍御史の黄党に言った。
「河北は平定されておらず、これを放置すれば天下の憂いとなるでしょう。将軍は任地においては、帝王の命令であろうとも従わないことがあると聞いています。秀(わたくしは)は将軍として群賊を討伐してその後に陛下の命に帰したいと考えます」
 劉秀は蕭王の位は受けたものの、帰還については河北がまだ平定できていないことを口実にして断ったのである。

呉漢が幽州から大軍を連れて帰還
 劉秀は河北の完全平定に乗り出そうと考えた。劉秀は幽州の兵を発進させようとした。
 夜に鄧禹を召した。
「いくどか呉漢と話をしましたが、勇鷲にて智謀があり、彼ほどの適任者はおりません」
 呉漢と耿弇を大将軍として派遣し、北の十郡の突騎を集めることとした。
 劉玄が任命した幽州牧の苗曽は、これを聞いてひそかに兵を調え、諸郡に劉秀の命令に応じないように要請した。
 呉漢は二十騎を率いて先に無終に馳けつけた。苗曽は呉漢に何の備えもないのを見て道中まで出迎えた。呉漢は騎兵を指揮して苗曽を捕らえて斬りその軍を奪った。耿弇もまた上谷につくと韋順を捕らえ、蔡充を斬った。北州は一帯はこれを聞いてみな二人に服従するようになり、その兵力を出動させて南に向かうことになった。
 この間に、劉玄の帰還命令を無視した劉秀は、その拒絶の言葉通り反乱軍の討伐を始めた。
 更始帝二年(西暦24年)秋。
 河北最大の農民反乱軍である銅馬軍数十万の兵士が清陽、博平に侵入したことを聞いて、将軍を派遣して迎え撃たせた。
 鄧禹は騎兵を率いて蓋延らと銅馬を清陽に攻撃、まず蓋延が戦ったが、戦いは不利で兵をまとめて退き、清陽に入城した。銅馬軍がこれを包囲したが、そこで鄧禹が銅馬軍と戦い包囲を崩し、その将の一人を生け捕りにした。
 銚期と将軍たちも銅馬を迎え撃ち、連戦するも不利で、そこで銚期は背水の陣を引いて戦い、非常に多く殺傷した。このとき劉秀が救援に来て銅馬軍を破って退けた。
 こうして銅馬と一進一退の戦いが続くとき、呉漢、耿弇が幽州の突騎を率いて清陽で合流した。
 諸将は呉漢が帰ってくるのを望み見た。兵馬は大軍で士気も盛んだ。将軍たちはこの強力な援軍を見て、呉漢が兵士を引き渡すはずがないと恐怖したが、呉漢は幕府に入ると兵士の名簿をすぐに献上した。すると将軍たちは争って兵士を分けてくれるよう申請した。劉秀はからかって笑って言った。
「さっきまで兵士を分けてくれないと恐れていたのに、いま請うところがまたどうして多いのかね」
 諸将は恥じつつも呉漢の信義に感服したのである。
 
銅馬戦の長い戦い
 援軍を得た劉秀はここから持久戦に変更する。銅馬軍はたびたび挑発してきたが、劉秀軍は堅く自らの陣営を守った。そして銅馬の兵士が食料を集めようとすると、ただちに攻撃して奪い、その糧道を断った。
 これに対して劉秀軍には常山へ帰っていた常山太守鄧晨から、精鋭の弓手千人が合流した。常山郡からは劉秀軍への物資補給が絶えず送られてきた。
 一月と数日たつと、銅馬軍は食料が尽き、夜に逃げ去った。劉秀は全面攻勢に出た。耿弇が精騎を率いて軍の先鋒となり敵を撃ち破り敗走させた。さらに魏郡館陶まで追いかけて撃破するも、今度は、高湖と重連(二つとも農民反乱軍の名称)が東南からやって来て銅馬軍と合流した。劉秀はふたたび蒲陽で大いに戦い、ことごとく打ち破って降服させた。
 さてここで注意したいことがある。それは銅馬戦における戦場の広さである。
 銅馬の最初の戦いの地点から地図を追っていこう。するとわかるのは想像以上に広い範囲で戦っていることである。清陽、博平、魏郡館陶、蒲陽と戦場が移動している。清陽は冀州だが博平は兗州で黄河沿いで、館陶はその50kmほど西南であるが、蒲陽は中山国の北部にあり、北の幽州との境界沿いであり、270kmも離れている。ほぼ冀州全域を追い回すように戦っていたことがわかる。おそらく劉秀は、銅馬軍を殲滅する意図はなく、徹底的に追い回すことで戦意を喪失させて降伏させることを狙っていたのではないかと思われる。
 
赤心を推して人の腹中に置く・銅馬軍の降伏
 劉秀は、降伏するものは必ず助けるという方針通り、降伏した渠師(頭目)たちを列侯に封じた。
 しかし『東観漢記』はこの状況について「劉秀の将軍も未だ銅馬軍を信じることができず、降服した銅馬軍も二心を抱いていた」と記す。銅馬軍は劉秀軍よりも遙かに数が多いため、降伏といっても実際には停戦協定、あるいは和平協定に近いものであった。
 諸国を流浪する農民反乱軍である銅馬軍は、長い戦いに疲労し劉秀に降伏したものの、戦いの混乱と興奮から冷めたとき、彼らの間では恐怖と不信が渦巻いていた。問題は兵力差である。敗者の兵力が勝者よりも圧倒的に多いのだ。こんな時に何が起こるか。
 かつて戦国時代の秦の将軍白起は趙の将軍趙括と長平に戦って破りその四十万の捕虜を生き埋めにした。楚の項羽は秦の章邯と戦って破り新安で捕虜二十万を生き埋めにした。後の時代の曹操も官渡の戦いで袁紹軍八万人を皆殺しにした。降伏兵が多すぎると降伏した将軍だけを助けて兵士は皆殺しになるのだ。銅馬軍の兵士たちは、降伏した自分たちの運命がどれほど危険か気づいたのである。降伏したのはこれで命が助かると考えたからなのに、まさに降伏することで死の時が近づいているのだ。銅馬の頭目はまさに劉秀軍に降伏に出頭していてここにいない。頭目は自分たちを売って命を助かろうとしている!
 これは決して杞憂ではなかった。劉秀の部下の将軍たちもほとんどが降伏の受け入れには反対であった。銅馬軍はたくさんの戦友の命を奪った仇敵である。彼らを受け入れるには大量の食糧も必要だ。また多すぎる兵力をどうやって制御するのか。劉秀の漢軍と銅馬軍は一触即発の状態にあった。両軍は未だ合流したわけではなく、離れたところに駐屯しているのだ。武装解除も行われていない。戦いが再開するのは時間の問題であった。
 劉秀はこの不穏な状況を正確に理解していた。飢えに苦しみ何度も敗走し疲れ果てた銅馬軍に、まともな戦意は残っていない。銅馬軍にできることは逃げることだけである。だがもしここで銅馬軍が逃げ出せば、劉秀軍の呉漢、耿弇らの突騎の猛追撃が始まる。それは逃げる銅馬軍を後ろから一方的に殺戮する修羅場となり、無数の死体が散乱する地獄絵図となるのだ。
 劉秀軍の攻撃を警戒しざわめきの収まらぬ銅馬軍の元に、降服の交渉に行っていた頭目たちが、劉秀軍の元から帰還してきた。いつ再起するのか、あるいは逃亡するのか、多くの兵士たちが立ち上がり駆け寄ろうとする。そのとき銅馬軍の兵士たちは、鎧を着ずにただ一剣を帯びた男が単騎、頭目たちの後ろに続いて銅馬軍の陣中に入るのを見た。何とそれは蕭王劉秀、敵軍の総大将である。
 そして劉秀はそのまま銅馬軍の中を巡回し始めたのである。
 仰天したのは銅馬軍である。あっけにとられて静まりかえる銅馬軍の中を、まるで見せつけるように悠然と巡り、自軍の陣地に戻ろうとしない劉秀の姿に、銅馬軍の兵士はその意味を理解する。
 
――この男は俺たちを守るためにここにいるのだ!
 
 総大将たる劉秀が数十万人の銅馬軍の真っただ中にいるのである。これでは劉秀軍の攻撃があるはずがない。劉秀がここにいるのはただ銅馬軍を信頼しているというだけではなく、劉秀軍から銅馬軍を守るためにここにいるのだ。銅馬軍のざわめきは、歓呼の叫び声へと変わった。
 
「蕭王(劉秀)は真心を持って人を信じて疑わぬ、この男に俺たちの命をかけようじゃないか!(蕭王推赤心置人腹中,安得不投死乎!)」
 
 劉秀は降伏した銅馬軍との約束を自らの命をかけて守って見せたのである。殺されるために降伏する馬鹿はいない。降伏を受け入れるとは、命を助けるという約束であり、劉秀はその約束を身をもって証明して見せたのだ。
 これを見た劉秀の部下も驚愕したであろう。いざ銅馬軍を全滅させるべく攻撃かというとき、銅馬軍は大歓声とともに何と自らの大将である劉秀に率いられてこちらに向かってきたのである。そして銅馬軍は無事、漢軍と合流し諸将に分配され、劉秀の天下統一の主要戦力となるのである。
 このエピソードの名声は高く、長く後の世にも伝えられ、推心置腹(赤心を推して人の腹中に置く)という故事成語として知られるものとなる。
 この後、更始帝劉玄の長安朝廷では劉秀のことを銅馬帝と呼んだ。これは劉秀が銅馬軍のために命をかけたことを揶揄したものだ。当時の劉秀はあくまでも蕭王、王であって帝ではない。銅馬軍を降伏させたというが、実際には銅馬に降伏して銅馬軍のお飾りの皇帝になったんだろう、といった皮肉を込めているのである。
 銅馬が降服すると、陳俊を彊弩将軍とし真紅の衣九百着を与え、精鋭の歩兵部隊を編成して訓練させた。この時期と名称から考えると、銅馬軍の兵士から屈強の者九百名を選抜して彊弩を武器とする精鋭の歩兵部隊を編成したようである。
 またここ地でかつて劉秀の部下であった馬成(二十八星宿の十七位)が合流した。馬成は劉秀が河北に向かったことを聞いて官職を捨てて単身徒歩で劉秀を探し求めていたのだが、ここでやっと合流できたのである。期門に任命され征伐に従った。
 
射犬の戦い・勇将たちの活躍
 河北最大の銅馬軍は降伏したものの、農民反乱軍はまだまだ多い。赤眉の別動隊と青犢、上江、大彤、鉄脛、五幡の十万余りの兵が河内の射犬にいた。
 劉秀は謝躬に言った。
わたしが賊を射犬まで追えば賊は必ず破れます。すると山陽にいる尤来は驚いて逃走するでしょう。君の威力をもってすれば、尤来を撃って敵ども蹴散らし必ずや生け捕りにできるでしょう
 謝躬はそれをすばらしい戦略と考えて同意した。
 この頃の謝躬は何を考えていたのか。既に劉秀は皇帝劉玄の帰還命令を無視し、さらに劉玄の任命した幽州牧や太守を殺しているのである。たが劉秀は常に謝躬に礼儀正しく丁寧に応対し、官吏として職務に熱心な謝躬を「謝尚書は真の官吏である」と称えた。そのため劉秀を疑わなかったという。例によって劉秀の天才的な演技力が発揮されたようである。
 劉秀は南に向かい、青犢を射犬にて攻撃した。ここでも激しい戦闘が繰り広げられた。
 耿純の軍が主力より数里前方にいた。敵が夜襲をしかけ、陣営中に雨のごとく射かけ、兵士が多く死傷した。
 耿純は私兵を指揮して固く守って動かなかった。
 さらに耿純は決死の兵二千人を選び、強い弩と三本の矢を持たせて馬に枚を含ませて間道を進み、敵の後ろに回りこんで、声をそろえて呼び騒ぎ、彊弩を発射すると、敵軍は驚いて逃走し、追撃してこれを破った。そして早馬を送って事態を劉秀に告げた。
 劉秀は次の日の昼に諸将とともに耿純の陣営に着き、ねぎらって言った。
「昨夜は苦しかったか」
「明公(との)の威徳を頼り、幸いにも全うできました」
「大軍は夜に動かすべきではないから、救出に向かわなかった。軍営の進退には一定したものは無く、何が起こるか分からぬ。卿の一族が全員軍中にいるというのはよくない」
 面白いのは劉秀が救出に向かわなかったことを言い訳していることだ。劉秀は大将として全軍を見渡し、部下の将軍が苦戦すると自ら出撃して救出したが、このときそれが出来なかったことを気にしていたようである。
 耿純の一族の耿伋を蒲吾の長とし、耿一族をそこに居住させた。
 射犬の戦いで最も勇戦したのが銚期と賈復である。
 敵が銚期軍の後尾の輜重部隊を襲った。銚期は馬を反してこれを撃ち、その手で殺傷すること数十人、体には三つ傷をこうむったが力の限り戦い、打ち破って追い払った。
 射犬での青犢との戦いは正午まで続いたが一進一退し、敵の陣は堅く破れない。
 劉秀は賈復を呼んで言った。
「兵士は飢えている。朝飯にしよう」
「先に打ち破ってから食べましょう」
 賈復はそう言うと、鎧を重ねてみずから先頭に立って敵陣に突入し、敵の大将に向かって一直線に前進し、立ち向かう者を次々と打ち倒した。
 向かうところ敵無く、賈復に立ち向かう者はことごとく打ち砕かれ、敵軍は敗走した。これを見た劉秀の将軍は、一人残らずその武勇に心服した。これがいわゆる「朝飯前」の語源であるという。ところでこの時代は一日二食で、朝食は朝早く食べるわけではないので誤解なきよう。
 またここで劉玄の騎都尉であった劉隆(二十八星宿の十六位)が合流した。南陽の安衆侯劉崇の宗室で、昆陽の戦いをともに戦った人物である。休暇を取って郷里に帰り、妻子を連れて洛陽まで戻って来たときに、劉秀が河内に来ていると聞いて劉秀の元に単身で向かったのである。劉秀は劉隆を騎都尉として馮異らとともに河内に駐屯させた。しかしこれを聞いた洛陽の李軼のため妻子を殺されてしまった。
 劉秀の家臣は、家族を命を大切にする家族優先派と、家族に無頓着な功名優先派との二種類に分かれるようだ。戦場で必死に姉妹を助けようとした劉秀、劉秀に捕まったとき母を連れて降服したいと放免を願い出た馮異、母に仕えて孝行が称えられた鄧禹、人質になった母と妻のため王莽軍のため死力尽くした岑彭、父のために三年の喪に服し内通者を母とともに家族のもとに送った銚期、母が亡くなると自ら土を負って運び墳墓を作った祭遵などは家族優先派だ。
 対して漢軍に身を投じて家族を皆殺しにされた傅俊や劉隆、人質になった家族を無視した李忠と邳彤、挙兵時に親族を失った李通、家族ごと戦場を連れて動いた耿純、妻の殖財を嫌った呉漢などは、功名優先派と言えよう。
 興味深いのは家族優先派の全員が、略奪を禁止するなど軍の紀律の高さを称えられる名将であることだ。逆に功名優先派の呉漢や傅俊は略奪がひどく問題になったし、劉隆は税金の不正で免職されたことがある。
 すなわち、家族を大事する人間こそ、人命の尊さを理解できるのだということを教えてくれる。後に後漢王朝では、孝廉という親孝行であるかどうかで官吏へ推挙する基準を採用している。官吏を選ぶのに親に孝行な者というのは、現代人からすると意味不明に思われるが、身近な人間を愛する人間こそ、他人である民をも愛することができるのである。
 
河内平定
 河内郡を遊動する農民反乱軍を一掃し、劉秀は郡城に入ろうとした。このとき河内太守は劉玄の家臣の韓歆である。韓歆は劉秀に抵抗して懐の城を守ろうとした。家臣の岑彭が諌めたが聞き入れない。馮異は衛文という奇計に通じた人物を劉秀に推薦した。衛文は使者となって韓歆を言葉巧みに説き、ついに韓歆は降伏した。
 しかし劉秀は韓歆の降伏があまりに遅いことに怒り、韓歆を太鼓の下におき斬ることにした。
 さらに岑彭を召すと、岑彭は兄劉縯に恩を受けながら、その恩に報じることもできず、劉縯が殺されたことを後悔していたという。そして弟である劉秀にその恩を返したいと。
 劉秀は岑彭を手厚くもてなして配下に加えた。南陽で棘陽県の長だった岑彭は、甄阜、厳説、劉縯、朱鮪、韓歆とめまぐるしく主を変え、そしてついに真の主たる劉秀に巡り会うことになる。岑彭は受けた恩は必ず返す信義に厚い義士であったが、それ故に返って不遇な生涯となり劉秀に到達するのが遅くなったようだ。
 岑彭は言った。
「韓歆は南陽の豪族で、剛直にして正義をゆずらず、用いるべき人材です」
 すぐにさっきまでの主であった韓歆を救い、恩返ししたわけである。韓歆は後に鄧禹の配下として活動することになる。
 
寇恂を河内太守に任命
 河内を平定したが、その南の洛陽には劉玄の大司馬朱鮪らの大軍がいた。また北の并州も安定しておらず、四方に敵があり、河内はとても守りにくい。
 鄧禹に問うた。
「諸将の誰に河内を守らせるべきだろう」
むかし高祖は蕭何に関中を任せ、西を顧みる憂いを無くしました。山東に専念でき、最後には大業が成し遂げられたのはそのためです。いま河内には黄河の防御があり、家も人口も多く、戦乱から免れており、北は上党に通じ、南は洛陽に迫るという要地です。寇恂は文武を兼ね備え、民衆を統率する才能があります。彼以外に使うべき者はおりません
 寇恂を河内太守、大将軍の権限を与えた。さらに馮異を孟津将軍とし、王梁を野王令とし、劉隆を騎都尉として寇恂に協力させ、南に洛陽を拒み北に天井関を守らせた。
 
謝躬をだまし討ちにする・二十八星宿揃う
 さて河内で青犢が劉秀に破れると、尤来は予想通り北の隆慮山に逃げた。謝躬は大将軍劉慶と魏郡太守陳康に鄴を守らせ、みずから諸将を率いて攻撃した。ところが追い詰められた尤来は決死の戦いを挑み、その勢いは猛烈で、謝躬は大敗して数千人の死者を出した。
 劉秀は謝躬が鄴から離れている隙をついて、呉漢と岑彭に鄴を襲撃させた。
 呉漢は弁士に陳康を説得させた。
 すると陳康は劉慶と謝躬の妻子を捕らえ、門を開いて呉漢らを迎え入れた。
 謝躬が隆慮山から鄴に帰ったが、陳康がすでに反したのを知らずにわずか数百騎で城に入った。呉漢の伏兵が彼を捕らえた。岑彭がすでに城中にいたので、謝躬は岑彭の舎に詣でて馳せて呉漢に告げた。呉漢が来たとき、謝躬は岑彭の前で平伏して、命乞いをしていた。岑彭はかつての同僚でしかも罪もない謝躬を殺せずまごついていると、呉漢が、
どうして幽鬼と語るのか
 と一喝して、その手で謝躬を打ち殺した。幽鬼、すなわちこの男はもう死んでいるはず、なぜ殺さぬのかというわけである。
 謝躬の兵士は降伏した。
 更始帝の大将軍呂植は淇園にいたが、これは岑彭が降服させた。岑彭は刺姦大将軍となり、軍紀を監察することになった。
 謝躬の率いた残りの将軍、龐萌、卓京、馬武も降服した。龐萌は侍中となった。
 謝躬が死んだと聞くと馬武は単騎で河内にいる劉秀の元に駆けつけて降服した。劉秀は大喜びし、身近に置くようになった。将軍たちと宴会になると馬武はすぐに劉秀の前に進み出てはお酌をして、劉秀も楽しそうだったという。馬武に元の兵士を率いて鄴に戻るように言ったが、馬武は地に頭をつけて断り、劉秀に随行して討伐軍に加わることになった。
 ここに二十八星宿の最後の一人、馬武(二十八星宿の十五位)もついに劉秀軍に合流する。これで二十八星宿コンプリート(全員集合)!である。
 
鄧禹の長安遠征軍の出発
 劉秀の河北平定が一段落したこの頃、劉秀はついに更始帝劉玄について対応を考える。
 このころ、赤眉が西に進んで劉玄の王匡、成丹、劉均などの将軍と河東や弘農で戦った。赤眉は大軍で王匡たちは防ぐことができない。
 劉秀は赤眉が劉玄を必ず破ると考え、それは関中を併合するチャンスであるが、自分はまだ根拠地も安定していない。そこで代わりに鄧禹を遠征させることにした。鄧禹を前将軍に任命し、より抜きの精鋭二万人を与え、さらに部下として連れて行きたい者を選ばせた。鄧禹は韓歆(岑彭が助けた南陽の人)を軍師に、李文、李春、程慮を祭酒に、馮愔(なかなか勇将だったらしい)を積弩將軍、樊崇(もちろん赤眉の首領とは別人)を驍騎將軍、宗歆を車騎將軍、鄧尋を建威將軍、耿訢(耿純の従兄)を赤眉將軍、左于を軍師將軍として率いて西に向かった。
 建武元年(西暦25年)一月、鄧禹は箕関から河東に入った。劉玄の河東の都尉は関を守って開かなかったものの、鄧禹は攻めること十日でこれを破り、輜重千乗あまりを獲た。進んで安邑を包囲した。しかしその後、数か月しても降伏しない。ここから鄧禹の西方への長い戦いの旅が始まることになる。
 
前のページへ 目次へ戻る 次のページへ