宗像神社例大祭その1  その2へ   その3へ


宗像神社

 寄居の中心を流れる荒川は、大雨の後には必ずといってよいほど氾濫し、流域に住む人々は、毎年のように、洪水の被害を被っていたといわれています。宗像神社は、そうした荒川を鎮め、舟の運行の安全を祈り、大宝元年(701年)に宗像大社(福岡県:沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮の総称)のご分霊を祀ったものと伝わっています。しかし、大変歴史のある神社ですが、その後、資料等で宗像神社という名は、明治の神仏分離まではないようで、かわりに「聖天宮」として繁栄してきたという記録が残っています。
 
 聖天宮は、弘仁十年(819年)に弘法大師が修行中に寄居を訪れ、象ヶ鼻の荒川岸壁の岩(残念なことに明治四十三年の台風で破壊)を見て、大海を渡る巨像の姿を思わせるということから、そこを霊地とし自ら聖天像を彫り、その後、その地に住む人々が、祠堂を設けてお祀りしたことに始まったと伝わっています。聖天宮は、男体を祀る上宮と、女体を祀る下宮があり、上宮が象ヶ鼻に、下宮が宗像神社と配祀されていました。聖天宮は、武将の信仰も厚く藤原基経、源頼義、源義家が戦勝を祈願したといわれ、また、鉢形城主の北条氏邦も、聖天宮を城の鎮守としていました。その後も、徳川将軍家から代々御朱印をうけ、二十石を除地として与えられていました。そういった聖天宮の繁栄から、宗像神社という名よりも、聖天宮下宮としての記録が多く残っているものと考えられています。ただ、聖天宮の信仰が盛んであった時代も宗像大社になぞらえ、下宮を辺津宮、下宮にある弁天社(現在の摂社にあたる厳島神社)を中津宮、上宮を沖津宮と呼んでいたようで、宗像神社としての信仰がそういった形で残っていたようです。

 明治維新を迎え、神仏分離が行われたのを機に、宗像神社と聖天宮は分離し、下宮の地は宗像神社の名にもどりました。その後、上宮も象ヶ鼻が国有地になったことから、別当寺であった極楽寺境内に移築され、聖天堂として祀られるようになりました。
 このような歴史をもつ宗像神社ですが、現在も五穀豊穣、家内安全、交通安全の神として、また寄居の鎮守として、地元の人々から信仰されています。

(氏子地域は9町、本町、中町、栄町、武町、茅町、花町、六供(宮本)、常木、菅原)

宗像神社

極楽寺



参考文献:埼玉の神社(大里・北葛西・比企)、埼玉のお寺


秋季例大祭 

 例大祭は、毎年春と秋に行なわれます。春季例大祭は、四月三日に神社で祭典が行われます。春季例大祭は祭典のみで鳳輦、山車の渡御等は行なわれません。秋季例大祭は十一月第一日曜とその前日の土曜に行われます。近年、渡御、還御は次のとおり行われています。年番町は、本町、中町、栄町、武町の四町内が交替で行います。付祭りの際は、本町から武町の間が歩行者天国となり、各町山車は、その中で曳きまわしを行ないます。

土曜 渡御 ○午後四時三十分 順次山車出発し、年番町の指示により山車を宗像神社前に曳きつける。
○午後五時三十分 各町氏子総代、親行事、行事(二名)、高張(二名)、神役(三名)宗像神社前に集合。
○午後六時 鳳輦、山車は年番町に設けられた仮宮へ向け宗像神社を出発。
○午後八時二十分 仮宮着。
日曜 祭典 ○午前十時 仮宮にて開始、各町氏子総代および親行事参列。
付祭り ○正午 各町山車は歩行者天国に集合 その後、歩行者天国内を巡行。
還御 ○午後四時三十分 年番町の指示により山車は仮宮前に順列を整える。各町氏子総代、親行事、行事(二名)、高張(二名)、神役(三名)、仮宮前に集合。その後、鳳輦、山車は宗像神社へ向け出発。
○午後七時三十五分 宗像神社着。

※ 新嘗祭は十二月十六日宗像神社で行なう。午前十時社務所集合。

(時間等は、年により変更になります。お出かけの際はご注意ください)



○渡御の順路(還御は渡御の逆順)




○渡御、還御の序列(本町、中町、栄町、武町の山車うち、年番町が先頭へ)

年番町山車 各   町
高張提灯
各   町
行事提灯
鳳 輦
神 官 各   町
氏子総代
各 町
親行事
宮 本
山 車
本 町
山 車
中 町
山 車
栄 町
山 車
常 木
山 車
武 町
山 車
茅 町
山 車

昔の例大祭

 現在、宗像神社例大祭として行なわれているこのお祭ですが、上記の歴史から、江戸時代までは「聖天宮秋祭」とよばれ、聖天様のお祭だったようです。実際に明治の神仏分離後も、昭和十年代まではお迎え(渡御)の日は、まず極楽寺の境内に全町の山車を曳きつけて、僧侶による護摩焚きを行い、神役や行事のみが宗像神社へ行き神主による神事を行い、その後町内巡行が行なわれたといいます。そのようなことから、各町山車のなかには聖天様のシンボルでもある二股大根の紋がはいった山車が残っています。武町山車の上部の六方幕常木山車の彫金は有名です。
 このお祭は以前、十二月十三日から、十六日に行なわれていました。十三日はお迎え、十四日は町の市日で、約三百件のお店が町にならんだといいます。十五日は祭典と付祭りが行なわれ、付祭りの際は各町山車の引き綱の間で、その年に流行したものなどを題材に仮装行列が行なわれ、大変に盛り上がったといいます。仮装行列は、平成の始め頃まで行なわれていましたが、現在は行なわれていません。十六日は、付祭りと新嘗祭が行なわれ、夜にお帰り(還御)が行なわれました。「寄居町の民俗」によると、お帰りは年番町内に設けられた仮設舞台で芝居が上演された後、行なわれたため、十二時過ぎにはじまり、終わるのは明け方の四時、五時になってしまったそうです。戦前は上記の様な、仮設舞台での芝居の上演、また、見世物小屋も七、八軒たてられ、たいへんにぎわったといいます。「寄居町史」によると、明治四十三年、十二月十八日の「埼玉新報」では「同祭の名声は秩父妙見祭(秩父夜祭)に次ぎ関東に知られたる」と報じたとあります。
 しかし、第二次大戦がはじまると、どこの町も同じだったとことと思いますが、祭どころではないという時代だったため、山車を出し、にぎやかなお祭を行なうということができなかったそうです。また、昭和四十年代にも、交通事情から数年間、山車を出すことができず、変わりに、トラックにぼんぼりや提灯をつけて、「自動車山車」として、渡御、還御を行なったこともあったそうです。
 その後、昭和五十三年に、日程が十二月から十一月二日、三日、四日に変更され、平成に入り十一月二日、三日に変更、さらに平成十八年より十一月第一日曜とその前日の土曜に行なわれています。

参考文献:寄居町史、寄居町の民俗

戦後間もない頃の写真。茅町の仮装で仁田四郎の猪狩を題材につくられた物のようです。 付祭りの際は、写真のように引き綱の間に仮装行列、曳き物がはいりました。

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