平成22年6月9日 開始
平成27年12月1日 更新


● 「防府市文化財郷 土資料館」にて





「資料館」は、しばしば、変更して展示されますので、「ホームページ」での「紹介」は中止します。
直接=Aおでかけくださるよう、お勧めします。

ただ、「他のページ」に、この「ページ」をリンク設定している関係で、
三坂圭治氏に関することのみは、残しておきます。




「 防府市文化財郷土資料館」のメイン≠ニもいう べき「国 府・国衙」の研究は、
三坂圭治(明治38年3月14日〜平成5年11月16日)が、
昭 和4(1929)年に東京帝国大学を卒業して間 もない昭和8(1933)年に、「 積文館」から、体系的にまとめられた 『周防国府の研究』 を出版され、「周防国 府」が国府研究のさきがけをな して以来、今日なお、注目≠ウれ続けてい る「研究」です。

「国府物語」という「サイト」がありますが、その中でも、
周防国は、国府研究者にとって特別な国 である。それは後に山口大学の 教授になる三坂圭治が昭和8年(1933 )に著した「 周防国府の研究」が、我が国の国府研究の嚆矢と なったからである。三坂は現地を精査し、古文書にあた り、現在の地名、遺存地割りによって、防府市の 国衙地区に八町(870M)四方の国府域と、二町(218M)四方の国衙域を 推定し、古代 の国府プランを復元したのである。 ・・・
といった紹介がされています。

1937年(昭和12年)6月15日、周防 国府は国府の遺跡として全国で初めての「史跡」指定地 とな っています。(文部省告示 第260号)

「国府(こくふ、こう)」は、日本の奈良時代から平安時代 に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置か れた都市をいいますが、10世紀を境に徐々に衰退していきました。
しかし、こと「周防国府」については、「東大寺」再興の、造営料国に当 てられ、東大寺の管轄下に入っていたため、中世 から近世にわたって国府域が守られたのです。
したがって、「周防国府」内には古代から近世ま での遺構が存在するという点で、単に、「周防国府 」が国府研究のさきがけをなしたというにとどまらず、「周防国府」の「存在 」そのもの≠ェ貴重なのです。
─ 原田光朗氏 ─



無論、「防府市文化財郷土資料館」には、当然=A「周防国府 ・国衙」に限らず、 広く「防府市」の「歴史資料」が展示されていま す。
三坂圭治氏のこと及び 、この「防府市文化財郷土資料館」におい て私の興味を覚えたこと を「ホームページ」にしてみました。
この「ページ」が、「防府市文化財郷土資料館」に行 かれるきっかけになればさいわいです。
なお、この「ホームページ」作成にあたっては、「資料館」の方々に 協力をしていただいたことを付記しておきます 。







◎ 「写真」は、
三坂氏の、「左」=旧制「山口高等学校」時代、「右」=「周防国府」が 「国指定史跡」になった「昭和12年」のもの。
「旧制高等学校」は、高校≠ニはいえ、今の「大学教養部」に 相当するのみならず、、「旧制一高」、「旧制三高 」を代表とする、俗に言うナンバースクール≠ヘ無論のこと、「旧制山高」 などは、「願書」さえ出せば、ほとんどの「大 学」に入学できたほど、エリート≠フ集まりで、むしろ、「旧帝大 」以上の「位置」にあったと言ってもおかしく ないような「存在」でした。
しかも、小川五郎氏・三宅宗悦氏などの「郷土史研究 会」は、「考古学」分野において、「美濃 ヶ浜遺跡」の発見を初めとして、「石鏃・石製模製品・土器把手等浜 田博士の懇望により少し京大へ寄贈し ました」(三宅氏の「はがき」)とあるように、高校生離れと評さ れるような活躍をしていましたし、三坂氏は、「考 古学」には、協力者≠ニいった程度の関わりでしたが、当然≠フように、 既に、「山高」在学時か ら、「国府」に関心を持っておられたのです。

◎ 私と三坂氏とのささやかな=u接点」のこと
(註 この箇所のみは、「先生」としていま すが、私が対象とさせていただいている方々は、ほとんどの方が「先生」 ですし、多くが「学位」をお持ちですので、父=英男や私に取って、特 別≠フ方である「小山冨士夫先生」「藤島亥治郎博士」以外 の方々は、すべてに統一して表記させていただいています。)

私が、「土井ヶ浜遺跡研究」の関連で、小川五郎先生につ いて調べていたところ、小川先生の高校時代の「友 人」である三坂先生の書かれたもので、一箇所=A私の疑問に 思う箇所がでてきたことから、親しく話すという機 会を設けていただいたのです。
小川先生が引用≠ウれた「説」を、小川先生が直接書いたかのようにと れるという件についてでした。
電話すると、自宅に来てほしいと言われ、もうその頃は、お年を召してお られ、一日の大半をベッドで過ごされるという状 態だったのですが、わざわざ服装を正してくださり、私の方が、先生のお体を 心配したのですが、長い時間、取ってくださいま した。
先生に確認したかったのは、次のようなことです。
三坂先生には膨大な著書や監修された資料がありますが、山川出版社の 県史シリーズ35=w山口県の歴史』という一般 の人を対象にした執筆もおありです。
その「山口県の考古学」の中に、かつて小川五郎は「山口大湖説」とい う論文のなかで、・・・・といっている。≠ニい う箇所があるのです。

しかし、私は、「山口大湖説」≠ヘ、『防長文化雑考 小川五郎先 生遺文選集』に収められた小川先生自身の論稿で は、「横山三郎」なる人物のものと明記され、平川村平井の日吉神 社境内で、古代人類穴居の跡を発見したと大騒を演 じ、一部の考古趣味の人間を驚嘆させた氏のものであり、この穴居祉と氏の呼 称せられた遺跡は偽りもなく横穴式古墳で住居祉 ではないが、山口大湖説は実に卓見であると云ってよい。≠ニ述べた 上で、「吾々が昨今山口附近の考古学上の遺跡や史 実伝説等の調査に拠って知る範囲内でも」として、三坂先生のあげられている 内容を紹介、傾聴すべき名論としていいと思ふ 。≠ニされていることをつかんでいたことに関してです。
つまり、三坂先生にとっては、あら探し≠ニ取られても仕方のない ような、ごく些細な点なのです。
しかし、三坂先生は、こんな些細な≠アとについて、直接、確認した いから≠ニおっしゃって、自宅に招いてくださり 、私の持参した「資料」に目を通された上でで、誤り だと認められ、感謝してくださり、是非、訂正し てほしいと言ってくださったのです。
先生にとっては、些細なことでも、誤り≠ヘ残したくないというお気持 ちがおありになったのです。(私は、ここに記すの は、三坂先生のその思い≠伝えたいと思ってのことです。)

長時間≠ノなったのは、私が、三坂先生の旧制山高時代≠思い起こ すこと(小川先生、三宅先生は無論のこと、田 中 晃先生、小澤太郎元県知事、山田徹彦先生・・・・と いった方々について)を、私が言うのもなんですが 、先生が驚かれるほど、調べており、先生が懐かしがられたためもあってのこ とです。
そして、帰りには、私が辞退するのに、どうしても私を見送るとおっしゃ って、ゆるやかな坂の上にあるお宅から、仁保川 沿いの大きい道に出るまでの2・300bを、杖をつかれてはいたものの、立 ったママで、ずっと、見送ってくださったのです 。
私は、先生のお嬢さん(当然、私より年上の方です)が、私の先生の一人で あった福井照之先生に嫁いで近所におられ ることを知っていましたので、公衆電話を見つけると、お嬢さんに先生の様子 を見てきていただくことをお願いし、電話口で待 っていたものです。
やがて、「大丈夫ですよ」というお嬢さんの声を聞くことが出来、安心し たということがありました

東京帝大卒業後、「毛利家資料編纂所」において膨大な 「文献・資料」に取り組んでこられたのに、「敗戦 」のタメ、「GHQ」等の干渉を受けるなど、決して、順風満帆≠ニはいえ ない歩み≠余儀なくされながらも、ひたす ら「山口県地方史」の研究に取り組まれ、 大先生≠ニ評されるに至られた三坂先生が、取 るに足りないような誤り≠烽艪驍ェせにされない態度≠ノ、大先生≠ネる ことを実感≠ウせられたのでした。

「写真」は、先生がお亡くなりになった後、ご子息に『アルバム』を 見せていただき、数枚、「スキャナ」させていた だいたものです。


● 三坂圭治氏の著作

『周防国府の研究』( 1933(昭和8)年12月 積文館刊)─「国・山 口県・防府市図書館」蔵─
『建武中興の忠臣 清尊・教乗両師の事蹟と敷山城』(1936( 昭和11)年月 防府敷山城址顕彰会刊)─「防府市 図書館」蔵─
『萩藩の財政と撫育』(1944(昭和19)年 春秋社松柏館刊)─「国 ・山口県・防府市図書館」蔵─
『毛利元就』(1966(昭和41)年 人物往来社刊)─「国・山 口県・防府市図書館」蔵─
『防府の今昔』(19 67(昭和42)年12月 防府市立図書館刊)─「 国・山口県・防府市図書館」蔵─
『明治維新と太田絵堂戦役』(1968(昭和43)年 美東町刊) ─「山口県・防府市図書館」蔵─
『山口県の歴史』(1971(昭和46)年月 山川出版社刊)─「 国・山口県・防府市図書館」蔵─

(その他、『防 長風土注進案』「 監修」を代表に、編・監修・校注等、「山口県」関係の「歴史」関係の「 研究」・「出版」には、そのほとんどに係わっておられるといっても過言では ないと思います。
しかも、三坂氏の「監修」は、決して名 前貸し≠ナはないとい うことに注意してほしいと思います。
父=英男が、自分ではなかなか手に負えない「古文書」に出くわした時、 相談にのっていただいていた「山口県文書館」の田村哲夫氏や広田暢久氏でスラも、
「三坂先生は、やはり別格です。原稿をお渡しして、朱≠フ入っていな い頁はまずない≠ナすからね。」
「しかも、その朱≠フ理由を書いておられるのですよ。」
と言っておられたと、父に聞いたことがあります。)


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