平成20年5月25日 公開
平成23年7月18日 更新



邂逅=@― この不思議なるもの   (戦後編)



[A]● 昭和初期の「土井ヶ浜」からの人骨出土から三宅宗悦氏の鑑定までのこと
 [前半]は、↑ をクリック≠オてください。



[B]● 戦後の「土井ヶ浜」遺跡
─ 女生徒の話から貝製品を採集した衛藤和行氏からの出発  ─

(下線部をクリック≠キると、該当箇所に飛べます。)

背景(その1)衛藤和行氏について

背景(その2)「教室」総出で、可能性≠フ確認→発掘調査→「渡来説」の提唱

背景(その3)「台湾」での金関氏と国分直一氏、坪井清足氏

背景(その4)金関 恕氏のこと

背景(その5)>小川五郎氏のこと

背景(その6)斎藤 忠氏のこと


参考(その1)=「山口県立医科大学」と渡辺剛二氏、水田信男氏のこと

参考(その2)金関丈夫氏と「山口県立医科大学」

参考(その3)三宅宗和氏(宗悦氏子息)とのこと

参考(その4)「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の設立と坪井清足氏とのこと





● 戦後の「土井ヶ浜」遺跡 ─ 女生徒の話から貝製品を採集した衛藤和行氏からの出発=@─


● [女生徒]→[衛藤和行氏]→[椿惣一氏]→[鏡山猛氏]→[金関丈夫氏]への流れ

終戦後、地元出身で、新制の神玉中学校に勤務していた衛藤和行が青年研修所建設工事に伴って出土した人骨≠フ中から、見慣れぬ貝製品を発見、長府博物館の椿惣一のところに持ち込んだところ、「古代展」開催のために、しばしば来館し、相談に乗っていた九州大学考古学教室の助教授鏡山猛、助手渡辺正気に、椿が紹介した。
鏡山は、「弥生時代」ではないかと思い、それが「人骨」とともに出土したということから、医学部解剖学教室教授で、人類学者でもある金関丈夫が、終戦に伴って、台北帝国大学から九州大学に転勤してこられ、必然的に[研究テーマ]を弥生人≠ノ変更されながらも、肝心の弥生人骨≠ェ発見されないで、困っておられたことを知っていたので、知らせた。
金関は教室の永井昌文を始め坪井清足・金関の次男=小川五郎らの協力の下に、発掘調査に踏み切り、「土井ヶ浜」からの出土人骨は、「弥生人骨」ということが判明、かつ、膨大な「弥生人骨」の出土であったことから、日本人の起源にかかわる重要な「遺跡」となった。
なお、衛藤は、単にきっかけ″ったというだけでなく、この「発掘調査」のメンバーの一員にもなり、かつ、「第一次」で終了しかけた「発掘調査」が継続し、大きな成果をあげるに至る要因を、金関の指示のモトにおこなったということは、忘れてはならない。
 また、この「土井ヶ浜遺跡」の発掘当時、文化財保護委員会の技官であり、「国指定」となる際、窓口として世話をしたのが斎藤忠であったこと、この時、河野は、「山口県教育庁社会教育課」の文化係長であり、かつて、神玉小学校の教員であったことから、「地元」の調査団発足に、いささかの係わりを持つことになったということも付言しておきたい。 





背景(その1)=衛藤和行氏について
 昭和27年のことでした。
新制の「神玉中学校」に勤務していた衛藤和行氏に、女生徒が、「骨が道ばたにいっぱい置かれている」と話したというのです。
 衛藤氏は興味本位≠ナとおっしゃったのですが、その場に衛藤氏が向かったことが「土井ヶ浜遺跡」の大げさに言えば、日本人の起源≠把握するきっかけ≠ノなったのです。
 河野とも親しかった衛藤氏は、既に、人骨≠ェ「元寇」のものではないことを知っておられました。その衛藤氏は、人骨≠セけを見たのではありません。
 その人骨≠フ中に、奇妙な=u貝で作られたもの」があることに注目しました。
 その「貝で作られたもの」をとりあえず採集し、かねてから知人で、衛藤氏が尊敬する教育者であった椿惣一氏が、退職後、「長府博物館」の館長をされていたことを思い出して、椿氏のもとを訪ねたのです。
そのころ、「長府博物館」は、来場者がほとんどないという状態が続いていました。
 椿氏は、そのことをなんとかしたいと、当時としては大規模な古代展≠思いつき、九州大学考古学教室の鏡山猛氏に面会して協力を求めるてはずになっていた時だったのです。、
 椿氏は、鏡山氏及び、助手の渡辺正気氏にその「貝で作られたもの」を見せました。
 お二人は、「弥生時代」ではないかと鑑定されたのですが、当然、出土状況を衛藤氏に尋ねられました。
 そして、大量の「人骨」と共に¥o土ということを確認されると、同僚の金関教授が、台北帝大から引き上げられて、九州大学に着任されたことを契機に、研究テーマを「弥生時代人」にされたこと、そして、肝心の「弥生人骨」が見つからないことを知っておられたのです。
 さっそく、そのことを金関氏に知らされました。
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 「上」の「写真」は、衛藤氏に「人骨」のことを教えた生徒と衛藤氏、
「下」の「写真」の「左」=永井昌文氏の論文「土井ヶ浜出土の異型貝製品」において、問題≠フ「貝で作られたもの」を永井氏が描かれた図〈永井氏は、鞆≠ニいう説を提示〉
「右」=金関氏の協力者≠ゥらやがては後継者≠ニなられる永井氏の「写真」ですが、後年のものです。
鏡山猛氏や渡辺正気氏といった方々と一緒に写られている、「発掘調査」の頃の永井氏についてはここをクリック≠キると見ることができます。
鞆状のものが、「土井ヶ浜遺跡」の発掘調査に至る、そもそものきっかけであったことを、衛藤氏は、忘れておられたのですが、私の問いに対して、「あんたは記憶を呼び戻してくれるのぉ」として、教えていただき、実は、そのことが、既に永井氏によって、「論文」として発表されていたことによって、確実に「証明」されたのです。




背景(その2)=「教室」総出で、可能性≠フ確認→発掘調査→「渡来説」の提唱

「人骨」は、酸性土壌≠フ日本においては、ほとんど残りません。
「弥生人骨」よりも先立つ「縄文人骨」の出土がはるかに多かったのは、「貝塚」といったカルシウムの影響で、アルカリ性≠ゥ、それに近かったからです。
金関氏は、衛藤氏を通じて、「人骨」そのものを研究するとともに、三宅氏の「報告文」にあった駒井和愛氏が届けたという「弥生式土器」、更には、「教室」の助手=原田忠昭氏を中心に、現地°yび周辺≠フ過去における「出土品」を確認させられたのです。

その調査の間に、「弥生人骨」らしき「人骨」が、土取り工事≠フ際、佐賀県の「三津永田遺跡」から、甕棺入りで多数¥o土するという偶然≠ェありました。
そのため、限られた@\算を使うこととて、いっそう慎重に、その可能性を調べられたのです。
(永井昌文氏の「証言」)
 原田氏は、「角島の出土品も調べに行った」と証言してくださいました。
 そして、「発掘調査」に踏み切られたのです。

金関氏の「写真」は、 山口大学医学部第一解剖学教室 の開講三十八年記念 という 『鏡外余話』 の「グラビアページ」に、1ページ¢S体を使って、発掘調査中の金関丈夫教授 下関市にて 昭和39年3月 という「解説」のもとに大きく′f載されているもので、スキャナ≠ナ取り込みました。
なお、この『鏡外余話』は、粟屋和彦氏からいただいた多くの「資料」の中の一冊です。


しかし、そうした慎重な調査≠ノもかかわらず、[発掘1年目]の調査では、思ったような人骨の出土はなかったのです。
 金関恕氏は、「断念することもありえたのだが、父(=金関丈夫氏)が、衛藤さんに、調査後、数カ所指定して、掘ってみてほしいとした場所から出土したことで、2年目以降の調査を継続することになった。」と教えてくださいました。

(恕氏は、(最初の年は、なかなか弥生人骨が見つからず、)経費と労力の割にえられた資料は少ないが、もう一年かけて掘ることにした。
発掘場所を移した次の年には、人骨が続々と出土し始めた(『考古学は謎解きだ』28頁)と書かれているダケですが、丈夫氏と衛藤氏とのいわば「舞台裏」があったというワケです。

こうして、5次≠ノわたる「発掘調査」が実施され、予想以上の多量の「人骨出土」をもとに、金関丈夫氏は、日本人「渡来説」を提唱されたのです。
 かくして、「土井ヶ浜遺跡」は、金関氏の研究によって、日本の代表的な遺跡の一つとなったのです。



背景(その3)=「台湾」での金関氏と国分直一氏、坪井清足氏

「台北帝国大学」に転じていた金関丈夫氏でしたが、その地で、その後の金関氏の研究を支えた国分直一氏、坪井清足氏との深い関わりが生じています。
(この「台北帝大」では、同僚に、森鴎外氏の子息がやはり医学部教授としておられ、金関丈夫氏とのあいだに逸話もあるのですが、「土井ヶ浜遺跡」とは関係ありませんので、触れないことにします。) 
 国分氏は、「台湾市販師範学校」の教授であったことからの「学問」を仲介としての出合い≠ナしたが、坪井氏との関わり≠ヘ、こんな偶然≠ェありました。
金関氏は、台北帝大に赴任後も、京都帝国大学へ、「人類学」の出張講義に出ておられ、その受講生に、京都帝大の学生だった坪井氏がおられたのです。
第二次大戦の戦況から、学徒も招集され、坪井氏を学生のまま、台湾へ行くことになりました。
坪井氏は、台湾において、時間が取れる時は、文化の香りを求めて、金関邸をしばしば訪問、単なる受講生というだけでなく、後に、金関の発掘の主要メンバーとして信頼される人間関係ができたのです。
金関氏は、「三津永田遺跡」、「土井ケ浜遺跡」と、発掘調査の際、坪井氏に協力を要請、坪井氏もそれに応えました。
「土井ケ浜遺跡発掘」のシナリオ≠ヘ、坪井氏が主として立てたものだといいます。平成四年度「朝日賞」を受賞したこの坪井氏を初めとして、土井ケ浜遺跡発掘に関係された方々が、今日、代表的な学者となっておられることを見ても、「土井ケ浜」は幸せな「遺跡」であったといえるのではないでしょうか。



◎ 国分直一氏と「土井ヶ浜遺跡」

お手紙拝見しますと、土井ヶ浜遺跡をめぐる研究史を御執筆とのこと、ありがたいことと存じます。
私は、土井ヶ浜遺跡の調査には、最初だけの参加で、あとは参加していません。
それは、種子ヶ島の広田の埋葬遺跡の調査をしなくてはならなくなったからです。
この調査はわが南島先史時代の研究を進める上で決定的に重要な調査となりました。
金関丈夫先生も金関恕教授もあとで広田の調査に御参加なさって下さいまして、重要な成果を上げる上で指導的役割を果して下さいました。
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◎ 国分氏と金関丈夫氏及び丈夫氏の「家族」との関係

国分氏と、金関氏との「関係」は、「台湾」以後も、続いています。
『えとのす 21』において、「金関丈夫先生との半世紀」という「一文」を載せておられます。

金関丈夫先生は私にとっては、人生の教師であり、学問研究の上では、導きの星であった。
で始まるその「一文」は、お二人の深い「人間関係」を綴られた、貴重なものですが、かなり長いものですので、現時点では、「紹介」はできませんが、
金関先生のお誕生日は二月十八日であった。
我が家ではその日をよく覚えていて、必ずお祝いの電報をさし上げることにしていた
とあり、

金関 恕氏の『考古学は謎解きだ』には、
山口から親父の長年の友人であった国分直一先生が来られ、泣きながら新聞のための追悼文を執筆してくださった。
とあります。
なお、この『考古学は謎解きだ』によると、金関 恕氏と奥様の文子さん(当時、国分氏の勤務しておられた「下関水産大学校」の同僚の松沢寿一教授のお嬢さん)とが結婚なさるきっかけ≠ヘ、国分氏がつくられたようですから、いろいろな意味で、国分氏と「金関氏一家」の関係は深かったということでしょう。





背景(その4)=金関 恕氏のこと


金関丈夫氏の次男である氏が、「医学」への道ではなく、「考古学」への道を取られた「理由」を恕氏からお聞きすることができました。
父=丈夫氏は、恕氏の兄=氏に続き、恕氏にも、「医学部」の受験を望んでおられたそうですが、戦後の混乱の中で、食糧事情等から、祖父喜三郎氏以来ゆかりのある松江の「松江高等学校理科」で学んでいた恕氏に、「どうなるかわからない時勢のことゆえ、好きな学問をしてもいい」と丈夫氏が折れ、恕氏は、考古学への道を取ることになったというのです。
そして、結果的に、丈夫氏の研究を「考古学」の立場から、支える大きな柱となられたわけです。
もっとも、恕氏が「考古学」に興味を持たれたのも、「人類学」専攻の丈夫氏には不可欠≠ニもいえる「発掘調査」を見たり、手伝ったりされたことが「理由」のようですから、混乱の中でなかったとしても、丈夫氏も、最終的には、「考古学」への道を許されたと思います。

(金関氏は、「1999(平成17)年」に『考古学は謎解きだ』という「自伝」ともいうべきものを「出版」されており、
その中の(124頁・126頁)においては、
昭和二十三年、食糧事情も好転し始めたころ、転機となった出来事が起こった。
ある日、動物学の授業に出ると、先生が無造作に蛙の頭を切り落として解剖を始めた。
空腹のせいかぼくは気持ちが悪くなった。
そして考え込んだ。
こんな神経で医学部に行けるだろうか。
台湾の親父の研究室で、人骨はなじみになったが、骨にはそれを覆う筋肉や内臓があることを忘れていた。
見回せば、今、医者も決して飽食しているわけではない。
同じ飢えるのなら、好きな考古学をやってみよう。
親父から反対の手紙が届いたが、あえて志望を変更した。

高校も終わりごろ、親父の意に反してぼくは考古学への転進を決心した。
と、一見≠キると、私に話してくださったことと違った≠アとを書いておられるように見えます。
ツマリ、親父の意に反して≠ニあり、私がお聞きした時は、蛙の解剖のことは触れられなかったからです。
しかし、
今、医者も決して飽食しているわけではない。
同じ飢えるのなら、好きな考古学をやってみよう。
と、好きな=u考古学」への道に進むことができたのは、結局は丈夫氏が折れられたからこそと思われますので、実質的な違いはないと思います。

なお、長男毅氏の場合も、丈夫氏に無理矢理押しつけられたというわけではなく、「いずれ、軍隊に取られることは間違いない。それなら、人を殺す方より、人を救う軍医の方がいい」と、医学の道に進まれたとのことですし、結果的に解剖学(但し、人類学とは無縁)の道を歩まれ、丈夫氏ゆかりの、九州大学解剖学教室の教授となられたのです。(私が電話で話を伺った時は、「佐賀県立医科大学」の副学長として、佐賀におられました。
国分氏は、「佐賀大学の副学長」と書いておられますが、「佐賀医科大学の副学長」です。)
また、国分氏の話では、丈夫氏の三男=(とく)氏は、「東京都立研究所所長」等を務められた「微生物学研究」における世界的権威だとのことでした。
恕氏は、「発掘調査」の最初≠フ年=昭和28(1953)年に、京都大学文学部史学科考古学専攻を卒業され、確か「大学院」に在籍で、「発掘メンバー」の一人となって参加しておられるハズです。
そして、今日は、坪井氏ともども、日本考古学界の指導的な立場におられる
ことは、周知のことと思います。

(「左上の写真」は、「金関先生を知るには、ぜひ、読んでほしい」と国分氏に紹介された『えとのす 第21号』(1983年7月10日  新日本教育図書株式会社刊)からスキャナ≠ナ取り込みました。
1940年、台北の自宅にて」という「解説」がありますが、「左」から、丈夫氏→長男毅氏→次男恕氏→丈夫氏の夫人=ミドリさん→三男悳氏と思われます。
この『えとのす 21』は、金関丈夫博士その人と学問の世界−金関学の周辺  発見と研究の展開−という「特集号」であり、編集主幹として国分氏が係わっておられるものです。
この「本」を手に出来たのは、国分氏の配慮によるものですが、この中の浜田 敦氏の「金関先生を悼む」という「一文」は、角田文衛氏の「人類学者 三宅宗悦博士」という「論考」とともに、私のこの邂逅≠フ不思議という「調査・研究」のきっかけになっています。)

(「左のスキャナ」は、国分氏からいただいた「資料」のごく一部≠ナす。
このように、「原稿用紙」を使って書いてくださっていました。)




背景(その5)=小川五郎氏のこと

「土井ヶ浜」出土の「人骨」について、三宅宗悦氏が『防長史学』という地方研究誌に発表されていたことを、金関丈夫氏は、知っておられました。
それは、三宅氏と金関氏とは、清野謙次氏の、兄弟弟子といった関係が「京都帝国大学」においてあり、当時、浜田耕作氏の教室で「助手」として勤めておられた斎藤忠氏によると、「病理学教室」の三宅氏が、兄弟子%Iな、「解剖学教室」の助教授=金関氏の解剖時の助手≠何度か務められていたとのことです。
当然のように、金関氏は、三宅氏が在世でしたら、協力を呼びかけられたでしょうが、既に亡くなっていたこととて、山口県において、旧制「山口高校」から、新制の高等学校の校長に転じておられた小川氏に、協力を求められたのです。
それは、小川氏も、待っておられたことでした。




背景(その6)=斎藤 忠氏のこと
「金関発掘調査」の当時、河野英男は、「山口県教委」の「社会教育課」の「文化係長」でした。
「神玉小学校」時代、受け持った山本至公氏の父親であり、教育活動に協力的であった山本信氏が、「地元」の発掘調査団をまとめてくださることになったのを始め、かつて、「神玉小学校」に勤めていたことからの縁≠ゥら、わずかばかり、お役に立ったのであろうと思います。
 金関氏は、貴方の御斡旋により村方面より多大の御支援をいただくことが出来、円滑に且つ極めて経済的に通行することが出来ました≠ニ、いささか面はゆい言葉を寄せてくださっていますが、山本氏など皆さんは、英男に関わりなく、協力してくださったと思います。

「写真」は、山本信氏。
金関丈夫氏や三宅宗悦氏と「京都帝国大学」で副手という立場で親交のあった斎藤忠氏は、この時、「文化財保護委員会」の考古学担当の技官でした。
斎藤氏は、単に「視察・調査」に訪れられただけではなく、短期間ではありましたが、発掘作業現場にも出向かれて、その人柄から、中央≠フ偉い先生であるのに、発掘作業を手伝った婦人たちから、「長府博物館」の伊秩洋子氏の話では、チュー先生=Aチューさん≠ニ、親しみを込めて呼ばれていたとのことですし、斎藤氏も、むしろ喜んでおられていたといいます。



プール≠フこと


斎藤氏には、御自宅にお邪魔し、「録音テープ」をまわしながらの「調査」を許していただいたのをはじめ、多くの「手紙」・「はがき」をいただいています。
金田一京助氏の「アイヌ語」研究の「逸話」をお話いただきましたが、斎藤氏も同じように、誰にも「親切」・「誠実」な対応をなさる方であると、ありがたく思っています。
当然、「父=英男」宛のものもありますが、その中の「昭和30年11月4日付」の「手紙」の一部≠紹介しておこうと思います。
「発掘調査」が開始されて3年目≠フ「終了」の時点の「手紙」ですが、藤島亥治郎氏のおっしゃったプールの「実例」となろうかと思います。

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土井ヶ浜遺跡も弥生式文化の墓制を示す上に重要なものと存ぜられます。
幸にも、地元におきましても保存についての熱意をもっておりますので、取り敢えず貴教育委員会において、縣指定等の適切な措置をおとり下さいますれば幸甚と存じます。
何卒ふしてお願い申し上げます。
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(参考)
◎ 「土井ヶ浜遺跡」の「発掘調査」の「記録」(『山口県地方史研究』の12・13頁には詳しく記しています)
「第一次」=昭和28年10月6日〜10月26日(21日中の12日間)
「第二次」=昭和29年9月2日〜9月12日(11日間全日)
「第三次」=昭和30年9月7日〜9月20日(14日間全日)
「第四次」=昭和31年9月27日〜10月8日(12日間全日)
「第五次」=昭和32年8月1日〜8月16日(16日間全日)


「写真」は、斎藤氏のお宅をお訪ねした「平成4年8月」、いただいたものです。


◎ 「指定」の年月日
「山口県指定文化財保存顕彰規程」による「県指定」=[昭和31年9月27日](4年目≠フ「発掘調査」の「開始日」と一緒ということは、当然=A斎藤氏の意向を受けて、それまでに、「県指定」への申請をしていたということです。
なお、金関丈夫氏による本格的な=u発表」は、まだ、されていなかったハズです。)
「国指定史跡」への昇格[昭和37年6月21日]





参考(その1)=「山口県立医科大学」と渡辺剛二氏、水田信男氏のこと

次に述べる金関氏の「山口県立医科大学教授」への着任の件の前に、話しておくことがあります。

金関氏の着任された「山口県立医科大学」は、三宅宗悦氏の義理の兄渡辺剛二氏ゆかりの大学でした。

兄の死去により、「宇部興産」の会長を勤められ、奨学資金等も設けておられる剛二氏は、もともと熊本医科大学出身の医者でした。
それが、兄の死去により、それが兄の死去で、今日の「宇部興産」の関係会社の世話をするようになられたのですが、父=祐策氏の看護には、自ら何度も当たられ、祐策氏も、それを喜ばれ、「剛二の注射は痛くない」と言われたという。 (なお、三宅宗悦氏の姉=柔子氏との間に生まれたご子息の一人は、京都大学医学部を卒業され、宇部興産中央病院の院長などを歴任されいている。) 更に、剛二氏は、山口県議会の議長なども務められるという父=祐策氏に劣らぬ活躍をされた方であるが、「山口県に医者」の学校を作ることが夢であったといいます。
そのことは、粟屋和彦氏が、「論文」にしておられますが、「山口県立医科大学」の設立に当たっては、剛二氏が大いなるバックアップをされ、会社の病院を大学の付属病院に提供されてたのをはじめ、付属病院=「同仁病院」の院長として、右腕として頼りにされていた水田信男氏も、大学設立について尽力され、大学が開校されると、元、京都帝国大学の優秀な内科医であったこととて、教授として、研究職に復帰されており、金関氏の大学時代の親友の一人であったのです。




参考(その2)=金関丈夫氏と「山口県立医科大学」のこと

昭和35年(1960)3月九州大学を定年退官し、鳥取大学教授(35年4月〜37年3月)となられます。
周知のように、「大学」は定年となる年齢がマチマチで、鳥取大学よりも更に「定年」が遅かった「山口県立医科大学」(現 山口大学医学部)に2年=A教授として勤務されています。このワンポイントリリーフ≠ノついては、次のような逸話があるのです。

ワンポイントリリーフの件 

山口県立医科大学の当初からおられた尾曽越文亮氏が、画期的な業績をあげられ、岡山大学に招かれることになった際、後任の解剖学教室の教授に、九州帝国大学出身で、助教授だった粟屋和彦氏を推薦されたのですが、粟屋氏が若すぎるという声が教授会であり、その対策として、水田氏が、京都帝大医学部の学生、助教授として旧知の友人である金関氏の了解のもと、ワンポイントリリーフ≠提案し、金関氏が教授になられたというのがそれです。
金関氏は、九州大学時代の「教え子」の方達のアドバイス%凾するのに便利だとして、承認されれば、喜んで引き受けようと言われていたと言います。 

尾曽越氏は、その後、母校の京都大学の医学部教授に戻られるなど、大きな業績をあげられていますが、その尾曽超氏が、私に、もう時効だろう≠ニして、話してくださったのです。
粟屋氏は、金関氏が2年間=A教授を務められた後、教授となられただけでなく、その後、学部長、更には、国立に移管された「山口大学」の学長等を歴任されていますが、私がお訪ねした時は、「宇部短期大学学長」でした。

山口県立医科大学時代の金関氏は「研究室」に寝泊りされ、週末に松江に帰られるという生活であったといいます。
わずか2年≠ニいう期間がわかっていたためでしょう。

なお、この「山口県立医科大学」教授をうけられたことが、金関氏の学問的な協力者≠ナある国分直一氏の命を救う≠アとにつながっているのです。
国分氏は、階段を踏み外され、強く頭を打たれたのですが、痛みはまもなく引いたため、そのままにしていたといいます。
ある時、宇部の大学に金関氏を訪ねられ、帰られる際、不自然に転倒され、それを見た金関氏や、金関氏の教室員の方々が、すぐ、検査を勧められ、緊急手術をすることになったといいます。。
その手術が成功し、なんの後遺症も残らず、国分氏は、その後、「東京教育大学(現 筑波大学)」に招かれ、大きな業績をあげられるのです。
後に、大学を辞められ、「防府市」で開業されていた河村武夫氏の見事な執刀であったといいます。
国分氏は、どういう症状であったかを知られてもいいとして、河村氏を紹介してくださったのですが、「例え国分先生ご本人がいいと言われたとしても、他人に言うことはできません」と、教えてはくださらなかったのですが、河村氏は、「一瞬の動きも見落とさないことが、人を救う」という体験≠身をもってしたことが、いい思い出になっていると言われました。


(大きな=u疑問」)   金関丈夫氏の「履歴」に「山口県立医科大学」が抜けている≠アと

金関丈夫氏が、「山口県立医科大学」の教授として着任されたことで、既に述べたように、「九州大学時代の教え子=vの方達へのアドバイス%凾され、「九州大学」の後継者≠ナある永井氏との往き来≠熈便利≠ノなったのみならず、国分氏の「命」をも間接的≠ノ救われることにつながり、かつ、「次」に述べるように、三宅宗悦氏の子息=宗和氏と親しく、話される機会を持たれることに繋がっているのですが、なぜか、この「山口県立医科大学」の2年間は、金関氏の「履歴」から抜かれ、「鳥取大学」から「次」は「帝塚山学院大学」という情報≠ェ飛び交っているのです。


◆  『鏡外余話』「第一解剖学教室の歴史」において、粟屋氏自ら=A「次」のように、金関氏を語っておられます。
昭和三十七年四月二日・金関丈夫氏が尾曽越教授の後任として着任。第二代目教授。
(ほぼ、一年間は、「教授」の席は空いていた形になっているようです。)
・・・・・
昭和三十九年三月三十一日・金関丈夫教授定年退職。新設の帝塚山大学教授に就任。
金関丈夫教授は台北医専(昭和九年 ─ 十一年)、台北大学(昭和十一年 ─ 二十四年)、九州大学(昭和二十五年 ─ 三十五年)、鳥取大学(昭和三十五年 ─ 三十七年)の教授を歴任されたのち、本学に二年間在職された。同教授は人類学者として有名であるが、先史古学、民族学、医学史にも深い学識をもつておられた。本学の在職期間は短かかったとはいえ、その学問的深さの故に当時の教室員が受けた感化にははかり知れないものがあった。 金関教授は台湾時代には東亜の古人骨と東亜各人種の生体計測、九州大学時代には主に弥生人骨について研究を進められた。この研究によって、弥生時代に北九州方面に多量の大陸的人種の流入があったことを証明し、日本民族の成立に新知見を加えられたことはあまりにも有名である。同教授は今日なお帝塚山大学教授として活躍中である。最近、詩集「洵異集」を出版された。
・・・・・



参考(その3)=三宅宗和氏(宗悦氏子息)とのこと

三宅宗悦氏の妻=夫規氏は、宗悦氏の戦死の直前に亡くなっており、軍医として召集された宗悦氏の子息=宗和氏は、柔子氏の嫁ぎ先の渡辺家で育たれました。
金関丈夫氏が、「山口県立医科大学」の教授として着任されたことで、金関氏と成人されていた宗和氏とは「宇部」の地で、対面され、宗悦氏について語りあわれたといいます。



参考(その4)=「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の設立と坪井清足氏とのこと

「土井ヶ浜遺跡」は、金関氏の教室の永井昌文氏を始め、坪井清足氏・小川五郎氏・国分直一氏金関 恕氏・水野正好氏、
更には、杉原荘介氏といった、多くの方々によって、発掘調査がなされ、大きな成果をあげて、
昭和31年9月27日「山口県指定文化財保存顕彰規程」のもとでの「県指定」を経て、
昭和37年6月21日「国指定史跡」となります。
「考古館」が建てられ、史跡側にあった養老院「松濤苑」の職員が鍵をあずかっていたのですが、残念ながら、いつのころか、来訪者は少なくなっていっていました。
時が経過して、坪井氏は、「考古学」の指導者として、活躍されるようになっておられました。

その坪井氏が、ある年の夏=A「土井ヶ浜遺跡」を訪れられた時のことです。
「山口県」の関係者の案内で「土井ヶ浜」に立寄ったところ、 小さな「資料館」はほこりにまみれ、海水浴客の車が遺跡の中に、無造作に数多く乗り入れていた≠フです。
これでは余りひどいではないかと注意したことがきっかけになって土井ヶ浜遺跡の整備が県、豊北町でとりあげられ、今日の整備が実現したのは誠に有難いことである。
遺跡保存整備にあたって、土井ヶ浜遺跡は砂丘なので露出展示することは不可能であり、文化庁記念物課の安原啓示主任調査官の意見でネクロポリス(墓地)は薄暗いドームにしてはとの案を採用することになったことしも付け加えておきたい。
  『山口県史資料編 考古1』(平成12年3月21日発行)の中に入れられていた「附録」「防長二国とのおつきあい」より。

坪井氏がこうした文を書かれる以前に、私はこのことを既に活字にしています。
(『山口県地方史研究 第75号』の中の「人類学者 三宅宗悦博士 ―山高郷土史研究会=E土井ヶ浜遺跡℃鮪nめ―」)
それは、「土井ヶ浜」について、既に何度か話をしたことのある「県教委」の乗安和二三氏が防府市文化福祉センターで講演された後に乗安氏に出会い、その乗安氏に「昭和6年の出土」の「写真」が載っている「新聞」があるということを話すとともに、
私が当時≠フ「県教委」におられた方に教えてもらった坪井氏の迫力ある注意≠ェ、再び、「土井ヶ浜」の発掘がされるきっかけ≠ノなったようだということを話していると、
この坪井氏の「土井ヶ浜遺跡」訪問のすぐ後に、坪井氏とあったという「市教委」の方(←「下線部」をクリック≠オてみてください)がたまたまおられ、
その「背景」を、次のように解説してくれたことを踏まえてのことでした。 (次に記すのは、平成19年に「ブログ」に載せるに当たって、確認をしたところ、「メール」で、再度、教えてもらった文です。)

当時の状況を、考えてみます。
県の担当者が怒られることを予想もしていなかった、不意を食らったのは本当でしょう。
だからこそ、坪井氏が求めるままに土井ヶ浜へ案内したのでしょう。
当時、史跡の管理、整備については、現在に比べるとまだまだの時代でした。
国指定の史跡でも当時の土井ヶ浜のような状況は、全国、県内でも多くありました。
当時は北九州からのマイカー客が急激に増えた時代で、海水浴客の駐車場整備も遅れていた状況です。
県教委や豊北町はこのような状況が良いとは思っていなかったとしても、それほど困ったことだという認識は無かったものと考えられます。
そこで、坪井さんを土井ヶ浜に案内することに何の危機感も無かったと思うのです。
坪井さんが県教委に対し、具体的にどのような怒り方をしたのか、どのような注意、指導を行ったのかについては、私は聞いておりませんのでお伝えできません。  

さて、この坪井氏の迫力ある注意≠ェきっかけとなり、とりあえず、どこが「遺跡」かの「範囲確認」の調査を始めたところ、その調査で新たな出土が次々とあり、「調査」が続いていくことになったのです。
そして、それが、「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の建設へと続いたのです。

「土井ヶ浜遺跡」が新たな歩み≠大きく踏み出すことになったのも、金関丈夫氏と坪井氏の邂逅と無縁ではないのです。

坪井氏は、上記の「防長二国とのおつきあい」において、「山口県」とのかかわりについて、記述しておられます。
その中に四番目≠ニして、「土井ヶ浜遺跡の調査」・東京「小田急百貨店」における「弥生人展」のこと「土井ヶ浜遺跡についての注意≠フこと」を記され、
次いで五番目≠ニして、「角島」の「わかめ(にぎめ)」に関する「木簡」の出土のことを記しておられます。
そこには、衛藤氏の奔走で≠ニあるだけで、坪井氏がどうかかわられたかは、書いておられないのですが、私は、この坪井氏の「一文」が書かれる以前に、「記念碑」を見ており、その「碑」に坪井氏の名が記されていることを衛藤氏に話したところ、
「坪井さんに碑文を書いてもらうように、私が頼んだんだ」とのことでした。
「土井ヶ浜遺跡」発掘調査の流れ≠フ中で生まれた「人間関係」があってのことだったのです。
衛藤氏との「会話」の中で、金関丈夫氏については、「金関先生」と言われていましたが、坪井氏、永井昌文氏といった方々に対しては、「さん」づけだった(恕氏については、丈夫氏と同姓ですので、ひろしさんと言っておられました)ことが印象に残っています。
衛藤氏の方が「年長」であったことだけでなく、「発掘作業」を共にされたことで、互いに親しみを覚えておられたのだと思います。




平 城 宮 着 海 藻 上 進 之 地
(前にある「黒っぽい石」にある文字)

長門國豊浦郡都濃嶋所出□海藻 天平十八年三月廿九日
↑ 「木簡」に記されていた「文字」が、初めに=u枠」入りで刻まれています。
なお、  は、活字がありません。禾≠ノ遅い≠フしんにゅう≠除いたもののように見えます。

一九六三年秋、奈良市平城宮跡の天皇の住居の内裏の東北方の発掘で、一辺四メートル深さ二・三メートルの土壌からたくさんの土器などと共に、一八四三点の木簡を検出した。
その中の一つに長門国角島から都に送られた「わかめ」につけた木札(縦二七三ミリ、横三六ミリ、厚さ七ミリ)の送状が含まれていた。
それには天平十八年(七四六)三月二十九日と日付が書かれている。
これはその当時豊浦郡の郡家(都の役所)にいた人がそれぞれの荷札を書いたもので、いまから千二百年以上も前に聖武天皇以下宮廷の人たちが角島の海上ヶ瀬戸のわかめがおいしいことを知っていて毎年島に住む人々から税金として差し出させていたことがわかる。

   一九九四年 元奈良国立文化財研究所長 坪井 清足



  
この「記念碑」を私が見た時は、「豊北町役場」(現 下関市役所 豊北総合支所)にあったのですが、「防長二国とのおつきあい」によると、豊北町役場前に仮設置∞角島大橋完成後、角島側の橋の袂に移すことになっている≠ニありますから、現在は、「橋の袂」にあると思います。
「角島」の「わかめ」が美味であることは、人々にも知られていたとみえ、『万葉集』にも「3871 角嶋之迫門乃稚海藻者人之共荒有乃可杼吾共者和海藻」という歌があり、この歌をモトにしての井上十六氏の提案でニギメ≠ェ地方誌の「題」となり、この中に衛藤和行氏の寄稿された「土井ヶ浜遺跡発掘日誌」等が載せられています。


[平成22年12月10日(金)]に、「確認」に行きました。
「角島大橋」を渡ってすぐの「左側」の「瀬崎陽(あかり)の公園」という所に設置されていました。
改めて見ましたが、残念ながら=A何か、意図があるのでしょうが、「碑の文字」は、彫ったママ≠ナ、墨入れがしてなく、
石の色との関係で、決して、読みやすいとはいえないため、私の「紹介」していることも、ある意味では役に立つかと思います。









(番外編)


「市教委」に在籍される方(吉瀬勝康氏)≠ゥら「防府市文化財郷土資料館」・「周防国衙跡」・三坂圭治氏・金関 恕氏のことへ

この「市教委」関係者の名前は記さずにいたのですが、「防府市文化財郷土資料館」ができたということで、行ってみたところ、
その「資料館」の「初代館長」になっておられた吉瀬勝康氏(「文化財課課長」を兼務)と出会い、その場で、「名前を記してはいけないでしょうか」と聞き、
「どちらでもいい」という「回答」を得たため、その「市教委」関係者が吉瀬氏であることを記すことにしました。
吉瀬氏は、「下関市」に住んでおられていたことから、「下関・北浦方面」の遺跡発掘調査に、「学生時代」からかかわってこられ、「土井ヶ浜」にも詳しい方であり、
国分直一氏、坪井氏、金関恕氏、水野正文氏といった方々と関わりを持たれていた
のです。
また、出身は「関西大学」で、「旧制中学」も出ておらず、いわゆる「学歴」と称するものはないに等しいにもかかわらず、三十歳近くから、浜田耕作氏の指導を受け、後に、文化勲章受章、日本学士院会員、初代奈良県立橿原考古学研究所長などの数々の「肩書」を持たれるものの、いつも、謙虚≠ナあり、浜田氏を終生敬愛しつづけた末永雅雄氏が「学長」もなさっていた「大学」なのですが、残念ながら、吉瀬氏の入学時には「退任」なさっていたといいます。
しかし、末永氏は、住まいの「大阪府狭山」に因む「狭山塾」なる「名称」の「勉強会」を持たれ、月に一度(二月に一度の場合も)、講義されていたとのことで、吉瀬氏も、何度か参加されていたようです。

浜田氏は、末永青年に、「ぼくは大学を退官したら、郷里の小学校で考古学を教えたいと思っている。君も、学問の仕事が終われば故郷の小学校で考古学の先生をすればいいなあ。」
と語られていたといいます。
「考古学」「小学校」でということに私は「意味」があると思います。
周知のように、浜田氏は、「京都帝大」の「総長」の職にある時に亡くなられた(昭和13(1938)年7月25日没・行年58歳)のですが、末永氏は、八十歳を超えておられたのに、門下生とともに、広報紙に「考古学少年」の題でこども向けの連載をし、その「52回」のうち、「13回」分を執筆されているのですが、おそらく、この考古青年¢且閧フ「狭山塾」も、浜田氏との「会話」の精神≠ェ生きているのだと思います。
(末永氏は、平成3(1991)年5月7日没・行年93歳)

「左」は、[昭和五十六年五月廿二日]に、
[清陵 濱田先生 御生誕百年 敬慕記念冊]と題して、濱田 敦氏に「贈呈」されたものを、敦氏が後日、「印刷」されて、皆さんに渡されたものの残部を、私に下さったものです。
私でも名前ダケは存じ上げている壮々たる先生方によるものですが、私の撮った「写真」には、その三分の二しか、それも、末永氏以外は、署名のみしか撮れていません。
末永氏が発起人の一人となっておられ、末永氏は、「左上」に見られるように、[師恩奉謝]─本日をトシ先生門下相集りて初夏の法然院に於て追慕す─と書いておられます。


浜田氏は、松本清張の「小説」=『断碑』に描かれているように、
考古学の殉教者と称される、森本六爾氏にも、「考古学教室」で研究させるというように、
「京都帝大の考古学教室」の学生に限らず、広く=A「考古学」を研究する人達に手をさしのべておられます。
ただ、この『断碑』は、フィクション≠熨スいとされ、また、森本氏の「病気」の進行(当時は不治の病≠ニされた「結核」)により、
「教室員」の健康面から、最後までというワケにはいかなかったようですが、
浜田氏が、人間の幅≠フ広い、傑出した方だったのは間違いないと思われます。

私は、当然のように、耕作氏は、存じ上げませんが、ご子息の氏が、「電話」と「手紙」のやり取りダケ(一度、「東福寺」近くのお宅を訪ねたのですが、あいにく、ご不在でした)でしたのに、私に対して、数々の配慮をしてくださったことからしても、十分にうかがい知ることができます。

吉瀬氏は、末永氏から、「考古学」に対する「知識」そのもの≠教授されることは少なかったと思われますが、「考古学」への篤い思いは、十分に受け取られたと思います。

そして、「大学卒業」後は、「防府市教委」に勤務され、「周防国衙跡」を中心とした「調査」に深くかかわって、今日にいたるのです。
「防府市文化財郷土資料館」のメイン≠ニもいうべき「国府・国衙」の研究は、三坂圭治氏(邂逅(戦前編)−参照)が、 昭和4(1929)年に東京帝国大学を卒業して間もない昭和8(1933)年に、「積文館」から、体系的にまとめられた『周防国府の研究』を出版され、「周防国府」が国府研究のさきがけをなして以来、今日なお、注目≠ウれ続けている「研究」です。
「国府物語」という「サイト」がありますが、その中でも周防国は、国府研究者にとって特別な国である。それは後に山口大学の教授になる三坂圭治が昭和8年(1933)に著した「周防国府の研究」が、我が国の国府研究の嚆矢となったからである。 三坂は現地を精査し、古文書にあたり、現在の地名、遺存地割りによって、防府市の国衙地区に八町(870M)四方の国府域と、二町(218M)四方の国衙域を推定し、古代の国府プランを復元したのである。・・・ といった紹介がされています。

1937年(昭和12年)6月15日、周防国府は国府の遺跡として全国で初めての「史跡」指定地となっています。(文部省告示第260号)

ここの「写真」は、12、10、13(「昭和12年10月13日」のことだと思います)という三坂氏による「メモ」のある「写真」を三坂氏のご子息(といっても、私より年上の方です)からお借りし、「スキャナ」させていただいたものです。

「左の写真」の「赤い線で囲まれた枠内」が「周防国府跡」です。(「写真」は、「サイト」にあるものを使用させていただきました。)
「右の写真2枚」は、
周防国府第168次調査で見つかった条坊に沿った溝。
溝の両側には杭が打たれていた。
時代は「室町時代」
という「説明」のついた「写真」を「文化財課」の原田光朗氏にお借りしたものです。
そして、原田氏から、「次」のような「説明」を受けました。
国府(こくふ、こう)」は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市をいいますが、10世紀を境に徐々に衰退していきました。
しかし、こと「周防国府」については、「東大寺」再興の、造営料国に当てられ、東大寺の管轄下に入っていたため、中世から近世にわたって国府域が守られたのです。
したがって、「周防国府」内には古代から近世までの遺構が存在するという点で、単に、「周防国府」が国府研究のさきがけをなしたというにとどまらず、「周防国府」の「存在」そのもの≠ェ貴重なのです。
「写真」の「室町時代」の「遺構」も、時代とともにどう変遷していったかを見る意味で、貴重なものといえます。


なお、「指定地」のほとんどは民有地であるため、「再開発」、「建替」等の機会を捉えて、根気強く、「発掘調査」が行われ、「記録」がとられているわけで、この「168次」も、まだまだ途上だとのことです。

「防府市埋蔵文化財センター」の[HOME PAGE]
↑ 「リンク」設定することの「許可」をいただいています。


この「周防国府跡」の「発掘調査」は、昭和36年から始まったといいます。
吉瀬氏にお尋ねしたことを「メール」で「回答」していただきましたが、それによると、
「周防国府跡の発掘調査は、昭和36年から始まりました。
38年でいったん終了しましたが、その後、国府の南端で、江川改修の計画が持ち上がり、48年に発掘調査が行われ、 その時に調査委員の一人として、金関恕先生が調査に参加されました。
それ以降、防府市の発掘調査の指導委員、周防国府跡保存対策協議会の委員として、平成5年頃まで御指導いただきました。
防府市において御指導いただいたのは、上記の通り昭和48年からでしたが(正確に言うと47年の末)そのきっかけは、山口県教育委員会による推薦だったものと思われます。」
とのことです。
おそらく、「土井ヶ浜遺跡」から始まる、「北浦」を中心とした多くの「発掘調査」(特に、「綾羅木郷台地遺跡」の場合は、自動車産業に必要な硅砂を採掘するため、遺跡のある丘陵をブルドーザーで掘り崩すという事態となり、破壊されそうになったため、尽力されていますし、我が国では発見例の少ない古代朝鮮の青銅器の見つかった「梶栗浜遺跡」など)に係わっておられることが「理由」だと思います。
金関氏自身、ぼくは山口県土井ヶ浜遺跡の調査以来の縁で、下関市周辺の弥生時代の遺跡の調査にかかずりあってきた(『考古学は謎解きだ』222頁)と書いておられます。
従って、「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ニしては(番外)になりますが、伏流水≠ニしては流れていると言ってよいと思います。
のみならず、金関氏は、「天理大学」において、重要な役職を担わているのを始め、「大阪府立弥生博物館館長」(1991(平成3)年〜)等、様々な活動の中で、「山口県」にも深く関わっていただき、「山口県史編纂委員(考古部会長)」等も務めてくださっているのです。

また、吉瀬氏個人≠ニしても、「学生時代」、「金関先生がおられた天理大学の発掘調査に参加したり、 先生が指導しておられた、下関の秋根遺跡の調査に参加したりして、 私は勝手に先生の弟子と思っております。ただ不肖の弟子ではありますが。」
と、「メール」に記しておられました。





(「番外編」のそのまた番外≠ニして)


「防府市文化財郷土資料館」には『マイマイ新子』「アニメ映画」からの「絵」が記された「ポスター」もありました。
「映画」製作にあたり、「文化財課」が協力したからであるとともに、「映画」そのもの≠ェ、「文化財」の「理解」に関わるからということのようでした。
「平成21年度防府市文化財郷土資料館企画展=防府にかかる千年の歴史 −「マイマイ新子」のふるさとを訪ねて−」という「パンフレット」には、 昭和30年・麦畑のかなたに新子が見た「千年前の防府」周防国府の姿を発掘調査の成果などからお見せします。
とありました。

なお、製作者の「ブログ」には映画の中に出てくる考古学者の先生が吉瀬さんに似ていたとしたら、それは偶然ではないかもしれません。われわれとして一生懸命、吉瀬さんのお顔を思い浮かべて描こうとはしたのでした。でも、実物の吉瀬さんはもっとずっと若々しい感じです。≠ニあります。
左の画像は「マイマイ新子製作委員会」に許可を得て 使用しています。



この番外編≠フそのまた番外≠ニして、述べることは、「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ニの関わりはないに等しいのですが、
@ 次の「枠」に記すように、「防府」という名称≠ヘ、「上」に述べている「周」とつながりがある。
A この『マイマイ新子』の作者が、「山口県」から、斯波 四郎氏に続く「芥川賞受賞」作家である燻のぶ子であり、『マイマイ新子』のみならず、受賞作品『光抱く友よ』において、舞台となった「高校」が、私共の家と道を挟んだ前にある「山口県立防府高等学校」で、「桑山(くわのやま)」(「小説」の中ではK山)など、私共の生活圏≠ェ背景として描かれている。
B 「防府」は、父=英男が「土井ヶ浜遺跡」と再び=Aわずかばかりのつながり≠持つに至る「土地」であった。
ということで、蛇足とは思いながらも、記しておきます。
「防府」はウフ≠ノあらざること

防≠ヘ、「防災」・「防御」・・・といったようにボウ≠ニ読まれることが圧倒的に多いタメ、「防府」をウフ≠ニ思っている方が驚くほど多いというのが現実≠ナす。

しかし、「防府」は、「周の国」=すほう(読み方はオウ≠ナすが、かつては、読み方もホウ≠セったハズです)のこく≠フ置かれた所ということで、、ウフが正しいのです。
そのため、「防府高校」も、当然=Aウフコウコウ≠ナすが、ただ、略称する場合の「防高」は、ウコウ≠ニいいます。







「防府高校」は、燻氏の出身高校ですが、私も、そうで、それも燻氏の一級上でした。
つまり、燻氏の描く「防府」の情景は、ほぼ私の眼に写ったものでもあるのです。
ただ、「男女共学」とはいえ、「校舎」が別々であった(「小説」でも男女の校舎は別棟になっていた≠ニあります)ため、在学中は知りませんが、「小説家」になられてからは、何度も「講演」をお聞きしましたし、
『光抱く友よ』の「初版本」も、2冊所持しており、1冊はサイン≠していただいています。

さらに、私の勤務していた高校の「図書館」の「展示室」に、「山口県出身」の「芥川賞・直木賞」作家のコーナーを設けた際、思いついて、「色紙」をお願いしたところ、燻氏と、「直木賞」の古川 薫氏には、協力をしていただきました。
現在も、飾ってあるハズです。






「左」の「無能にしてこの一筋につながる」の「色紙」は、古川氏にいただいた「色紙」の「写真」です。
「宇部市」の「中学校」の教師であったことのある古川氏らしい「色紙」だと思います。
「直木賞」受賞作品は、周知のように、藤原義江を描いた『漂泊者のアリア』ですが、古川氏の基本的な主題は、長州藩・山口県とその出身・関連人物で、特に、幕末期の長州藩とその出身・関連人物を取り挙げた歴史小説が多く、この「色紙」をお願いする以前に、野村望東尼と高杉晋作のことについて、お尋ねして、親切にお答えをいただいたことがあります。


なお、燻氏が燻氏の「文学」に深い関わりがある「先生」と語っておられる西村 謙氏(燻氏の在学された「防府市立国府中学校」の国語教師)は、私にも関わりのある方です。
西村氏は、私の「教育実習」の時の「指導教官」(当時、西村氏は、私の出身の「桑山中学」におられました)の一人であり、それ以後も、親しくさせていただいている方です。




お願い


この燻氏と西村氏深い関わりについては、は、「別の頁」を用意しています。
次の≠クリック≠オて御覧くださるよう、お願いいたします。

また、「防府市文化財郷土資料館」について、私なりにまとめた「頁」も用意しました。




私共がこの「防府」の地に住むようになった遠因に、父の、「土井ヶ浜遺跡」との邂逅≠ェあるのです。

野村望東尼はどこで*Sくなったのか?
 ↑ 「5」「野村望東尼終焉の宅or室」と我々との関係 を御覧下さい。

そして、この「防府」の地で、父=英男が、「松崎小学校」に勤務したことで、再び「土井ヶ浜遺跡」にかかわることになることにもつながってくるのです。


椿惣一氏と並び称される伊藤周一氏という素晴らしい校長(「左の写真」の方)に出会い、かつ、その伊藤氏の推薦で「理科教育担当」の「主事」として、「県教委社会教育課」に転じることになります。(もっとも、父の後任人事までほぼ決まった段階で、その話がなくなったとかで、「華城中学校」に一年間=Aお世話になっていますが。)

そして、当時≠ヘ、「理科関係」の「仕事」だけで済むわけはなく、広い分野の 「仕事」を今日とは比較にならないほど、少ないスタッフ≠ナ分担して担当したことから、「文化財」関係の仕事も、当然、係わりを持つことになりました。
「砂七(=英男の父)」の代まで「戸田焼」の窯元であったということも関係して、その「文化財」の仕事の際の中央の先生方との対応を含め、その仕事ぶりが評価≠ウれ、「河野なら 文化財の仕事≠ェできる」として、それまでの「文化財」関係法規が、「文化財保護法」という形で制定さ れなおされたことで、「山口県教委」においても、「社会教育課」内に「文化係」を設けることになった際、初代≠フ「文化係長」にしていただいたのです。
(無論、父は、多くの書物を購入し、独学≠ナ、勉強を重ねていましたし、それは、「係長→課長補佐」になっても、継続していました。)
そして、「文化財担当」を主≠ニすることになったことで、再び、「土井ヶ浜遺跡」に「県教委」の「担当者」の一人として係わることになるのですから、人と人のつながり≠フ不思議は、いくらでも出て来るということでしょう。














mini-counter
これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、22356でしたが、[平成23年3月3日]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。
従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります