平成20年5月25日 公開
平成22年3月18日 更新



邂逅=@― この不思議なるもの   (戦前編)


構 成
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[1][はじめに]

[2]土井ヶ浜≠フ発見・発掘史のエッセンス

[3]昭和初期の「土井ヶ浜」からの人骨出土から三宅宗悦氏の鑑定までのこと

[4]戦後の「土井ヶ浜」遺跡 〈女生徒の話から貝製品を採集した衛藤和行氏からの出発=r


[●]土井ヶ浜≠フ発見・発掘史のエッセンス≠ノ邂逅=E偶然≠織り込むと・・・

[A]● 昭和初期の「土井ヶ浜」からの人骨出土から三宅宗悦氏の鑑定までのこと

背景(その1) 村の人・河野英男について

背景(その2) 小川五郎氏について関係

背景(その3) 三宅宗悦氏について@

背景(その4) 浜田耕作氏について関係

背景(その5) 清野謙次氏について

背景(その6) 駒井和愛氏について関係

背景(その7) 三宅宗悦氏についてA

背景(その8) 藤島亥治郎氏と浜田耕作氏のこと





はじめに

 小噺に、
  ニュートンは、リンゴが落ちるのを見て、「万有引力の法則」を見つけたが、その時、青森県の人達は何をしていたのでしょう。
というのがあります。
 思いますに、この小噺は、偶然ということの重要さと、その偶然を生かすには、それなりの必然が必要ということだと思いますが、「偶然」の積み重ねばかりのように紹介されきた「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」を調べてみると、実は、この「必然と偶然が織りなした」好例だということがわかったのです。

邂逅=思いがけない出合いという偶然≠「人生の重大事である」亀井勝一郎氏は書いておられますが、まさに、「土井ヶ浜遺跡」が人類学史上%チ筆される「遺跡」として注目されるに至るには、邂逅≠ニいう偶然をもとに、それを必然とした人と人とのつながり・人間関係≠ェあったということをここでは述べたいと思います。
 ミスタージャイアンツ≠ニ呼ばれた長嶋茂雄氏に人気がある理由として、名前は忘れましたがある「漫画家」がテレビで、「私達漫画家でも書くことをためらうような劇的≠ネことを長島はするんですね。」と言っていたことを思い起こします。
 まさに、事実≠ヘ「小説」よりも奇なりということでしょうか。

────「漫画家」でさえ嘘っぽくて¥曹ュことをためらうというような長島の劇的なホームランのこと──────

そのホームラン≠ヘ、1959年6月25日に後楽園球場で行われた、プロ野球・セントラル・リーグ公式戦、読売ジャイアンツ(巨人)対大阪タイガース(阪神)の「天覧試合」で生まれました。
 私も、テレビでその中継は見ていましたが、その「試合」の模様を[フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』]から引用させていただきます。

 試合は巨人が藤田元司、阪神が小山正明の両エースの先発で始まった。両チームとも点の取り合いとなり、3回表・阪神が小山自らのタイムリーヒットで先制点を挙げる。その後5回裏・巨人が長嶋茂雄と坂崎一彦の連続ホームランで逆転すると、6回表・三宅秀史のタイムリーヒットと藤本勝巳の逆転ホームランで3-4とする。
7回裏・巨人は王貞治のホームラン(王と長嶋が同じ試合でホームランを放つことを表す「ONアベック弾」の第一号)ですかさず同点に追いつき、阪神は新人・村山実をマウンドに送る。同点のまま9回に入った時には9時を過ぎていたが、天皇・皇后が野球観戦できるのは午後9時15分までであったため、延長戦に突入した場合は天皇は試合結果を見届けられず、途中退席になる可能性があった。
しかし、午後9時12分、9回裏、先頭バッターの長嶋がレフトポールぎりぎりに入るサヨナラホームランで接戦に終止符を打った。天皇・皇后は試合結果を見届けた上で、球場を後にした。・・・
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 どうでもいいようなことながら、まず、私が、「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」を調べ始めたのが、偶然でした。
 私の父「英男」は、昭和5年3月、山口師範学校を卒業してまもなく、この「土井ケ浜遺跡」と巡りあい、そのことが契機となって、その後の人生がいささか非凡なものとなっていました。
 父は、昭和62年6月23日に亡くなったのですが、それからまもなく、学校に勤めていた私が、「模擬試験」の監督のため、日曜に出勤する途中、偶然耳にした「ラジオ放送」によって、昭和初年抜きの「土井ケ浜史」があることを知ったのです。
 私は、ラジオを聞くのは車の中だけですの、まさに偶然といえます。
 「ドーム」の建設がきっかけだったのでしょう、「中国新聞」を代表として、各紙が「土井ケ浜」を特集していました。私は、「新聞社」に「もし、発見当時のことにふれられるなら、取材してほしい」と依頼しましたが、取材はなく、新たな誤りを付け加えただけでした。
 私は、やむなく、「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」は、どうなっており、いつから父が消えたのかと、調べてみました。
 その結果、父が消えている「文献」はごくわずかであって、むしろ衛藤和行氏のことが消えている「文献」の方が多く、かつ、「何通りもの土井ケ浜前史=vが存在するという現実に突き当たったのです。
 「土井ケ浜遺跡」に、今日の学術的価値を見出だされたのは、いうまでもなく、金関丈夫氏です。「土井ケ浜の前史=vに、どれほどの意味があるかは、正直いって、わかりません。しかし、数多い『文献』のいずれにも、前史≠ノ関する記述があり、しかも、バラバラであるという事実は、ほっておいてよいとは思えませんでした。
 さらに、先の「ラジオ(KRY)」で昭和初期抜き≠フ話をされた国分直一氏は、こちらが恐縮するほどの対応をしてくださり、「存じませんでした。何かに発表してくださるとありがたいですね。」とおっしゃってくださったのです。
 国分氏は、世界的な文化人類学者であり、金関氏とは懇意な方で、東京教育大学(現 筑波大学)を定年で退官され、山口に帰っておられたのです。
 (後日、「金関先生は、お父さんのことをちゃんと書いておられたのですね。見落としていました」と、電話をくださいました。)

────[山口県土井浜遺跡   金関 丈夫・坪井 清足・ 金関  恕共著]における記述──────────────────────  

 土井浜遺跡は、昭和六年三月、当時土地で訓導をしておられた河野英男氏の発見に係わるものである。同氏は、六体の人骨を容れた箱式石棺が、たまたま出土したことを小川五郎氏に通報し、また、採集した二例の頭骨を故三宅宗悦博士のもとに届けられた。同博士は、昭和六年、現地を調査された。これとは別に、昭和七年三月には、駒井和愛博士が同地で、弥生式土器片を採集して、三宅博士に送られた。三宅博士は、先に届けられた頭骨を計測した結果、計測値の上から、これらが、古墳時代に属するものであると断定し、報告しておられる。
遺跡は、その後長い間世に忘れられていたが、戦後、神玉中学校教諭の衛藤寿一氏が、再び当地で出土した人骨を採集して、昭和二十八年九州大学医学部解剖学教室に通報された。これが五次にわたる調査の端緒となったものである。
(ここには、そもそものきっかけ≠ニなった「貝の加工品」のことは記されておらず、また、昭和27年でもなく、昭和28年に、人骨をいきなり九州大学医学部解剖学教室に通報されたようになっています。
 この「土井ヶ浜遺跡」に関する原典の、発見&舶ェについてのみ、金関丈夫氏、椿惣一氏以外は、健在でおられましたので(残念ながら、衛藤和行氏、永井昌文氏、浜田敦氏、国分直一氏はお亡くなりになってしまわれました。)、協力をいただいて、わずかばかり、私が修正しているわけです。)
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かくして、「私が調べる」という必然が生じたのです。

  その調査≠ノは、河野英男の三男という立場は役に立ちました。
 日本を代表する方々に、お話を伺ういとぐち≠ニして切り出したことが多分にさいわいしたのでしょう、みなさんから、協力をいただくことができたのです。 〈ただ、元下関市教委と豊北町の二人のI氏(偶然にも同じ姓ですが、関係はないようです)だけは例外的でしたが。〉

 まず、なによりもさいわい≠セったのは、「金関発掘調査」のきっかけ≠作られた衛藤和行氏には、お宅を、父に連れられて訪れたことがあり、それ以後も、父の依頼で衛藤氏に何度も会ったことがあって、 何度も何度もの電話や対面を許してくださったことがあります。
 (私の住む防府から、特牛港近くの衛藤氏のご自宅に行くには、かなりな時間がかかります。あまりに度重なったからでしょう、衛藤氏は、私に配慮してくださり、
 「あんたが定年になってからきんさい。わたしは死にゃあせんから。」
とおっしゃったのですが、不幸なことに、私の定年前に、「下関駅」での通り魔事件≠ナ、亡くなったしまわれました。)

 更に、「金関発掘調査」の当時は、英男は「山口県教育庁社会教育課」において、「文化係長→課長補佐」として、その「調査」に係わりを持っていて、関係された先生方と面識があったということです。
 例えば、「発掘調査」当時は「文化財保護委員会」におられ、「土井ヶ浜遺跡」の「国指定」のお世話になった斎藤忠氏は、その後、東大教授等を歴任され、その後もお忙しい方だったのです。
百歳≠迎えられるのを契機に、平成20年3月、「静岡県埋蔵文化財調査研究所」の所長職を辞されるまで、多くの役職をなさり、「今後は、考古学の集大成となる本の執筆活動に専念」されるとのことでしたが、その言葉の通り、平成20年12月26日の「読売新聞」には、斎藤忠さん、100歳記念の著作選集≠ニいう「記事」がでていました。
 なお、その「記事」の中に、今も朝4時半に起きて、5時から机に向かう毎日。最近は、長年収集してきた、江戸時代から昭和にかけての学者の著作や書簡などを1冊にまとめる作業に集中している。「私しか持っていないような、びっくりするような資料がたくさんありますから」。来年秋には『史学と考古学の人々とその文献をたどる』(仮称)として上梓する予定だ。 ≠ニあります。
 今後、ますます、貴重な刊行がなされるものと思います。

 「写真」は、私がお訪ねした平成3年に、いただいたものを「スキャナ」で取り込みました。

 しかし、3ヶ月後なら、私のために、時間をとってくださるということで、東京のご自宅を訪問、「カセットテープ」をまわすことも許してくださり、そのお話の中で、浜田耕作氏は無論のこと、三宅宗悦氏、金関丈夫氏と、京都帝大で一時期、一緒に勤めておられた方々の話を伺うことができたのです。
 また、「豊北町(現 下関市)」は、父の勤務していた土地であるほか、母の生まれた地であり、山口女子師範卒業後、北浦の地で勤務もしていたこととて、多くの知人がおられ、ユリコの子=A英男の子≠ニいうことで、協力が得られたのです。


 私がこの邂逅≠フ不思議さに思いをいたした最初≠ヘ、

父=英男が「考古学者」の小川五郎氏に報告したのは自然だと思うのに、なぜ、その小川氏が、「病理学教室」の三宅宗悦氏にさらに紹介し、その三宅氏が『防長史学』という地方誌≠ノは発表したのか。

という「疑問」を、小川五郎氏のご子息で、衆議院議員であった小川信氏の奥さんに、その「疑問」を投げかけ、その奥さんから、
 「三宅宗悦先生は、旧制山口高校で義父と一緒に学んだ親友だったからですが、三宅先生について、確か、先年、ツノダ≠ニいう方が発表されたものがあると思います。」
 「宇部の渡辺さんにお尋ねになったら、いかがですか。」
と教えていただいたことで、宇部の渡辺♂ニ、つまり、現在の「宇部興産」を興した渡辺祐策氏の孫にあたる、当時、「宇部興産病院」の院長であった浩策氏のお宅に電話し、その奥さんから、親切に教えていただき、ツノダ≠ニ言われる方=角田文衛氏の、「人類学者 三宅宗悦博士」という論文の抜き刷り≠いただいたことからです。
 つまり、三宅宗悦氏の姉にあたる方=柔子(なりこ)氏が、祐策氏の次男=渡辺剛二氏に嫁いでおられたのが、宗悦氏が旧制「山高」に学ぶことになられた「理由」の一つで、そこから「土井ヶ浜遺跡」の前史≠ェ始まっていたことを知ったのです。
 剛二氏は、後に述べますが、「宇部興産」の会長を務められたり、山口県医師会長、山口県議会の議長をなさったりした、祐策氏に匹敵するように方でした。
 その奥さんであった柔子氏のもとで、母を早く亡くし、父=宗悦氏の戦死で、宗悦氏のご子息が、育たれたということも知り、そして、金関氏が宇部市にある「山口大学医学部」の前身「山口県立医科大学」に一時期勤務され、ご子息とも会われていたことも知ったのです。

 角田文衛氏には、電話でお話を伺い、いろいろと教えていただくと共に、「もし、ミスがあれば遠慮せずに訂正してほしい」とまで言っていただいたのです。
 地元=山口県≠ノ住んでいることがさいわい≠オ、角田氏の「論文」の中に、ほんの部分的な間違い≠少しばかり見つけたのですが、それよりも、この「論文」がもと≠ニなり、お話を伺った方々の温かい対応で、ここに記すようなことがわかったのです。

 ここでは、ごく概略的≠ノ、邂逅の不思議≠述べておきましょう。
 それも、偶然≠ニいう「縦糸」に、必然≠ニいう「横糸」が絡まった、まさに、不思議≠ニしかいいようのないありよう≠述べたいと思います。

 「考古学」が今日の開発?考古学 ≠ニ違い、まだ「考古学」が、偶然に左右され、一般人≠フ関与が意味を持っていた頃の一つの例として、発見・発掘≠フありよう≠語ることもそれなりに∴モ味を持つと思います。

────[開発=H考古学]─────────────────────────────────────────

「土地に埋蔵されている文化財=埋蔵文化財」及びその包蔵地の発掘については、届出・通知が義務づけられています。
多くの場合は、既にわかっている場所の、大規模な再開発に伴い、深く掘り返すためのものですが、一般的な開発工事によっても、重要な遺跡が偶然に発見されることも少なくないようです。
工業用団地、住宅団地、高速道路建設、農場整備等の広域開発に伴う発掘規模の拡大によって重要な考古学的発見が相次(『わかりやすい 文化財保護制度の解説』〈中村賢二郎著〉)ぐといった状況で、土地の所有者又は占有者が貝づか、住居跡、古墳その他遺跡跡と認められるものを発見したら、現状を変更することなく=A届け出、調査が済むまで、開発は延期されるのです。

 こうした開発に伴う発掘調査を要する数は膨大なもので、「考古学では飯が食えぬ」といわれた時代は過去のものとなり、いまや「考古学」の卒業生は引っ張りだこだといわれているのです。
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土井ヶ浜≠フ発見・発掘史のエッセンス
おことわり=文中、エッセンス&舶ェの[敬称]は略しています。なお、[背景]については、氏≠ノ統一して敬称としています。



昭和初期の「土井ヶ浜」からの人骨出土から三宅宗悦氏の鑑定までのこと

昭和6年春、神玉村(現 下関市)の村人が人骨≠発見、またまた「元寇」で戦死した蒙古人の骨だと騒いだのを、神玉小学校に勤務し始めたばかりの河野英男が、立派な「石棺」か出土したことから、「日本人の人骨」と判断、
京都帝国大学考古学教室の第一回生であり、旧制山口高等学校講師であった小川五郎に連絡すると、小川は、出土状態からして「古墳人骨」であろうと推測すると共に、
京都帝国大学病理学教室の清野謙次のもとで、講師として「人類学」の研究をしていた三宅宗悦に鑑定を依頼、三宅は、土井ヶ浜に調査に訪れ、河野から人骨2体を譲り受け、当時、「弥生人骨」の発見が皆無に近かったため、清野の蒐集人骨との比較から、 その「人骨」を「古墳人骨」と断定し、三宅も発起人に名を連ねる『防長史学』という歴史雑誌に「報告文」を掲載した。その結論部分を引用すると、土井ケ濱古墳人骨が伝説の所謂「元」の骨でなくもつと古い時代のものであり、本邦一般の古墳時代人骨の内に含まれるものである事を断言し得るのである。≠ナある。
なお、やはり小川から情報を得て、土井ヶ浜を訪れ、人骨の出土地点付近で採集した「弥生式土器片」を「資料」として三宅に送った東京帝大副手の駒井和愛に触れ、東京帝國大学文学部考古学教室の駒井和愛学士同所にて刷目ある弥生式土器片数個獲て届けられたので、同石棺の年代をやや明かにし得た≠ニいう一文もつけ加えて、発表しているが、これは、駒井への配慮であるだけでなく、戦後、金関丈夫が、財政事情≠フ厳しい中で、「発掘」に踏み切る一つの要素ともなっていることを忘れてはならない。


戦後の「土井ヶ浜」遺跡 〈女生徒の話から貝製品を採集した衛藤和行氏からの出発=r
終戦後、地元出身で、新制の神玉中学校に勤務していた衛藤和行が青年研修所建設工事に伴って出土した人骨≠フ中から、見慣れぬ貝製品を発見、長府博物館の椿惣一のところに持ち込んだところ、「古代展」椿によって、九州大学考古学教室の助教授鏡山猛、助手渡辺正気に紹介され、さらに鏡山から医学部解剖学教室教授で、人類学者でもある金関丈夫が、終戦に伴って、台北帝国大学から九州大学に転勤してこられ、必然的に[研究テーマ]を弥生人≠ノ変更されながらも、肝心の弥生人骨≠ェ発見されないで、困っておられたことを知っておられてので、知らされた。 金関は教室の永井昌文を始め坪井清足・金関の次男=水野正文国分直一・小川五郎らの協力の下に、発掘調査が実施され、「土井ヶ浜」からの出土人骨は、「弥生人骨」ということが判明、かつ、膨大な「弥生人骨」の出土であったことから、金関丈夫は、今日の「日本人起源論」の主柱となっている、いわゆる「金関の渡来説」を発表、その根拠となった日本における重要な「遺跡」の一つとして、広く知られるようになった。
なお、衛藤は、単にきっかけ″ったというだけでなく、この「発掘調査」のメンバーの一員にもなり、かつ、「第一次」で終了しかけた「発掘調査」が継続し、大きな成果をあげるに至る要因を、金関の指示のモトにおこなったということを忘れてはならないことです。
 また、この「土井ヶ浜遺跡」の発掘当時、文化財保護委員会の技官であり、「国指定」となる際、窓口として世話をしたのが斎藤忠であったこと、この時、河野は、「山口県教育庁社会教育課」の文化係長であり、かつて、神玉小学校の教員であったことから、「地元」の調査団発足に、いささかの係わりを持つことになったということも付言しておきましょう。 





土井ヶ浜≠フ発見・発掘史のエッセンス≠ノ邂逅=E偶然≠織り込むと・・・

● 昭和初期の「土井ヶ浜」からの人骨出土から三宅宗悦氏の鑑定までのこと

昭和6年春、神玉村(現 下関市)の村人が人骨≠発見、またまた「元寇」で戦死した蒙古人の骨だと騒いだのを、神玉小学校に勤務し始めたばかりの河野英男が、立派な「石棺」か出土したことから、「日本人の人骨」と判断、
京都帝国大学考古学教室の第一回生であり、旧制山口高等学校講師であった小川五郎に連絡すると、小川は、出土状態からして「古墳人骨」であろうと推測すると共に、
京都帝国大学病理学教室の清野謙次のもとで、助手として「人類学」の研究をしていた三宅宗悦に鑑定を依頼、三宅は、土井ヶ浜に調査に訪れ、河野から人骨2体を譲り受け、当時、「弥生人骨」の発見が皆無に近かったため、清野の蒐集人骨との比較から、 その「人骨」を「古墳人骨」と断定し、三宅も発起人に名を連ねる『防長史学』という歴史雑誌に「報告文」を掲載した。その結論部分を引用すると、土井ケ濱古墳人骨が伝説の所謂「元」の骨でなくもつと古い時代のものであり、本邦一般の古墳時代人骨の内に含まれるものである事を断言し得るのである。≠ナある。
 なお、やはり小川から情報を得て、土井ヶ浜を訪れ、人骨の出土地点付近で採集した「弥生式土器片」を「資料」として三宅に送った東京帝大副手の駒井和愛に触れ、東京帝國大学文学部考古学教室の駒井和愛学士同所にて刷目ある弥生式土器片数個獲て届けられたので、同石棺の年代をやや明かにし得た≠ニいう一文もつけ加えて、発表しているが、これは、駒井への配慮であるだけでなく、戦後、金関丈夫が、財政事情≠フ厳しい中で、「発掘」に踏み切る一つの要素ともなっていることを忘れてはならない。





背景(その1)=村の人・河野英男について
 村の人人骨≠フ発見は、「水車小屋」建設のための、石を捜していたことに伴うものでした。
 その「人骨」発見≠ェ警察沙汰≠ノならなかったのは、既に「江戸時代」から、しばしば「人骨」は出土しており、「事件」とはされず、「元寇」の時の戦死した蒙古人の人骨だと思われていたからです。

都濃郡戸田村(現 周南市)在住の河野がそこに係わるのは、「山口師範学校」を卒業、「理科教育」を主体としていたため、招かれて、神玉小学校に赴任したからです。当時は、新卒≠ニはいえ、「資格」を持つ教員が少なかったこととて、師範出身者は、重用されたといいます。
当時、「短期現役(短現)」という制度があり、半年、勤めた後、神玉小学校に実際に勤務を初め、その半年後に、「人骨出土」という知らせを受けたわけです。
当時の「小学校」は、地域においての情報センター≠フ役割を果たしていました。
河野は、大がかりな石棺が、敵であるのみならず、日本に侵略してきた蒙古人の戦死者なのに、手厚く葬るといった博愛的≠ネ扱いを「鎌倉時代」の人達がするとは考えにくく、「日本人が葬られた墓」からの出土と考えたのです。
しかし、村の人達の理解は得られず、困った状況に陥っていた河野は、たまたま北浦に調査に来られた旧制山口高校講師で歴史学の 小川五郎 氏を宿に訪ね、人骨のことを話したのです。




背景(その2)=小川五郎氏について
〈「工事」における土器の出土/「美濃ヶ浜遺跡」の発見と島田氏による絶賛〉


 小川氏が歴史の先生になられた背景≠ノは、実に多くの偶然=E邂逅≠ェ存在しています。
何から語り始めたらよいのかと、迷うのですが、小川氏が旧制山口高校に在籍した当時、防火用水槽建設工事に伴って、土器類が多量に出土したという偶然≠出発点として語り始めましょう。
大正十二年秋のことでした。
当時土器等に少し興味を持つて居た森本(註 勇)君と私(註 三宅氏)とは毎日掘り上げられる土地の中から、少しづゝ土器の破片を蒐集した。
それが導火線となつて先輩の宮本君(註 忠孝)、小早川君(註 、欣吾)、星野君(註 、隆一)達によつて次第に蒐集され、小川氏は、三宅氏に誘われて、その仲間に入ったのです。
そして、採集品は一応まとめて学校の図書館に保管して貰ったがこうして同好者が次々に出来た結果、匹田教授を指導教官にお願いして大正十三年五月山高郷土史研究会が結成≠ウれたのです。
 ただ、匹田氏は、「考古学」に知識が深いというわけではなく、学生の主体性が活動の要因であったといいます。(そのため、小川氏、三宅氏らが卒業すると、「会」の活動は衰退しますが、小川氏が教員として母校=山口高校に着任すると、再び活発となり、「考古学」への進路を取り、数人は、全国的な考古学者となっています。)
 そのため、会の方針として、「山口県の古代史を主として考古学的に研究する班」、「大内氏の文化を研究する中世班」、「維新史を中心に研究する班」の三つのグループを設定したが、ほとんどが考古学研究に集中したと書き残されています。
「文学」に深い関心を持ち、「国文学」への進路を考えていた小川氏は、「郷土史研究会」に籍を置いただけでなく、「文学」にも関心が深く、ある時、短歌創作のための取材旅行として、美濃ヶ浜を訪ね、そこで、戦前最大の発見とされる「古墳時代の遺跡」を発見します。
 それが、匹田氏や、塩田地主で考古学にも造詣が深く、山口に住んでおり多額の経済的援助を申し出た 弘津史文 氏らの働きかけで、京都帝国大学との「共同調査」へと進展したのです。
 浜田耕作氏のもとにいた 島田貞彦氏をチーフにして進んだ「研究」成果をもとに、島田氏は、山口高校における講演において、小川氏を絶賛したといいます。
 そして、この島田氏の、全校生の前での小川氏絶賛が、小川氏に進路を「考古学」にとらせる要因になったという土井ヶ浜遺跡の「発見・発掘史」の出発点ともいうべきことが、小川氏の親友の一人 田中晃氏によって、「記録」として残っています。
 小川氏は、おそらく冗談のつもりだったのでしょうが、早くから、自分の「弔辞」を読むのは田中だと友人連中に語っていたといいます。それが現実≠ニなり、田中氏が「弔辞」が書くのですが、その「弔辞」が小川氏の追悼出版物『防長文化史雑考−小川五郎先生遺文選集−』の中に集録されているのです。
ただ、その中では、講演したのは、島田氏ではなく、梅原末治氏とされていたため、私は田中氏を訪ね、当時、梅原氏は「留学」中であり、さらに、梅原氏より当時は島田氏の方が上席であったはずで、講演するとすれば、常識的には島田氏のハズと、島田氏の写真を持参し、「左」の「はがき」も持参して確認しました。





「写真」は、「旧制山口高校」時代の「左」=小川氏、「右」=田中氏です。
 2人は、旧制「山口中学」(小川氏)、旧制「防府中学」(田中氏)時代に、「弁論大会」で出合い、旧制「山口高校」では、学年は1年違っていました≠ェ、深い友情で結ばれたと言います。


 病弱≠ナ、徴兵も猶予されるという状態で、学歴も「同志社普通学校(現・同志社高等学校)」を卒業だけなのに、浜田耕作氏が京都帝国大学総長となられた後の考古学教室の教授となり、大きな実績を上げられた よく知られた梅原氏だけに、「つい錯覚した、申し訳ない」といわれ、田中氏は、「ぜひ、訂正してほしい」と私に「訂正」を託されたのです。
そして、その時、学生時代の小川氏や、三宅氏のことをいろいろと伺うことができたのです。
 島田氏の絶賛により、小川氏が、京都帝大における「考古学の専攻生」の第一回生としての進路を、小川氏が選択されるにあたって、心の揺れ≠経てのことであったことを含めて、田中氏にお会いしたことで、確認できました。(田中氏は、哲学の道を進まれ、多くの著作があるほか、山口大学・山口女子大学の学長等を歴任した方です。)
(今日では考えられないことですが、当時は、医学部等のごく一部を除けば、旧制高校卒業生は、ほとんど無試験≠ナどこの大学にでも進学できたこと、「考古学」への進路を取る学生は、「一回生」以後も、数年間は少なくて、まったく学生のいない年もあったことが、「資料」からも明らかです。)
 なお、小川氏は、「考古学」に進路を取られ、考古学分野を中心に、多くの業績を上げられた一方において、「国文学」への情熱を持ち続けられ、『歌集』も、出しておられます。

[写真のはがき] 三宅宗悦氏のことについては、なにせ幼くして両親に死別されていることとて、情報≠ヘ、錯覚もありました。「山口県地方史研究大会」で発表した「資料」をお送りした浜田敦氏に、そのことを指摘していただき、本家≠ノお尋ねすることになりました。本家≠継いでいらっしゃる三宅宗純氏は、膨大な「資料」を寄せてくださいました。左上の数字≠ヘその宗純氏のつけられた「整理番号」です。
 この「はがき」に、嶋田氏が調査に来られることと、梅原氏が留学されるということが書かれているのがおわかりでしょうか。〉




背景(その3)=三宅宗悦氏について
〈「山口高校」への進学/柔子氏のこと〉


三宅宗悦氏のことを述べましょう。宗悦氏が京都の地から山口に来るに至るには、前提がありました。
宗悦氏は、京都で、代々医業をなりわいとしてきた「三宅家」の九代の 宗淳 氏と 男依氏 の四男として生まれています。
 兄2人(1人は早世)はいずれも、[三高→京都帝大医学部]という道をとっていましたし、宗悦氏も当然のように、「医師」をめざしていました。ところが、「三高受験」がうまくいかず、1年浪人をしますが、おそらく、重複志願ができなくなったのでしょう、翌年に、高校は「山口高校」へ進みます。
 それには、姉= 柔子氏の存在が関与します。
 宗淳氏は、妻=男依氏に先立たれていたうえに、不幸にも、病に倒れてしまいます。その看護には長女=柔子氏が主としてあたりました。
 その手厚い看護により、やがて、症状が落ち着きますが、その看護のため、当時としては「婚期」の遅れた柔子氏に、さる宮家の紹介で、妻に先立たれていた「山口県宇部市」の 渡辺剛二氏との話が持ち込まれたのです。
 祖父= 宗仙 氏が、孝明天皇皇子祐宮(後の明治天皇)が、嘉永六年正月、御里亭中山家にて、御重態に渉らせ給ひ、典医等に拝診を仰付けられ≠スが、其甲斐もなく、愈々御危急と拝せられたり。其際中山忠能卿(御外祖父大納言)の果断によりて民間の町医を選抜せらるる事となり=A御召を蒙り、お救い申し上げたことや、長州(山口県)≠艪ゥりの「妙法院」の侍医であったこともあって、三宅家では、宮家の方達と交際があったといいます。
 柔子氏に取っては無論、初婚であり、剛二氏には、先妻との間に女の子もあったのですが、結婚することになりました。
 この結婚は、柔子氏にとってもしあわせなものであり、先妻の子とも違和感なくかわいがり、嫁いだ時には山口県の偉人≠ニされる 渡辺祐策氏 も健在であって、祐策氏にかわいがられ、医家に育っただけでなく、父親の看護の経験のある柔子氏は、祐策氏の晩年を手厚く看取り、祐策氏は感謝しつつ亡くなられたといいます。
 のみならず、剛二氏との間に、男子が次々とうまれ、祐策氏の喜びは大変なものであったといいます。この二人の男子は、京都帝大の医学部、法学部に学ぶ俊才であったし、柔子氏は、剛二氏の「医学」における最大の協力者(金関丈夫氏が「山口県立医科大学」にワンポイントリリーフ%Iに在任されますが、この「県立医大」の創設、金関氏を招くのに、深く関わっておられます)であった 水田信夫氏及びその妻 千代子氏との係わりのもとで、「俳句」の創作をし、晩年には、水田夫妻同様、「ホトトギス」同人になっておられます。
 話を戻しますが、宗悦氏は、「京都」の「三高」ではなく「山口」の「山高」を安全策≠ノとったのです。
 「山口」と「宇部」はそう遠いわけではなく、しばしば宗悦氏は渡辺家を訪ね、剛二氏は、「郷土史研究会」に資金的な援助もしたらしく、「研究会」は、とても高校生レベル≠フものとは思えないほどの活動実績を残し、その蒐集資料は、摂政宮の台覧の栄誉も受けていますし、京都帝大の浜田耕作氏から、「考古学教室」に、出土品の寄贈を依頼されています。
 小川氏の親友であり、日本を代表する歴史学者の一人となった 三坂圭治氏も、その著書において、その活動を特記しています。
 宗悦氏は、かくして、「山口の地」で、「考古学」の数々の実践≠し、やがて進路として、「京都府立医科大学」と「京都帝大歴史学教室」を志願します。なぜ、小川氏と同じ「考古学」でなかったのかは疑問ですが、それはともかく、宗悦氏は両方とも合格し、「京都府立医大」の方を選択します。
 従って、それ以後は、「考古学」との縁は次第に薄れるはずでした。
 しかし、事実≠ヘそうではなかったのです。

「左」は〈「大正15年1月7日」と、旧制山口高校の卒業直前に友人と4人で撮った写真の中から三坂氏のみを「スキャナ」で取り込んだものです。
全員が、こうした服装ですので、上に示した小川氏・田中氏の「学生服」とは別に、こうした服装も珍しくはなかったようです。〉




背景(その4)=浜田耕作氏について〈「カフェ・アーケオロジィ」/清野謙次氏・三宅宗悦氏のこと〉
 ここで、浜田耕作氏について語らねばなりません。浜田氏の存在が、三宅氏の人生に間接的≠ニはいえ、深く関わっているからです。
 浜田氏が京都帝国大学に「考古学」担当として招かれる経緯はここでは触れません(いずれ、浜田耕作に追加予定)が、当時、防火の観点から、喫煙を自粛するようにという通達があったにもかかわらず、本人の自覚の問題だとして、浜田氏は研究室での喫煙をやめなかったといいます。そのことも一因だと、梅原氏は書いていますが、浜田氏の研究室のお茶≠フ時間には、いつしか、京都帝大の同僚は勿論、多くの人達が集い、談笑の場≠ニなっていったと言います。
 それを「毎日新聞」の記者は「カフェ・アーケオロジィ」と名付けたのです。喫茶=考古学≠ニでもいうことでしょうか。
 この談笑の場≠ェ、実は、「学問」についての知識を深める場であったとは、ここに一時期、副手として勤務した 斎藤忠 氏が証言されています。

↑ 左から順に梅原氏、浜田氏、水野氏、三宅氏です。(「写真」は、角田文衛氏に許可をいただき、角田氏の論文「人類学者 三宅宗悦博士」〈『考古学京都学派』にも所収〉につけられていたものを使用しています。なお、地元≠ナあることが幸いして、角田氏の「論文」にわずかばかりの誤り≠見つけました。角田氏に伝えると、角田氏は、ぜひ訂正してほしいといってくださっており、私の文章では、それを踏まえて執筆しています。)


 松本清張氏の小説「断碑」に描かれている浜田氏をモデルとしたと思われる人物像、更には、後に、推されて京都帝大の総長になっていることからも推測される、その包容力のある人柄も大いに影響していたのでしょう、そうそうたる学者や学生が集ったのですが、その中に、清野謙次氏や三宅宗悦氏がいたのです。
 特に、清野氏とは、「北野中学」の同窓?≠ニいうこともあって、気があったようです。 同窓?≠ニ、?≠つけたのは、浜田氏が大阪の北野中学在籍中、体操教師への暴言ということを理由に退学させられ、卒業は早稲田中学だからです。(この顛末は、浜田氏が父親宛に文書をしたためており、それを耕作氏の次男=敦氏が、耕作氏の「法要」の際、写真製版で印刷し、参列したも耕作氏に深く係わりのあった方々に配られたというものを私はいただいています。)
 清野氏は、「考古学関係者」の宴会にもしばしば顔を出し、浜田氏の隣りに席を占めたと言います。
三宅氏は、別の大学の医学生であったにもかかわらず、この京都帝大の「浜田研究室」のお茶の会=カフェ・アーケオロジィ≠ノしばしば参加しています。
それは、小川氏との縁が主たるものですが、三宅氏の実家が、浜田氏とつきあいがあったこと、更には、三宅氏自身、山高における「郷土史研究会」の活動を通じて、浜田氏と係わりを持っていたことがその要因でしょう。
当時の「考古学教室」は、学生数が少なかったこともあって、三宅氏は「考古学教室」の発掘調査にも参加しています。

本来は「考古学」に進みたかったという清野氏は、医師であった父親の反対で医学の道に進み、生体染色の分野での世界的第一人者とて1922年には日本学士院恩賜賞を受賞するといった「病理学者」としての実績の一方、「人類学」の研究でも第一人者でした。 しかも、当時は、教室の主任教授の意向で、「研究室」と直接の関係のないスタッフも採用できたということで、1930年、三宅氏が京都府立医大を卒業し、府立医大の研究室に残ることが決まっていたにも係わらず、清野氏によって京都帝大の病理学教室に招かれ、「人類学」の研究者として、清野氏の研究を助けることになったのです。

この本来なら、まるで接点≠フあるはずがない係わり≠フ背景には、「カフェ・アーケオロジィ」を介しての、邂逅≠ェあったのです。

かくして、小児科医ではなく、「人類学者」としての道を歩み始めた三宅氏のもとに、小川氏が人骨の出土を知らせ、鑑定を依頼することは、ごく自然な≠ネりゆきとなったのです。





背景(その5)=清野謙次氏について〈金関丈夫氏・三宅宗悦氏〉
清野氏が、三宅氏を自分の教室に招き、三宅氏に人類学者としての道を歩ませることになったことは既に述べました。
 ところで、「土井ヶ浜遺跡」を「弥生人の集団墓地」として世に紹介し、「朝日賞」を受賞された金関丈夫氏の「人類学者」としての道を歩ませることになったきっかけ≠焉A実は清野氏が作っておられるのです。
 金関氏は、解剖学教室に入って、指導教授の舟岡氏から与えられたテーマ「鼡の尻尾を動かす腱の構造」が期待に添えず、しょげておられた時、同じ解剖学教室のいま一人の教授で、人類学者でもあった 足立文太郎 氏および清野氏のすすめで、「人類学」を志すことになったというわけです。
 金関氏は、最初の本格的「人類学」に関する著書『人類起源論』を清野氏との共著≠ニいう形で出版されていますが、その「序」において、清野氏は、実質、そのすべては金関氏の執筆であることを記しておられることから、清野氏が、その名前を貸して、助けたということだと思います。(なお、「土井ヶ浜」からの人骨の出土を知らせた河野に、清野氏は、この本に為 紀念 謹呈 昭和六年十一月 著者 清野謙次≠ニサインして、贈ってくださっています。)
 かくして、金関氏は、三宅氏の兄貴分≠フような形で、二人は京都帝大に共に勤務し、金関氏の解剖の際、助手を三宅氏がつとめたことがあると、斎藤氏は証言されています。
 ただ、残念なことに、清野氏は、蒐集に対する異常ともいうべき熱があり、そのため、いうところの清野事件≠起こされ、そのため、清野氏が退職されます。
 親友であった浜田氏は、この時、京都帝大の総長の職にあったのですが、辞意を表明され、時の文部大臣から、その必要はないと慰留されていた時期に、病気で、総長のママ、亡くなられています。
 金関氏は、京都帝大助教授から、台北帝大の教授へという道をとられることになり、三宅氏は、「病理学教室」における「人類学者」ということで、病理学への研究もされてはいたものの、清野氏無きあとの「病理学教室」にはいずらかったのでしょうか、ある浜田氏が亡くなられたことも重なってでしょう、大学を去られるのです。




背景(その6)=駒井和愛氏について

駒井和愛氏と原田淑人氏
 早稲田大学文学部東洋史学科を卒業した駒井氏が、東京大学の副手となるのは、教授の 原田淑人 氏を慕ったからでした。
 東京開成中学校時代、原田淑人氏の指導を得ていたからです。
 昭和2年、駒井氏は、東京帝国大学の副手となり、専攻の学問でも原田氏と駒井氏は、師弟の関係に結ばれ、昭和13年、東京大学講師、同20年助教授、同26年教授、そして同40年退官し、その後、早稲田大学の客員教授に迎えられ、同46年に、享年六十六歳で、恩師の原田氏よりも先に亡くなっておられます。
 原田氏は、駒井君は君の中学校当時からよく私の家に遊びに見え、私の家族とも親しんでいた。紺がすりの筒っぽの若々しい姿が今なお眼前に浮んでくる。私は東大の講師で母校開成中学校の職員を兼ねていたが、・・・。また君は早稲田大学の卒論に「西王母の研究」を選んで、私にも相談した。これが駒井博士の他日東洋考古学者として活動した濫觴であった。
その後、君は早稲田大学の会津・津田両博士の許に東洋史学の研究を続けた傍、東大の私の研究室に出入して東洋考古学の研究に専念し、私の学風に感染して文献と遺物との相互補助によって東洋史学を研修し、進んで東西洋古文化の交流の検討に没頭した。 ≠ニ記しておられます。(『貝塚』八)

 さらに、この原田氏と浜田耕作氏が親しかったこととて、東京帝国大学と京都帝国大学の「考古学」関係者は、教室ぐるみで親しく、それが、小川氏が駒井氏に、土井ヶ浜≠ゥらの「人骨出土」のことを知らせることになったのです。
 そして、土井ヶ浜≠訪れられた駒井氏によって、「弥生式土器片」が発見され、三宅氏に送られることにつながるのです。
 「土井ヶ浜遺跡」=「弥生時代の集団墓地」の可能性を最初≠ノつかまれたのは、駒井氏であったといえるかもしれません。 




背景(その7)=三宅宗悦氏について
 京都帝大を去った三宅氏は、当時、満州国の総務長官であった叔父= 駒井徳三 氏の紹介で、満州の「博物館」にいきますが、病弱であった妻の夫規氏の体調が、満州の寒さにあわず、帰国されます。
 ただ、三宅氏は、「満州」での勤務を腰掛けとは思われず、当時としては特出すべき、満州の人達を日本人同様に≠ニいう思いを抱いて生活していたことが、遺品からわかります。
(斎藤 忠氏は、「古書店」で三宅氏の「満洲の新聞への寄稿原稿」や「感謝状」等を発見され、購入されています。
「三宅家」及び宗悦氏のご子息=宗和氏がおられた「宇部」の「渡辺家」は、「戦後の動乱期」であったとしても、「生活」のために「売却」されるということは考えられませんので、私の推測≠ナは、宗悦氏が「戦場」に持っていかれていたものを、託された方が、誰に渡していいかがわからず、「廃棄」するよりはよいと思われれて、「古書店」に渡ったものと思っています。
「左」の「写真」は私に「コピー」をくださった三宅宗悦氏関係の「資料」の内の「感謝状」を「デジタルカメラ」で、撮ったものです。斎藤氏も、「コピー」で保存され、実物≠ヘ、ご子息の三宅宗和氏に寄贈されています。)

 三宅氏は、帰国後まもなく、軍医として召集され、フィリッピンのレイテ島において、昭和19年11月6日、壮絶な戦死をされています。
 
 三宅氏は、「防長史学」において、詳細な発表は他日人類学雑誌に譲る事として、ごく簡単に防長古墳人骨を紹介する。 ≠ニ書かれていたのですが、結局、その機会はないままに、亡くなられました。

 かくして、この地方誌≠ノすぎない「防長史学」への発表は、当時としては、日の目をみないまま埋もれてしまうという運命にあったはずですが、清野氏の兄弟弟子≠ナあった関係で、当然のように、三宅氏から、金関氏に手渡されており、金関氏は、この三宅氏の「報告文」を参考にされ、駒井氏の「弥生式土器」採集という記述を「発掘調査」に踏み切るきっかけ≠フ一つとされたほか、「報告文」=「長門國土井ケ濱古墳人骨に就いて」から、土井ヶ浜≠フ名を取って「遺跡名」とされたのです。




背景(その8)=藤島亥治郎氏と浜田氏、それが「萩焼」記述のヒント≠いただくことになったということ
「山口県指定文化財保存顕彰規程」のころの話をお聞きしたいとして、平泉等で、不滅の功績を残され、日本芸術院恩賜賞を受賞しておられる藤島亥治郎氏に、15分≠ニいう条件≠ナお話を伺うということで、上京、初めは、「一問一答」式的な展開だったのですが、「君は、僕に会うためだけに来たのかい?」とおっしゃったので、「いえ、実は、先生もご存知の斎藤忠先生にもお会いしました。浜田耕作とおっしゃる先生の話など、とても参考になりました。」というと、「浜田君なら、僕と親友だよ。」とおっしゃり、その場の雰囲気≠ェ一変したのです。
 それはそうでしょう、河野英男の子だということで、会ってやろうとはおっしゃっただけなのですから。
 斎藤氏とも親しく、その他、私の調べている方々の多くをご存知で、藤島氏は、興味を持ってくださり、時間はいつのまにか、1時間≠はるかに越え、新幹線の時刻が迫り、おいとませざるを得なくなったのです。
(藤島博士は、「手紙」の中で、それこそ時間を忘れてお話に夢中になりましたわけで、それこそ貴台当日の御予定がどうかも考へずあるいは御迷惑であったのではないかとまで思った次第でございましたが、予想に反してそのことを大変お喜び被下、去る九月二十七日付御手紙で御ていねいな御書翰たまはり、まことに恐縮いたした次第でございました。・・・≠ニ、私如きへの手紙とは思えないほど、丁重なものをいただいております。藤島博士といい、斉藤忠博士・・・・といい、本当の権威者≠ヘ、人格的にも高潔な方々だと実感した次第です。)
 いろいろと話が飛ぶ中に、「重要無形文化財」と「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」との関係≠フヒント≠つかむことができたのです。
私の中で、「土井ヶ浜遺跡」と「萩焼の歴史」が結びついたわけです。
 つまり、「指定」は、予算等の関係もあって、価値≠ェあればよいというものではなく、保留=プール≠オて置かざるをえないことがあるということです。
 私の「土井ヶ浜遺跡」&「萩焼」という2つのテーマ≠ェ、単に父だけでなく、私にとっても、結びつくことになったのです。
 私は、藤島氏が「もう帰るのか」とおっしゃってくださったことがいまでもうれしい思い出として残っています。













これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、20338でしたが、[平成23年3月3日]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。
従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります。
としていましたが、

同じように、変更した
邂逅 この不思議なるもの─「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠フ場合(戦後編)─
の方は、現在≠焉A出ているのに、この「ページ」のカウントは、終始、000001≠ノなっています。

これまでは、ほぼ%ッじような「アクセス数」でしたので、あくまで、「目安」ですので、(戦後編)の「カウント」を参考にすることにして、この「ページ」の「カウント」は、やめようと思います。