「野村望東尼の終焉の場=vについて
平成21年1月23日 公開
平成22年9月16日  抜き出して公開
平成24年1月12日    更新


● 私の考える「野村望東尼終焉の場=vのこと


 構   成 
 ─ 下線部をクリック≠キると、該当箇所≠ノ飛べます ─


● 私の考え



[1]「荒瀬家」で亡くなったことはまず間違いない≠アとなれど・・・
↑ 「荒瀬家」全体ではなく、「主家」「離れ」かを「問題」にした「指定申請書」!

[1−@]「移築」されていた「離れ」を「終焉の室」とした「指定」を否定する有力≠ネ「証言」が出たこと!
[1−A]「林川証言」の持つ「意味」


[2]「指定申請書」の再検討

[2−@]「 池田証言」の見直しと、「離れ」を終焉の場≠ニした根拠 への疑問


[3]それでは移築≠ウれた「離れ」は望東尼に関係ないのかということ


[4]以上を踏まえての私の「考え」

[4−@]当初≠ヘ「離れ」が用意されたと思えること

[4−A]死期が迫った*]東尼には「特別の部屋」が用意されたであろうこと

[5]私の「結論」的「見解」

[6]「指定」の件について




[1]  「荒瀬家」で亡くなったことはまずまちがいない≠アとなれど


春山育次郎氏の「荒瀬家」の「抱家」なるものを「終焉の場」だとする「説」については、疑問があり、「昭和二九年」作成の「指定申請書」には、候補≠ニしてスラ存在していなかったことは、既に述べた通りであり、
さらに、
三田尻堀口(庚午新丁)の当時船問屋であった土井栄作宅で病床につかれ逝去されていたとの説 についても、『星甫随筆』で「紹介」されている「高橋お吉」説が、忠実な=u引用」とは思えないものを含め、その「不適切」であることも、述べてきました。
そこで、望東尼の亡くなったのは「荒瀬家」であるとして一件落着≠フハズですが、そうではない≠ニころに、「問題」があるのです。


ツマリ、「問題」は、「荒瀬家」全体≠対象≠ニすればよいものを
「指定申請書」では、
「荒瀬家」の「主家」か
「離れ」かと、

別にして=u検討」 「離れ」だと断定
していることです。



「上」=「宅跡」、「下」=「離れ」の「玄関」


(参考) なぜ「主家」(本宅)「離れ」を「別」にして「検討」したかということ

「荒瀬家」は、「荒瀬」から「池田」に、さらに、「林川」へと「所有」が代わるのですが、「林川」では、「離れ」を林川の「所有地」の「桑山東麓」(現 「山口県立防府高等学校」の側) に移築(「大正」もしくは、「昭和のはじめ」)し、「本宅」の方は、「改造」しています。
なお、「文化財」への「指定」の話が起こったのは、「林川」から購入した「杉」氏の「所有」の時です。

野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓

所在地及び指定地積(註 指定」された頃の「地名」)
宅  防府市西岡村   三四坪七合
宅跡  〃   中塚町   五四坪
墓   〃   桑山墓地   四坪四合四勺
指定年月日  昭和三○年一月二五日   (県指定) 






[1−@]  「移築」されていた「離れ」を「終焉の室」とした「指定」を否定する有力≠ネ「証言」が出たこと!



私は、この「断定」に、疑問を持たず、望東尼は、「三畳の茶の間」で病床にあったということを信じてきた(というより、信じようとしてきた)のですが、父=英男が昭和62年6月に亡くなり、「三男」ながら、兄たちが「県外」にいるため、「私」がこの「家」の「管理」をしなければならないということで、補充調査をしたのですが、「藤本さん」→「岡崎さん」→「田中さん」と、たどっていったところ、あろうことか、林川家に桑山に離れを移転した理由が何よりの証拠である。ということが、「望東尼終焉の場」の最大の根拠というのに、「林川家」の方否定されているということを知るに至ったのです。
おまけに、「指定されている岡村の家は、望東尼とは関係がない」し、そのことは、「市教委」に「手紙」を出しているというのです。
「林川家」の「墓」は、「大楽寺」に、現在もあり、「墓地の管理」の都合上、当然=A「連絡先」はわかるハズなのに、確認しておらず、「移築工事」をした「大工」の「証言」であったこともおかしいのですが、それは、「連絡」がつかないためだろうと、思ってきたダケに、あきれて≠オまいました
そして、事もあろうに林川家の人物否定されているなんて、思いもしませんでした

残念ながら、私が「住所」をお聞きし、「手紙」を出して問い合わせたものの、「返事」は来ませんでした。
「市教委」も、この当時の「担当者」は、「手紙は、来ていない。」ということで、そのママ≠ノなって、時が経過していきました。
しかし、この「指定」されている「家」は、後述するように、倍以上に「増築」されているのですが、望東尼にはなんら関係のない箇所の修理にも、全額自己負担≠ナあるにも係わらず、「許可」がいるという現実≠思いしらされた上に、 父が亡くなって間もないころから、「桑山」からの「山水」が流れ込みが、激しく≠ネり、毎年のように「床下浸水」をするようになっていて、とても住める「状況」ではなくなっていったのです。
それでも、「山口」に住んでいる長姉の「一緒に住もう」という誘いにも拘わらず、高齢となっていたは、住み続けましたが、「床下」の腐食が進んでいますし、「梅雨」時には、畳に黴が生え、長姉、次姉のみならず、その伴侶もかり出されて、大掃除をするということが繰り返され≠ワした。

ごく稀に訪れる「マスコミ」や一般訪問者があることが事前≠ノ分かると、またまた大掃除です。
のみならず、は、「畳」なのに、「ベッド」を購入し、「スリッパ」を履くというありさまだったのです。
普通の感覚では、そのママ¥Zむなんてことは考えられない状態だったのです。

「写真」は、「長姉」の伴侶 浅田正雄 です。 残念ながら、62歳の若さで亡くなってしまいましたが、
「次姉」の伴侶ともども、まことに「好人物」で、嫌な顔をされず、何度となく、「大掃除」に携わってくださいました。
苛酷な環境の中で、生活することになってしまった母には、まことに有難いことでした。










「左」の「写真」は、激しい♂Jが降り出して、30分¢ォらずでの状態です。
この時点で、望東尼寄寓していた箇所では、「床下浸水」が始まっており「防府市道路課」の方に実態を見に来ていただいた時、撮った「写真」です。

「右の写真」のように、「上」は、「桑山」で、その「桑山」の「左右二方向」からの「雨水」が、流れるのですが、以前は、「道路」は舗装されておらず、「我が家」を含め「三軒」の「家」への進入路は、数本の「花崗岩」による「橋」であったため、どうということはなかったのですが、「道路」の「完全舗装」と、「隣家」2軒(両家は「親類」です)が、「土盛」をし、「新築」するためにつけられた「石橋」の拡張が重なって、大量≠フ「山水」が流れ込むようになり、毎年のように「床下浸水」を起こすようになったワケです。
なお、「隣家」は、当初=A「橋」を「道路」よりも高く≠オていたと「主張」していますが、長年≠ノ亘って、「中」の「写真」のようだったのですから、大変だったのです。(「一番下」に見える「花崗岩」が本来≠フ「橋」です。)
「舗装」された道、しかも、「道の両側」に「草」が生えているタメ、「道」がそのまま=u水路」となって、
「右上」の「赤い棒」と「店」の間にある「道」に4or5割程度、
「左手前」の「坂」から、「我が家」に2or3割、
「我が家」より更に下に、2or3割程度に流れていたのです。

この状態に、曲がりなりにも「対策」が取られたのは、我が家」より更に下に、2or3割程度に流れる≠フも困るとして、「岡村町自治会長」の長田宏尚氏を通しての陳情という形≠ナ、「平成22年8月末」にやっと=u写真」のように、一本の「側溝」と、「石橋」の所に、少しばかり≠フ「山」がつくられました。
但し、長年に亘る山水の流れこみによる腐食という事実≠ェ無くなったワケではありません


「平成18年2月」に母が亡くなり、「空き家」になりましたが、「山水」に対する、なんらの「対策」はとられなかった四年間は、私が、「床下」が剥がせるように、二箇所=A「工事」をしてもらい、梅雨時や台風、大雨の時は、「除湿器」をかけっぱなしという状態だったのです。
夕刻水を空けて、帰宅するのですが、翌朝行ってみると、「満水」で自動停止しているといったことの繰り返しだったのです。
しかも、困ったことに、「除湿器」発火の虞があるとして、リコール対象だったのです。
この「写真」の「除湿器」がそうですが、平成20年8月21日のことでした。
既に3年目に入っていたのですが、幸い、何事もなく、新しい「除湿器」に交換となりましたが、ぞっとしたものです。

除湿ダケではありません。道路大きな=u碑」が立っているタメ、立ち寄る人がいないとは言い切れないタメ、切りのない¥恆週に2・3回風通しが必要です。
昔の「建物」ですので、駐車スペースもありません。
その「駐車場」の料金、さらには、「上下水道」、「電気」、「水道」等も、そのママ≠ノして、使えるようにしておく必要があります。
しかも、私どもに限らず、「文化財」を保有するのは、多分に、使命感に近いものがあるからで、経済的な補助があるなんて口にする人が少なからず=u存在」しますが、とんでもないことです。
住まなくなってからも、少なからぬ負担を背負っています。
それなのに、望東尼「終焉の家」は、別≠フ所だという「説」まかり通っているダケでなく、「離れ」=「終焉の家」であるという最大の=u根拠」である林川家に桑山に離れを移転した理由が何よりの証拠である。が、こともあろうに林川氏の「証言」「否定」されているのですから、たまったものではありません。

「建て替え」をする場合には、単に崩せばよいというワケではなく、逐一、記録を取りながら、使用可能≠ネ「素材」は使用する、さらに、できあがるのは決して=A今日的には住みよいとはいえないもとのママ≠ノする必要があるのです。
しかも、「住まない家」であっても、所有者としての立て替え費用の一部≠負担することを求められるのです。

従って、私が「管理」することになって、「望東尼の終焉の宅」でないのなら、「指定」の解除≠してほしいと、「県教委」・「市教委」に依頼しました。
そのことで、平成18年当時≠フ「市教委」の係長が、林川久子氏に、「電話」で確認し、それを「書類」として残しています。


平成18年1月31日
防府市教委文化財保護課 田中 


林川久子さんとの電話記録

野村望東尼の終焉の宅として県指定されている家の、前所有者であった林川久子さんに1月31日朝8時10分頃、電話して話を聞いた。
以下、久子さんに聞いた話。


林川さんは、三田尻本町の現在宅地に指定されている所にあった家に住んでいた。久子さんが防府高等女学校に通っていた頃、京 都から望東尼のお世話をしていたという老人〈河野註 望東尼には、毛利 家が看護人二人をつけていたと藤四郎の「手紙」にあります〉が林川家を訪ねてき て、本宅の一番南側の庭に面した部屋を「ここが確か に望東尼が起居していた部屋で、ここが死んだその部屋 だ。」と語ったという話を母から伝え聞いた。久子さんは学校に行っていたので、その老人と は会っていないし、なんという人か知らない。
林川家には離れがあって、それを桑の山の方に移築して、貸家にしていた。離れは望東尼とは関係ないと聞いている。その後どうなっ たのかは、久子さんは知らない。本宅の方もどうなったか知らない
林川家では、望東尼について何か分かったり、物が出てきたときは、全て、青木町(?) の検温器の工場近くに住んでいた、防府高等女学校の元教頭で防女の図書館に勤めていた谷(?)と かいう人のところへ全部持って行った。その人のところには望東尼関係の資料がたくさんあり、た しかに望東尼が書いた「夢かぞえ」とかいう冊子も持っていた。
久子さんは、女学校卒業後まもなく東京へ移り、ずっと東京に住んでいる。上京してすぐ位はたまに防府に寄る事もあったが、以後は防府へは来ていない。

  なお、九華会名簿〈河野註 「九華会」は、「防府高等学校」及びその前身の「中学校」・「女学校」の「同窓会」の名称です〉で、防女の職員名簿 を探しても、谷某という人物はいない。




[1−A]  「林川証言」の持つ「意味」



この「林川証言」の持つ意味は、大きいと思います。
なぜなら、
@ 20年間も、主張を変えておら れないこと。
A「林川家」にとっては、「望東尼の終焉の場なので、保存す べく、移築した」という、通説≠フママにしておいた方が、都合がいいハズ(林川長兵衛氏 の、いわば、美談≠ナす)なのに、敢えて、否定しておられること。
B 望東尼の看護にあたったという二人の看護人のうちの一人の「証言」を伝 えるものであること。
C ここがと、具体的であるこ と。
D 「文書」として、今後も残されるものであること
といったことが挙げられ得ると思うからです。

故に、「資料」としての価値を無視できまいと思うのです。


[2] 「指定申請書」再検討

「 池田証言」見直しと、「離れ」終焉の場とした根拠 への疑問

かくして、「離れ」説の再検討避けられません
「指定申請書」で、「離れ」説を正しい≠ニした最大の根拠=∞林 川家に桑山に離れを移転した理由が何よりの証拠である。が、肝心≠フ「林川家」久子氏によって、「否定」されているのですから。
それも、望東尼の看護にあたった老人ここが具体的に指摘しているというのですから。

当然のように、私は、「指定」≠ニいう事実からし て、「林川証言」を聞くまでは、「茶室」で亡くなったということには、いささか≠フ「疑問」はあったものの、「岡村の家」=「望東尼終焉の室」であることを 疑いませんでした。
しかし、望東尼終焉の家を見学に来る者次第に増加し繁にたえず見学者の便宜を計るた め墓所に近い桑山東麓に移転したハズの林川家の 、久子氏が、「岡村の家」は望東尼には関係ない主張しておられるという ことを知ってみると、「果たして「指定申請書」を作成した「防府市教委」の江村隆雄氏の調査には、問題がなかったか?」と思い、父が 「野村望東尼一件」という。「箱」を開けて、手元にあった「指定申請書」を見直し、 「県教委」にも、その後、設けられた「情報開示」に基づき、「資料」を見せていただくこ とを御願いしました。
ただ、「県教委」及び「山口県文書館」には、特別な「資料」は、ないとのことで、当初≠フ「指 定申請書」だけ≠フ見直しになるのですが。

私には、疑問≠フあることが、幾つも出てきたのです。
まず、「申請書」の、△ 終焉の家に対する異説の究明の記述を示しましょう。

「次」にスキャナ≠ナ取り込んだものがあります。
その(1行目以後)に、「次」のようあるのがおわかりでしょうか。


△ 終焉の家に対する異説の究明
(1) 異説とは、
(イ) 大部分荒瀬家の「離れ」を支持している。
(ロ) 一部荒瀬家の主家南八畳の間という説。


(2) 主家南八畳の間という説は一部望東尼研究家が唱えかつてその写真が発表していると池田少将嗣子正雄氏から教えられ昨年十二月十五日より二十日まで調査の結果尼の使用された箪笥が残っていた等の証拠があげられる。同一家庭 だから八畳の間にも居られたことが想像される。


(3) 右につき望東尼と親しかった俳人岡村米吉翁(俳号を樟雅と号し骨董商)の孫益太氏未亡人並びに同じく望東尼の元に出入りした増野半蔵の子、藤井富蔵翁(明治五年生)並びに井関与市翁(元 治元年生)を訪問の結果、
(イ) 林川家に桑山に離れを移転した理由が何よりの証拠である。(藤井翁談)
(ロ) 岡村米吉翁が離れで歌やお茶の相手をしたことがいろいろ伝えられている。(岡村談)
(ハ) 大正九年池田少将在住時代田中柏陰画伯の書画展観の際野村望東尼宅に因んで茶会を「離れ」で開催した。(藤井翁談)
(ニ) 荒瀬百合子の外孫井関与一翁は「あの離れ」の二階の窓から「望東尼が三田尻翁(眺められていすたことを伝えきいている」と語った。
(ホ) 臨終は「離れ」であった間違いないと思う(井関与一翁談)。




この中で、「主家南八畳の間」という池田正雄氏の「証言」を、
同一家庭だから八畳の間にも居られたことが想像される。という「理由」で退けていますが、「離れ」の根拠≠ニしての(ロ)・(ハ)・(ニ)は、どうなのでしょう。 (ロ)・(ハ)・(ニ)だって、「臨終」の場が「離れ」であったことの「理由」ではなく、望東尼が「離れ」に住んでいたとしても言えることではないでしょうか。

「離れ」説の根拠とされている、「望東尼と親しかった 俳人岡村米吉翁(俳号を樟雅と号し骨董商)の孫益太氏未亡人(これでは、 「孫益太氏と未亡人」なのか「未亡人」なのかがはっきりしないが、「、」がないことから「未亡人」をいうのでしょうか)と望東尼の元に出入りした増野半蔵の子、藤井富蔵翁 (明治五年生) の「証言」とどこが違うのでしょうか?

岡村米吉氏は、春山氏によると、望東尼の看護に当たった人物ですが、 単に、「俳人」とあるに過ぎず、しかも、本人からではないことに加え、その「証言」 というのも、離れで歌やお茶の相手をしたということであって、望東尼が「離れ」 で生活していたことの「証拠」ではあっても、「亡くなられた場=vであることの「証明」にはならないハズです。
荒瀬百合子の外孫という井関与一翁の「証言」(ニ)も、「あの離れ」の二階の窓から「 望東尼が三田尻沖を眺められていたことを伝えきいている」と語った。≠ニいうことで、これまた 、「臨終の場」であることの「証拠」ではなく、しかも、 唯一≠フ「臨終は「離れ」であった間違いない」という「井関証言」も、とはいえ、・・・と思う≠ニ付けられているではありませんか。 

▼ 「井関証言の問題点」=3歳≠フ時の出来事を90歳≠フ時に「証言」したことダケが唯一≠フ「根拠」なんて!!

井関氏の生まれは、「元治元年生」とあるダケで、月日はわかりませんが、「元号」が違っているタメ、錯覚≠オがちですが、「元治元年=1864年」であり、望東尼の亡くなった「慶応3年=1867」当時≠ヘ、「3歳」になったかならないかという時であり、 かつ、江村氏に「証言」した「昭和29年」は、「90歳」だったのです。
当時≠フ90歳は、現在≠ニは違います。



▼ 「三畳の茶室」で望東尼が亡くなったとまで特定≠キるなんて!?

『防府関係 野村望東尼史料』は、実質%Iには、「指定申請書」を作成した「防府市教委」江村隆雄氏が編集されていますが、「写真」のように、 「三畳」の「茶室」をはっきり≠ニ、「終焉の室」として「紹介」しています。
      (文字が見えにくいかもしれませんが、望東尼肖像 及び 望東尼終焉の室 と印刷されています。)
「図」は、望東尼寄寓していた「離れ」の「配置図」ですが、
よりによって、わずか「三畳」で、しかも、「床」「炉」「茶棚」もある「茶室」に、望東尼は、蒲団を敷いていたでしょうか?
当然、「配置図」の「下」(=旧「荒瀬家」にあった時は、(現在は))の「六畳」であったハズです。
その望東尼死期が迫った時点で、望東尼は、「三畳」の「茶室」(蒲団」を敷くことは、どうにか≠ナきないことはないとは思いますが)に、看護・見舞客のタメに、移ったなんてことは、まず、考えられません。
「医師」の秋本里美、更には「御殿医」竹田祐伯は、隣室との境の敷居に座って、望東尼を診ていたのでしょうか?

「上」の枠≠ナ記したように、3歳の時の井関与一氏の「記憶」を、90歳(昭和29年当時)の時に得た「証言」必要以上≠ノ「過大」に信頼したがために、敢えて望東尼三畳≠フ「茶室」に寝ていたとし、その「茶室」を、「終焉の室」としたと思われます(井関「証言」がそうだった≠フかも知れません)が、 井関氏以外≠ノある「証言」「荒瀬家」の主家≠フ「南八畳の間」「終焉の場」とするのが、適当だと、私は思います。

ただ、望東尼が、「荒瀬家」において寄寓しており、そして、その「荒瀬家」において、毛利家はじめ、楫取夫妻・・・・・といった方々の温かい配慮のもとに亡くなったということで、把握すればよいことであり、わざわざ=A「荒瀬家」のどの部屋かといったことまで、拘る必要はないと思います。
   (無論、わかるにこしたことはありませんが。)



▼ (補足)  『野村望東尼傳』以前≠ナスラ「次」のような「記述」であること


望東尼病み臥して重体となられたる後は、毛利家よ り丁重なる取扱を与へられ、幾たびも侍医を遣はして慰問せられ、見舞の反物菓子を賜はり、政庁 は専任の吏員と二人の看護人とを附け、滞陣の諸隊の人々 、また昼夜交代して看護に勉め、宿のあるじの養母百合子はじめ一家親族も寄り集りて力を尽したれば、当時此状を見聞したる三田尻の市民は、縦令三四千石の大身の御隠居なりとも、到底斯く迄の鄭重な ることは期すべからずと噂を為せり。と、いささかオーバー≠ニも思える「証言」を記している春山氏の『野村望東尼傳』未だ「出版」されておらず、誰も「内容」を知らなかった「昭和29年」作成「指定申請書」ですが、その中に既に、「次」のような「記述」があります。
防府三田尻において病臥するや、毛利藩主をはじめ多数の志士が昼夜遺憾のない看護を尽くした(1頁目)
途中病を得、荒瀬百合子宅に養生した尼は、長州毛利藩の優遇をうけつつ皇政復古の足音を感じながら、慶応三年十一月六日夜九時悠々永眠したのである。 (2頁目)
一代の女傑、福岡育ちの望東尼は、勤皇毛利藩の知遇をうけつつ三田尻の聖者として、波瀾多い一生を閉ぢ(2頁目)
藤四郎が尼の臨終の様子を野村家に報じた手紙の一節にも「荒瀬善六と申候に宿せられ同家の家内親類共打寄真実に世話致し呉れ」とある(13頁目)
>病に臥するや、毛利藩公や藩政府からは、しばしば見舞を賜わりお付医まで差遣わされ、主治医の秋本里美をはじめ、荒瀬家及び親族、藩政府役人、諸隊有志の詰切りの看護の甲斐もなく、病革より十一月六日の夜、五ツ半に行年六十二才を一期として静かに永眠したのである。 (13頁目)
この朝、自ら死期の迫ったことを知ってか、入浴して身を清め、毛利家より頂戴した白羽二重で作った衣裳をつけ、勤皇の歌人志士の母、向陵院松月望東尼は、郷土勤皇軍の響を感じながら、多数の有志看護人に感謝を捧げつつ、其の夜の九時に静かにこの世を去ったのである。 (14頁目)

繰り返し≠ノなりますが、この「指定申請書」の「記述」からして、「指定申請書」内部で、『野村望東尼傳』同様に、「離れ」で亡くなったとすること、ましてや=u茶室」で亡くなったとすることは、自己矛盾をしていると、私は思います。



「主家南八畳の間」を否定したと同じようなことを、こちらでは根拠≠ノしている ── まったくおかしなこと≠ニしかいいようがありません。


のみならず、「指定申請書」の誤りは、池田氏の「主家南八畳の間」という「証言」こそ有力なものだとい うことを見落としているということです。
この「主家南八畳の間」説を「証言」している池田正雄氏は、池田正介少将の子息なのです。
荒瀬家から、最初に譲り受けた池田少将は、『続防府市史』にも取り上げられている人物ですが、その『市史』によると、四男二女があ り、長男=忠篤氏は、東京慈恵医科大学卒業の医師とあります。
(「申請書」では、嗣子=正雄氏とありますので、ひょっとすると、忠篤氏は、若くして亡くなられたのでしょうか。)
池田少将本人ではないものの、当時=A既に「成人」しておられた正雄氏の、「証言」は、十分に意味があると思います。
「指定申請書」にさえ、(ハ) 大正九年池田少将在住時代田中柏陰画伯の書画展観の際野村望東尼宅に因んで茶会を「離れ」で開催した。(藤井翁談) ≠ニあるではありませんか 。
野村望東尼宅に因んで茶会を「離れ」で開催ということは、何も亡くなった=u離れ」だからとは限らないハズです。
望東尼が寝たきりになる前まで、生活していた所だからでもいいハズです。
それなのに、この池田少将時代=A「離れ」で茶会が開かれた≠アとが、「離れ」で望東尼が亡くなったことの証拠の一つとされ、一方、「池田証言」に対しては、「 指定申請書」は、「同一家庭だから八畳の間にも居られたことが想像される。」ということをあげているだけなのです。
(「離れ」で「茶会」が開かれたのは、「茶の間」があり、隣には、「床の間」付きの部屋があるからでしょう。
それに、この「離れ」は、「江戸時代の商家の離れ」を感じさせる > 瀟洒な良い建物という印象を抱いています。 (「山口県文化財保護審議会委員」の福田東亜氏)なのですから。)

のみならず、「離れ」で亡くなったという望東尼の箪笥が、昨年十二月十五日より二十日 まで調査の結果尼の使用された箪笥が残っていたことが「確認」されているというのです。
「荒瀬」→「池田」→「林川」と持ち主≠ェ代わり、さらには「指定申請」の時は「杉」氏の所有≠ノなっていたのですが、池田、林川では、増改築までしているという のに、望東尼の使用した箪笥が「昭和28年」にも存在していたというのが、いささか°^問に思いますしどういう=u根拠」で、望東尼の使用していた=u箪笥 」と「判断」したのかということも疑問ですが、「指定申請書」を作成した江村氏らには、調査の結果尼の使用された箪笥が残っていたとわか ったのでしょう。
疑問はあるものの、このことを認めたとしたら寄寓していたに過ぎない「望東尼」が、貴重な£\笥を使っており、そのため、「望東尼」の没後、「離れ」から わざわざ「客間」に準ずる=u部屋」に運び込み、4代もの「所有者」が、愛用していたなんてことは、私には考えられず、望東尼の亡くなった「部屋」が、「主家 南八畳の間」であったことの根拠になりそうなのに、E氏らが、なぜ≠アのことを無視≠オたのかが、私にはわ かりません。
「荒瀬家」は、裕福な家であり、屋敷は広いのです。
それなのに、庭を共有しているとはいえ、「離れ」という別棟で望東尼が死の床に臥していたなら、当然=A「離れ」に望東尼の使った箪笥はあるハズではありませんか。
「離れ」において、生活され、引き続き、死の床についておられるとしたら、「荒瀬家」は、「主家八畳の間」 という、いわば、「客間」以外ではベスト≠ニもいえる「部屋」を、「箪笥」置き場にしており、しかも、望東尼に、「離れ」(「離れ」のあつた場所は南西隅と「指定申請書」は記しており、かつ、「図面」まで用意していたのです)から、一々、「主家 南八畳の間」まで、着替え等を取りに来させていた、なんてことは、ありえないのではないでしょうか。
「離れ」にもあったし、「主家南八畳の間」にもあったというのが素直≠ネ見方だと思います。
つまり、望東尼は、死の遠くないことを予感した時点からは、「荒瀬家」の「客間」ともいうべき「主家南八畳の間」に移され、そこで亡くなったということだと思います。



この手元にある「指定申請書」に限って言える最大≠フ「問題点」は 、
「離れ」に住んでいたということと、「離れで亡くなった」というこ とは別問題なのに、ゴッチャ≠ノしているということです。

私は、荒瀬家の外孫の「証言」はあるものの、池田氏から大正九年以後に購 入され、「離れ」を移築された林川氏本人あるいは、家族の「証言」がないことが不思議でした 。
「林川家」の立派な=u墓」は、「大楽寺」に、楫取素彦や秋本里美の「墓」と共にあり、当然=A「墓地」の「使用料」なり「管理料」を、支払っておられるワケで、「林川」への「連絡」は取れるハズなのに、なんらかの理由で、「証言」はもらえない状況にあったのだろうかと思っていました。
ところが、その林川家の久子氏は、「離れ」は望東尼に関係がないとして、 20年も前から主張され続けていたのです。ただ、私どもは、田中さんから聞くま では、思いも寄らないことだったのですが・・・・。
私には、とても「江村氏は多くの関係者からヒアリングをし、十分検討した結果、本宅では なく、離れを終焉の宅と結論づけている」とは思えないのです。

ただ、「指定」することを決めるには、当時、主として担当された兼清氏が、現 在も、御健在で、執筆活動をされていることとて、「県教委」の清水氏らが、改めて「確認」され たところ、「何度も、間違いないかと、江村氏に確認したが、そのたびに、間違いないとのこ とであった。」と言われたといいます。


この「指定申請書」だけでは、疑問があるハズで、当然 、このママ≠ナ、「指定」が認められるハズはなく、その「確認」の際、江村氏がいろいろ と、補充資料なり、補足説明をするなり、したハズなのですが、残念ながら、「 顕彰規程」「資料」廃棄されたとみえ、見あたらない〈このことは、私が「山口県文書館」において、係員に「顕彰 規程」当時の「資料」がないかと、尋ねていた時、たまたま、そこに、臼杵華臣氏が来られたため 、私が、「県教委にはないと聞いて、ここに来たんですが、ここにもないと言っていますが ・・・」と言ったところ、臼杵氏は、「ないはずはないよ」と、係員に改めて質問、その結果も、 「見あたりません」とのことだったのです。
なお、臼杵氏は、私の幼い時から知っている方で、私 には、普通のおじさん♀エ覚で、「臼杵先生」ではなく、ウスキさんなのですが、「文書館」の係員にとっては、 大先生なのです。
その臼杵氏にも、「ありません」と、明言したのです。このことは、「山口県指定文化財保存顕彰規程」について、発 表した拙文にも、記しています。〉現状において は、もともとの「指定申請書」だけでもって、検討する以外に、方法はないことは、既に述べた通りです。


『星甫随筆』の「記述」のこと


望東尼終焉の地は現在の三田尻中塚の林川博士の宅で本宅は出来かわったが、尼の住まれた部屋は内部の構造には異動あるも当時の位置に保存せられている。
と記されており、一見≠キると、荒瀬の本宅は維新後の変遷を閲して已に全く無かりしかど≠裏付ける≠謔、に思えます。
しかし、この「箇所」を、
「本宅」は出来かわったが、その「本宅」の一部である「尼の住まれた部屋」は、当時の位置に保存せられている ということでしたら、出来かわった≠ニいうのは、「改造」であって、かつ、望東尼が亡くなったのは、「本宅」の中の「部屋」だということになると思います。
(この箇所の執筆された時期がわからないので、断定はできませんが、柳氏は、「荒瀬家の主家 南八畳の間」を「終焉の場」と思っておられたことになります。)
柳氏が、「離れ」ではなく「部屋」と記しておられることが、望東尼が亡くなったのは「荒瀬家の主家 南八畳の間」とされているのだとしたら、「林川」と「柳」は、同じ「医者仲間」(林川長兵衛氏は、私は知りませんが、「防府」最初≠フ「医学博士」として、「記録」に残っていますし、柳氏は、私の近所の「耳鼻科医」で、義雄氏は、既に現役を退かれていましたが、知っています)であることとて、つきあい≠ヘ深かったハズで、大きな「意味」があると思います。  
ツマリ、柳氏は、望東尼の「終焉の場」が「主家」の中の「部屋」であったことを承知≠オていたということになるからです。





[3] それでは移築≠ウれた「離れ」は、「林川証言」のよ うに、望東尼には関係なかったのかということについて

「離れ」で亡くなったことの最大の根拠とされてきた林川家に桑山に離れ を移転した理由が何よりの証拠である。ということが、肝心≠フ「林川家」 久子氏によって「否定」されているわけですが、「林川証言」は、「生活の 場」であったことをも否定されているのです。

しかし、私は、久子氏のいわれる、「岡村の家」が、「望東尼には関係のないもの」だとは思 いません。
「離れ」説・「荒瀬家の主家南八畳の間」説いずれの場合も、少なくと も望東尼が「離れ」にいたということを「証言」してい ますし、林川長兵衛氏が購入されて、「離れ」移築 されたことも、桑山の東麓に、「林川所有」の空き地があったことが、最大の「理由」 とは思いますが、望東尼が容体が悪化する前までは、「離れ」に「寄寓」しておられたということも、その「理由」だと思われます。
そもそも=A「どこ」で亡くなられたかということダケ≠ェ「問題」になるとは、一般≠フ人には思われなかったと思います。
「望東尼」は間違いなく=A「明治維新」の功績者ですが、誰もが知る≠ニいうはなばなしい¢カ在ではないことに加えて、単に*Sくなられる前の二ヶ月足らず住まれた「家」が、林川氏に、「史跡」として「文化財」になるという思いはなかったと思うのです。
(「史名勝天然念物保存法」制定されたのは、「大正8年」のことです。)

ただ、移築の「理由」には、「建造物」の「山口県文化財保護審議会委員」である福田東亜氏が、「県教委」・「市教委」の担当の方々と共に、調査に訪れられた際、「江戸時代の商家の離れ」を感じさせる瀟洒な良い建物 だと思うとおっしゃっており、「離れ」は、壊すには惜しくて移転されたということも「理由」に加わるかもしれません。

ツマリ、「離れ」ダケの「移築」は、
林川の住居があるのに、「隣家」の旧「荒瀬家」(=「池田家」)を購入されたこととて、「離れ」不要と思われた林川氏が、

@ 「桑山」の東麓に、広大な空き地を所有していたこと。
A 野村望東尼が主≠ニして「寄寓」されていた「離れ」であること。
B 壊すには惜しい「造作」であったこと。

ということだったと思います。
(参考 本来の「林川家」と、旧「荒瀬家」は、「林川家」が東京に移られるに際し、「別の人」に譲られています。
なお、「桑山東麓」の旧「林川所有地」は、現在=A「4軒」の家が建っており、「移築」されていた「離れ」は、「借家」として入っていた私の両親が、「購入するか」、「空け渡すか」のどちらか≠ニ言われ、「購入」し、それが「望東尼終焉の室」だとされ、「県指定」になっているため、「補修」を重ねて、現在もありますが、それ以外は、すべて、建て替えられています。)


 林川久子氏が、「・・・林川家には離れがあって、それを桑の山 に移築して、貸家にしていた。離れは望東尼とは関係ないと聞いている。」と言われているこ とですが、もし、単に、林川に離れがあったから≠ニいうのでしたら、「写真」のように、なに も、複雑な造りとなる「道具二階」を復元する必要はないわけです。(「写真」の天井の高さの差 ≠ヘ、「道具二階」のあるところと、そうでないところの差≠ナす。)
父が、「増築」に使いましたが、「移築」当時は、畑の部分もあったわけで、「貸家」 にするために、「部屋数」を増やすというのでしたら、「道具二階」を復元する必要は なかったハズです。

 ただ、せっかく、復元したのに、「写真」のように、「道具二階」の戸を開 ければ、見えるハズの景色を見えなくして、竈や土間付きの炊事場を作っているというように、 チグハグなところもあるのですが、当初≠ヘ、やはり、望東尼ゆかりという ことが、「理由」に入っていたと思われます。


久子氏は、「離れ」と望東尼との関わり否定されているわけですが、私は、亡 くなった部屋は別でも、望東尼が、「防府」で、もっとも長く、住んでいたの はこの「離れ」=「岡村に移築された家」ということで、間違いな いと思っています。



───参考事項────────────────────── ─────────────────────────────

 「指定申請書」には、 この旧宅は明治末期に池田正介少将(当時大佐)が荒瀬家より譲渡(買収)を うけついで大正年間に毛利家侍医林川長兵衛(医学博士) 氏が譲り受けて居宅とし≠スということが記されており、大正九年 池田少将在住時代田中柏陰画伯の書画展観の際野村望東尼宅に因んで茶会を「離れ」で開催した。( 藤井翁談) ともあることから、「大正9年」までは、確実≠ノ、「離れ」は 現地≠ノあったようで、かつ、「池田家」が、望東尼に因む「茶会」の主催に 加わったことが伺えます。
つまり、池田少将嗣子正雄氏の「証言」は、単に一部望東尼研究家が唱えかつ てその写真が発表されている≠ニいうことを伝える≠ニいった程度のものではないハズなのです 。

 『星甫随筆』には、
望東尼終焉の地は現在の三田尻中塚の林川博士の宅で本宅は出来かわったが、尼の住まれた部屋は内部の構造には異動あるも当時の位置に保 存せられている。
とあるため、

@ 本宅は出来かわったとあるのに、尼の住まれた「離れ」で はなく、尼の住まれた部屋とあるため、「解体」→「新築」と いうことではなくかなりな°K模の増改築 であったらしいこと(蛇足かもしれませんが、「岡村 の家」も、私の両親が、「指定」の話の起こる以前に、増改築しており、「客間」 ・「茶の間」といった、主要な箇所はそのまま≠ノしていますが、外観は、まるで変わっている ように見えるハズです。そのまるで違って見える=u写真」が撮られて、紹介されているのです 。)

A 林川久子氏の「証言」(久子氏が 「防府高等女学校」に在学中のことといいます)望東尼の看護にあた ったという老人が「ここが確かに望東尼が起居し ていた部屋で、ここが死んだその部屋だ。」 と言ったということを母を通じて知った ということからしても、大幅な増改築ではあったものの、望東尼の 亡くなった「部屋」は、ほとんどモトのママ≠ナ残されていたものと、思われます。

「離れ」いつ∴レ築したのか については、残念ながら、林川久子氏からは、問い合わせても「返事」をいただくことができませ んので、確かなことは言えませんが、移築された「岡村」地区に古くから住んでおられ、 当時のことを知っておられる岡崎氏の話からして、「大正年間」 (といっても、御承知のように、「大正」は、11年≠ワでです)であ ったことは確か≠ナす。
ただ、当時望東尼終焉の家を見学に来る者次第に増加し繁にたえず見学者の便宜を計る ため墓所に近い桑山東麓に移転したものである。というのですから、「本宅」の増改築と 同時期≠烽オくは、それ以後ということでしょう。
ただ、私の両親が住むようになった「昭和13年」当時(私は、「昭和20年」生まれです)には、まったく、訪問者らしき人はなかったというこ とからして、見学に来る者次第に増加し繁にたえず見学者の便宜を計るため墓所に近い桑山東 麓に移転したということには、疑問があります。
「戦争」に突き進んでいった当時の流れ≠ゥらして、「国粋」的なとらえ方からして、当然=A見学者は、激増しているハズですが、それはありませなんでした。
「平成21年」の「大楽寺」における「望東尼の法要」に参列させていただきましたが、多くの参列者の中で、「終焉の宅」とされる「岡村町」の「家」を見学にこられた方は、3分 の1もおられません。
「望東尼」を顕彰することと、亡くなった「家」に関心を持つということは別物た゜ということでしょう。

「理由」はともかく、移築した「離れ」と、 望東尼と関わりがあった≠ニいうことを、林川長兵衛氏は、わかっていたのだと 思います。

林川久子氏が、「離れ」と望東尼との関わりまでも否定されていること とて、疑問はあるのですが、既に述べているように、「桑山の東麓」に、かなり広い「林川所有 地」があったことが最大の「理由」だとは思います。(「左」の「写真」は、「林川所有地 」を示す石柱で、現在も存在しています。) 

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[4] 以上のことを踏まえて℃рフ「考え」を説 明しましょう 


 @ 荒瀬家の主家南八畳の間で亡くなられたと見る方が、「離れ」 を、望東尼の亡くなった場とするより、正しいように思えるということ。
A  しかしながら、「離れ」望東尼との関わり≠焉A無視 できないということ。

この二点踏まえて、私の「考え」を「説明」しましょう。 


[4]−@ 当初≠ヘ、「離れ」が用意されたと思えること

そもそも、望東尼が「荒瀬家」を訪れる当初≠ゥら、少なくとも一週間は滞在することが伝えられていたハズです。 
従って、〈1〉 商家であっ た「荒瀬家」が、来客用の主家南八畳の間望東尼に用意するというより、福 田東亜氏が、「江戸時代の商家の離れ≠感じさせる瀟洒な良い建物 だと思う」とおっしゃる「離れ」提供したというのは、ごく自然なこと だと思います。





これが「荒瀬家」の「離れ」にあったであろう、本来の「玄関 」です。 この「木の横長の一枚板」の上がり口を上がると、二畳の広さの部屋が あり、畳が敷いてあります。



右の、「掛け軸」の左の「障子」の部分は、明かり採り窓になっています。
「左」の畳の端には、炉≠ェ作られています。

「外」から見ると、こうなっています。 なお、「格子戸」があり、閉めることもできます。 


「左」の白壁は、「玄関」の「右端」です。
  「茶の間」ですが、「山口県指定文化財保存顕彰規程」当 時≠フ、野村望東尼関係の「指定」についての説明には、この「写真」がたいてい、載せら れていました。  手前の横線≠ヘ敷居です。ここに、「太鼓張り」の「襖」があります。(「白黒」の「写真」は 、いずれも専門家≠フ撮られた「写真」です。)






[客間の天井]
 我が家では、「客間」として使ってきた、「六畳」二間の内の南 側の部屋(中塚町にあった時は東側≠ナあった可能性があります。)です。
「床の間」と、「天井の板の張り方」の関係が、福田氏によりますと、「民家には珍し いもの」だということです。






[4]−A 死期が迫った*]東尼には「特別の部屋」が用 意されたであろうこと

 そして、望東尼の死期が迫って毛利藩主をはじめ多数の志士 が昼夜のない看護を尽く≠キといったことが事実≠ネら、 〈2〉  荒瀬家の望東尼への配慮あった ハズと、私は思っていますが、それに加えて、荒瀬家としては 、毛利家への配慮をせざるを得ない立場にもあったはずで、たとえ、望東尼が待遇の 鄭重に過ぐるを気の毒とせられ〈『野村望東尼傳』(404頁)〉、「辞退」されたとしても、望東尼が死を迎えようとする時 には、「荒瀬家」の特別な部屋=荒瀬家の主家の南八畳を用意し、そこで望東尼が亡く なられたと見るのが自然だと思います。
「荒瀬」から、「明治末年」に、土地・家屋を購入された池田家の正雄氏 及び、「大正年間」に、池田家から譲り受けた林川家の久子氏が、揃って、 「主家」で亡くなった と「証言」されている意味も、小さいものではないハズです。
(池田氏は、「毛利藩士」であったことが、古家≠フ「荒瀬家」購入の「理由」と考えることもできるかも知れませんし、その池田氏から「購入」した林川氏は、「荒瀬家」「隣家」でした。)

それに、「離れ」=「岡村の家」が、望東尼が臨終を迎 えた場所だとすると、 〈3〉 その 広さについて、疑問があります。
望東尼が起居していた「離れ」は玄関二畳と居間六畳二間に茶の間三畳を使用していた と記しているわけですから、望東尼の寝ていた場所として、「一室」を使用するわけで すし、玄関の二畳は、無理です。「道具二階」も、「二階」であることに加えて、屋根裏≠ナす から、とても見舞客を迎えるどころか、住む場所にもなりえません。 二人の看護人用の控えの部屋のこともあり、一般庶民ならともかく、身分のある見舞いの人達 に対応できる広さはないハズです。(現在の「岡村の家」は、増築しています 。)
小野則秋・磯辺実『野村望東尼傳』(203頁3行目〜)に、
臨終には山本景武・楫取素彦・秋本里美・荒瀬ゆり子一家、それに、藤四郎・澄川洗蔵等 が侍つてゐた
とあります。
残念ながら、何を根拠にしているのかが、今のところわかりませんが、ここに記されているだ けでも、最低8人(一家≠ニあることから、最低2人、等≠ニあることから、最低1人 は他にいるハズです)、それに、毛利家の侍医=竹田祐伯が、短時間ならともかく、死期が 近いとはいっても、1〜6時間、侍っていたというのですから、到底、無理です。
それに、こうした状況の中に、荒瀬一家がいるわけですから、よしんば 、「体面」からしても当初は、「離れ」に病床の望東尼を置いていたとしても、時を置かずして「主家」を用意しないハズがないのです。
(このことは、 既に述べています。ここをクリックして「確認」してください。)

〈4〉 藤 四郎茂親の「告訃状」 なるものが小野・磯辺及び春山育次郎『野村望東尼傳』の双方に載っ ています〈ごく一部、違いがありますが〉が、その中では、 荒瀬善六と申候に宿せられ、、同家之家内親類共打寄真実に世話いたし呉れ とあるだけですし、〈1〉 近藤芳樹の手になる『比賣嶋日記』の序にも、・・・命限りありて丁卯の とし致和が家〈「荒瀬家」〉にてうせにけり≠ニ、「荒瀬家」で亡くなったことは記されて いますが、その「荒瀬家」の何処で亡くなられたかは書かれていないのですが、そのニュア ンス≠ゥらして、しかるべき部屋で亡くなったと見るべきでしょう。

その上に、「林川証言」という襲撃的≠ネ「主張」が出て来たのです 。
これらからして、望東尼が、「主家」で亡くなったことは、マズ間違いない ハズです。



[5] 私の結論的=u見解」=病床につく以前は「離れ」・亡くなった≠フは「荒瀬家の主家南八畳の間」

そこで、私の「考え」です 。
まとめますと、「 荒瀬家の主家の南八畳」が亡くなられた部屋で、「離れ」は、望東尼が病の重 くなる前に住んでいたところであり、病が重くなってからは、望東 尼は荒瀬家の主家に移されてからは、看護の人達が、控え用として使用したという「考え」です。

私は、この「考え」こそ、事実 ≠ノ近いのではないかと思っています。


@ 「看護人」二人≠フ「証言」がある。(「岡村証言」は間接的=Aもう一人の「証言」は直接的=B
なお、「看護人」が二人≠「たことは、「下」に示している「藤四郎茂親の告訃状」にも政府より役人并看病者二人御付被下≠ニあります。)
A 春山氏の、「抱家」以外≠フ「調査」とも一致≠キる。
B 「藤四郎茂親の野村荒太宛の告訃状」に、「荒瀬家」において、手厚く♀ナ取られたとあることとも一致≠キる。

● 「藤四郎茂親の野村荒太宛の告訃状」  (『防府関係 野村望東尼史料』41頁に拠る)

・・・・・
政府より役人并看病者二人御付被下 君公様より御見舞として御反物御菓子等頂戴、誠ニ御懇命の御事ニ而、御侍医をも三度迄被下忝次第ニ而、御自分にも此節は 大名之病気之様と御噂有之候而、有難がり而御涙ヲ御流御喜に有之候。
就而者、荒瀬善六と申候宿(大年寄也)宿之家内親類ともに心実に世話いたし呉、政府役人諸隊役人共よりも進物見舞夥敷、近傍之医者も三人程度昼夜詰切交代いたし、看病薬用ニ於而も無残所候得共・・・・・

(参考)
この「告訃状」には、異なるものが伝えられていますが、『野村望東尼傳』にある「全文」は、「下」に記しています。(その後に、『防府関係 野村望東尼史料』所収分を記しています。)
なお、春山氏は、当時此状を見聞したる三田尻の市民は、縦令三四千石の大身の御隠居なりとも、到底斯く迄の鄭重なることは期すべからずと噂を為せり。(136頁)
と記していますが、この「告訃状」には、『野村望東尼傳』では、御自分にも難有涙を被流、御厚慮之程を拝謝相成候程之次第に御坐候。 とあるダケですが、「野村望東尼全集刊行会」の『野村望東尼全集』を「底本」とした『防府関係 野村望東尼史料』においては、望東尼本人がそうした噂≠ウえあることを、此節は大名之病気之様と御噂有之候而、有難がり御涙ヲ御流御喜に有之候。と記しています。
(『防府関係 野村望東尼史料』には、三坂圭治氏が校批監修されているタメ、私は、この『防府関係』の方を随所≠ナ「引用」しています。私にとっての三坂氏については、クリック≠オてご覧ください。)


C 柳 義雄氏の『星甫随筆』にもそれを思わせる箇所がある。
D 「望東尼」の「寄寓」していた所だとしても、林川長兵衛氏が経済的≠ニも思えないのに、「離れ」を取り壊さず、移築したことの「説明」がつく。
E 「荒瀬家」の「体面」からしても、自然≠ナある。
F 「主家」、「離れ」の「証言」がそれぞれにあることも意味あることになる。







● 藤四郎茂親の「告訃状」
  ─ 野村荒太 宛  ─  霜月十七日
(『野村望東尼傳』442頁)


一別以来良久不通音信、意外之大失敬奉萬謝候。
先以益御清祥被為在奉賀候。
小子事無異消光仕候。
扨天下之時勢時々刻々変革憤慨ニ不堪次第。
其ハ扨置望東尼先醒儀本月六日三田尻に於而御病死、實に遺憾嘆惜愁傷之至ニ御坐候。
先月十五六日頃より同所に於而御煩付疫疾に御座候。
御危篤之御容体と申候、政府より申参候間、小生並澄川両人昼夜兼行いたし十八里罷越候処、其御待兼之模様に而、至而御気象ハ慥に有之、御病勢以前に白布に而座衾法服等調製有之、残る所なく御覚悟御座候。
政府より役人并看護人二人御附被下、君公様より御見廻として御反物御菓子等頂戴相成候程之御懇命之御事に而、殊に御付医をも三度迄御差越診療被成下、御自分にも難有涙を被流、御厚慮之程を拝謝相成候程之次第に御坐候。
付而者荒瀬善六と申候に宿せられ、同家之家内親族共打寄、真実に世話いたし呉、政庁役人並に諸隊より昼夜詰切交代いたし、看病薬用に於而ハ残所も無之候得共、御病勢漸々被相重、六日之朝には自ら起而沐浴潔服之上、夜五ツ半時に如眠に而御落命に相成申候。
翌日桑野山之下に実に手厚き御葬式も相済申候。
小生共は一七日之追祭相仕廻引取申候。
尤澄川杯ハ至極親切ニ介抱いたし候得共、余之同藩人桑野某はじめは天下之周旋いたし候見込に而添不申との事にて三田尻へハ参不申候。
先者右之始末御報知為可申上如此御坐候。
恐惶謹言。
霜月十七日           藤 茂親

  野村荒太様
侍史




● 藤四郎茂親の「告訃状」
  ─ 野村荒太先生 宛  ─  霜月十七日認
(『防府関係 野村望東尼史料』41頁)


一別以来良久不通音信、意外之大失敬奉万謝候。
扨者益御清祥御起居被為在奉賀候。
次に小子義無異消光仕候。
乍憚御降意可被下候。
然に天下形勢時々刻々変革、就而者様々御苦慮被下殊ニ一昨年来御禁錮の御も様、御辛労幾回奉深察候。
併追々御承知被下候通 皇国御政事、十月十四幕府より 朝廷に奉返上候而、同十六日其事列藩ニ御布告ニ相成、弥 王政ニ復古仕候上は、当時尊王之為ニ冤罪を受候先生始。何も不日御放免必定と奉存候。
何卒御自愛被下、切角時機御待可被遊候。
将又望東先醒事、本月六日三田尻ニ而御病死、実に遺憾嘆惜之到、愁傷之極に御座候。
尤先月十五六日頃より同所ニ而御煩付、疫病ニ御座候而、御危篤容体と申義、政府より申参候間、小生並澄川と両人昼夜兼行いたし、十八里程罷越候処、其御待兼ニ而、至而御気性ハ慥に有之、御病気以前に、白布ヲ以、坐衾法服抔御調製有之、無残所御覚悟ニ御座候。
政府より役人并看護人二人御付被下 君公様より御見舞として御反物御菓子等頂戴、誠ニ御懇命の御事ニ而、御侍医をも三度迄被下忝次第ニ而、御自分にも此節は大名之病気之様と御噂有之候而、有難がり而涙ヲ御流御喜に有之候。
就而者、荒瀬善六と申候大年寄也宿之家内親族ともに心実に世話いたし呉、政府役人諸隊役人共よりも進物見舞夥敷、近傍之医者も三人程昼夜詰切交代いたし、看病薬用ニ於而も無残所候得共、六日沐浴潔服之上、夜五ツ半時比如眠ニ而御落命に而候。
甚残念至極奉存候。
御辞世に 花浦の松の葉白く置霜と消ればあわれ一さかりかな   
又、   雲水の流まどひて華浦の初雪と我降てきゆ也
花浦は三田之異名ニ而、同国桑ノ山未申之麓に埋葬いたし候。
爰は、仙田膽三郎をも葬候土地に御座候。
・・・・・・・・(略)・・・・・・
一別紙御哥一枚御贈仕候。
是は弥御絶命の際ニ染筆候得共、手ふるひ文字も難読、其御言語も不分明候而、文章難読候得共、御記念ニ御贈仕候。

・・・・・・・・・(以下、省略します。)





●  「関連」した「ページ」 ─ 私の「ページ」の抜粋>氈@