平成21年3月23日 公開
平成24年9月26日更新


● 野村望東尼の「終焉の地=*h府市」における史跡≠ニその「写真」
 ─ (平成21年3月23日現在)
 ─ 


構 成
下線部をクリック≠ウれると、その「箇所」に飛べます。〉



◆ 「望東尼」関係の所在地「略図」  
─「昭和五十一年 第百十回記念 野村望東尼と防府」
〈防府市野村望東尼会〉の「パンフレット」より ─
「左」から、
さらなる=u問題」=従来≠フ「研究」を覆す小河扶希子氏の『野村望東尼』のこと 
C 「(松崎→防府)天満宮」D 「正福寺」E 「終えんの
とあるのですが、わかるでしょうか。
なお、「小郡←」とあるのは、「小郡駅」に至るということですが、改称されて、「小郡駅」は、「新山口駅」となっています。








◆ 野村望東尼 がなぜ、 「山口県・防府市」で「顕彰」されるのか ということ

野村望東尼(「ぼうとうに」または「もとに」)は、文化3年(1806)9月6日、福岡藩士浦野勝幸の娘として出生。名はモト。・・・
と書き出すと、わかりきったと言われそうですが、「次」に述べることは、わかりきった≠アとではないようなのです。

ツマリ、「望東尼」に対する関心≠フ深い「福岡県」において、望東尼と高杉晋作との「係わり」を「否定」する「見解」が広まっているらしいからです。
(↑ 「下線部」をクリックすると、ジャンプ≠オます。)

望東尼関係≠フ「史跡」については、「福岡県」においては、わずかに「平尾山荘」=「福岡指定」であるのに対して、「山口県」は、「墓」・終焉の「宅跡」・移築≠ウれた「終焉の宅」「山口指定史跡」としています。
望東尼が、「山口県・防府市」「顕彰」されるのは、
望東尼「平尾山荘」に、俗論派が台頭し、追われることになった「長州」(現 「山口県」)の高杉晋作が、匿われ、潜伏することで、身の安全が守れたことに加えて、「長州藩」の「俗論派」の動き(三家老の自刃、四参謀の斬刑・・・)を知り、もはや、逃げ≠スり、「他藩」の動きを待っている時ではないとして、危険を顧みず、攻め≠ヨと転換する決意≠持つに至り、それが到底不可能≠ニ思えた、圧倒的多数の藩政府軍を破り、長州藩の流れ≠変え、ひいては、勤皇運動への大きな影響を与えたという「歴史的」事実を踏まえてのことです。
「平尾山荘」滞在は、短期間ではあったのですが、結果≠ニして、「維新史」において、大きな∴モ味を持つと言えます。
高杉「平尾山荘」の滞在期間については、諸説ありますが、望東尼の姻戚という浦野 勝氏の「贈正五位望東尼小伝」には高杉氏居ること凡そ三週日とあります。
なお、浦野氏が当時物論淘々、幕吏の追捕甚だ厳なるを以て、事の発覚せむことを慮り、下婢を家にかへし、志士瀬口三兵衛をして朝夕薪水の労を取らしめ、僅に以て捕吏の視聴を免かるるを得たり。とも記されているのを始め、単に、潜伏場所提供したに留まらず、望東尼高杉との間の心の交流も、いろいろと伝えられています。
(注〉 は、「指定申請書」を所持していますが、その「指定申請書」ダケでなく、ここの記述には私の調査を交えています。)

慶応元(1865)年福岡藩の勤王党弾圧「乙丑の獄」により、旅人を潜伏させ女の身にあるまじき所行のためとして、11月末、玄海灘の孤島姫島の「獄舎」に幽閉されます。
いわば、高杉のタメとも言えるワケで、翌慶応2年9月には、既に「病床」に臥していた高杉は、手配して、藤 四郎多田莊蔵六名による救出となりますが、 望東尼が望んでのことではない、この脱獄のタメに、残された「勤皇の志士」への「福岡藩」の処遇過酷なものとなったことを知らされ、望東尼を終生、苦しめることになったと言います。
望東尼は、既に「死期」の迫っていた高杉看護小河扶希子氏でさえ、高杉夫人の言葉の中の「望東尼さんは、東行が亡くなるまで、それはそれは一通りならぬお世話をして下さいました」を「引用」され、その後にと感謝されるほど、望東尼の世話が行き届いていた。としておられます。
高杉看護の間、
面白きこともなき世を(に)面白く    高杉晋作
住みなすものはこころなりけり     野村望東尼
という、よく知られている「唱和」を残しています。

慶応3(1867)年4月14日高杉看取ると、しばらくは高杉の冥福を祈っていたのですが、初夏の頃山口に移り、 小田村素太郎(後の楫取素彦)のもとで、吉田松陰の妹で、小田村の妻である寿子の厚遇を受けたのを始め、他家(熊丸市右衛門の家、末田百千の家)にも寄寓していましたが、
『防長回天史』に、此日(文脈≠謔閨℃l月十九日)筑前野村望東尼に命じ馬関より山口に来り滞在せしむ≠ニありますが、その『回天史』五月四日付の長州藩の「辞令案文」があり、かつ、春山氏の『野村望東尼傳』にある八月四日付の藤四郎、小藤四郎等五人の同志に寄せられたる消息にはおのれ事も吉田よりすぐに此山口へ召し寄せられしかばとあるため、5月4日以後、8月4日以前ということになり、真夏は避けられたハズと思い、初夏の頃としました。

「薩長連合軍」による「征討軍」が「三田尻」(現 「防府市」の「海側」)から立ち、大坂城攻略することを聞き、
「天神信仰」の篤かった望東尼は、急遽「此度のいくさを祈り奉らん」として、9月25日に、一人で、三田尻に向かいました。
そして、「七日間」の「松崎天満宮」参詣 )となり、さらには、その後も、「防府」に滞在し、亡くなるワケです。
(「防府天満宮」という呼称は、「昭和28年」以後のことです。それ以前は、「松崎天満宮」or「宮市天満宮」と呼ばれていました。なお、『回天史』は、「宮市天神社」としていますが、本来=A「宮市」は、天満「宮」に因む「市」ですので、私は「松崎天満宮」としています。)

この「天満宮」への七日まうでについては、楫取素彦が、「墓碑」において、「絶粒週日」としているのを始め、 「指定申請書」九月二十六日より十七日の間防府天満宮に参籠祈願を行う。とあります。
しかし、『防州日記』に、
@ 今日をはじめとしてとあり、今日=二十五日ですし、
 その初日となる「二十五日」に、「鳴滝」で昼食を取ったことが記されています。
A 「参籠」は、社寺堂に籠り、神仏に祈願すること。一昼夜(通夜)、3日、7日、9日、14日、21日、33日、100日、1000日などの参籠期間中、礼拝、読経、称名、護摩焚き、水垢離行、断食をし、諸願の成就を図る。ということですし、 『防府の文化財』などには、七日間防府天満宮に籠もり戦勝を祈願した。と、かみ砕いて記しています。
しかし、これまた、『防州日記』に、九月廿八日のよに、小田村ぬし、国貞ぬし、山田ぬしなど、我がやどにわたり給ひける時に・・・といった記述があるのを始め、「七日間」の大半≠ヘ「籠もっていない」ことを示す記述がありますので、「お籠もり祈願」が一日も≠ネかったとは言い切れないものの、いささか、オーバーに扱われたと思われます。

なお、「指定申請書」以外にも、権威者とされる方が何人も、初日を「26日」としておられますが、『防州日記』六日めは、はや十月一日にもなりたればとあることが「理由」と思われます。
しかし、それは、この「慶応3年」の「9月」は、29%であることを失念≠ウれていたと思われます。
さらには、期間を、十七日としたものも少なくありませんが、当然=A誤りです。


この一日に一歌を手向け奉≠驕u七日まうで」は、「断食潔斎」ではないにしても、春山育次郎氏、谷川佳枝子氏も記されているように、一定期間飲食を慎み、心身を清らかにしたということと思われ、言うなれば身を挺しての「参詣祈願」であったハズなのです。
その「祈願」の中には、望東尼は、同士が、死罪となる中で、老女のゆえをもって、「姫島流罪」となった時には、多くの者が死罪に処せられる中で自分だけがそれを免れて生きながらえることを死罪よりもつらい恥であると感じた(谷川氏 『野村望東尼』)とし、「姫島の獄舎」において、「血書」という手段で、「般若心経」を、処刑された「同士」のタメに、記しているのですから、
「福岡藩」の尊王倒幕への転換、拘禁中の同志の解放をも、含まれていたハズなのです。

その無理も一因となったのでしょう、望東尼は、「寄寓」していた「歌友」=荒瀬百合子の「家」慶応3(1867)年11月6日、62歳で亡くなりました。
望東尼に対する「毛利家」を始めとする現「山口県」関係者処遇は、望東尼にとって、ありがたいものであったハズなのです。
「二人扶持」のことといい、楫取夫人=寿子医師=秋本里美「御殿医」=竹田祐伯といった人たちの好意・・・・など、揚げきれないほどです。

その死は、高杉同様、「維新の夜明け」を見る直前のことですが、「夜明けの到来」を確信した歌を残していることからしても、それなりに得心のできる「人生」であったのではないでしょうか。

@ 「明治維新」に大きな役割を果たした女性として特筆される望東尼が、
奈良本辰也氏の「選」による『別冊太陽 日本のこころ 明治維新百人』(1973(昭和48)年11月24日)に、
太田垣連月静寛院宮(和宮)松尾多勢子奥村五百子と共に、5$lの 女性 の中に、名があり、「解説」がされています。
なお、「写真」としては、木戸孝允(桂小五郎)と共に、 木戸松子も掲載されています。(木戸孝允については、当然=A「解説」もあります。)

また、この百人の中には入っていませんが、「尊皇攘夷」寄与した津崎矩子(「幕末」の近衛家の老女で、「村岡局」と称した)と並んで望東尼は、「明治24年」「女性」としては初めて=u位階」を受けています。
(津崎は、「従四位」望東尼は、「正五位」です。)

いずれにも望東尼の名があることは、「明治維新」における貢献があったと特筆してよいということでしょう。

A 「天神信仰」の篤いがゆえに本邦最初≠フ「天満宮」であり、「日本三天神」の一つである「松崎天満宮」のある「防府」において、身命を賭して祈願したこと、
B そして、その「防府の地」で、毛利家始め、多くの人々によって、温かく見守られながら亡くなり
C 望東尼の「遺骨」のある「墓」が存在している。
(望東尼の「墓」は、福岡市の「明光寺」にもあります。)
ということは、長く記憶されてしかるべきと思われるのです。

「昭和29年」という、いまだ戦後とされていた時期「指定申請書」には、
星霜移つた九十年後の今日、誤つた民主主義と浅はかな女性解放の嵐吹く目下の世相の中に、三田尻の聖者の終焉の宅及びその旧地並びに墓所も、数多い遺文も、社会から忘れかけられている。新日本のためにも個人の完成のためにも誠に残念至極である。
望東尼精神の普及を念願し、せつかく残存する文化財を保護顕彰したいと、遺跡遺物の史跡指定を要望する次第である。
とありますが、
私は、「文化財指定」に限定せず、「防府」における望東尼ゆかり≠フ「地」を 「史跡」 ではなく、敢えて史跡と、   として「紹介」する次第です。




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(その1)


「野村望東尼の墓」


野村望東尼の墓への入口です。

 (「上の図」に、案内標≠ニある箇所です。)


「説明板の解説」

 県指定 史跡
野村望東尼 終焉の宅
         及び宅跡並びに墓

昭和四一(一九六六)年六月一○日 指定
終焉の宅  岡村町五の三
宅跡 三田尻本町十の二
墓  桑山一丁目四

 野村望東尼は一八○六年(文化三)九月六日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、 その名を「もと」と称しました。二四才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、 夫婦共に和歌をたしなみ、五四才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。
 一八六一年(文久元)京都に上った望東尼は、 尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、 帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。 一八六五年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、 翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。

 一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、倒幕軍の戦勝を祈願しました。 しかし、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。

(一日目)武夫の仇に勝坂越えつつも祈るねぎごとうけさせ給え〈給え≠ヘママ〉
(二日目)濃染なすます穂のすすき穂に出て〈出て≠ヘママ〉招くになびけ千種八千草
(三日目)御世を思う〈思う≠ヘママ〉やたけ心の一筋も弓取る数に入らぬかひなさ
(四日目)あづさ弓引く数ならぬ身ながらも思ひいる矢は唯に一筋
(五日目)道もなく乱れあひたる浪波江のよしあしわくる時やこの時
(六日目)唯七日我が日まゐりの果てなくに神無月ともなりにけるかな
(七日目)九重に八重居る雲やはれむとて冬たつ空も春めきぬらむ

 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。
     平成十五年一月
山口県教育委員会
防府市教育委員会









 「正五位野村望東尼之墓」を正面からみた「写真」と、裏面の、従三位勲二等男爵 楫取素彦(旧 小田村伊之助)氏による撰文

 なお、碑文は、市制施行三十周年記念 望東尼百年忌記念 防府関係 野村望東尼史料に、「活字」として示されています。 


望東尼「墓」は、「土葬」であったこともあって、しばらく≠ヘ、一片の木標でしたが、高さ四尺程度の自然石の墓碑(「指定申請書」に桑山墓地経営者並びに管理者である西村常三氏談による)となっていたハズです。
また、『星甫随筆』にも、松永宣丈が望東尼の最初の墓は自然石であったと言ったとあります。

望東尼に仕えていた山路すが子望東尼の墓に参ったことが、甲斐信夫氏の『山路すが子』に書かれており、
一片の木標、林の中に立ち、泥にまみれし落花のそれのみが、せめてもの手向けなる有様に清子は胸先づつぶれた(ママ)
形ばかりの竹の筒に若木の桜一枝を手向れば涙をうけてか花の露、ホロリホロリと落ちて声あり(ママ)
とありますが、「落花」というのですから、「お彼岸」をかなり過ぎてのことと思います。
さらに、一雨くれば、当然=A落下に泥がつきます。
泥にまみれた落下≠ェ「せめてもの手向け」とはなんとも皮肉な′セい方ではないでしょうか。
それに、わざわざ遠路≠、墓参に訪れながら、、さえも用意せず、残り少ない<nズの「桜」を折って供えたというのですから、到底、信頼するに足らず、ドラマチックにしようとしたとしか、考えられません。

当初≠フ一片の木標が、ここにある「望東尼の墓」の「前」であったかのごとく、捉える向きもあることに驚いている≠フですが、高さ四尺程度の自然石の墓碑といい、松永宣丈の「証言」においても、「自然石の墓」には、花浦の松の葉しげく置く霜と 消ゆればあはれ一盛かな≠ニいう「歌」がほりつけてあったいうのですから、ここにある「墓」の「前」も、決して、「粗末」ということはなかったと私は思います。

氏も記しているように、もとの墓も、残しておいてほしかったと私も思っています。








(その2)


野村望東尼の法要をする寺=「大楽寺」



 ↑ 「大楽寺」の桜と案内板
「案内板」に野村望東尼香華所とあるのがわかるでしょうか。
[平成21年3月21日の撮影]ですので、御大師参りの方が、沢山おられました。

「正福寺」にいた松永宣丈氏が、「大楽寺」の住職となるに際し、望東尼の「位牌」を新たに作り、供養を続けたことから、この「大楽寺」を会場に、「防府望東尼会」主催で、今に至るも、毎年、供養が行われています
(俗に言う「転勤」のようなことが、かつての「禅宗の寺」では行われていました。)

私は、「望東尼」の「枕経」をあげたのが松永氏であったからだと、聞いており、以前≠ヘ、ここに、そう記していたのですが、松永氏が「正福寺」に来たのが「明治8年」ということがわかったこととて、あり得ないということです。
ただ、和尚は、荒瀬家の「位牌壇」に「始本院向陵望大姉」という塵にまみれた白木の位牌があるのを見つけた。ということが、香川勇哲『松永宣丈の追憶』〔昭和七(一九三二)年印刷〕にあるとのことですが、としては、当然=A望東尼の、「七回忌」「明治5年」のハズですから、松永氏が「正福寺」に来た「明治8年」に、塵にまみれた白木の位牌があるのを見つけたなんてことはあり得ないハズと思っています。
それに、「荒瀬家の位牌壇」に「位牌」があり、当時としては長寿≠ナ明治二六(一八九三)年まで、在世であったあった荒瀬百合子が、「位牌壇」の中の望東尼の位牌ダケを粗末に扱うなんてことは、まずありえないことです。
ただ、一般家庭≠ェ、「年忌法要」をすることはまず、考えられないから、そこに松永氏が係わり、「毎年の法要」を行うようになり、「大楽寺」に移っても続けたということだと考えるべきではないでしょうか。
そう考えないと、明治八年以前に、既に、望東尼は忘れ去られていたということにならざるを得ず、「明治2年」には、望東尼の没後わずか二年足らずで生前の悲願であった歌集の上梓が実現していて、長州の人々がいかに望東尼を高く評価し、深い理解を寄せていたかを窺わせるものである(いずれも、谷川氏の『野村望東尼』(324頁)より) なんてこととのツジツマ≠ェあわないと思います。

なお、松永氏は、近く≠ニいうこともあって、「住職」でありながら、自ら、毎日のように望東尼の「墓」の掃除もしていたということですから、(私の見落とし≠ゥもしれませんが)春山氏が、防府(三田尻)に来られていながら、松永氏に接触されていないのは不思議としかいいようがありません。

谷川氏は、春山氏の『野村望東尼傳』執筆時期[一九二七年頃に執筆](谷川氏の『野村望東尼』(339頁下段)としておられます。
[一九二七年=昭和2年]から十余年前嘗て三田尻を往訪したる時というのですから、来防は、「大正年間」ということになり、「昭和7年」に亡くなった松永氏は、当然=A健在だったのですから。



なお、「お地蔵様」の上方に、「横書き」のものが見えますが、「ひまわり華の会花壇」と書かれているのです。
この「文字板」の近くに、「西山家」のお墓があり、直木賞作家=伊集院静(本名 西山忠来)氏の夫人で、若くして惜しまれつつ亡くなった女優=夏目雅子さんが眠っています。
「ひまわり」が好きだったということに因んで、夏目さんを慕う人たちの手で、「ひまわり」の咲く花壇が、墓から、少し離れた所にあります。
私が「修学旅行」の代休で、「岡村の家=野村望東尼終焉の宅or室」とされる家にいた日が、丁度、納骨で、「マスコミ」が押しかけるのを目にしました。
 [墓誌]に、「戒名」と「昭和六十年九月十一日 西山雅子 芸名女優夏目雅子 二十七才」という文字が彫り込まれています。





「大楽寺」での「法要」の様子です。例年、多数の参加者があります。

「左」は、防府望東尼会の上山喜譽会長、「中」は、松浦正人防府市長が、それぞれ挨拶されているところです。
市長さんは、都合のつく限りにおいて、ほぼ毎年、「法要」に参加されているとのことです。






 「法要」に参加された方々です。

 それぞれ、手には、「経本」を持っておられます。

 なお、「望東尼の位牌」は、普段は、「位牌堂」の3階の正面にありますが、御願いすれば、お参りすることができます。



 この「大楽寺」には、「山口・防府」において、望東尼への並々ならぬ配慮をした楫取素彦(かとりもとひこ)の「墓」もあります。
 楫取素彦は、吉田松陰の生まれた1830年の前年=1829年の生まれで、松陰の信頼厚く、松陰の「松下村塾」計画の相談に乗り、また「松下村塾」にも、時々訪問し間接の援助を与え塾生とも相知ることとなったといいます。
 松陰の激論を受け止め、二人は互いに敬愛しあったといいます。
 松陰の妹=寿(子)は、15歳で、この楫取(当時は小田村)に嫁ぎ、望東尼になにかと心配りをしています。
 ただ、1881(明治14)年に、43歳で亡くなり、「墓」は、「青山霊園」にあるようです。
 寿子が病死した後、やはり、松陰の妹で、久坂玄瑞(1840年〜1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)(寿子の妹)と1883(明治16)年に、再婚していますが、それは、文の母=滝の勧めであったといわれます。
 それほど、楫取は、信頼があったということでしょう。
 その美和子に看取られながら、楫取は、1912(大正元)年に、「防府市岡村」(「村田博愛病院」近くで、現在、「PL教会」が建てられているところは、その敷地の一部です。)において亡くなっています。
 なお、美和子は、1921(大正10)年に、79歳で没しています。

 楫取は、その業績に比し、そのことがあまり知られていない(但し、『続防府市史』にはかなり詳しいことが記されていますし、「インターネット」の「サイト」にも、かなりの情報≠ェあります。)ようなので、多少なりとも記しておこうと思いますので、できましたら、 ここをクリックしてご覧ください。

 楫取は、「正二位勲一等男爵」なのですが、その「墓」は、次の「写真」のように、「正五位」の望東尼の「墓」に比し、つつましやか≠ナす。
 このことは、逆≠ノ言えば「望東尼」の墓を新たにする際、楫取の並々ならぬ尽力≠ェあったということだろうと思います。
 





「大楽寺」にある「楫取家」の「墓」
  「左」=楫取家の墓、「右」=楫取素彦個人の「墓」
 中央は、案内して下さったご住職の 林 公雄 氏です。
 
 この「楫取家」の「墓」は、「大楽寺」境内ではなく、少しばかり離れた、古い方の「墓域」にあります。
 「大楽寺」の「本堂」に向かって「左」の方向に100メートルくらい歩いた所ですが、そこには、野村望東尼の主治医であった秋本里美の「墓」や、「荒瀬家」を池田氏を経由して購入した、林川家の「墓」などがあります。



(その3)

移築≠ウれた「野村望東尼終焉の宅or室」

 ─ 「桑山東麓」の旧「林川所有地」 ─


「野村望東尼終焉の宅or室」として「指定」されていますが、林川家の方の「証言」をきっかけ≠ノ、私は調べ直してみました。
その「結果」、望東尼亡くなった「荒瀬家」一部であり、かつ、病床に臥すまでは、寄寓していた「離れ」であることは間違いないと思います。
ただ、「終焉の場」特定するなら、[本宅=主家=n「南八畳の間」であると思われます。
この「離れ」は、春山氏の記述「山口県」の権威者にまで、鵜呑みにされている現状においては、望東尼が、厚遇≠ウれていたことを示す「証拠」といった意味合いで、参考になると思います。




「野村望東尼」関係として「確認」されている箇所

〈1〉玄関(畳二畳のあがり座敷を含む)
〈2〉茶室(三畳)
〈3〉床の間付きの六畳の間
〈4〉三分の一には「道具二階」の関係でやや低めの天井・収納可能の階段付きの六畳の間
〈5〉道具二階(四畳半くらいの広さだと思われます)

「昭和49(1974)年3月」に、「刊行」された『文化財要録 第一集』において、「岡村の家」の「配置図」が「図示」されたのですが、それ以前≠フ「解説」とは異なり旧「荒瀬家」の「離れ」倍∴ネ上になっている「家」全体が、「望東尼」関係であるようにされていました。
私は、父の亡くなった「昭和62(1987)年以後」、「県教委」の「担当者」に対し、二度(「別人」です)、 「訂正」を御願いしましたが、そのまま&キき流され、「引き継ぎ」もされずにいたのですが、平成18(2006)年が亡くなり、私が「管理」することになって、改めて「指定解除」の検討要請 をすると同時≠ノ、そもそも「こんないい加減≠ネ配置図で済ませるのなら、指定の意味はないハズだ」と、当時≠フ「担当者」であった清水利宏氏・中村勝則氏に、改めて「指摘」してようやく「対応」してもらえたのです。

そして、「県教委」・「市教委」関係者及び、「山口県文化財保護審議会委員」である福田東亜氏による「確認調査」がなされ、その上で、修正されたのです。
但し、「刊行物」にでは、ありません。 「山口県の文化財」という[HOME PAGE]においてノミです。
その[HOME PAGE]の「山口県の文化財」の「野村望東尼」の頁にある「配置図」をお借りしたのが、「左」の「図」です。

 「配置図」の「上」には、赤枠内の4部屋及び2階終焉の宅に関係する部分。それ以外は後に増築された部分である。≠ニ書かれています。
「下=南」の横長の箇所にある「文字」は縁=Aつまり、「縁側」であることを示しています。
「旧玄関」という文字のある「右」が「二畳のあがり部屋」で、その「右」が「階段のある六畳間」、「南側」は、左から、「茶室」、「床の間のある六畳の間」です。  
なお、「旧玄関」の「押入」部分には、赤枠≠ェかかっていないことから、移築の際、「二つの竈及び炊事場」・「土間・タタキ」を設けるため、変更されているのでしょうが、この赤枠≠フかかっていない「押入」部分のごく一部(左上の「押入」の左半分)以外の「上」には、「道具二階」がのっています。

「望東尼」関係の箇所を拡大すると、「左」のようになります。
「茶室」を、望東尼「終焉の室」だと「指定申請書」は「主張」しているのですが、「床の間」が設けられている「六畳の間」が、病床に臥す前までは、望東尼が、蒲団を敷いていた「部屋」であることは、常識%Iな見方ではないでしょうか!



▼ 困った=u紹介」が流布≠オているという現実

野村望東尼亡くなった場所については、旧「荒瀬家」であったことは、多くの「資料」・「証言」からして間違いないハズなのですが、
権威≠ェあると見なされる≠烽フほとんど¢S部困った=u記述」をしており、そのため、困難な状況≠フモトで「管理」を続けている「意味」がまるで≠ネいという「現実」があるのです。

その代表は、春山育次郎氏による『野村望東尼傳』です。
この『野村望東尼傳』なるものは、原稿の所在が不明≠ナあったものが「発見」され、「昭和51年6月」に「刊行」と、「山口県指定文化財」の「指定」後なのですが、その春山氏が著者の十余年前嘗て三田尻を往訪して「確認」したとされる望東尼は滞留の長くなるや、待遇の鄭重に過ぐるを気の毒とせられ、自ら求めて抱家の別宅に移り、病中も終始その家にありて療養し、斯くて身を終はられたりと云ふ。 ≠ニいう「抱家」は、「指定申請書」の「候補」にスラあがっていない「説」ですし、少なくとも望東尼の「終焉」に関する記述には、「望東尼研究」の「原典」のような「位置」にある『野村望東尼傳』といえども、矛盾があるにも係わらず、 もっとも=u流布」しているのです。
私の言う矛盾とは、
著者の十余年前嘗て三田尻を往訪したる時、荒瀬の本宅は維新後の変遷を閲して已に全く無かりしかど望東尼の身を終はられたる家は猶残りて荒物屋の奥にあり。 二階建ての質素なる小屋にして、望東尼の居られた下座敷は、八畳と六畳の二間より成り、狭ば苦しき庭前には、一株の夾竹桃ありて恰も花を著けしが、要するに何の風情もなき尋常の家なりき。
とあり、「平成の始め」迄、旧「荒瀬の本宅」は、部分改造をされながら「存在」していた(←「下線部」をクリック≠キると、「防府市教委」に現在も「存在」する「証拠写真」に飛べます)にも係わらず、著者の十余年前嘗て三田尻を往訪したる時、荒瀬の本宅は維新後の変 遷を閲して已に全く無かりしかどとしていることからしておかしいのみならず、 望東尼は、豪邸==u荒瀬家」ではなく、路地を入った処にある質素なる小屋≠ニ表現される「貸家」が亡くなった場所であるとしていながら、
春山氏は、他の箇所で望東尼病み臥して重体となられたる後は、毛利家よ り丁重なる取扱を与へられ、幾たびも侍医を遣はして慰問せられ、見舞の反物菓子を賜はり、政庁 は専任の吏員と二人の看護人とを附け、滞陣の諸隊の人々 、また昼夜交代して看護に勉め、宿のあ るじの養母百合子はじめ一家親族も寄り集りて力を尽したれば、当時此状を見聞したる三田尻の市民は、縦令三四千石の大身の御隠居なりとも、到底斯く迄の鄭重な ることは期すべからずと噂を為せり。 と記しておられることを指します。
春山氏の実際≠ノ見たとされる「抱家」には、「二階」もあるようですが、「道具二階」と思われますので、八畳と六畳の二間しかない粗末≠ネ「抱家=貸家」で、春山氏の書かれているような人物が存在しうるでしょうか?
はたまた、こんな場所で亡くなったのなら、縦令三四千石の大身の御隠居なりとも、到底斯く迄の鄭重な ることは期すべからずてことになるでしょうか?
仮に=A「二階」が使用できたとしても、私には春山氏の『野村望東尼傳』には、少しばかり=A「疑問」があると言わざるをえません。
こうした、おかしな=u記述」でありながら、多くの「研究者」は、この「春山説=抱家」を、矛盾を込めて鵜呑みにしているのです。
私も、春山氏の『野村望東尼傳』極めて貴重≠ネ「大作」であることを否定しているワケではありませんが、他についても、少しばかり=A「疑問」のある箇所があります。
私は、春山氏の研究生かすタメにも、おかしい≠アとはおかしいとすべきだと、思います。

しかし、現状はそうではありません。
「山口県指定」であるにもかかわらず、「山口県」における「維新史」の権威とされる人物は、この「春山説」『図説 山口・防府の歴史』において記していますし、

この春山氏の「抱家」説以外≠ナも、
やはり、「山口県」における「望東尼研究者」とされる人物は、『山口県百科事典』において、防府市向山の寓居で病死。墓は終焉地ちかくの桑山山腹大楽寺域。 と、「桑山」の周辺にあるという「向山」の寓居で亡くなったとしていますが、「桑山」周辺には「向山」なる「地名」はありません

更には、地元=防府≠ノおいて、「医師」である傍ら、「歴史研究」をされていた柳 義雄氏の『星甫随筆』に、「説」の一つとして「紹介」されている「高橋お吉なる人物の証言」望東尼は、結核のタメ空き家となっていた「土井栄作」宅で淋しく亡くなった。望東尼は「不満」を漏らしていたということを、「正しい」ものであるかのように述べているものも、少なからず≠ります。
例えば、『フォト』〔昭和四八〔一九七三〕年九月十五日発行)において、
はたまた、
『西日本文化 第二十五号』─野村望東尼特集─』〔昭和四一(一九六六)年十一月二日発行〕においては、 つじつま合わせのタメでしょうか、『星甫随筆』には書かれていないハズのこと寂しい山家で死なせたというのでは筑前の人に対する手前もあるので、三田尻の人々と下関から来た藤四郎等筑前藩士と相談の上で荒瀬家で死去したことにしたといわれている。 ということまでも、書かれているかのように¥qべているのです。

▼ さらなる=u問題」=従来≠フ「研究」を覆す=u異説」のこと

この相談の上で荒瀬家で死去したことにしたというのはまだましなほうで、
「福岡県」では、小河扶希子氏によって、従来≠フ「研究」を覆す=u異説」ともいうべきものが、「西日本新聞社」から「出版」されています。
それは、『西日本人物誌[19] 野村望東尼 』[平成20(2008)年4月刊]ですが、その中には、
・・・野村望東尼の場合は、このような事があってもいいのだろうか、見つかった書翰州集の半数近く、書翰そのものの文面が「切り刻み、削除、挿入、数通を合体、加筆、改造、偽造」などと、とんでもない手が入れられ、勝者側の主要な人物たちを盛り立てる状況となるように改ざんされ活字化されていた。
とされているのですから、それ相当の「研究」をされてのことでしょうが、正直 、私には「疑問」な点も少なくありません。
その評価≠ヘ、「専門家」によって、いずれなされるでしょうが、 私にとって、疑問とせざるをえないのは、
盛り立てられた勝者側の主要な人物、それはとりもなおさず、高杉を指すと思われる流れの中で、
・高杉が望東尼の山荘に身を潜めたのは、望東尼不在で、空き家状態の中に、勝手 に潜んだのであり、
・望東尼の「姫島」からの救出も、対馬藩士多田荘蔵と望東尼の旧知で、望東尼の最期を看取った、藤 四郎の二人が中心であって、高杉との関わりはほとんどないこと、
つまり、望東尼が、高杉を意図的に%スったのではなく、高杉が勝手≠ノ、すでに朽ちかけた空家に、潜居≠オたに過 ぎないといい、従って、救出も、高杉の命≠ノよるものではない、とい う、驚くべき≠アとが、書かれていることです。
・更には、「面白きこともなき世」という、ここに取り上げられている二人の 唱和は、上の句、下の句≠ニも、望東尼であったのに、歴史の途上偽って、高杉が作成した 詠歌などとして今日まで伝わり、現在では東行庵(下関市吉田町)に歌碑まで建立されている。
さらに、
ことの真意を放置したまま、勝者の論理のみに固執したマスコミにより「つくられた高杉像」は拡声を続けている。
といったことが書かれていることです。

小河氏の『野村望東尼』によると、
望東尼への罪状申し渡しの中に「旅人を潜伏させ女の身にあるまじき所行」とある。≠アとについて、
しかし当時、望東尼は病が重く野村家に臥していた。しかも、庵はすでに朽ちかけ た空家であった。と記し、それが故に濡れ衣だとする「歌」を詠んだといわれるのですから、望東尼に取っては、勝手に「空き家」に入り込んだ高杉とんでもない人物だということになります。
(『野村望東尼』162頁11行目=`(救出されてから)二十五日程して、は、足腰も大分よくなってきたと見受けられる望東尼を、療養中の高杉の住まいまで人目を避け乗り物で連れて行く。二人は初めて面談した。)

のみならず、望東尼が亡くなったのは「荒瀬家」であると受け取れる書き方をしてくださってはいますが、 ●野村望東尼年譜 において、
一八六九(明治2)
近藤芳樹は、望東尼の最期を看取った藤四郎、門人荒瀬百合子と共同協力して不名誉な晩年を送った望東尼の名誉回復にいち早く着手する。
上梓を願いつつ清書した「ゆめかそへ」を『比賣嶋日記』として出版する
ともあります。
望東尼晩年は、不名誉≠ネものだったのでしょうか?
冬籠こらへ堪えて一時に 花咲きみてる春は来るらし
という、「竹田君=御殿医の竹田祐伯」が山口へかへるとて♂rんだ歌があります。
「確かな根拠に基づく推量の助動詞らし=vがあることからしても、望東尼には、死に臨んで「理想的世界の到来≠ニいう確信」があったということでしょう。
「維新の夜明け」こそ見ないで亡くなっていますが、現実≠ニしての「明治」という「時代」には、「維新の立役者」の一人≠ナある西郷隆盛の「西南の役」の勃発のように、「問題」がまったく≠ネかったとは言えない面もありますので、多くの$lたちの厚情を受けながら、「理想的世界の到来」確信して、亡くなった望東尼晩年は、しあわせ≠ネものであったように、私は思っています。
なお、この「歌」に関しては、小河氏も、野村望東尼は、春が来ることを確信し、己の臨終までも見定め、永い眠りに這入ったと、私と同じような見方をされています。



この小河氏の述べられていること事実なら、「毛利藩」を始め、「防府市(当時≠ヘ「三田尻」)」の人々が、「望東尼」に対して、厚情≠寄せたなんてことも、嘘っぱち≠ニいうことにもなりかねません。
(なお、「毛利藩」から、望東尼への「二人扶持」については、「第一次 長州征伐」の際、寛大な処置によって毛利家は潰されずに済んだ一因は、福岡藩の喜多岡(勇平)、薩摩藩士高崎兵助、岩国領主吉川監物に奔走によるものであり、望東尼投獄は、「京都だより」を手渡す役目も影響したこととのつながりがあったこととの関連であるようにされています。)


この小河氏の『野村望東尼』で述べられている高杉との係わり≠ヘほとんどないということが事実=E真実なら、
望東尼が「明治維新」への「プロセス」において、重要な*割を結果的≠ノ担ったということが誤り
ということになるワケで
「望東尼」関係では、「平尾山荘」ノミを「福岡市指定」にしている「福岡県」とは違い
「山口県」が「墓」・「終焉の宅」の「跡地・移築された離れ」を「県指定」にしていることの「意味」無くなってしまうと、には思われます。


既述しているように、小河氏によると、
望東尼は、高杉匿ったのではなく、勝手≠ノ、高杉が「空き家」状態の「平尾山荘」に入り込んでいたに過ぎないし、
のみならず、 濡れ衣を被きかずきて流れゆく 尼が袖ほす時世こそまて・・・」という望東尼を、
「濡れ衣・・・」と身の潔白を扇面に書き付けて、とされるのですから、高杉なる人物に、「不法に家宅侵入」されたダケで、望東尼は、「被害者」であって、「旅人を潜伏させ女の身にあるまじき所行」として「罪」にするのは濡れ衣だという「歌」というように主張されているように思えます。

確かに平野国臣等との係わりからして、「維新」における貢献はありますが、しかし、「維新史」という視点から評価する限りは、「高杉が、望東尼の平尾山荘において、「長州藩」の「俗論派」の動きを知り、もはや逃げ≠トいる時ではないとして、危険を顧みず、攻め≠ヨと転換する決意≠持つに至り、それが到底不可能≠ニ思えた、圧倒的多数の藩政府軍を破り、長州藩の流れ≠変え、ひいては、勤皇運動への大きな影響を与えた」ということに比較すれば、「福岡藩」の「歴史」程度≠ノ留まると、私は思っています
(「対馬の歴史」を中心≠ノ、多数の著書をお持ちの方で、現在≠ヘ、望東尼を姫島から救出した6人の中の対馬の人物を中心に調査・研究されている関係で「来防」され、「我が家」を訪ねられた野方春人氏は、
小河氏は平野國臣の思想、すなわち、幕府を解体して日本統一ということを高く評価されていて、 それだけでも歴史上重要視するべきだという立場だと思います。」
「そんな小河氏にとっては高杉に関係しないから重要な役割を果たしていない、という結論にはならない主張されるかもしれません。」
長州による維新そのものを重要視しないのが小河氏の立場かもしれません。」 「長州閥特に伊藤博文手紙の改竄の首謀者と捉えておられますので・・・・・」
小河氏は、手紙の改竄の様子具体的には書いておられないため、それをはっきりしていただくことが必要だと思います。」
といったことを「教示」していただきました。)

「ネット」で、「ふくおか市政だより」を見ますと、3月1日号において、[平成21年度 第40回 福岡市文学賞]「紹介」において、
小説
小河扶希子
氏(おがわすまこ)
 受賞作品=「続・野村望東尼書翰(もとにしょかん)集見つかる!」
小河氏は受賞作の中で、勤皇歌人としてのみ語られがちだった望東尼を、気配り、目配りのある多面的で柔軟性のある人間として見直し、真実に迫ろうとしています。
小河氏は現在、野村望東尼研究の第一人者と目されており、その生涯をかけての真摯(しんし)な姿勢と実績が認められました。
とあります。
「小説」としての受賞ですが、『野村望東尼』の「出版」も[二○○八(平成二十)年4月28日]ですし、小河氏の『野村望東尼 書翰集見つかる!』という55&ナからなる『冊子』で見る限り、「小説」というより「論文」で、『野村望東尼 書翰集見つかる!』と『野村望東尼』との「関係」は、ひとまず「書翰集見つかる!」において験証〈ママ〉を行った上で人物誌(「西日本人物誌」の中の『野村望東尼』)に取り上げるという、「同時進行」にて作業を進めた。とありますので、密接に係わっていると、私には思えます。
とすると、「福岡市」が、小河氏の「研究・見解」に対して、野村望東尼研究の第一人者=E生涯をかけての真摯な姿勢と実績が認められました。「評価」することは、そのまま伝えられている望東尼と高杉の関係は、誤り≠セと、「福岡市」として認めたということなのでしょうか。



この小河氏の『野村望東尼』は、地元=九州において、高い評価≠受けている「西日本新聞社」から「出版」されていますが、「西日本新聞」として小河氏の「研究」認めておられるのかということ、さらには、上記枠≠フように、「福岡市」も、認めておられるとしてよいのか、
さらには、「別」のことながら『福岡県史』において、「野村望東尼」研究の「基本図書」ともいうべき、『防州日記』(この『日記』には「題」がないタメ、小河氏は、『長防日記』とされていますが、一般的≠ノは『防州日記』とされており、『福岡県史』でも、『防州日記』と記されています)の把握の仕方が2人≠フ「権威者」共誤っていると思われることなど、「問題」があると思わざるをえません。

私としては、小河氏が、
このような事があってもいいのだろうか、見つかった書翰州集の半数近く、書翰そのものの文面が「切り刻み、削除、挿入、数通を合体、加筆、改造、偽造」などと、とんでもない手が入れられ、勝者側 の主要な人物たちを盛り立てる状況となるように改ざんされ活字化されていた。
とまで言い切られていることが妥当なのか、かについては、秘蔵≠ウれていた「自筆原稿」≠ネるものの実態『野村望東尼』にも、「野村望東尼書翰集見つかる!」 にも、示されているとは言い難いタメ、しかるべき=u福岡県」or「福岡市」の公的≠ネ「機関」がリードして、本格的「再検討」されることを望みます。
(名も無き$l間が、根拠≠ニなる「資料」を見せてほしいといっても、まず、無理だと思いますので。)

『福岡県史』「福岡県」から「編纂・刊行」委託されていたという「西日本文化協会」「刊行物」にも、ごく一部≠ナしょうが「問題点」があることは、既に述べた通りです。

なお、小河氏が、「防府野村望東尼会顧問」ということが、「巻末の著者紹介」に記され、かつ、幾つかの=A「インターネット」「著者紹介」にも記されていますが、それは、大西 力会長の時のことであり、執筆当時には、既に=u顧問」ではありませんでした。
小河氏の「記述」されていることを、「防府望東尼会」として認めているワケではないということを、私は「確認」しています。

小河氏の『西日本人物誌[19] 野村望東尼 』で述べられていることが事実・真実なら、楫取素彦が、「皇室」や「毛利公」、「三条公」といった方々からの援助金改修された「望東尼の墓」スラも、勝者¢、の創作≠ノ基づくものと言われそうで、史跡と呼ぶことも、疑問になりかねませんが、 小河氏の指摘される「資・史料」なるものの実態がわからない以上、多く≠フ「資・史料」が存在するらしい「福岡県」・「福岡市」において、春山氏の『野村望東尼傳』春山氏の没後、それも、46年≠煬o過した「昭和51年」になって、「翻刻出版」し、その「内容」がベスト≠ナあるかのようなったことの「再検討」を含め、十分≠ネ科学的=E学問的=u研究」がなされることを期待することにして、 現時点における「野村望東尼」研究においては、望東尼は、平野国臣喜多岡勇平等との係わりもさることながら、高杉匿うことで、「姫島」への流罪という苦難を受けることになったが、結果的に「維新史」において、大きな*割を果たした「偉人」であるという視点で見ておきたいと思います。
つまり、「望東尼がどこで*Sくなったかで、望東尼の「人柄」≠煦痰チてくる。」
と、私は思いますので、「終焉の場」が旧「荒瀬家」であり、「庭」を共有して建てられていた「離れ」は、望東尼病床につくまで寄寓していた所であり、「臨終」は「主家の南八畳の間」だとして、「紹介」しておきます。
口幅ったい言い方ですが、「終焉の場」に関する限りは、私よりも詳しい$l物はいないと思っています。



なお、全国的≠ノ「影響」ある「研究者」として、「望東尼の終焉の場」は「荒瀬家」という「立場」を取ってくださっている谷川佳枝子氏が、2011(平成23)年6月「花乱社」から『野村望東尼』を「出版」され、高い「評価」を受けておられるのですが、 残念ながら
望東尼が荒瀬家でこの世を去ったことは、藤四郎の手紙、楫取素彦の碑文、『望東尼伝』及び近藤芳樹の「比賣嶋日記序」に記されているところである。
しかし、後年、望東尼は肺結核であったので人家から離れた見晴らしのいい家がよかろうということで、三田尻堀口庚午新丁の空家(土井栄作所有)に移され、そこで亡くなったという説も唱えられた。
これについては、望東尼が肺結核であったかどうかも不明であるし、何よりも臨終に実際に立ち会った藤四郎や、望東尼に身近に接した荒瀬百合子らの歌の師であった近藤芳樹が異口同音に荒瀬家を臨終の家としているので、それらを信ずるほかないであろう。
と、『望東尼伝』=『野村望東尼傳』も、「荒瀬家」終焉説であるかのごとくなっており、『野村望東尼傳』=「春山」説不適切=E見直し≠フ必要があるという啓蒙にはなっていません。
そのため、「研究者」に、見直さねばならない≠ニいう「意識」を抱かせることには繋がらない可能性が大きいのです。
さらには、望東尼の「人柄」にスラ影響≠キる「高橋」説=「土井栄作」宅についても、人家から離れた見晴らしのいい家がよかろうという、一見≠キると、望東尼への配慮によるものであると受け取れる「箇所」で引用を止めておられるタメ、いささか=u問題」があります。

ただ、谷川氏は、この箇所及び少しばかり≠フ私の『野村望東尼』における「疑問点」にも、誠実に取り組んでくださっており、ほぼ℃рフ「主張」を受け入れてくださっていますが、谷川氏は、今後の「執筆」に取り込む場合、スペース的に、「根拠」までも述べることは不可能に近いタメ、私の「主張・気づき」「活字」にしておいてほしいと言われています。

私の「ホームページ」は、谷川氏の「要請」に対しての「予告編」ともいえるものですが、いずれ、「自費出版」するつもりでいます。
とりあえずは、ここをクリックしてご覧いただければ、「春山」説「高橋証言」不適切であることが「理解」していただけるものと思います。

小河扶希子氏が、「西日本新聞社」刊 『野村望東尼』には、自己の主張にたいして論拠、証拠をあまり提示されず、「結果」だけを述べておられる ように思えるのに対して、
「参考資料」示し膨大≠ゥつ詳細≠ネ「参考文献一覧」をも「添付」されている谷川佳枝子氏の 『野村望東尼』 のを、私としては、高く=u評価」しています。
谷川氏は、高杉 との係わりを 望東尼の「人生」 において、重要視しておられます。
「次」の下線部をクリック≠オてご覧いただきたいと思います。
なお、「福岡県庁秘書課」宛(11月16日)、
「福岡市民局 文化・スポーツ部 文化振興課」宛(11月24日)に、
この「ページ」にも記しているしかるべき=u福岡県」or「福岡市」の公的≠ネ「機関」がリード≠オて、本格的≠ノ「再検討」されることを望みます。 ということを「メール」でお願いしていますので、その結果次第では、小河氏の 主張 に賛同することもありえることを付記しておきます。








「文化財指定」においては、亡くなったのは中塚町の「荒瀬家」の「離れ」であるとして、「荒瀬の本宅」は除外し、移築されていた「離れ」のみ「望東尼終焉の宅or室」としているのですが、
その「最大の根拠」とされた後の所有者=林川氏によって、移築までして「保存」されているということが、後年、その「林川」家の人物によって、疑問・否定がなされているということがわかったのです。
ただ、その「新証言」は、「離れ」望東尼とはまったく♀ヨ係ないかのようになっているのですが、多くの「証言」によって、はたまた、林川氏が、単に=A「貸家」として「利用」するために、移築したとするには、決して経済的とはいえないことなどからして、「荒瀬家」の「離れ」に、寄寓していたことは、まず間違いないハズです。

ここに紹介する「岡村の家」は、望東尼が、九月二十五日から、病床に臥す直前(薩摩船を見るため、桑山に登った十月六日以後、病中作と記される二十六日以前)まで、時には、他所に宿してもいますが、その大半を過ごしていたということは、まず、間違いないと思います。
旧「荒瀬家」の「本宅」・「離れ」を一括≠オて「指定」していれば「問題」なかったのですが、
「指定申請」の時は、「本宅」「離れ」が、「別の場所」にあったため、どちらか=u一方」として「検討」されたワケです。

林川氏には、まさか=A「亡くなった場所」が、後年、「指定」されるとは思っていなかったのでしょう、望東尼が寄寓していたということ、壊すには惜しい≠ニいうことで、「離れ」ダケを移築されたと思われます。


「林川家」は、もともと「荒瀬家」の「隣」であり、「荒瀬家」から、池田正介氏の所有となり、その後、林川長兵衛氏の所有となったそうですが、隣接≠オた、それも、いずれも広大な=u二軒」を所有されたことで、「離れ」不要として、「桑山」の東麓にあった「林川家」の広大≠ネ「所有地」の一画に、望東尼関連として、移築されたのだと思われます。
なお、「借家」として「利用」するために、「移築」当時から、増築されていました。
(その後、林川家東京移住に際し、「借家」として利用していた「我が家」が求められて「購入」することになったワケですが、野村望東尼関係といったことは一切言われていませんでしたので、8$l家族でしたので、購入後、倍°゚くなる増築をしていました。)

(「写真」は、広かった°戟u林川所有地」の端に、現在も残っている「林川所有地」という文字の刻まれた「石柱」です。)



この「離れ」ダケを「終焉の場」としたのでは、「春山説」同様到底、多くの看護・見舞客の居場所がないのです。
それに、「荒瀬家」は、「屋号」「綿屋」という「豪商」であった[『防府関係 野村望東尼史料』の(注)]といいますから、綿屋を営む商家(小河氏の『野村望東尼』)ではなく、当初≠ヘともかく、当時≠ヘ現在≠ナいう「寝具店」であり、「お茶屋」(「英雲荘」)にも納めていたハズで、「毛利家」との係わり、「荒瀬家」の体面からしても、私としては、「終焉の部屋」は別、つまり、荒瀬家の最上ともいえる、しかるべき部屋=「指定申請書」にあるもう一つ≠フ有力な候補「南八畳の間」を用意したと思っていますが、「岡村の家」=旧「荒瀬家の離れ」「終焉の宅」の一部≠ナあったことは、間違いないことですし、それに、望東尼が「本宅」(「指定申請書」では主家)に移ったとしても、毛利家から派遣された二人≠フ「看護人」用としては無論のこと、「茶室」もあることとて、見舞客等の「控え・休息の場」として引き続き=A望東尼のために使用されていたと推測しています。

私なりに、かなり「調査」したのですが、「荒瀬家」=「綿屋」とあるばかりで、豪商というのに、『市史』類にも全く、記載されていないように思えます。
「英雲荘」(旧「お茶屋」)に、「日誌」に相当するものがあるのではないかと思うのですが、あるとすれば「山口県文書館」にと「防府市教委」に聞いていますが、まだ、本格的には調査していません。
「綿家」どういう商売をしていたかについては、『比賣嶋日記』の長門の殿人 藤原芳樹の「序文」にある致和が母百合女、はた衣縫ひ苧積む暇に♂フを詠んでいたが参考になる程度です。(藤原芳樹は、近藤芳樹です。)
豪商で、「家屋敷」立派な邸宅だったハズですので、百合子が、機織をしていたとしても、趣味の延長線程度のハズです。

私が「寝具店」と思っているのは、ある方の「証言」ですが、なにせ、お年寄りで、「・・・と聞いたことがある」といった程度ですので、その方の名前を挙げて「責任」を持たせるのは酷≠セと思います。
ただ、
綿屋(わたや)[ 日本大百科全書(小学館) ]
真綿(まわた)を販売する店。16世紀には綿売りという量り売りの女性の振売りがあった。17世紀には店売りができ、木綿(もめん)屋に対して真綿屋ともいった。
真綿問屋から仕入れて店売りし、摘み綿(真綿を塗り桶(おけ)にかぶせて引き伸ばしたもの)も扱っていた。木綿屋では布だけでなく木綿(きわた)も扱った。
19世紀後半になると、綿屋は真綿よりも木綿綿(わた)を多く扱い、ふとんなども売っていた。そこでは木綿綿の打ち直しもしていた。今日ではふとん屋とか寝具店が綿屋にあたる。
とありますので、当たらずといえども遠からずだと思います。
したがって、ここに述べていることは、残念ながら、私の推測以外の何者でもありません。


なにせ、今日とは違い、徒歩が主体ですし、身分ある人物でも、せいぜい「駕籠」によらざるを得ない「時代」なのですから。



『防府関係 野村望東尼史料』は、実質%Iには、「指定申請書」を作成した「防府市教委」江村隆雄氏が編集されていますが、「写真」のように、 「三畳」の「茶室」をはっきり≠ニ、「終焉の室」として「紹介」しています。
       (文字が見えにくいかもしれませんが、望東尼肖像 及び 望東尼終焉の室 と印刷されています。)

しかし、わずか「三畳」で、しかも、「床」「炉」「茶棚」もある「茶室」に、死期の迫った望東尼が臥していたでしょうか?
「蒲団」を敷くことは、どうにか≠ナきないことはないとは思いますが、「寝込む」迄は、「六畳の間」に寝ていたハズですし、それが、看護・見舞客のタメに、三畳≠フ「茶室」に、移ったなんてことは、まず、考えられません。

「医師」の秋本里美、更には「御殿医」竹田祐伯は、隣室との境の敷居に座って、望東尼を診ていたのでしょうか?

3歳の時の井関与一氏の「記憶」を、90歳(昭和29年当時)の時に得た「証言」必要以上≠ノ「過大」に信頼したがために、敢えて望東尼三畳≠フ「茶室」に寝ていたとし、その「茶室」を、「終焉の室」としたと思われます(井関「証言」がそうだった≠フかも知れません)が、 井関氏以外≠ノある「証言」「荒瀬家」の主家≠フ「南八畳の間」「終焉の場」とするのが、適当だと、私は思います。

ただ、望東尼が、「荒瀬家」において寄寓しており、そして、その「荒瀬家」において、毛利家はじめ、楫取夫妻・・・・・といった方々の温かい配慮のもとに亡くなったということで、把握すればよいことであり、わざわざ=A「荒瀬家」のどの部屋かといったことまで、拘る必要はないと思います。
    (無論、わかるにこしたことはありませんが。)



「離れ」が、かなり形を変えてはいますが、望東尼が生活していた「部屋」は、「山口県文化財保護審議会委員」である福田東亜「平成18年」における「再調査」でも、確認されていますので、そのありようを、ここに紹介しておきましょう。
別の頁でのべていように、早晩訪れるハズの、解体せざるをえなくなった時には、おそらく、「県」も「市」も「終焉の室」ということに疑問が提示されており、「終焉の室」とされる「南八畳の間」があった「荒瀬家」の「主家」が「解体」され、まったく新しい建物になっている以上、「離れ」ダケの「指定」継続することはないだろうと、思っています。

私は到底=A住みやすいとは言い難くなってしまった「家」に敢えて¥Zんでいたが、「平成18年2月」に亡くなり、「空き家」になって以来、本格的に、「指定解除」要請してきていますが、「担当者」が代わるといったことのタメ、現在も、「話し合い」継続しています。


「空き家」になってからも、「写真のような修理の費用」・「駐車料金」(昔の「家」ですので、「駐車スペース」はありませんし、周辺は「駐車禁止」ですので、「管理」のタメに、「駐車場」をお借りしています)・「電気」・「下水道」(ほとんど=u皆無」に近い「見学者」とはいえ、「トイレ」は使えるようにしておかねばなりません)「剪定費」といった「金銭面」、さらには、「除草」・「風通し」といった「労力」などの負担を、私どもが、個人≠ナしてきているのですが、「解体→復元」といった大がかり≠ネ「工事」の場合は、「山口県」・「防府市」共に、多額≠フ「税金の支出」を伴うことになることになっていますので、「指定解除」になると思います。

そもそも、「指定対象」は、類似の物件の発見・研究の進展に伴う「価値評価」の変化の可能性・・・・といったことから、「指定物件」の見直しは、「文化財行政」にあっては、不可欠のことと思いますし、事実≠フこととして「山口県指定文化財保存顕彰規程」における「指定」に当たっては、数≠ェ揃ったら、見直すことにしていたのです。
根岸啓治先生の「史跡指定」における「ただ、誰それが、生まれれた・亡くなったといったことダケで指定されているように思われる物件が幾つか≠るが、その物件が、その人物の生き方に大きな影響を与えたという基準≠考慮すべきだと思う。」と、私におっしゃったことに、同じ思いをしています。
できるダケ多くの物を「後世に遺す」ということは、無論、大切なことですが、「財政措置」を伴うこととて、それなりの選択≠ヘ必要なことのハズです。

「野村望東尼」関係の「史跡」としては、立派な=A皇室をはじめ、毛利家といった方々の援助金で作られた「墓」が、魂≠フ宿る所といった意味でも、貴重≠ネものとして「防府市」に存在していますし、「跡地」は、「跡地」であって、そこには、立派な=u邸宅」が新築されていて、維持・管理に特別の配慮は考えなくてもよいと思われます。

その一方「経費」や「労力」を必要とする旧「離れ」が、ほとんど′ゥ向きもされない状況≠ノあり、「住めない家」であるのに、形<_ケ「指定」として、未来永劫=A「管理」を押しつけられることには「疑問」があります。

現≠ノ望東尼亡くなった「場所」旧「荒瀬家」であるということスラ、ほとんど無視≠ウれている現状を、「望東尼研究」の「前提」のハズだとして、世間に認識≠オてもらおうと、訴えているのは、「私」ダケといってもよいのです。
(但し、現在≠フ「防府市教委」の「文化財課長」である吉瀬勝康氏は、私の「研究」をもとに、当面「出版物」の予定がないとして、
『防府市史』等の、困った=u記述」を「修正」するタメに、「ホームページ」において、対応してくださっています。)

長年≠ノわたる「山水」の流れ込みのタメ、「床下」が腐食≠オてしまっているとはいえ、外観≠ニしては、残っている「望東尼が防府の地で、大半を過ごした家」ありようを、「写真」という形で残しておこうと思います。


福田氏が、「確認調査」の際、この「離れ」を、「江戸時代の商家の離れ」を感じさせる瀟洒な良い建物だと思う」とおっしゃっていることとて、 たとえ、望東尼が、この「離れ」に寄寓していたママで亡くなったとしても、
「荒瀬家」の望東尼に対する対応が、決して、粗略なものではなかった
ということを示すものとして、それなりの意味はあろうと思いますし、
「新聞社」を始め、「出版物」、「サイト」などで、「野村望東尼終焉の宅」として、紹介しておられる「写真」の多くは、私の親が、「指定」以前に、増築した=望東尼とはまったく関係のないところですし、中には、現在地が、終焉の地であったかの如く、記しておられるものもあることとて、注意を促すことにもなると思います。

まさか、とんでもない=u家」「終焉の場」だとする「説」が、大手を振ってまかり通ることになるとは、誰しも思わなかったでしょうが、事実がそうである以上、この「離れ」ダケでも「指定」して、今日まで残したことは、「望東尼研究」のタメにはよかったと思われます。


















「写真」の中央付近の「水道のホース」の見えるところが、「玄関」(「左下」の「写真」参照)です。 
「写真」のうち、「手前」の突き出しの「屋根」が二重になっているのが、林川氏が、移築するに際し、「貸家」として「管理」するために増築された旧「土間・竈等」の場所です。(旧≠ニいうのは、我が家が「購入後」、改築しているタメです。)
ツマリ、「移築」当初から、三分の二が、モトの「荒瀬家」の「離れ」ということです。

 





─〈1〉─
これが本来の「玄関」です。
しかし、この「玄関」ではなく、私の両親が、購入後、増改築し、新しく″ったもう一つ≠フ「玄関」を中心とした「写真」をわざわざ紹介したのが、『文化財要録 第一集』・『山口県文化財総覧』なのです。
『山口県文化財総覧』(昭和54年3月31日刊)においても、
この「下」の「写真」が載っていましたし、さらには、勝手に撮影していくマスコミ等は、道路側から撮った、この増築した玄関を中心とした「写真」を掲載しています。

この「向きから見える」のは、もともと、林川家が、移築の際、「借家」用に、増築していた箇所、私の家で購入して、「風呂場」が建物の外に、別にあったものを崩して、「台所」と「風呂」〈「墓」の写真のある箇所〉にした所です。
「二階」部分も、当然、新たに増築した所です。

この「木の横長の一枚板」の上がり口を上がると、二畳の広さの部屋があり、畳が敷いてあります。
 「左」には、押し入れがありますが、その押し入れの部分を含めて、「道具二階」の関係で、少しばかり、他の部屋より、天井が低め≠ナす。(しかし、低め≠ニはいっても、2メートル以上≠ヘゆうにあり、手を一杯に伸ばしても、届かない高さはあります。)

─〈2〉─
「茶の間」ですが、野村望東尼関係の「指定」についての説明には、この「写真」がたいてい、載せられていました。
     (「茶棚」は、撮影の際、除いたとのことでした。)
 手前の横線≠ヘ敷居です。ここに、「太鼓張り」の「襖」があります。
 右の、「掛け軸」の左の「障子」の部分は、明かり採り窓になっています。
 「左」の畳の端には、炉≠ェ作られています。

「外」から見ると、こうなっています。 なお、「格子戸」があり、閉めることもできます。 


 「左」の白壁は、「玄関」の「右端」です。



─〈3〉─
[客間の天井]
 我が家では、「客間」として使ってきた、「六畳」二間の内の南側の部屋(後述しますが、中塚町にあった時は東側≠ナあった可能性があります。)です。
「床の間」と、「天井の板の張り方」の関係が、福田氏によりますと、「民家には珍しいもの」だということです。





  「左」から
=茶室
→玄関の二畳間
↓南側の六畳間(手前)
→中の六畳間(ごく一部)


「茶室」の「短冊」は、野村望東尼の歌・「一期一会」の「色紙」は、安田天山氏に書いていただいたもの

陶片居」の額=小林雲道人氏に御願いして書いていただいたもの

 縄状=vに見える染め物=「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)=型絵染=vの芹沢C介氏の作品

 「望東尼の短冊」は、父=英男が「指定」されたことを記念して購入、他は、父が直接=A御願いして手にしたものです。















「道具二階」の関係でしょう、天井の高さ≠ェ違っています。
 「左」=「南側六畳の間」と「玄関」の上がり口「二畳の間」の、天井の高さの違い≠ナす。


─〈4〉─

 以下は、〈4〉=「北側」の「六畳間」の「写真」です。
 「右」=「道具二階」のある六畳の間の、「道具二階」のある部分とそうではない部分の天井の高さの差≠ナす。
 天井の低いところ≠ェ、ほぼ「道具二階」のある部分と考えてよいと思います。
 なお、「写真」のように、高さ≠フ違いを利用して、「階段」の反対側には、「戸棚」が設けられています。



この「階段」は、収めることが可能です・ 
 
 


収めた状態がこれですが、この「写真」でははっきりしませんが、板状の凹んだところに、金具の留めがあります・ 


この「階段」で、「道具二階」(いわゆる屋根裏≠利用したもの)に上がります。




─〈5〉─ 


「指定申請書」に旧宅地にあったときは道具二階(四畳半)の屋根ガラス窓から三田尻湾を一望の中に収め、軍艦を見送るには恰好の場所であったと古老が伝えている。とありますが、私達は、「道具二階」(屋根裏≠ナすから、当然、屋根の傾斜に沿った形で、天井の高さは違っています)のほぼ中央に、今のA4∴ハの大きさの「ガラス」が明かり採り≠ニしてあるのは知っていますが、「空」しか見えず、外の景色が見えるハズはなくて疑問に思っていました。
「調査」された福田氏の指摘で気がついたのですが、「右の写真」のように、「開き扉」があります。そこは、それこそ、雑多な物を入れるのに使用していたのですが、屋根を継ぎ足す以前なら、ここから三田尻湾を一望の中に収められた可能性はあります。(現在は、「協和発酵」の建物があって、とても海は見渡せませんが。)
 ここを潰した≠スめに、移築の際、屋根に明かり採り≠フガラスを嵌めたのではないでしょうか。第一、「ガラス」が、江戸時代に、どれほど普及していたかも、疑問ですので、「大正9年以後」の移転の際というのが実際ではなかったかと、思っています。
 もし海が見えたとすると、現在の家では、「西」向きですが、「中塚町」にあった時は、「南」ないし「南西」に向いていたということになります。(現在は、「西向き」で、「東」にトイレがありますが、「北」にトイレかあるのが一般的なので、その可能性は大きいと思います。)


















 「右の写真」でわかるように、移築の際、「借家」とするためでしょう、屋根が継ぎ足され、「二つの竈及び炊事場」・「土間・タタキ」が作られていたのです。
 つまり、この屋根を継ぎ足し部分がないと、ここから、外の景色が眺められたということです。
 ただ、この2枚の「写真」でわかるように、屋根裏≠ノ当たる部分を主体に設けられたこととて、外からは、「二階」部分があるようには見えません。


(現在、 「望東尼」ゆかり≠フ家として、訪ねてこられたり、「マスコミ」の「取材」に対応すべく、最低限≠フ「調度品」らしき≠烽フこそ、置いていますが、別の「ページ」で述べているように、住めない状況≠ノあります。(「桑山」からの山水が流れ込むようになって、二十年近い時が経過していますし、特に、今年=平成21年7月防府を襲った豪雨の際は、さいわいにも「床浸水」はしませんでしたが、「床の水」が引くには、かなりの日数がかかりました。)
できるだけ、長持ちするように≠ニ「管理」に努め、できるだけ、日中は居るようにはしていますが、見学していただくためには、畳を拭くなどの準備をしないと、足の裏が黒くなってしまいます。
(平成18年2月に亡くなった母は、愛着があり、この家に住み続けましたが、近くに住む2人の娘と私の妻が、週に一度は、掃除に行っても対応しきれず、畳の部屋に「ベッド」を置いていたのみならず、「梅雨時」は、畳なのにスリッパを履いていました。)
従って、「見学」を希望される場合は、ここをクリック≠ウれれば、「メール」送信ができます ので、前もって、「連絡」され、私どもの「了承」を得られてから、訪ねていただきますよう、御願いいたします。)




 

(その4)


「天 満 宮」









「左」の「写真」は、『日本寫真帖』(247頁)にある、「松崎神社」(佐波郡防府町)の「写真」です。
 この「本」は、明治45年1月1日 ともゑ商会発行という、今日のA4にほぼ匹敵する、(336頁)にわたるもので、
田山宗尭という方が、本帖は我帝国の首都たる東京に始まり府県順に依りて本州を先にし次に台湾北海道樺太朝鮮の順序とし末尾に満洲を加へたるものとす
と記されているものです。
 望東尼が参詣した当時の「天満宮」は、この「写真」のものだったと思われます。
なお、「右」の「写真」は、当然、現在の「防府天満宮」です。

「防府天満宮」は、菅原道真公が亡くなった翌年の、延喜2(904)年にできた
日本で、最初の=u天満宮」で、
京都の「北野天満宮」、福岡の「太宰府天満宮」と並び、「日本三天神」といわれていますが、
かつて(ツマリ、望東尼が参詣した頃)は「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたようです。
明治6(1873)年に近代社格制度のもとで「県社」に列格し、「松崎神社」と称しました(従って、この『日本寫真帖』には「松崎神社」とあるワケです)が、
戦後の昭和28(1953)年に、「防府天満宮」と改称しています。 

  (「防府天満宮」の村松大樹氏による)






 「防府天満宮」野村望東尼の「碑」・「像」です。





















 ↑ 「右」の「碑」には、望東献歌
もののふのあたに勝坂越えつつも祈るねきことうけさせたまへ
と、刻まれており、かつ、「説明板」には、
 望東尼献歌碑
 勤王の歌人 野村望東尼は慶応三年秋 倒幕軍の当地船出にあたりその戦勝祈願のため防府天満宮に七日まいりして毎日和歌一首を手向けられた。
 碑の歌は、その初日の献歌である。
 又この碑の石材は全部玄界灘の姫島から運ばれたものである。
防府市野村望東尼会
とあります。



「防府天満宮」及び「望東尼像」を大きく′ゥるための「ブログ」

(「Yahoo!」の「ブログ」です。「写真」が綺麗ですし、「写真」にマウスをあててクリック≠キれば、拡大≠ナきるという「利点」があります。)


「次」の「下線部」をクリック≠オてください。
この「ページ」にある「写真」を含め、「11枚」の「写真」を取り入れ、「防府天満宮」、「望東尼像」が大きく′ゥえるように設定してあります。

◆ 「防府天満宮」と「望東尼像」←(「写真 11枚」〈うち、1/2/3/5/7/10が「拡大」〉)





(その5)


荒瀬家の「菩提寺」=「正福寺」




この「正福寺」「荒瀬家」の位牌堂に、望東尼の位牌=「始本院向陵望東大姉」があります。
(「大楽寺」=「始本院向陵望東禅尼」・「福岡」の「明光寺」=「向陵院招月望東禅尼」にも「位牌」があります。)

なお、望東尼の「葬儀」については、
春山育次郎 『野村望東尼傳』(440頁〜)には、
葬儀のことに携はる人手は、有り余る程ありて費用は総べて毛利家より支給せられしかば、万端の準備は速に整ひ、翌七日の晩景、桑ノ山の南麓〈ママ〉曹洞宗の正福寺といふ禅刹に於て、鄭重なる葬儀を行ひ、住持の老僧雲厳雲洞和尚自ら導師となり、始本院向陵望東大姉の法号を授け、衆僧を率ひて儀を修し・・・
と記されています。

なお、ここに桑ノ山の南麓とあること、及び住持の老僧雲厳雲洞和尚自ら導師となりとあることから、谷川氏は、「正福寺」の住職が退隠して入る「大師堂」のでの葬儀の可能性を述べておられますし、『三田尻 二号』(「華浦の歴史を学ぶ会」会誌 平成15年10月)において、「正福寺」の住職藤津宗久氏が、大師堂内には正福寺十四世雪巌雲洞和尚の宝・鏡印塔が有り、当時壇越(檀家)荒瀬百合子は野村望東尼の葬儀を雲洞和尚に頼んだ。と記しておられます。

しかしながら、は、この「正福寺」葬儀が行われたと思っています。
@ 「大師堂」は、「退隠」しての「寺」ということで、簡素≠ネ「寺」であり、規模からしても、到底、費用は総べて毛利家より支給されてという、多く人々が会葬した場所という「記述」とあわないように思われます。
A それに、「正福寺」の檀家である「荒瀬家」が、近く≠ノある外観≠燉ァ派な「正福寺」でなくかなり@」れている「大師堂」を会場にするのは疑問があります。
B 「正福寺」の位置は、「荒瀬家」に近いダケでなく、費用は総べて毛利家より支給としたら、「毛利家」の「別邸」=「英雲荘」(当時≠ヘ「お茶屋」)に、「毛利家」関係者は、集っていると思われますので、すぐ近くにある立派な「正福寺」前の道を通り越して外観的≠ノは見劣りし、狭い「大師堂」に向かったとは、常識的≠ノは考えられないと思うからです。
ただ、15世の東巌仙峰和尚が「正福寺」の住職であったとのことですので、雲厳雲洞和尚「副導師」であったのを、この「証言」を春山氏にした人物が勘違い≠オたか、「退隠」して間もないこととて、雲厳雲洞和尚が「導師」(=法会などのとき、衆僧の首座として儀式を執り行う僧)を務められたのでしょう。
(「葬儀」の場合、複数の僧≠ェ「経」を読むのは珍しいことではありません。
私の父=英男の場合も、3人≠ィられました。
その「僧」のうち、「菩提寺」の僧が「導師」を務めるのが一般的≠ナす。)

望東尼の位牌が、この「正福寺」の「荒瀬家の位牌堂」にあることからしても、私は、「葬儀」は「正福寺」でなされたと思っています。






(その6)


野村望東尼の終焉の地=旧「荒瀬家」のあった場所



「望東尼終焉の宅跡」入口です。「右側」、「美容室」の次がそうです。
この「道」は、「左下」にある「道標」でいう かみがた 方面ですが、「英雲荘」は、すぐ近くにあります。
手前の横の「道」は、「写真」のように、
左 しものせき
   宮市天満宮 
と彫ってあります。(「右」がないのは、が見えていたからでしょう。ただ、今日は、まもなく、「協和発酵」があり、「海」は見えません。
また、宮市天満宮 は、宮市方面・天満宮方面なのか、宮市天満宮という「呼称」なのか、多少≠フ疑問があります。 )
なお「道標」の、旧「荒瀬家」の反対側には、
右 かみがた 左 なかのせき 道 という文字が彫ってあります。

旧「荒瀬家」から「天満宮」までの道[私の車の「距離計」での計測分(=2.2q強)車の入れない参道(=石畳・石段→本殿)の距離]を、実際≠ノ歩いてみられた
O 谷川佳枝子氏(望東尼の「研究家」)には、35&ェ
O 野方春人氏には、28&ェかかったと、直接、聞いています。

まだまだ若い≠ィ二人と違い、望東尼の場合は、当時≠ニしては高齢で、かつ、食事ほとんど℃謔チていなかったハズです(楫取素彦[絶粒週日]「墓碑文」に記しています)ので、をついておられた可能性もあり、一時間近くはかかったのではないかと思われます。



















 ↑ 「左の写真」
「左側」が荒瀬家の「主家」のあったところで、「現 所有者」の立派なお宅が建てられており、当然のように「庭」もあります。その「庭」の部分が一部、見えています。
その「南西」は、荒瀬家の「離れ」があったということで、「空き地」(但し、道路側には、建物があります)にされており、「庭石」で、「邸宅」として、不自然にならないように工夫してあるのですが、その「庭石」の左にある細長い石柱に「史跡 野村望東尼終焉の旧地」と彫り込まれ、その「右」に、「県指定 史跡 野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓」という形で、「指定」されている三件を一括した「解説」が記されています。(下段参照)


 「右の写真」↑
 「右側」は、道路に面した「門」と、その横にある「石碑」です。
 この「石碑」には、毛利家の当主=毛利元敬氏による、「望東尼終焉の地」の文字が刻まれています。
 なお、この「碑」の横には、防府市野村望東尼会  石材寄贈 志摩町望東会≠ニ刻まれています。
 「荒瀬家」の敷地が、今、住んでおられる方の「敷地」と同じ広さかどうかは、わかりませんが、「指定申請書」には、面積三四五坪六号七勺の南北に長方形の敷地で、宅地の中央より北に主屋があり、終焉の家がある「離れ」〈ママ〉のあった場所は南西隅である。史跡指定申請の予定地は南北九間東西六間坪数五十四坪の長方形の地である。とありますから、かなり、広い敷地であったことは間違いないと思います。



 「説明板の解説」

 県指定 史跡
野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓
昭和四一年六月一○日 指定
終焉の宅  防府市岡村町五の三
宅跡 三田尻本町一○の二
墓  桑山一丁目四

 野村望東尼は一八○六年(文化三)九月六日、福岡県の黒田藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、その名を「もと」と称しました。二四才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、夫婦共に和歌を嗜み、五四才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。
 一八六一年(文久元)京都に上った望東尼は、尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。一八六五年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。
 一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、 断食をして、和歌を手向け、倒幕軍の戦勝を祈願しました。しかし、老齢の身に七日間の断食は あまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。
 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。
     平成九年一月
山口県教育委員会
防府市教育委員会










(参考)

「防府市教委 文化財課」にある
史跡 野村望東尼終焉の室及び旧地並びに墓
名勝 毛利邸庭園              
    申請及び指定一件

という「書類綴り」の中に、ある
旧「荒瀬家本宅」
  
及び
「南八畳の間」
「昭和29年」当時の「写真」です。
(「右頁」は、「墓」の写真です。)

「上の左」の「写真」の「左」に建っていたと思われます

望東尼の「最期」は、この「南八畳の間」であったハズだというのが、私の結論的「見解」です。




(その7)


「萩往還」の道のこと


望東尼は、当然≠フように、「萩往還」と呼ばれる「道」を通って「三田尻」にやってきました。
その「萩往還」なるものは、
江戸時代に参勤交代道として整備された街道で、日本海に面した萩城下町(唐樋札場/萩市)から瀬戸内海の海港・三田尻(三田尻御茶屋/防府市)までを結ぶ、全長約53kmの街道です。
参勤交代道として使用されたのは無論のこと、山陽道への連絡道としての機能、日本海側の萩と瀬戸内側の商港であった中関港とを結ぶ役割もありました。

その「萩往還」は、「史跡指定」されており、随所に「写真」のような「案内」がされています。












(「案内板」の「解説」) 歴史の道 萩往還 総延長 約五十三メートル

萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と三田尻の御船倉を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。

ここは佐波川の渡しの一つ、大渡と言います。
昔あった一里塚の塚木には東側に「従三田尻舟場壱里」西側に「従萩唐樋札場十一里」とありました。

享保九年(一七二四年)に木橋が架けられましたが、洪水のたびに流出したため、寛保二年(一七四二年)六艘の船を並べて板を渡した総延長約三十八メートルの「舟橋」が作られました。
舟橋は昭和十六年八月まで約二百年間存続しました
が、その後、昭和二十六年七月の台風で流されるまで木橋が架けられ、昭和二十九年にコンクリートの橋になりました。
現在の本橋は、通行量の増加により昭和六十三年に掛け替えられたものです。


「右側」の「写真」は、「案内板」の「舟橋」の「写真」箇所のみです。
野方春人氏が「防府」に取材に来られて撮影されたものです。
この「写真」ですと、自転車で渡っているところがわかると思います。




「案内板」の「舟橋」は、自転車で渡っているところが写されていて、おもしろい≠フですが、時の経過もあって、私の撮った「写真」では、はっきりしませんでした。
そこで、「防府市教委文化財課」に御願いして、「写真」をお借りして、「上」の「写真」を示しました。
この「写真」には、歩いている人物が写っています。

野方氏の撮られた「写真」と一緒にすると、よく状況がわかると思います。







◎ (参考) 谷川佳枝子氏の 長州藩主からの見舞い  (『野村望東尼』 316頁)

病臥中、逗留先の荒瀬家をはじめ長州の多くの人々の厚情によって望東尼は支えられていた。
長州藩政府からは役人と看護人二人が派遣され、藩主毛利敬親からは反物と菓子の見舞品を賜り、毛利家の御殿医である竹田祐伯も三度往診にやって来た。
荒瀬家では家族・親族が皆親昵の世話をしてくれたし、諸隊の幹部たちからは見舞いの品々が次々と届き、近傍からも三人の医師がやって来て、昼夜を問わず交替しながら診てくれた。

望東尼はあまりの待遇に、「大名の病気の様と御噂これ有り候て、有難くがりて、涙を御流し御喜びにこれ有り候」(十一月七日付野村貞和宛藤四郎の手紙〔『全集』八三五頁〕)と感涙にむせんだ。

長州藩で望東尼が藩主以下からこのような厚遇を受けることができたのはどういうわけであろうか。

まず第一に考えられるのは、以前から長州藩主や志士たちの間では、望東尼が「赤心」の歌を詠む勤王の歌人として称賛されていたということである。
三年前の元治元年(一八六四)五月二十三日付で筑紫衛が望東尼に宛てて出した手紙(「金玉文藻帖」)があり、それには、長州藩士の赤根武人(一八三八─六六。第三代奇兵隊総督)と佐久間佐兵衛(一八三三─六四)から聞いた話として、長州藩主が望東尼の短冊を見てその「赤心」の言葉に感心し、同藩の志士たちも「ひとかたならぬ賞歎」をしているということが記されている。
筑紫衛はこのことによって「筑紫の国」(福岡藩)も少しは面目が立つであろうと喜んだ。

第二に考えられるのは、長州藩内で絶大な実力と人気を誇っていた高杉晋作が生前から、望東尼が勤王活動で重要な役割を果たし、自分にとっては命の恩人でもあるということを藩政府の幹部たちに語っていたであろうということである。
そういう認識と評価が藩内に広まっていたからこそ、高杉亡き後も多くの人々が引き続き大事にしてくれたのではないか。

さらに第三には、福岡藩の月形洗蔵らが第一次長州征討に際し長州周旋で大いに汗をかいたことが幸いしたかもしれないということである。
長州藩が窮地に陥っていた時、福岡藩が藩を挙げて長州藩のために尽力したことは既に述べたとおりである。
その先頭に立って活動していた月形らを陰から支えていたのが望東尼である。
かの西郷吉之助ですら月形の口を通じて望東尼のことを詳しく聞き及んでいたぐらいであるから、長州藩の人々がこれらの志士たちから望東尼の存在を知らされていたとしても、決して怪しむには足りないものと思われる。

いずれにしても、長州藩主以下による心のこもった厚遇は、単なる親切心や同情によるものではなかった。
かつて窮地に陥り苦しんでいた長州藩と高杉ら長州藩士たちは、望東尼によった直接・間接に助けられていたので、そのことに対する感謝の念、報恩の念によるものであったと推察されるのである。



























最近=A「アクセス数」が目立って¢揩ヲていますが、
@ [Yahoo]の「検索」で野村望東尼≠ニ入力すると、「上」に、
  防府市 野村望東尼 ・野村望東尼 谷川  ・ 校歌 野村望東尼・ 野村望東尼 動画
というグループ$ン定がしてあり、、
防府市 野村望東尼≠クリック≠キると、初っぱな≠ノ「設定」していただいていること、
及び 
A [Google]の「検索」で野村望東尼≠ニ入力すると、(1頁目)に、「Wikipedia」谷川氏の[野村望東尼のページ]の「次」=3#ヤ目に、でてくるようにしていただいていることがわかりました。
(平成23年11月26日現在)

私の「野村望東尼のindex」も、[Yahoo]・[Google]共、(1頁目)に、早くから=u設定」していただいていることと、併せて、ありがたいことと思っています。
いつまで続くかわかりませんが、「野村望東尼研究」への「問題提起」理解していただくことを願っています


[アクセス数]= mini-counter