平成21年4月21日 公開 
平成30年1月14日更新


年を取っています(昭和20年9月25日生まれ)ので、「契約」が切れても、「ホームページ」なるものが存在する限り引き続き、見ていただくことができるように
無料で使用させていただける「Yahoo!ジオシティーズ」を 使用させていただいています。

この「Yahoo!ジオシティーズ」では、「手元」で、「アクセス状況」が、毎時間・毎日・毎週・毎月ごとに「確認」できるようになっていましたが、
そうした提供が終了となりましたので、
[平成26年6月9日午後15時30分]に、「Yahoo!ジオシティーズ」の「記録」をモトに、「カウンター」を設定しました




● 楫取素彦(かとりもとひこ) ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人 ─


 野村望東尼が、姫島から助け出されて、「山口県」にくることになり、高杉晋作が亡くなったあと、望東尼親身に世話をした人物、それが、楫取素彦(小田村素太郎)妻=寿子です。
(なお、望東尼の『防州日記』においては、九月十二日、山口にまだすみける時、小田村子の君がもとにて≠ニありますし、
山口県の誇る「歴史学者」三坂圭治氏は、[註]において、小田村素太郎(楫取素彦)の妻寿(ひさ)、吉田松陰の妹。とされていますが、ここでは、望東尼が久≠ニしていること、一般的に寿とするものが多いこととて、[寿・寿子・久子・希子]の中の寿子にしておきます。)


構 成
(「下線部」をクリック≠キると、該当箇所にジャンプ≠オます)

関係者生没年の一覧//楫取素彦の顕彰

楫取素彦
楫取素彦と吉田松陰//(その1)//(その2)//(その3)//松陰の死//「長州藩」における「時」の流れ
慶応3年//野村望東尼と楫取素彦・寿子夫妻//「倒幕」へ

「維新後」の「悲劇」//三田尻宰判管事//群馬県令//楫取素彦の「扇面の漢詩」//寿子の死//「寿子」について//「世界遺産」と素彦のこと

美和子との再婚//『涙袖帖』//「美和子」について//現在の「防府市」に屋敷を//望東尼の「墓」を中心になって

楫取素彦の「宴席」での「漢詩」//素彦、明治天皇の第十皇女=貞宮の御養育主任に//楫取素彦・楫取美和子貴重≠ネ「写真」

素彦の死//美和子の死

楫取素彦・美和子の「墓」//「大楽寺」//参考としての「リンク」一覧//「萩往還」からの粋//大河ドラマ「花燃ゆ」




◆ 生没年「一覧」 ─生年順─

野村望東尼=1806年10月17日(文化3年9月6日)〜1867年12月1日(慶応3年11月6日)

楫取 素彦=1829年4月18日(文政12年3月15日)年4月18日〜1912(大正元)年8月14日

吉田 松陰=1830年9月20日(文政13年8月4日)〜1859年11月21日(安政6年10月27日)

楫取寿子(松陰の二番目の妹で、楫取素彦の最初の妻)
            =1839(天保10)年〜1881(明治14)年1月30日

高杉 晋作=1839年9月27日(天保10年8月20日)〜1867年5月17日(慶応3年4月14日)

久坂 玄瑞=1840(天保11)年〜1864年8月20日(元治元年7月19日)

文→美和子(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)      
            =1843(天保14)年〜1921(大正10)年9月7日





楫取素彦の「顕彰」のこと



楫取素彦は、藩主の毛利敬親公の側近として東奔西走、倒幕に向けた薩長同盟の舞台裏で活躍をした人なのですが、
明治新政府では、中央の官職につかず、群馬県令、元老院議官、貴族院議員、明治天皇皇女貞宮養育係など地道な活動だったため、伊藤博文山縣有朋など、中央政界で活躍した長州閥の政界人比べ、知る人は多くはないと思われます。
しかし、初代の「県令(知事に相当)」を勤めた「群馬県」では、楫取を慕う人は多いといわれ、「群馬県庁」北側の「高浜公園」(というより、「群馬県警察本部」の真後ろという方が適切です)には大きく、立派な「功徳碑」が建立されています。

以上のような「前置き」で、「平成21(2009)年」に、野村望東尼に深い関わりを持つ楫取素彦の「ホームページ」を立ち上げたのですが、
楫取素彦「没後百年」になる平成24(2012)年8月に、
「群馬県」において、『楫取素彦読本』なるものが、小中学生はもとより、一般の方々に広く読んで頂き、勇気と希望を生み出す一助になればとして吉田松陰との関係に重点をおいて「出版」され、「版」を重ねているようです。
「山口県」においても、『男爵 楫取素彦の生涯』なるものが「出版」されています。

さらには、「平成27(2015)年」「NHK」の「大河ドラマ」において、吉田松陰の妹で、久坂玄瑞の妻玄瑞の死後、楫取素彦の妻となった
「文」→「美和子」「ヒロイン」とする「花燃ゆ」が発表されました。

しかし、残念ながら、99&ナにして、「活字」が、大きく、「群馬」で出版されている『楫取素彦読本』のみならず、380&ナという『男爵 楫取素彦の生涯』においても、野村望東尼楫取素彦に関しては、ほとんど語られていません。 (わずかに、313&ナに5″sで、晋作の死後、望東尼楫取素彦により下関から山口の熊丸家へ移った£度です。)
この「ページ」を見ていただければ、楫取素彦・寿子人となりを語るのに、望東尼とのことを語るのは不可欠だと、わかっていただけるのではないかと、思っています。

「花燃ゆ」においては、是非とも、言及してほしいのですが、
残念ながら=A「NHK」の「番組」においても、流布している or 「肩書」のある人物の「説」が取りあげられることが無きにしもあらずで、
は、「NHK」に「意見」を述べたこともあります。(受付番号[#848038])

◆ NHK総合テレビ「その時歴史は動いた」のこと

      望東尼は「いらぬことをした」のか?・暴走尼(ボーソーニ)=H

平成18(2006)年3月28日、偶然、「その時歴史が動いた 第282回」=スペシャル もう一度聞きたい あの人の言葉という番組の最後の部分を見ました。
すると、高杉晋作の「面白きこともなき世」という歌が1位だと言っていました。
ただ、そこで、「徳川家」の関係者だとして知られている=u松平定知アナウンサー」のもと、ゲストの「漫画家=黒鉄ヒロシ」なる人物が、
「野村望東尼はよけいなことをした。」
「高杉は、おもしろくない世だけど、おれは勝手に面白く生きてきたといいたかったのだろう」
と、ほぼ、司馬遼太郎氏の
晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた、もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが
を踏まえた言い方をしているのですが、司馬氏の場合は、望東尼に対して、次に示すことをはじめ、随所に温かみ≠フある「記述」をしています


『世に棲む日々』の中の「望東尼」
「週刊朝日」の昭和44(1969)年2月14日号から昭和45(1970)年12月25日号まで連載


司馬遼太郎氏の『世に棲む日々』は、

松本村
長州の人間のことを書きたいと思う。
で始まる吉田松陰とその弟子、高杉晋作との物語です。
そして、この『世に棲む日々』なる「題名」は、問題≠フ高杉晋作と望東尼との掛け合いに因むとされています。
その中の、望東尼とのことを語った箇所を抜き出してみると、

海風

晋作は、北九州へ逃げた。
───こんどもどってくるときは、俗論党政府をひっくりかえすときだ。
と、かれの経済上の保護者である下関の豪商白石正一郎に言いのこして、下関海峡をわたった。晩秋の海風は寒く、夕映えが潮をきらきらと染めている。
舟は、櫓一挺の伝馬船であった。舟のなかでかれは詩を作った。かれは福岡へゆこうとしている。福岡藩をはじめ北九州の三大藩に説き、それを連合させ、その連合軍を借りて自国の長州へ攻め入り、俗論党政府をたおそうというのである。
───あるいはできるかもしれない。
と、かれにこの案の勝算を説いたのは、たまたま下関の白石正一郎方にきていた筑前福岡藩の志士 中村円太(註 ここをクリック≠キると楫取との係わりがわかります) らであった。諸藩を流浪している志士たちはつねにそういう夢想家たちであった。
(できるものか)
と、平素の晋作ならおもったし、一蹴したであろう。晋作という男ほど現実の巨大さを知っている男はなかったし、その把握力と分析力は、たれよりもすぐれていた。が、いまの晋作はたとえ夢想案であろうと、わらでもつかみたい思いであった。ともかく長州はかれには危険であった。北九州の諸藩の内懐ろへころがりこんで、体でもって情勢を診断してみたかった。
「奴となり僕となる。何ぞ辞せんや」
と、晋作は、作詩した。かれは町人の旅姿でいた。
かれは芝居の早変わりのように、たくみに変装した。名前も、
「谷梅之助」
と、変えていた。晋作は少年のころから寒中に一輪ずつほころびてゆく白梅をなによりも愛し、萩城下の自宅の老梅を主題に詩をつくったこともある。
かれは中村円太の紹介で博多の商家にとまり、九州工作にとりかかった。

 (略)

(晋作のこの博多の宿には、筑前福岡藩の月形洗蔵を初めとする志士たちが、何人も訪ねてきていた。しかし、「九州諸藩勤皇連合」などは、夢でしかないと思うしかない状況であった。)

 (略)

日が、過ぎてゆく。
高杉晋作の九州亡命三週間というのは、一見無意味な、失望の日々といえるかもしれなかった。かれも、そうおもった。が、結果からみれば、かれが参加した日本史にとってこれほど重大な期間はないかもしれない。
───長州は長州で立つ。
という、かれの有名な自立割拠論を骨髄の底から覚悟したのはこの期によるものであった。
この覚悟は、のちのかれの信じられないほどの壮大な行動を生むもとになった。

ただ、身の置き場所がない。
「天下にただ一ヵ所、あなたを匿ってくれるところがある」
と、中村円太がいったのは、肥前田代からの帰路である。
中村のいうところでは、福岡城外の平尾という地に小さな丘があり、その中腹に守長い背負った一個の別荘がある。
そこに女流歌人が住んでいる、という。
「風流な話だが、私にはだめだな」
晋作は、笑いだした。猫が鰹節を入れた袋戸棚に入るようなものだ、というのである。
「しかし少々お齢を召しておる」
と、岩ッ面の中村円太は、唇許に諧謔をふくんでいった。
美人ではあるが、いまは余香があるのみだ、と中村はいった 野村望東尼 のことである。
名をモトといった。福岡藩士浦野重右衛門の三女で、早くから才色の聞えがあったが、夫野村新三郎(福岡藩馬廻役)の影響で国学と歌道をまなび、さらには夫から勤王思想の影響をうけた。新三郎は世事をきらい、子供の成長とともに家をゆずって退隠し、城外の平尾に山荘をたて、夫婦でそこに棲んだ。やがて新三郎が死に、モトは髪をおろして尼になり、この山荘を庵としてすみ、婦人ながら憂国の歌をつくるうちにひろく知られるようになった。かつて安政ノ大獄で幕府の追捕をのがれて九州へきた僧月照をかくまったのをはじめとして、その種の行為が多く、
───筑前福岡にゆけば望東尼を訪ねよ。
と、諸藩の奔走家からいわれるようになった。晋作も、その名はきいていた。
かれは中村に連れられて平尾の地へゆき、その山荘に登ると、前に袖ノ浦が見え、西の空が夕映えであかあかと燃え、荒津山が群青を溶いたように美しかった。山荘は、藁ぶきであった。
野村望東尼は、このとき五十八歳である。晋作をみたとき、
(世の中にこういう若者がいたのか)
と、おどろいたという。

このとき中村円太が多くを喋って、そばの晋作は口中に水を含んでいるような表情で唇をひらいていない。しかしときどき唇をつぐんだまま微笑した。短い微笑だが、笑むと音が鳴るように望東尼にはおもわれた。
(これを天上の微笑というのだろうか)
と、望東尼はおもい、不覚なことに胸がはげしくときめくような思いがしたらしい。晋作のほうも、同様であった。望東尼は高名なわりには意外につつしみぶかい婦人で、そのくせ挙措が羽毛のように軽く、手の動きや身ごなしに、ひそやかな韻律がある。晋作は、なぜこの望東尼と同世代にうまれて来なかったかを悔いた。
晋作は、この平尾山荘に十日いたにすぎなかったが、望東尼とのつながりは生涯のものになった。のち、望東尼が、佐幕化した藩からうとまれ、唐津湾の湾口にうかぶ姫島という小島に流されたとき、晋作ははるばる下関から舟を漕ぎ出し、暗夜に乗じて島を襲い、望東尼をうばい出して長州にかくまった。
滞留七日目ぐらいに、望東尼が、あなたには好きなお女(ひと)がありますか、ときいた。
晋作は、いる、と答えた。無数におります、と笑わずにいった。どうも私は頭の足りぬ、文字すら読めぬ阿呆がすきで───というと、望東尼はおかしそうに笑い、
「あなたのように癇が走りすぎているお人には、そのようなお女はやすらぎになりましょう」 かえと、けろけろと言った。
このころ、月形洗蔵は晋作のために長州藩の藩情をさぐるべく下関に潜入していた。その月形から、飛脚がきた。
「俗論党政府は、幕府への詫びを入れるために、京都乱入の責任者である三人の家老(福原越後、国司信濃、益田右衛門介)に切腹を命じ、その首を幕府にさしだした」
と、いう。
幕府は、長州征伐の前線基地を広島に置いていた。広島でその首をうけとり、さらに長州藩に対し三ヵ条の要求を出した。
「藩主は城を出て寺院に入り、謹慎して罪を待つこと。長州藩が保護している五人の公卿の身柄を、九州に移すこと。山口城を取りこわすこと」
というものであり、幕府が言うに、これを容れねば進撃を開始するという。仲介に立った長州藩の分藩である岩国藩の藩主吉川監物(経幹)はやむなくこの要求を受諾した。
さらに俗論党政府は、長州藩の特殊軍隊である奇兵隊以下の「諸隊」を解散させようとしていた。諸隊のほうもすっかり気勢をうしない、かといって解散命令に従うわけにゆかず、支藩の長府藩主毛利左京亮をたよって長府に集まりつつあるという。諸隊もいまの様子では自滅せざるをえないであろう。
晋作が、単身帰国してクーデター戦を考えたのは、このときであった。
(どうせ滅びるのだ、諸隊も奮起するにちがいない)
と、晋作はおもった。その意味ではクーデターについての戦略的時機が煮つまったようであった。すくなくとも晋作はそう確信した。
望東尼は、かんで晋作の決意がわかったらしい。晋作が、
───帰国したい。
と言いだしたとき、すでに前夜、旅装束を縫いあげて調えてくれていた。町人衣装であった。大名縞のあわせに羽織と襦袢がそえられていた。
さらに短冊に歌をしるして、晋作に贈った。
「谷梅ぬしの故郷へ帰りたまひけるに、形見として夜もすがら旅衣縫ひて贈りける」
と、詞があって、      
まごころをつくしのきぬは国のため
  立ちかへるべきころも手にせよ
その翌日、晋作は平尾山荘を出発した。元治元年十一月二十一日のことであった。

同二十五日、この男はふたたび海風を衝いて下関海峡を渡り、かれにとってすでに敵地である長州に潜入した。

老 年
晋作の生涯は二十八年でおわる。師の松陰のそれよりも一年みじかい。
が、晋作は松陰の死後、八年ながく生きた。この八年の差が、二人の歴史の中における役割をべつべつなものにした。この八年のあいだ、時勢ははげしく転々し、幕府の勢威は大いにおとろえた。八年前、幕府の勢威は長州藩を戦慄させるに十分の力をもっていたことをおもうべきであろう。なにしろ松陰というほとんど無名にちかい書生を、一令のもとに萩からひきずりだして江戸伝馬町の獄舎に投じ、さらには虫でも潰すようにして刑殺するほどであったが、八年後の情勢のなかにあっては、その書生の門人である高杉晋作のために幕軍の牙営である小倉城が攻めおとされ、幕軍の副総督小笠原壱岐守長行が城を脱出して海上に逃げ去るという事態になった。晋作は、松陰より八年ながく生きることによって、そのことをなしとげた。

(略) 


三月半ば、
───晋作の病いが篤い。
ということを知った藩主は、この長州を亡国の危機から救った男を書生の身分のままで死なせたくないとおもい、重大な処置をとった、(ママ)高杉家は父の小忠太が当主であるため、まだ部屋住み身分の晋作にあらたに谷家を立てさせたのである。谷潜蔵というのは、晋作が用いた変名のひとつで、これに百石をあたえ、死ぬときには百石取りの当主として死なしめるという処置であった。
「百石なら、まだ飲めるな」
と、その報告をきいたとき、晋作は真顔で報告者にいった。
このつぶやきが半ば本気であった証拠に、この男はこれだけの重態のなかで、この翌日、
「いまから了良へゆく」
と、なじみの酒楼の名を口走って、病床から大刀を杖にして立ちあがったのである。おうのがとめてもきかず、意外に元気な声で、おうの、駕籠をよべ、と命じた。おうのは、馬鹿正直にその命令に従った。
「芸妓は五人、幇間を一人よんでおけ」
と言いつつ、駕籠に乗った。晋作にすれば生涯のおもい出に、最後のどんちゃん騒ぎをやってみたかった。が、駕籠が半丁も走らぬうちに、晋作は駕籠のなかで便をもらし、もはや遊べる体力が残っていないことを知り、駕籠をもどさせ、ふたたび病床についた。
その日から、容体は悪化した。
その報は四方につたわり、奇兵隊の本営にも伝わった。
隊内は大いに動揺し、
───開闢総督の命の身代わりらなりたい。
と、付近の社寺へ走り、祈願をたのむ者が二百人以上にのぼった。古来、一介の書生の身で、その生命の持続をこれほど多数の者から祈念された者はないであろう。
容体がわるくなってから、山県狂介と土佐の田中顕助がつきっきりで看病した。
「もはや萩へ知らすべきときではないか」
と、山県が判断し、他のひとびとと相談して、萩の高杉家へ急便を出した。父の小忠太が、まず来た。一日遅れて母親のお道と妻のお雅もきた。お雅は、まだ幼い東一をつれていた。
晋作は病気が病気であったために、意識はたしかであった。お雅には、
「お雅どの」
と、きちんと敬称をつけてよび、自分のために苦労をかけたことを詫びた。母親のお道は気丈にふるまっていたが、父親の小忠太のほうが、おろおろしていた。晋作の春夏秋冬にとって、この数日が、唯一の家庭的な日々であったといえる。
四月十四日未明、主治医の石井健伯が庭さきに田中顕助をよび、
「きょうはお大切になされい」
といって、辞去した。きょうおそらく生命が尽きるであろう、という意味である。
みな、燈火を寄せ、晋作の枕頭にあつまった。晋作はずっと昏睡状態にあったが、夜がまだ明けぬころ、不意に瞼をあげてあたりを見た。意識が濁っていないことが、たれの目にもわかった。晋作は、筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼が紙を晋作のそばにもってゆき、筆をもたせた。
晋作は辞世の歌を書くつもりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で、書きはじめた。
おもしろき こともなき世を
おもしろく
 とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。
晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた、もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないとおもい、
「すみなすものは 心なりけり」
と書き、晋作の顔の上にかざした。
望東尼の下の句は変に道歌めいて晋作の好みらしくはなかった。
しかし晋作はいま一度目をひらいて、
「・・・・・面白いのう」
と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。

ただその間、一度唇がうごき、みじかくつぶやいた声を聴いた者がある。
「─── 吉田へ」
ということばであった。
晋作の死後、この方角を示す言葉が、自分の眠るべき場所を示したかれの意志であるとして、尊重された。ただ、 
「─── 吉田へ」
というのは、どういう意味であろう。師の松陰のそばで眠りたいということなのか、それとも、晋作がつくって長州の運命を旋回させた奇兵隊の本営が、吉田という在所にある、その地名を晋作はさしたのか。
結局、地名説がとられた。
吉田郷は下関より東北へ六里、葬列は十六日の日没後、下関を出発した。すべて神式によった。参列者は三千人、それぞれ松明をかざし、星が動き、長州におけるあらゆる儀式のなかで空前の盛儀であった。
墓域たるべき清水山の山頂に棺が到着したのは、夜十時である。
まわりに大松明二本がたてられ、壙(はかあな)の深さは六勺、白木綿のハッピ姿の者が掘った。ここに棺がしずめられたのは、夜十一時であった。この間、風が物凄く、山頂の松のこずえが鳴りつづけた。これら葬儀いっさいの宰領を白石正一郎がとりおこなった。
墓碑はこれより後日、据えられた。墓石はごく小さく、碑の表に、単に、
「東行墓」 かえとある。それのみである。
はしめはその程度であった。明治後しばらく荒れていたが、明治四十四年五月、例の、
「動けば雷電の如く・・・・・・」
という高名な撰文をきざんだ碑がこの山にたてられた。
「・・・・・・発すれば風雨の如し。衆目駭然、あえて正視するなし。これわが東行高杉君にあらずや」
このきわめて凝縮された老年を送った人物の生涯は、さきに二十八年と書いたが、それを正確に計数すれば二十七年と八ヵ月でしかなかった。
              (世に棲む日々 おわり)



しかし、黒鉄氏の場合は、「望東尼は、よけいなことをしたという見方もできるのではないか」と言うのならともかく、僕は思う≠ニは言っているものの、「よけいなことをした」と言い切り、
それに続いて「荻野」という「小説家」が、「ボーソーニ」と言い、
そして、進行役の松平アナウンサーともども笑い≠ノよって、ほぼ結論づけて番組を終えているのです。
更に、「BS2」で、再放送までしているのです。
「高杉の言葉は、臨終間際で、あとを詠む気力がなかったのだろう。」
と、黒鉄氏は前≠ナは言ってはいますが、望東尼が臨終間際であったかどうかは、疑問のあるところですし、
荻野氏の望東尼=暴走尼≠ノ同調≠オているのですから、望東尼がでしゃばって=u下の句」を付けなければ、高杉は、もっと高杉らしい「下の句」を付けたハズだといっているに等しいと思います。

なお、私は疑問に思っていますが「福岡市文学賞受賞」小河芙希子氏によると、この歌は、すべて望東尼によるもので、
晋作とされるのは、勝者側の主要な人物たちを盛り立てる状況となるように改ざんされ活字化されたからであるということになっています。
(あぁ面白くない、逃げ出したい、とため息をつきつつ歌を並べ立てた
おのれの病のこと、野村家当主の手足の病気で勤めを満足に果たせないこと、世間の冷たい視線を浴びるすきはいくつも持ち合わせていた。
こうした中、望東尼は、
おもしろき事もなき世と思いしは 花見ぬひまの心なりけり
行きまどう心の闇にひとすじの 道をたどりて明るくなしてん
逃れむと強いて思うや世のなかを 逃れぬよりの心なりけり
といった歌を詠んでいる。
・・・・・・・
「面白きこともなき世」という、ここに取り上げられている二人の唱和は、上の句、下の句≠ニも、望東尼であったのに、
歴史の途上偽って、高杉が作成した詠歌などとして今日まで伝わり、現在では東行庵(下関市吉田町)に歌碑まで建立されている。
さらに、ことの真意を放置したまま、勝者の論理のみに固執したマスコミにより「つくられた高杉像」は拡声を続けている。
)

これに対する私の「見解」は、『野村望東尼』  (自費出版 予定稿) において、述べています。


ありがたいことに、現時点≠ノおいては、私のこの「ページ」は、
[Google][Yahoo]
楫取素彦=E楫取美和子=E楫取素彦・美和子%凵Xの「検索」の最初の「ページ」に出していただいており、
「NHK」の「大河ドラマ」の「発表」以後は、驚くほど≠フ「アクセス」をいただいていますので、
「NHK」の「大河ドラマ」の「関係者」の目にも触れるのではないかと、淡い♀待を抱いているのですが・・・・・。


「写真」は、「左」=楫取素彦の「功徳碑」、「中」=『楫取素彦読本』の「表紙」、「右」=『 〃 』の中の「十、 楫取素彦と吉田松陰との絆」の箇所。




← 
「功徳碑」は、「群馬県庁」の向かって右にある「群馬県警察本部」の建物の裏にあります。
警察官の方に、親切に、教えていただきました。







  楫取素彦   ─文政12(1829)年〜大正元(1912)年 ─



まず、呼び方が幾つもあるため、そのことから、いくつもの情報≠もとに、まとめておきましょう。

 松島伊之助小田村伊之助→文助→素太郎→楫取素彦となると思います(楫取素彦≠ヘ、慶応3年9月25日〜)が、
通称なるものとして、久米次郎、内蔵次郎という名も使ったようです。
また、希哲士毅耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂等です。
なお、便宜上、以下、楫取として、記すことにします。


1829(文政12)年3月15日、萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠次男松島久米次郎)として生まれました。
兄に松島剛蔵、弟に小倉健作がいます。
「小田村家」の養子となるのは1840(天保11)年、12歳の時で、その家は儒官大組(萩藩の中核をなす藩士階級)に所属した小田村吉平に請われ、小田村伊之助となります。

1844(弘化元)年明倫館に入り、近藤芳樹らに学び、1847(弘化4)年19歳で「司典助役兼助講」となります。

1850(嘉永3)年、22歳の時、「大番役」として江戸藩邸に勤め、安積艮斎佐藤一斎に教えを受けています。



楫取素彦と吉田松陰



(その1)=「松陰の義弟」

吉田松陰の激論を受け止め、互いに、敬愛しあっていたことから、縁あって、後年、望東尼になにかと心配りをした松陰の妹寿(子)と結婚します。(「結婚」は、寿子が15歳の時とのことですので、嘉永6(1853)年と思われます。
 なお、「義弟=vですが、年齢的には、楫取の方が一歳、年上です。)

安政2(1855)年、帰萩して、「明倫館舎長書記兼講師見習」となります。
翌3(1856)年2月相模出衛を命ぜられ、
同4(1857)年4月帰国、「明倫館都講役兼助講」となります。
(楫取は、萩以外の地に赴任し、さまざまの役職を担いますが、以後は、特記すべきもの以外は、略します)

「松下村塾」には、しばしば訪問し、間接の援助を与え塾生とも相知ることとなります。
松陰入獄中には、本の差し入れや文通等の便宜を図っています。



(その2)=松陰から「松下村塾」を託される

吉田松陰が、小田村素太郎=楫取素彦に、 「松下村塾」の将来を託して贈った書

松陰は、「投獄」後の、「松下村塾」楫取托したワケですが、楫取は、
「長州藩」の「重責」を担い、
「倒幕」の中心≠なした人物の一人ですので、
いつまで「松下村塾」に係わったかは
わかりませんが、この「書」も、次の「自賛肖像」への「自賛」を勧めたこと同様、
楫取松陰との強い絆を示すものといえましょう。


楫取能彦(よしひこ)氏所蔵。
「萩博物館」の「没後100年記念 楫取素彦と幕末・明治の群像」展にあったタメ、能彦氏にお願いし、提供していただきました。

◇ この「書」について

一般的≠ノは、寅次郎ですが、この寅二も、松陰のことです。
村君は、老練な長老的漁民を意味していたと推定≠ウれる語ですが、当時≠ヘ、小田$ゥですから、楫取をこう呼んだのかもしれません。
いずれにしても、素彦の手元にあることから、楫取素彦を指すとみて間違いないハズです。
さて、比較的、読みやすい文字ですが、これを「書き下し文」にしてみますと、次のようになります。

吾を送る十三名   訣別なんぞ多情なる
松塾當に隆起すべし   村君義盟を主
(つかさ)どる
  贈     村塾来送の諸君に
寅二


「蛇足」とは思いますが、
は、なんぞ、いつ、いずくんぞ、なに≠ェ「訓読み」として「辞典」にあります。
は、まさに・・・・べし≠ニ読む「再読文字」です。




この「書」は、松陰「野山獄」に入るに際し、「送別会?」に集まった「松下村塾」「塾生」を前に、
素彦盟主として、ますます、励むようにと、したためた「一文」と思われます。

なお、『吉田松陰全集』第九巻には、1859(安政6)年5月18日江戸に送られる直前「塾生」に、楫取尊び、従うよう、書き送った「手紙」が収録されています。

「左」は、「野山獄跡」を、「さして広くはない道」を隔てて「対面」した位置にある「岩倉獄跡」から「野山獄跡」を撮った「写真」です。
「岩倉獄跡」の「解説板」には、
正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組・禄高200石)は酒に酔って道を隔てた西隣の藩士野山六右衛門(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。
この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。
野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。
なお、現在の指定地は獄の一部分である。
幕末、吉田松陰海外渡航に失敗したのちに野山獄に、その従者金子重之助(重輔)岩倉獄に投ぜられた。
とあります。
また、「野山獄跡」の「解説板」も、同じ内容が記された後、
松陰はここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行っている。
野山獄はまた維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(革新派)・俗論派(保守派)双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所でもある。
つけ加えられています





(その3)=松陰「吉田松陰自賛肖像」への「自賛」の勧め


「左」の「写真」は、有名な「吉田松陰自賛肖像」を「表紙」にした『山口県文書館蔵 吉田松陰関係目録』「表紙」を撮ったもの(「掲載の許可」の手続き済み)ですが、
この松陰自賛を書き残すことになったのは士毅(=小田村伊之助=楫取素彦)の勧めによるものだと、「山口県文書館」山田 稔氏が、「山口県立図書館」における「人物で知る明治維新講座」において、語られました。
私は知りませんでしたので、山田氏に、その「根拠」を尋ね、『吉田松陰全集』「東行前日記」(とうこうぜんにっき==u東(=江戸)に行くことになる前の日記」の意)にあるとのことで、確認しました。
十六日 朝、肖像の自賛を作る。像は松洞の写す所、 之れに賛するは士毅の言に従ふなり。とありました。

これは、松陰の残した「資料」ですが、『楫取素彦と幕末・明治の群像』(萩博物館)を見ると、
「松陰に自賛の作成を求めた素彦の書信」なるものが載っています。
「杉家」「萩博物館」に寄贈したもののようです。
二つ折りした半紙をこよりで綴じたもので、全6頁≠ニのことで、安政6年(15856)5月15日とあります。


松陰楫取との深い結びつきは、このことからも確認できるということです。
(『山口県文書館蔵 吉田松陰関係目録』「表紙」が、凝ったもの=″Lげれば原寸大≠フ「自賛肖像」になっていることも、山田氏の「紹介」で知りました。)


◇ 「吉田松陰自賛肖像」について  
(「色文字」や、文字の太さは、私(河野)が勝手にしたことです。)

一般的≠ノは、「至誠而不動者、未之有也」とされている『孟子』を、「至誠不動兮自古未之有」=「至誠にして動かざるは、古より未だ之れ有らず」(「左の写真」の5行目)と「引用」(注 「後に示す手紙」ここをクリックでは、一般的≠ネ『孟子』になっています。)し、 かつ、松陰の尊敬する諸葛孔明、賈彪、貫高、魯仲連らを挙げながら、松陰の思いを述べた格調高いものですが、 「ネット」の「維新史回廊トピックス」なるものに、山田氏が「紹介」されたものがありますので、ここでは、その中の「大意」部分のみを「引用」しておきます。

(「賛文」大意)

私が尊敬する諸葛孔明賈彪はもうこの世におらず、範としていた貫高(かんこう)や魯仲連(ろちゅうれん)のような功績を残すこともできなかった。
こうした先賢の書を読み、国賊を滅ぼそうとしたが果たせなかった。
故郷の人は私を非難するが、私は、国のために命を投げ出す覚悟はできている。
誠意を尽くせば、心は通じると古くから言われているように、人は、是非とも高い志を立てるべきであり、(困難な状況でも)聖賢の志を私も敢えて追い求めたい。

(「跋文」大意)

安政6年5月、私は江戸に送られるが、二度と帰って来られないと思い、周りの人々に最期の別れを告げた。
人々は、松浦松洞に私の絵を描かせ、私に言葉を添えることを求めた。
私をよく知る松洞は、この絵に外見だけを写そうとしたのではない。
ましてや私が言葉を添えるのだから。
人々よ、この絵を末永く保管して欲しい。
もし私が処刑されても、この絵の中に私は生きているのだ。

(この中に、「像」を描いた松洞の名はありますが、を勧めた人物は、諸友(山田氏は、人々)としかなく、『日記』に拠って、楫取とわかるワケです。)




    時の流れ

1853(嘉永6)年

6月 ペリー、浦賀に来航

1854(安政元)年

1月 ペリー、再来航

1859(安政6)年

9月 「安政の大獄」始まる

10月 吉田松陰処刑



1859(安政6)年10月27日、松陰 斬刑に処される。享年30(満29歳没)。 



『男爵 楫取素彦の生涯』に、吉村洋輔氏による、
5月18日に、江戸へ檻送される直前の吉田松陰は、萩野山獄から、松下村塾の後事を小田村伊之助に托し≠スとする、
「手紙」の紹介・解説があります。(これにも 彝堂村君士毅 足下 とあります。)
この至誠の書と呼ばれるものが、松下村塾の後事を・・・托したと限定することには、私には、少しばかり「疑問」がありますが、
松陰この「手紙」においても、 孟子の「一文」を引きながら、誠の徳を尽くして動かし得ないものは、この世の中に、今までなかったことであるというこの一語を試す絶好の機会であると思う。吉村氏)と述べています。
ツマリ、幕府の役人を前に、命を賭して確かめる、と言っているのです。

この「手紙」そのもの≠フ「写真」が『楫取素彦と幕末・明治の群像』に収められていますが、 それには、「吉田松陰自賛肖像」異なり「至誠而不動者未之有也」と、一般的≠ネものが書かれています。

なお、吉田松陰が自身の処刑を察知して、獄中で、10月25日から26日にかけて書き上げ、沼崎吉五郎に托した「留魂録」について、簡単ですが、大山捨松(山川咲子)及び「毛利家」について
において、述べています。
松陰が、「松下村塾」の門弟のために著した「遺書」ともいうべきものです

至誠の書といい、「留魂録」といい、「死」を目前としながらも、まことに見事な松陰信念と言ってよいと思います。





「左」の「写真」は、松陰当初≠フ「位牌」ですが、永い年月を経ているタメ、松陰の「位牌」に、お参りをしたいという方々のタメに、新しく″られた「位牌」が「位牌堂」におかれ、当初≠フ「位牌」は、大事に「安置」され、毎日、お経があげられているとのことです。
「萩市浜崎」の「泉福寺」許可をいただいて、特別に、紹介させていただいています。
この当初≠フ「位牌」からも、「松陰二十一回猛士」とあるのがわかると思います。
「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、 および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解して、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられているといいます。
「右」の「写真」は、萩市の松陰誕生の地に隣接した地にある「「松陰二十一回猛士墓」です。(「松陰の墓」は、他にもあります。)



万延元年(1860)年

楫取「越氏塾」塾長相当として派遣される。
越氏塾沿革碑(華浦小学校内)

「右」が、楫取が撰文し、明治41年に建立された沿革碑です。
明治41年10月に、河野養哲の「越氏塾」の「系譜」をもつ華浦小学校が現在地に移転する経緯を述べています。

この「越氏塾」については、「華浦公民館」の館長の坪郷好夫氏(元「中学校長」)が、『華浦小学校の歴史』という「冊子」に纏められており、「華浦公民館」において、数に限りはありますが、無料で配布しておられます。

◇ 越氏塾のこと
・ 生前、養哲先生は「己の死後も塾の永続を」と遺言し、その思いは門下生に受け継がれ、私塾の名前を、先生の河野姓が越智氏であることから、越氏塾と呼ばれるようになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 養哲先生の門人である、山根華陽、小田村◇山、小倉鹿門は明倫館の学頭や都講として活躍した。
・ 明和4年(1767年) 越氏塾明倫館付属校となる。
・・・・・・・・・・・・・



要らぬことですが、「華浦小学校」母が勤務することになり、野村望東尼にゆかり≠フある「借家」と知らずに、入ったことが、私たちが望東尼に係わりをもつことになりました。
私たち兄弟は、この華浦小学校の卒業ですし、この「ページ」に名前を記している坪郷好夫氏や岩本邦男氏も「同窓」です。


1861(万延2/文久元)年 この年以後は、楫取は、専ら「藩主」=毛利敬親側近として、江戸・京都・防長の間を東奔西走しています。



    時の流れ

1864(文久6・元治元)年

7月 「禁門の変」(蛤御門の変)
   久坂玄瑞、鷹司邸内で自刃。享年25歳。
8月 幕府、第一次長州征討を始める
   「恭順」を主張する「俗論派
(高杉晋作の命名)」が「藩政」の実権を握る
   「長州藩」の危機を招いたとして「正義派
(高杉の命名)」を弾圧。
11月 高杉晋作野村望東尼の「平尾山荘」に匿われる
   12月 楫取素彦、「野山獄」に投獄される
   〃   高杉晋作、一か八かの「功山寺挙兵」に踏み切る
   〃   松島 剛蔵素彦
の兄)、処刑(斬首)される。享年40歳
「甲子殉難十一烈士」(きのえねじゅんなんじゅういちれっし)の一人
  「甲子殉難十一烈士」は、「俗論派」によって、萩の「野山獄」で処刑された長州藩士11人を総称した名称。)

1865(元治2・慶応元)年

2月 「正義派」が「藩政」の主導権を奪還
 〃 楫取素彦ら、「野山獄」を出獄
5月 楫取素彦太宰府に赴き、坂本龍馬と会し、「薩長連合」端緒となる。
11月 野村望東尼「姫島」の「獄舎」に「入獄」

1866(慶応2)年

9月 野村望東尼高杉晋作の手配により流刑地「姫島」の牢から救出される

1867(慶応3)年

4月 高杉晋作死去。29歳
 〃 楫取素彦野村望東尼を「山口」の自宅で、当面、世話(しばらくして、「熊丸家」へ移る)
9月 野村望東尼、「三田尻(現 防府)」へ
11月 野村望東尼、寄寓先の「荒瀬家」で死去。62歳
 〃 「倒幕」に向けて出陣。翌年1月、「鳥羽伏見の戦い」という「戊辰戦争」の緒戦が始まる




1864(文久4/元治元)年


 7月 久坂玄瑞 死去。

素彦俗論党が実権を握ったため、謹慎→「野山獄」に投獄される

12月 高杉晋作が、野村望東尼「平尾山荘」を辞し、一か八か長府「功山寺」で挙兵契機に、次々と戦いに勝利する。




1865(元治2/慶応元)年

2月15日 再び「正義派」が藩政を奪還する
楫取も、即日、「野山獄」出獄する。

楫取は、出獄後、太宰府に移されていた三条実美「五卿」のもとへ、塩間鉄造変名して赴き、そこで坂本龍馬と会い、龍馬木戸孝允に紹介する橋渡しをし、薩長同盟の端緒役となります。

長州再征の議が起こったため、宍戸備後助・赤川又太郎・杉梅太郎等と合議して、幕府の詰問に答えるための十三条の草案(「擬対問案」)を作成、正使=井原主計、副使=宍戸備後助とともに、広島に向かう
井原は山口へ帰り、宍戸が正使となって交渉、幕府は、毛利敬親父子の隠居、十万石削封を申し渡したのみならず、宍戸と楫取を拘留した。
しかし、この交渉は、まとまらず、宍戸、楫取の拘留のママ四境戦争開戦に至る。
6月25日、幕府は、宍戸・楫取は、放還します。
将軍家茂の死を契機に形勢の悪かった幕府軍は撤兵します。




1867(慶応3)年


 4月 高杉晋作死去。

9月25日 「藩命」により小田村素太郎から楫取素彦と改名
(推測ですが、「国・藩の楫を取る」という意味の、「参謀」にふさわしい「名前」であったということでしょう。)

11月6日  野村望東尼が亡くなる。



野村望東尼と楫取素彦・寿子夫妻のこと

〈ここで、楫取と望東尼との関わりを、まとめて記しておきます。〉



高杉1864(元治元)年、望東尼「平尾山荘」に身を潜めるのは、中村円太の仲介によるのですが、その前年の「1863(文久3)年」中村円太が、政変で、福岡藩の弾圧を受けるに至り、捕らえられていた「枡木屋牢」から脱獄し、「長州」へ出奔するに際して、楫取が力を貸しています。

谷川佳枝子 『野村望東尼──ひとすじの道をまもらば』 より

(脱獄した中村円太及びそれを幇助した弟恒次郎と小藤平蔵の三人という)一行は肥前国田代に逃れたが、
そこで偶然、長崎に赴く途中の長州藩士・小田村文助(小田村素太郎、のち楫取素彦)に出会って長崎行きを勧められ、それに従った。
一行が長崎に入ると、先に到着していた小田村の世話で同地の長崎藩邸にしばし匿われたのち、が手配した商船に乗って長州の地に渡った。

(177頁)


そして、元治元年(1864)年、京都の政変で敗れ、下関でも敗れた長州に今度は幕府の征長軍が迫る中、長州藩でも大きな政権交代が起こります。
「正義派」が失政を責められ失脚、代わりに幕府に対し恭順謝罪を唱える「俗論派」が台頭高杉の良き理解者である周布政之助も自決、井上聞多も刺客に襲撃され重傷を負うといった状況において、下関の白石邸で知り合った筑前脱藩浪人中村円太から高杉は、九州亡命を勧められたというわけです。


谷川佳枝子 『野村望東尼──ひとすじの道をまもらば』 より

十月二十九日、下関の豪商・白石正一郎宅にたどり着いた高杉は、そこで福岡藩の志士・中村円太(変名は野唯人)に会う。
両者は以前にもこの下関で会ったことがあった。
中村は、九州諸藩の尊王攘夷派勢力の拡大のためには、長州藩の同志たちとの連携が必要であると考えていた。
この当時、佐賀藩主・鍋島閑叟福岡藩主・黒田長溥幕府長州征伐に批判的であったので、は、高杉が九州入りして各地を遊説して回れば、両藩はじめ九州諸藩を味方に付け、その軍事的援助によって長州藩俗論派征長軍を打倒することができるのではないかと期待した。
そこで、白石宅に転がり込むようにしてやって来た高杉に、この時とばかりに九州入りを勧めたのである。
なお、中村自身も、長州藩政府の尊攘派に対する厳しい姿勢に、それ以上長州藩領内に留まることが難しくなっていた。
窮地に立たされていた高杉藁にもすがる思い中村の意見に従い、筑前に行くことを決意した。
十一月一日、高杉白石らと別れの盃を交わし、「七つ時」(午後四次頃)になって中村大庭伝七(白石の弟) とともに船に乗り込み、
下関を出発して筑前へ向かった。

(186頁〜)

但し、谷川氏によると、中村には、純粋≠ノ高杉を救わんがタメということではないようですし、
高杉は、「平尾山荘」を直接*レ指して潜伏したのではなく、肥前国田代平田大江に会ったものの、期待したような結果は得られず、
博多水車橋近くの画工・村田東圃宅に一時=A身を寄せたが、その後、月形洗蔵手配で「平尾山荘」に潜伏した
谷川氏は、記しておられます。


「写真」は、谷川氏からいただいた『野村望東尼』です。


11月高杉は、「平尾山荘」わずか¥\日余、潜伏するワケですが、この十日余は、「維新史」において、大きな「意味」を持ちます。
 (司馬遼太郎氏もそう書いておられます。ここをクリック≠オてください
このように、高杉と望東尼を結びつけたのは、いささか強引ではありますが、楫取だとも言えないことはないと思うのです。
だとすると、坂本龍馬と出会い、薩長同盟の端緒役を担ったことと併せると、楫取「維新史」においてなしたことは、極めて、大きなものがあるといってよいハズです。

高杉の死後の望東尼の世話を、

◎ 高杉同輩ないしは、部下ではなく、
「長州藩」の重臣≠フ一人であり、
◎ 「松下村塾」を訪問し、松陰を間接的に援助し、
塾生とも相知るというように、
いわば非常勤外部講師と言った位置とはいえ、晋作の広い∴モ味では「師」の一人であった


楫取素彦が、
寿子ともどもで、親身に世話をしたという事実は、 その「生涯」・人となりを語るには不可欠≠ネハズです。

高杉の、「長州藩」「倒幕」へと方向付けたことへの感謝という意味もあって、その協力者=望東尼に対して、亡くなった高杉代わりということでしょうが、それにしても、楫取及びその妻=寿子望東尼への篤い「配慮」が、私には不思議≠ナした。
しかし、『男爵 楫取素彦の生涯』における、小田村四郎氏、小山良昌氏の「一文」によって、納得ができたように思います。


◎ 晋作・望東尼に対する恩に報いる気持ちもあった可能性も・・・

母の話によれば・・・・・(元治元年12月19日野山獄に投獄され)既に斬首の日は決まってゐたが、
その直前に高杉晋作功山寺挙兵に続く太田絵堂の決戦で政府軍が敗れ、藩政府が正義党によって一新されたため、翌慶応元年二月十五日に出獄することを得た、
とのことである。
小田村四郎氏の母 治子の話として     (『楫取素彦の生涯』 43頁)


小山良昌氏は、『楫取素彦の生涯』の 敬親公の懐刀 男爵楫取素彦 の74頁〜75頁において、次のように記しておられます。

「野山獄・岩倉獄」の「略図」


萩藩が「破約攘夷」を藩是として以来、八月十八日の政変で京都を追われ元治元年七月の禁門の変では幕府軍に敗れ、「勤王」を旗印に掲げた正義派が進めた施策が破綻した結果、幕府により第一次の征長令が発せられた
降伏した萩藩内では幕府に恭順の意を表する椋梨藤太を首領とする俗論派が政権を掌握し、正義派に協力した三家老の首を幕府へ差出し、四参謀、七政務員を処刑した。
この七政務員の中には伊之助の実兄で、洋学の第一人者と云われた松島剛蔵も含まれていた。
この処刑では、藩の将来を嘱望された惜しまれる人材が多数含まれていたのである。
御内命を帯びて東奔西走した伊之助の身を心配された敬親公は伊之助に改名を勧められ、伊之助は以後「小田村素太郎」と称する事とした。
しかし、椋梨藤太を首領とする俗論派政権は、改名した素太郎を許してはくれなかった。 禁門の変以来の素太郎の行動が、正義派の志士と気脈を通じていたという疑義により、
先ず「親類預け」(座敷牢)の措置が執られ、
次いで十二月には、同志と共に野山獄に投獄されたのである。
素太郎の命は風前の灯火であった。
素太郎は死を覚悟し、妻 寿遺言状を書いている。
その末尾の文章には、
「賤しき胡乱の者の仲間に入り申さず、士の楯を崩さず、婦徳を失はざる様心得有ぬべし」
と結んでいる。
また、翌慶応元年(1865)の元旦には、野山獄中で次のように詠んでいる。
なき罪を 知る人あらば 我もまた 春の恵みに 逢はざらめやは 

素太郎野山獄に入獄中の元治元年(1864)12月、高杉晋作俗論党政権による三家老ら14名の処刑を聞き、大いに憤って長府功山寺で挙兵しし、馬関の新地会所を襲撃して俗論党政府への叛旗の烽火を上げた。
この高杉の挙兵を契機として、奇兵隊など諸隊の正義派軍俗論派政府軍が美祢郡太田絵堂で戦い、慶応元年(1865)二月十五日、正義派が勝利を納めて再び藩政を奪還した。
そして即日の十五日素太郎は許されて目出度く野山獄を出獄した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・


私も、「百万一心」等について、何度も話を伺ったことのある小山氏は、可能な限り、「資料」に当たられる方であることから、ここに書かれていることは、信頼できると思いますが、
それだけに、私に取って、残念な≠アとは、
「スペース」の制約があることは承知しながらも、せめて
野村望東尼の「平尾山荘」に身を潜めていたという修飾語
元治元年(1864)12月、高杉晋作は俗論党政権による三家老ら14名の処刑を聞き、大いに憤って長府功山寺で挙兵し・・・・
において、高杉晋作の前に付けてほしかったと思います。

次に、谷川氏の『野村望東尼──ひとすじの道をまもらば』から、該当部を引用してみます。

そうこうしている(註 高杉「平尾山荘」に身を潜めつつ、遊説して、九州諸藩を味方に付け、その軍事的援助によって長州藩の俗論派を打倒するという「目的」うまくいかないでいた)間にも、俗論派の支配する長州藩幕府に対し謝罪恭順の姿勢を示すため、禁門の変の責任を問い、十一月十一日から十二日にかけて 福原越後国司信濃益田右衛門の三家老を自刃させるとともに、野山獄で四参謀を斬刑に処した。
そして同月十八日には、広島の征長総督に三家老の首級を差し出した。
この事態に、高杉晋作はもはや福岡で潜伏している場合ではないと考え、危険を顧みず長州へ帰ることを決意する。
高杉の心の中には、もうこれ以上他藩をあてにすることはできない長州のことは長州人でやるという思いが渦巻いていたようで、長州に帰藩したのちのは、息つく暇もなくその天才的な閃きで歴史に名を刻む獅子奮迅の活躍を繰り広げることになる。
・・・・・・・・・・

小田村氏の書かれているように、斬首の日は決まってゐたその直前に出獄することを得たとあるほど、劇的であったかどうかはともかく、
楫取素彦が[その時、死なずに済んだ→その後の活躍が可能になった]ことには、高杉及び望東尼が関係していることは間違いのない事実と、私は思います。


いずれにせよ、楫取素彦を語るのに、望東尼とのことを、落とすのは、私には、納得できません。

その幾つかを挙げてみますと、
高杉の死後、望東尼の「山口」滞留時の世話、「熊丸市右衛門」宅の紹介、
望東尼が「三田尻(防府市)」に行くことになる「薩長連合」の情報を伝えたのも、楫取です。
父=英男の、「山口県教委社会教育課」当時≠フ同僚で、後、
「山口県文書館長」→「大学教授」兼清正徳氏は、
「楫取家」「熊丸家」は、近くであったと推定し、
法泉寺谷にかくまわれて、
或いは楫取素彦の家に、
或いは熊丸市右衛門の家にも居たものと思われる
と言われます。
なお、兼清氏には、私自身、何度もお目にかかっています。

「写真」は、左から小澤太郎知事、父、兼清氏、藤本菊二教育長と、僧侶の方です。
その「倒幕軍」の「長州藩」における参謀となった楫取は、その後も、情報望東尼に与えているのです。
当然楫取にとっては、命取り≠ニもなりかねないことですが、望東尼に対する「信頼」から、楫取は、望東尼への情報提供≠止めなかったのみならず、藩主=毛利敬親に進言し、侍医=竹田祐伯山口から来させています。
このように、高杉の死後、妻=寿子と共に、望東尼が亡くなるまでの間、特別の配慮をしたのが 楫取素彦・寿子夫妻なのです。

死期の迫った望東尼を、霜月朔日(西暦では、「11月26日」)という寒い時期に、
当然、徒歩ではなく、「駕籠」等を利用したとしても山口から遠き山坂こえて見舞い、
望東尼から露ばかり思ひおく事なかりけり ついのきわまで君を見しかば
と歌で感謝されている楫取氏細君(私は寿子と見ています。こここをクリックしてください。) であることからしても、その精神的なつながりは、浅くはなかったハズです。


私の信頼している「山口県立図書館」の「レファレンス・サービス」からの「回答」

●質問事項●
「慶応3年」のことについて
●回答●
当館所蔵の暦に関する資料を調査したところ、下記の回答資料1および2ともに次のようになっています。
@ 10月は30日まで、
A 11月6日は西暦では1867年12月1日
●回答資料●
1. 釣/洋一◆U2016◆著 『和洋暦換算事典』 新人物往来社 1992.9 p293 当館請求記号:R449.3/M 2
2. 井上 大介‖編 『日本暦綴 下巻』 辻通商 1995.07 p1866 当館請求記号:R449.3/M 5




◆ 野村望東尼 の 『防州日記』 より
     〈防州日記≠ヘ望東尼がつけた「タイトル」ではありません。なお、「引用」は、『防州日記』にある順≠ナす。〉

(薩長連合で「倒幕」に立ち上がるということで)俄にのぼらしめ給ふに、その中にてすぐれたるかたがたに、うまの餞すとて、 小田村大人に、
いつしかと吾が待ちわびしたづむらの声を雲井にあぐる時きぬ
み世のためいくさだちするもののふに心ばかりはおくれやはする

国貞大人に、
もののふのあかき心にもえあひて大内山も紅葉てるらし
山田大人いくさづかをしてゆかるるを、
月と日の雲きりはらひゆく秋の風に靡かぬ草も木もなし
御代の為いくさひきゆく物部に老が心もたぐへてぞやる

方野大人に、
散ることを心にてらす桜木の紅葉 花のはじめなりけり
かのかたがたに、わが故郷の事どもをたのみきこゆとて、
もみぢ葉の大内山にてりみちて心づくしもそめよとぞ思ふ
山田のうしにまもりをつかはすふくさにかいつくとて、
周防なる山田の穂波うち出でて御代のあくたをさらすとよ年

小田村楫取素彦であり、山田は、市之允=顕義です。
なお、『防州日記』においては、終わり近くに、1箇所楫取氏細君として、楫取という名があります。

さらに、三坂圭治氏によると、
国貞大人は、国貞直人で、楫取とともに「倒幕軍総督毛利内匠(藤内)参謀」として東上。
山田大人は、山田市之允。諱は顕義、諸隊駈引役として東上。日記の「いくさづか」は「軍司」のの誤りであろう。
のち伯爵、明治二十五年十一月没、四十九歳。(≠クリック≠キると、私作成の「ホームページ」にアクセスします。)
方野大人は、片野十郎「奇兵隊参謀兼東上諸隊の僧参謀」として上京。
とあります。)



九月廿八日のよに、小田村ぬし、国貞ぬし山田ぬしなど我が旅のやどにわたり給ひける時に、
小田村のうしの家にて物せられし歌とて、
なには江のあしのかりねもこひならでよのうきふしとなりにけるかな
と、語りいでられし、返りごとの心にて
      (「天理大学図書館」所蔵『原本』とされるものを確認してみますと、 次との間に2.8p≠フ空白があります。)
同じ夜に、
嬉しさとわかれをしさをかたがたにしぐれてしぼる墨染の袖
いざといひてすすめもすべきいくさだち知らずやわかれ惜しむ涙は
東行大人(註 高杉晋作です)のかき給ひし書をかけものしたるを、小田村大人の見られて、
とてありし
肝腎楫取どのように≠ったのかが抜けていますが、『原本』とされるものを確認してみても、さしたる空白はなく、
上の返りごとの心にての後がぬけていることを含め、 私としては、他の幾つか≠フ疑問点もありますので、「天理大学図書館」にある「原本」なるものは、
野村望東尼『防州日記』最も£猿タな「写本」ではないか、つまり、この二箇所は、書き落とされたのではないかという思いがあります。
いささか°ュ引な「見解」かとは思いますが、いずれ「出版」する私の『野村望東尼』において、「問題提起」したいと思っています。)




望東尼の「像」については、この「写真」を使うべきだと考えます。
ユニーク≠ネ「望東尼」を語られる小河芙希子氏は、
「福岡中央高校」にある「油絵」の「像」
『野村望東尼』の「表紙」にされていますが、
相当にイメージ≠ェ異なっています
「望東尼の肖像」について述べた私の「ホームページ」を御覧頂き、どちらが=u適切」かを、検討していただけたらと思います。
なお、ほとんど「出版物」においては、この「写真」が載せられているハズです。
望東尼寄寓していた「荒瀬家」「離れ」「移築」され、私の両親(河野英男・ユリコ)が、縁あって購入しました。
「左上の写真」は、「玄関」です。
「右上の写真」は、野方春人氏に「防府市内」望東尼関係を案内、その時、私の「管理」している家も、何枚も撮られ、『野村望東尼と対馬藩士』に載せられているのですが、「いい角度」の「写真」であったこととて、その『野村望東尼と対馬藩士』に使用されなかった「写真」をいただきました。
「茶室」の外から、「茶室」「床」のある「六畳の間」が写っています。
この我が旅のやど「二室」で、楫取素彦山田顕義らと話し合っていたハズです、
なお、望東尼寝付く以前は、「六畳の間」で、寝起きしていたと考えています。

(困ったことに、著名「望東尼研究家」春山育次郎氏は、
「防府」の地を訪れて「確認」したとして、「平成」のはじめまで、「荒瀬家」は、存在しており、「市教委」に「写真」まであるのに、
著者の十余年前嘗て三田尻を往訪したる時、荒瀬の本宅は維新後の変遷を閲して已に全く無かりしかど
として、似てもにつかない=u家」特定しています。
春山氏の『野村望東尼傳』は、詳細な=u調査」に基づいた貴重な資・史料であることは言うまでもないことですが、少なくとも=u防府」関係については、幾つもの=u疑問点・問題点」があります。
しかるに、それを鵜呑みにして、「山口県」の権威者される連中は、悉く「山口県指定史跡」であるにも係わらず、その「春山説」「信用」・流布≠ウせています
そのため、私が「出版」せざるを得ないのです。

自分で言うのも僭越≠ナすが、現在≠フ 「野村望東尼研究」の第一人者≠ナあるお二人 には認めてもらっています。)


◆ 「連絡」について

Εメール

気づきや、「望東尼終焉の宅=vの「見学」申し込みについては、
「↑」のΕメール≠ニある箇所をクリックして「連絡」してください。
また、この「ページ」に関しては、今後も、随時、推敲、加筆していく予定
ですので、お気づきがあれば、ここから連絡を御願いします。




(緊急)困った=u終焉の宅」の「指定解除」という「報道」について

「毎日新聞」
県史跡「野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓」(防府市)については、家屋部分の指定を解除するよう答申した。
県教委によると、
@書物などの記録がなく、「終焉の宅」とする学術的根拠が1955年当時の証言のみで不十分
A 家屋が移築され史跡としての価値が低くなっている
「ネット」に公開されている「平成26年3月定例教育委員会会議の要旨」
において、
6 指定解除の理由 「終焉の宅」の指定は指定当時の伝聞によるものであり、・・・・・・・・・・・
といった、事実≠ノ反することが報道されました。

「住めない家」にさ.れており、かつ、「県指定」されていることを無視≠オた「情報」バカリ≠ナあることから、「見学者」は皆無≠ネのに、未来永劫=A「個人の責任」で維持・管理≠ケよということに対して、
「荒瀬家」全体≠「指定対象」にすればよいのに、「本宅(主家)」と「離れ」を別物≠ニし、「離れ」を「終焉の宅」としていることから、「終焉の宅」という「指定」の「解除」を求めた
ワケであり、望東尼が、病床に就く直前≠ワで「寄寓」していたことは、間違いないのです。
次をクリック≠オてみてください。
「NHK」の「大河ドラマ=花燃ゆ=vへの「期待」
流布≠オている「望東尼終焉の場」についての誤り≠一掃≠ナきるダケの影響力≠ヨの「期待」 と
「映像」として「終焉の宅」=「荒瀬家」の一部≠ナある「離れ」を「映像」として残すタメに


  「左」は、急遽、活字として示すべく、野村望東尼としてつけ加え、「出版」する「表紙」です。
  この「本」は、「研究者」には、後世に亘って、参考にされるハズと思っています。




九月十二日、山口にまだすみける時、小田村久子の君がもとにて、
世のうさをなげきあひぬる友がほになくね悲しききりぎりすかな


霜月朔日楫取氏細君へ、
わが為に遠き山坂こえてこそ心おもへば涙のみして
同二日、御同人山口へかへらるる 暇乞に参られし時、
露ばかり思ひおく事なかりけりついのきわまで君を見しかば


楫取寿子




旧知の「防府市観光協会」の岩本邦男氏に、「防府天満宮」楫取寿子の「写真」があるということを聞き、
「防府天満宮」を訪ね、越智宣彰氏が、以前、「防府天満宮」膨大な=u蔵書」の中から見つけられ、スキャナ≠ナ取り込まれた「写真」がそれであることを知りました。
越智氏は、何という「書籍」であったかを忘れ、暇を見つけて、調べ直しているが、まだ、見つかっていないとのことでした。
とても、親切な方で、この「写真」を「ホームページ」にアップすることの許可をいただきましたし、
「出典」を今後も捜し、わかれば連絡すると言っていただいています。
貴重な=u写真」ですので、見いだされたこと自体が、賞賛に値することですが、もし、「出典」がわかれば、
何歳頃の「写真」で、「どういう場」でのものかがわかると、今後、各種の「研究」に役立つと思います。
もし、わかったという「連絡」をいただいたら、ダブル≠ゥもしれませんが、私からも、「研究者」の方々に「連絡」するつもりです。
[平成26年4月27日(日)]








1867(慶応3)年は、全面対決となる「戊辰戦争」の前年であり、「翌1868(慶応4)年=明治元年」に至る激動≠フ時代─






『修訂 防長回天史』

九日薩摩翔鳳平運の二隻鹿児島より来り小田浦に投錨す
我軍二艦の監軍士官に各々酒一挺鶏五羽を贈り皆副するに蔬菜を以てす
又兵四百中関善正寺四百五十九人光永寺に入らしめ浴を設け宴を張て之れを饗す
此後一定の人員をして上陸せしめ接待饗応すること之れを屡々す


望東尼は、薩摩藩兵[9月25、6日]頃、「三田尻」に到着し、その上で薩長連合軍として倒幕に向かうということで、 三田尻に来ていたのですが、実際≠ノやってきたのは、[10月6日」でした。
「軍艦」は、小田浦に投錨すなのですが、
私には、なぜ、「向島」の「小田浦=vなのかが、疑問でしたが、これについては、「善正寺」の「住職」で、「山口県議会議長」12年間、務められた島田 明氏、「中学校長」をしておられた坪郷好夫氏から、
「中関港」は、今でこそ、「自動車会社=マツダ」の「車の積出港」となっているが、昔は「遠浅」で、大きな船が着けられるのはごく一部であったため、「対岸」の小田港沖投錨していたハズという「証言」を得ています。
なお、「大型船」が、「小田港」に接岸でなく、小田浦に投錨なのかは、現在でも、確認できます。
(島田氏は、「平成26年1月8日」にお亡くなりになりました。なお、後述しているように、坪郷氏は、「華浦公民館長」になっておられます。)

このとき、薩摩兵「食事・休息」・「入浴」の「場」となったのが、「光永寺」(「左写真」)と「善正寺」(「右写真」)でした。
残念ながら、「光永寺」は、現在は存在しません。
ただ、埋め立てられ、現在は、わずかに℃cっている「海」ですが、「左の写真」で、海の側にあったということが確認できると思います。

「善正寺」の方は、「海」からかなり@」れていますが、島田氏によると、「善正寺」も、かつては、すぐ側まで、「海」だったとのことでした。
「船」から、何回かに別れて順次、利用が可能だったのです。

「善正寺」は、立派な寺として、地域活動にも大きな役割を果たされていますが、「光永寺」は、残念ながら、「大正中頃」に「廃寺」となっており、「墓地」のみになっています。
この「光永寺」がどこにあったかについては、「派出所」「支所」等で、親切に対応していただいたものの、「中関本町」という「記録」こそあるものの、実際の場所はわからず、何度も、「中関本町」に出向き、通りかかられる方に尋ねていたのですが、「平成24年3月27日」に、幸運にも、出会った、川橋 勉氏に、教えていただくことができました。

なお、野方春人氏は、『野村望東尼防長紀行  明治維新胎動の地─ 馬関・山口・三田尻 ─ 』の175<yージに、「写真」入りで、掲載・説明してくださっています。  




★ 慶応3年(1867)11月25日 長州第一陣出発、鞠生松原に集合し、小烏神社(こがらすじんじゃ)戦勝祈願する。




「右」「小烏神社」で、「左」は「厳島神社」です。

野方春人氏は『野村望東尼の周辺』において、『三藩連合東上一件』楫取が係わっていることを、次に記しています。)を引きながら、詳しく解説しておられます。

六隻の船、千二百人。「八田烏神社」に参詣の後出発。
「八田烏神社」というのは神武天皇が東征(大和征服)の時、鉾の先に止まって勝利を導いたとされる神話の八田烏を祀ると伝えられていた小烏神社のことで、今は厳島神社境内(宮司は荒瀬氏)の中にあるが、幕末当時は現在の華浦小学校のグランド内に位置していたという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『三藩連合東上一件』からの「引用」
十一月廿五日
暁七ツ号砲三発にて諸兵鞠府に揃ひ内匠殿(註 毛利藤内=維新戦争長州軍総大将)軍令読知整列畢て順次八田烏神社に謁し神明に誓ひ夫より各隊問屋口並び近傍より通船にて諸艦乗組。
内匠殿並びに諸官員山田市之允片野十郎鞠府艦に乗組み、小田港へ廻し投碇。
夜九つ時祝砲各七発宛てにて諸艦一同出発致し候。
各艦乗組みは左の如し。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





◆ 『三藩聯合東上一件』楫取素彦とのこと

野方春人氏は、『修訂防長回天史』に目を通され、
『修訂 防長回天史』の記事は『三藩連合東上一件』という資料に基づくようである。
末松謙澄によれば、この文書は慶応三年九月から同年十二月までの記録であり、楫取素彦(毛利内匠の参謀)の手になるものという。
(『修訂 防長回天史』四百八十七頁)
別名を「指華入京日裁」ともいい、『西郷隆盛傳』(勝田孫弥著)などではこの名称で呼ばれている。
長州藩関係の基本的文献であり、信憑性も最高度に高いとされ、『修訂防長回天史』をはじめとして多くの原資料とされている第一級の史料である。
と記しておられます。(『野村望東尼の周辺』

ただ、野方氏は、『原本』ではなく、「東京大学史料編纂所」の「データペース」を元にしておられ、
私が「山口県文書館」で『原本』を確認したところ、
異なった、複数の人物によるとしか思えない「筆跡」ですので、
案ずるに此諸協定の事楫取素彦自筆の 三藩聯合東上一件一名指華入京日裁に見ゆ
 但し最後の一條なし=i『修訂防長回天史』第五編下九 の487頁8行目〜)
とある
楫取素彦自筆とあることには、疑問がありますが、
多少なりとも=A楫取素彦の手で「記録」として残されているとしたら、これまた、楫取を語るには欠かせないことと思います。
なお、野方氏には、『原本』のことは伝えてありますので、「福岡県糸島市」から何度も、来県調査されるのは、大変ですが、 どの程度楫取が係わっているかを、いずれ、検証されるのではないでしょうか。




1869(明治2)年 12月、楫取素彦は、人望あるがゆえに、脱隊兵鎮撫を命じられ鯖山峠に出向くが、結局、翌3年3月、討伐することになり、その責を負うて、退隠し、楫取の、中央≠ナの力量発揮の機会は、当面=Aなくなり、次の「三田尻宰判管事」から始まることになるのです。

「明治維新」後の「悲劇」について
「維新戦争」における「会津藩」の悲劇は、「大河ドラマ」=『八重のさくら』等で知られますが、 「勝者」にとっても、必ずしも、バラ色≠ナあったワケではありません。
ご承知と思いますが、「近代日本」を建国していくには、中央集権¢フ制が不可欠であり、武士階級の必要性が薄れ、士族は整理対象となり、
その「基準」も明確とは言えないタメ、「勝者」においても、「内乱」が勃発、悲劇を生んでいます

西郷隆盛「西南戦争」前原一誠による「萩の乱」は特に知られています。

「悲劇」は、吉田松陰の身内にも及んでいます。
「写真」は、「萩の乱」の「慰霊碑」ですが、この前原を中心とした「萩の乱」 には、松陰ゆかりの人達参加し、亡くなっています。
松陰の兄杉 民治長男=吉田小太郎(「吉田家」八代である松陰の後を継いでいました)は、敵中に斬り入り戦死しました。
19歳であったといいます。
松陰叔父であり、「松下村塾」を開いて、幼少期の松蔭を厳しく教育した玉木文之進も、養子の玉木正誼や門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で、前原が捕縛されると、先祖の墓前にて腹を切ったといいます。
享年67歳

あまり知られていませんが、三田尻(防府)においても、常備軍選にもれた旧藩士不満が爆発しています。
この騒動において、楫取は、人望のあったこととて鎮撫役に指名され、結果的に、幕府軍相手に、共に闘った同志を相手にせざるを得ない立場に陥ったのです。
そして、この騒動は、討伐で終わることになり、戦後の処分者も、多かったのです。
望東尼位牌のある「正福寺」住職同情して加わり処刑されています。
楫取温情%Iな考えは、取り入れられず、木戸孝允らの厳罰主義が取り入れられたといいます。

このことは、三坂圭治氏の『防府の今昔』に書かれています。

「維新」を成し遂げた仲間同志の「悲劇=vです。
「勝坂砲台」は、一時、脱隊兵に占拠され、藩正規軍との激戦地になった所で、現在、「跡地」には入れませんが、「解説板」があります。




1870(明治3)年3月 初代の三田尻宰判管事(今でいう「防府市長」)となります。

1872(明治5)年 足柄県参事として、小田原に赴任します。


熊谷県権令→「群馬県令」



1874(明治7)年 熊谷県権令となります。


1876(明治9)年 熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となります。
 楫取が、群馬県における、最初の「県令」(今でいう「群馬県知事」)で、1884(明治17)年まで、在任しています。
 楫取の在任中に、「群馬県庁」移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定され、高崎から楫取は反発を受けることもあったそうですが、今日、楫取は、教育と産業の振興に力を注ぎ、群馬県発展の礎を築いた功労者≠ニして、高い評価を受けており、立派な功徳碑が建てられています。
 その功徳碑には、
…… 県民の君を慕ふこと慈父母の如く、去るに臨み、老幼路を遮りて留まらんことを乞ふ。……≠ニいった言葉が刻まれています。

 明治政府は、この年、「学制」を発布したものの、校舎の建設費や授業料などはすべて住民の負担であったため、全国の就学率は、1875(明治8)年でも32%に過ぎず、教育はすぐには普及しなかった中、楫取の尽力で、群馬県内の就学率は著しく向上し「東の群馬、西の岡山」といわれる教育県になったといいます。
 楫取は、明治政府の方針に基づいて教育の振興に努めるものの、教育内容については、確固たる考えをもっていたといいます。
 つまり、洋風化の流れに従って教育が知識中心、個人主義的になることを憂え、徳育を大切にしたといいます。




「1876(明治9)年頃の
  楫取素彦の「書」


「群馬の古墳」について、
素彦が詠み、「扇面」に認めた「漢詩」です。


「所蔵」しておられる楫取能彦氏の撮られた「写真」を提供していただきました。




1881(明治14)年1月30日 妻=寿子病歿。享年 43歳。








寿子「墓」は、「東京青山墓地」にあります。
「左」が「楫取家」の「墓」で、
「右」の大きい墓が、寿子の個人墓です。
「表面」には従五位 楫取素彦 妻 杉氏 墓とあり、
「裏面」には、素彦が執筆した「墓誌」が刻されています。
その「墓誌」は、「群馬県前橋市の「清光寺」の「清光寺だより第13号」を元にして、
『男爵 楫取素彦の生涯』等に、紹介されています。



「楫取家」の方々の入っておられる「墓」について

楫取寿子「青山墓地」の墓の「右側」
楫取素彦「大楽寺」の墓の「右側」
楫取美和子「大楽寺」の墓の「左側」
楫取道明(素彦寿子の「次男」)=「萩市」の「東光寺」
その他の「楫取家」で亡くなられた方々=「青山墓地」の墓の「左側」の「楫取家之墓」

(楫取能彦氏にお聞きしたことです。)




「楫取寿子」について

困ったこと≠ノ、楫取寿子野村望東尼のことに触れたものは、ほとんど≠ネいといった状況にあります。
「ウィキペディア」には、楫取寿子がありませんし、
[Google]・[Yahoo]共、楫取寿子という「検索」で、この「ページ」が、最初≠フ「ページ」にでてきますので、
私の「調査・研究」を少し=A「紹介」してみます。


杉百合之助の次女。吉田松陰の妹。寿。(なお、寿子、久子、希子とも書いたものがあります。)
15歳の嘉永6(1853)年 小田村伊之助(のちの楫取素彦。なお、後に示すように、幾通りもの「名」がありますが、以後は、便宜的に、楫取素彦≠ニします。)と結婚しています。
文=美和子久坂玄瑞の結婚に、松陰が深く関わったのと異なり、松陰が関わったものではなかったが、松陰楫取とのは、以前にも増して深まったといいます。
松陰楫取をして、「正直で、気力・詩力・酒力は自分より上だ」と言っていたといいます。
結婚した翌年の安政元(1854)年日に長男篤太郎(小田村希家)安政5年に次男粂次郎(楫取道明)(「次」の「枠」参照)をもうけています。
時あたかも、幕末物騒の世の中で、勤王、佐幕の二党が鎬を削り、「萩藩」にもおのづから、そうした空気が漂い、素彦尊王党の一人として、常に東西に奔走し、幾度か身を危険にさらし、家にいることも少なかったのです。
元治元(1864)年、椋梨藤太らにより「野山獄」に投獄・入牢の身となったことでも寿子は、甲斐々々しくも風雪をおかし、深夜、牢獄を訪うて食物を運ぶ等のこともあったといいます。
処刑も覚悟していた慶応元(1865)年2月15日高杉晋作によって救出され、以後、「維新の大業」の功労者の一人となります。
慶応二年には、幕府が大挙して長州征伐に乗り出し、先ず、毛利敬親公を廣島に召喚したが、藩公は病気と称して、家老宍戸備後助正使に、その副使として楫取素彦が遣わされた。
幕府はこの二人を囚えて還さないため、一藩の騒動は一方ならぬものがあった。
こんな時にも、寿子は武門の常と覚悟して、少しも乱れることなく、難局を乗り越え、藩公から恩賞を賜ったとも伝えられています。

慶応2(1866)年9月姫島の「獄」にいた野村望東尼晋作の指示により、福岡脱藩志士=藤四郎、多田荘蔵らによって救出され、下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われながら、
翌年4月晋作最期を看取った望東尼楫取素彦が、晋作に代わって、 篤く、世話をしています。
当然のように、寿子も、望東尼に、篤く、接しています。
ここをクリック≠した「野村望東尼と楫取素彦・寿子夫妻のこと」と重複≠オますが、少しばかり、重ねて、記しておきます。

慶応3年9月25日「松崎天満宮」に、薩長連合軍の東征の成就を祈願かつ、見送るタメ、望東尼は、山口から三田尻(防府)へやって来て、寄寓先「荒瀬邸」で、11月6日に亡くなるのですが、
11月1日・2日に、寿子は、山口から、望東尼を見舞い、望東尼は、次のような『防州日記』に残しています。

霜月朔日楫取氏細君へ、
わが為に遠き山坂こえてこそ心おもへば涙のみして
同二日、御同人山口へかへらるる 暇乞に参られし時、
露ばかり思ひおく事なかりけりついのきわまで君を見しかば

本来、信仰心の篤い寿子ですから、獄に繋がれていた「体験」もあることとて、望東尼へのいたわりは、当然ともいえるのですが、
もともと、楫撮中村円太を助け、そのことで、高杉晋作望東尼「平尾山荘」に身をよせることになる遠因夫=素彦を作り、
それも大きな「理由」として、望東尼姫島に流されたこと、
さらには望東尼晋作を匿ったことが、 素彦の命を救い、「倒幕」という流れに繋がっていることも、当然、関係していると、私は思っています。

望東尼「獄中」における「歌」

牢獄は、畳もなく板敷きで茣蓙が敷かれているだけの四畳だったといいます。
望東尼は、六十歳の「冬」十ヶ月、この「獄舎」で過ごしたのです。

窓の戸のすきまにかけし故衣 まほに吹きいるる沖の潮風
冬の夜の嵐にも漕ぐ釣舟を 見れば囚の我ぞ安けき
もののふの重荷の罪を身一つに 負ひてかろくもなる命かな
うき雲のかかるもよしやもののふの 大和心のかずに入りなば


明治4(1871)年、夫とともに三隅村二条窪(現長門市)に隠棲し、小堂を建て村民向けに法話を開いています。
夫が群馬県令に就任すると、浄土真宗の布教を望み、「西本願寺」の仲介で山口県から僧侶を招き、県内各地の説教所開設に尽力しています。
            (このことは、同じ「浄土真宗」吉田松陰「菩提寺」=「泉福寺」福間光子氏に詳しく、お聞きしています。)

寿子には、こんな逸話も残っています。
まだ「官営富岡製糸場」のできる以前、前橋藩は明治3(1870)年、藩営製糸所を開設しており、その中心であった前橋藩士・速水堅曹の伝習生・星野長太郎は、明治7(1874)年、生家のある勢多郡水沼村(桐生市黒保根町)に「水沼製糸所」を開業したといいます。
長太郎県令楫取素彦の勧奨と援助で、生糸の直輸出を行おうと弟の新井領一郎アメリカに派遣する計画を立てたといいます。
つまり、生糸は、当時の日本の「輸出品」の主力でありながら、外国商人に買い叩かれ、薄利だったからです。
それが明治5(1872)年フランスの技術を導入して、官営模範工場として「官営富岡製糸場」ができ、「水沼製糸所」も明治32(1899)年まで、続き、特に、明治14(1881)年には従事者数は674人という隆盛ぶりだったといいます。
しかし、それには、明治9(1876)年領一郎が、実際に、渡米したことも貢献しています。
領一郎は、渡米前に、挨拶に「楫取邸」を訪れますが、その時、寿子は、兄 松陰形見としての短刀を渡したといいます。
そして、その時、寿子「この品には兄の魂が込められているのです。その魂は、兄の夢であった太平洋を越えることによってのみ、安らかに眠ることが出来るのです。」と言ったといいます。
(松陰は、安政元(1854)年伊豆下田港にて、再航したペリー艦隊に金子重之輔と二人で赴き、アメリカに行こうとして、拒否され、幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されたことは周知のことと思います。)
このことは、領一郎の孫にあたるというハル・松方・ライシャワー氏(元駐日大使夫人)の『絹と武士』に記されており、「山口県立図書館」にありますので、確認できます。

明治14年(1881)年、死去。享年43歳。
素彦は、寿子のタメに、立派な「墓」を作り、心のこもった「墓誌」を記しています。

なお、後に引用している「上毛新聞」にあるように、明治維新政府の最高官庁「太政官」は1880年11月全国の官営工場の払い下げ案を示し=A規模が大き過ぎる「官営富岡製糸場」については、民間資本の希望がなく、「請願人がいない場合は閉場」する方針が決まった。 ということが、病床にあった寿子の耳にも入りますが、寿子の亡くなった十ヶ月後に、素彦による「意見書」が出され、 政府は翌年には官営製糸場の継続を決め、1893年に三井家が所有するまで官営が続いた。のです。
おそらく、素彦「意見書」の提出をするという考えは、寿子に伝えられていたと、私は思っています。
兄 松陰のいわば=A「群馬」の、この「製糸事業」には込められているとも言えるのですから。




素彦寿子 の 次男 楫取道明 について

道明は、所謂芝山巌事件において、
1895年5月17日、下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日より日本による統治が始まると、
当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀
「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え
同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。
最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。
次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。
その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。
その伊沢の帰国中に事件は起こる。
1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、 日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが
彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。<^メ、
台湾教育に殉じ≠驍アとになった        (「ウィキペディア」より)
   ということで、「六氏先生」として敬われている人物の一人です。

「萩市」の、奇数代の「萩藩主」の「墓」のある「東光寺」に「墓」が作られていますが、 父の 素彦による「楫取道明遺骨碑」の「撰文」によると、
道明安政五年五月萩に生る≠ニいうことで素彦が建てたもののようですが、
(註 松若氏)から「道明さんが台湾で非業の死を遂げなければ、こんな立派な毛利家の菩提寺に弔われることはあり得なかったのだよ」と教えられた(『楫取素彦の生涯』30頁)
とあるように、敬われ、評価されているということです。
なお、道明は、一番年長ですが、まだ、38歳の若さでした。

「六氏」

楫取道明 (山口県、38歳)・ 関口長太郎 (愛知県、37歳)・ 中島長吉 (群馬県、25歳)
桂金太郎 (東京都、27歳)・ 井原順之助 (山口県、23歳)・ 平井数馬 (熊本県、17歳




「楫取家」・「小田村家」について

以前、楫取能彦氏にお尋ねし、

小田村家系図についてはおっしゃる通りです。
素彦長男 希家には子供がいなかったので、
道明二女 治子磯村家から養子に迎えた有芳(つねか)が結婚して小田村家を継いだということです。
なお、参考までに、道明の子供を記しておきます。
三郎(明治12、7、22生・昭和2、5、1没)
榛太郎(明治10、4、23生・明治11、6、19没久坂姓)
四郎(明治14、8、10生・明治15、10、23没)
刀美子(明治16、9、23生・昭和10、12、15没)
公弼(明治19、7、9生・昭和51、4、13没)
治子(明治21、12、26生・昭和62、1、31没)
倉之丞(明治26、11、16生・昭和53、2、11没)


と、当時≠フ「医学」においては、夭折される方も避けられなかったと思われますが、その方々についても、記してくださっています。
ただ、この「回答」をいただいた後、『男爵 楫取素彦の生涯』において、小田村四郎氏がより詳しく¥曹「ておられることに気づきました。
そのタメ、楫取能彦氏には、ご面倒をおかけし、申し訳ないことながら、より詳しい&がよかろうと思い、重なります≠ェ、小田村氏の書かれているものを引用しておきます。

素彦には二子(篤太郎粂次郎)があり、 粂次郎久坂玄瑞養子となってゐたが、明治に入って 玄瑞遺児が京都にゐたことが判明したので、
これに久坂家を継がせ、粂次郎楫取家復籍させて 道明とした。
しかし小田村姓が消滅してしまふことのなきやう、 楫取家嗣子道明とし(明治十三年)、長男 希家(篤太郎)小田村家を継がせることとした(同十二年)。
希家には子がなかったため、群馬県令時代県土木課長をしていた 磯村 應(山口県吉敷郡出身)の五男 有芳希家養子として迎へることとした。
入籍は明治二十年十二月である。
これが私の父であり、母 治子道明次女である。
従って楫取家小田村家同一の家であり家紋も同じ花菱である。


『男爵 楫取素彦の生涯』の38&ナより。 
    なお、「仮名遣い」は「原文」のママにしています。








「世界遺産」=「富岡製糸場」楫取素彦のこと



1881(明治14)年11月 明治維新政府の最高官庁「太政官」は、1880年11月、全国の官営工場の払い下げ案を示したが、「富岡製糸場」は規模が大き過ぎて民間資本の希望がなく「富岡製糸場」が、「請願人がいない場合は閉場」する方針が決まったことに伴い、楫取は、「政府がこれ(富岡製糸場)を廃滅すれば工業が日新の今日、各国に対してすこぶる恥。(中略)しばらく官設に」などと記した意見書を農商務省へ提出。
2014(平成26)年「世界遺産」として「登録」される
(「正式登録」は6月であるが、ほぼ間違いないとのこと)ことに繋がる







「富岡製糸場」「」世界遺産として登録された最大≠フ貢献は、 1987年に、海外製の安価な生糸に押され、製造ラインをストップしたあとも富岡市に寄贈するまでの18年間、「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げて維持管理に務めた=u片倉工業」のようです。
その維持・管理費は年間1億円以上の時もあったとのことです。

しかし、楫取素彦貢献も、忘れてはならないことだと思われます。

「左」は、「登録の日」のこととて、「観光バス」を利用して訪れた「入館見学券」をスキャナ≠ナ取り入れたものです。
26・6・21という領収印のある貴重≠ネものです。





◇ 官営製糸場の存続訴え 初代県令・楫取素彦に脚光

明治政府が開設した官営富岡製糸場が一時閉場の危機に陥った1881(明治14)年初代群馬県令(知事)楫取素彦が、官営製糸場の存続を強く国に訴えた資料があらためて注目されている
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世界遺産登録に向けた準備が進む中、楫取の功績の再評価につながりそうだ
富岡市教委が35年前に発行した「富岡製糸場誌」に、楫取の国への意見書が載っており出典は国立公文書館が所蔵する明治14年の公文録という。
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明治維新政府の最高官庁「太政官」は1880年11月、全国の官営工場の払い下げ案を示したが、富岡製糸場は規模が大き過ぎて民間資本の希望がなく、翌年には「請願人がいない場合は閉場」する方針が決まった。
このため、楫取は富岡製糸場が全国製糸工場の模範となったことや欧米にも名声が広まっていることを指摘し「政府がこれ(富岡製糸場)を廃滅すれば工業が日新の今日、各国に対してすこぶる恥。(中略)しばらく官設に」などと記した意見書を農商務省へ81年11月に提出。
政府は翌年には官営製糸場の継続を決め、1893年に三井家が所有するまで官営が続いた。
山口県出身の楫取は製糸場開設から4年後の1876年、第2次群馬県の初代県令に就任。
政府から養蚕県群馬の近代化を託され、生糸が最大の輸出品だった時代に、県令として8年間、養蚕、製糸業の発展と教育振興に力を注いだ。
県立歴史博物館の学芸員、手島仁さんは「時代背景や内容をさらに検討する必要があるが、製糸場存続における楫取の役割を示す貴重な資料」と話している。

「上毛新聞」(3月25日)より





「世界遺産」の「登録」の日=平成26年6月21日(土)のこと







「左」は、「群馬県庁」において、「登録決定」を待つ人々に配られた「うちわ」です。
二人で出掛けていますので、2枚、いただけましたので、「両面」を写しています。
(なお、「ホテル」で「朝日新聞」が配布されるタメ、「朝日新聞」の見出しダケでもと、背景として利用しています。)

富岡製糸場と絹産業遺産群 世界遺産登録へ
ユネスコ世界遺産委員会 パブリックビューイング会場


という「看板」
「大型テレビ」が設置された「会場」には、人があふれていました。
「写真」も撮っていますが、多くの方の顔が見え、了解も取りにくいこととて、省略します。

「右」は、「富岡製糸場」の入口付近にあった「掲示」です。

なお、次の「ホームページ」も、クリック≠オて御覧ください。「富岡製糸場」の「写真」を中心に構成しています。





美和子との「再婚」



1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年〜1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた「文→美和→美和子」と再婚(この時、美和=41歳、素彦 55歳)。
この二人の結婚は、松陰・寿子・文らの母=滝の勧めであったといわれており、それほど、楫取は、「杉家」からの信頼があったということでしょう。
なお、は、既に、美和と言っていたようですが、素彦との「結婚」を機に、楫取美和子としたようです。
素彦は、美和子のために、久坂玄瑞から
文(美和子)への手紙を整理し、『涙袖帖』として残しています。


「写真」は、以前、「山口県」における「芥川賞」・「直木賞」受賞作家ということで、
古川 薫氏に、「高校生」に向けてとして御願いし、快く、書いていただいた「色紙」です。
高樹のぶ子氏からもいただき、かつて私が「勤務」していた学校の「図書館」にいまもあるハズです。


『涙袖帖』について



(参考)  古川 薫氏の『故園の花』 より
・・・・・・・・・・・・・
医師久坂玄瑞は、吉田松陰の松下村塾に突如現われ松陰に師従することになった。
後に高杉晋作とともに松陰門下の双璧と称されるまでに頭角を現す。当時の塾は、松陰の実家(杉家)にあり、松陰の末妹、文は、玄瑞に心ひかれ、やがて松陰の薦めにより結婚する。
しかし、結婚して2ケ月後には玄瑞は藩命により江戸へ発つ。吹き荒れる幕末の嵐は、松陰の死刑、安政の大獄、攘夷運動の急展開から激しい倒幕運動へと発展し、二人に安定した結婚生活を許さなかった。
玄瑞は、松陰なきあと志士として政治運動に参画し中心的な役割を果たす。
そして元治元年ついに京都で壮烈な討死をとげる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文は、周囲の薦めもあり、後に楫取素彦と再婚、男爵夫人として幸せな余生を送り、素彦に遅れること9年、大正10年79才で逝った。
素彦は、生前に、文が携えてきた玄瑞の21通の書簡を整理し「涙袖帖」として箱書してやった。
彼女の臨終の枕元にはその「涙袖帖」があった。あくまで玄瑞の妻であることを誇示するかのように・・・・







萩市を訪れた観光客に対しておもてなしを実践している個人や団体を表彰する「萩おもてなし大賞」なるものがあり、 その表彰式にあわせて「おもてなし講演会」が行われるそうで、
今年の場合、3月、「花燃ゆ」制作統括だという土屋勝裕氏の「講演」があったそうです。
私は、その「講演会」の存在も知りませんでしたし、当然、出掛けていませんが、「萩ナビ」という「ネット」で知り、萩市在住の「知人」にあたり、その講演会で話されたという「内容」を聞きました。
それによると、

O (→美和美和子)を取り上げたきっかけについて

「大河ドラマ」の下調べをしている時、楫取素彦の存在及び、『涙袖帖』の話を知った。
「とてもいい話だなぁ」と思った
楫取に嫁ぐ時、楫取
「私は過去はすべて捨てます。けれども久坂からの手紙だけは捨てられません。」
と言うと、楫取はその久坂玄瑞に宛て書いた手紙を読み、楫取も、在りし日の同志である玄瑞を偲び、目頭を熱くした。
そして、その手紙を「箱」に入れ、『涙袖帖』と「箱書き」してやった。
この『涙袖帖』のこと及び、楫取の態度への感銘が、「花燃ゆ」を取り上げることに繋がった。

といった話だったようです。






「ネット」で涙袖帖≠ニして「検索」し、[画像]をクリック≠オてみたところ、「出版」された『涙袖帖』の「写真」はありますが、実物の「写真」は出ていないように思います。
そこで、『週刊朝日』2014年6月6日号に、楫取能彦氏が、
嫁ぐとき、美和子亡き夫・久坂からの手紙を抱いて持って来ました
忘れられない大切な思い出だったんでしょうね。
現代の感覚でいうと、「昔の亭主のことをまだ忘れられないのか」というふうに、ひと悶着あるかもしれないんですが(笑)。
その手紙を素彦「涙袖帖(るいしゅうちょう)として、きれいな巻物にしたんです。
久坂素彦は同志でしたから、素彦にとっても大事な忘れ形見だったんだと思います。
それが、今もわが家に残っています。
久坂の妻をもらうというのは、彼の思いや思い出も背負うということ。
また、美和子は松陰の妹で、前妻(寿)の妹でもあります。
ただの夫婦じゃないというか。絆が深かったと思いますね。
と、語られていますので、楫取氏に、「写真で紹介をさせていただけませんか」とお願いし、「上」の『涙袖帖』の「写真」及び「次」に紹介する久坂の「手紙」の「写真」をいただいたワケです。

なお、『涙袖帖』「三巻」あったそうですが、「昭和20年3月」の「空襲」のタメ焼失したと思われ、現存するのは「写真」の「壱」のみとのことです。
但し、現時点では、私は確認していませんが、戦前出版された『楫取家文書』には、全部掲載されているとのことです。







『涙袖帖』の中の、
久坂玄瑞=よしすけから美和子=おふみどのへの「手紙」も、楫取能彦氏の御好意で、「写真」をいただきました。
「尊攘派」が京都から追放された「文久3年8月18日」の政変直後の「手紙」の「はじめ」「終わり」とのことです。

『楫取素彦の幕末・明治の群像』には、小さめ≠ナすが、「手紙」の全文の「写真」があり、その下に、『楫取家文書 一』を参照して作成。≠ニいう「書き下し文」なるものがついています。
私は、『楫取素彦と幕末・明治の群像』にある「書き下し文」を参照させていただきますが、私なりに楫取氏からいただいた「写真」(3MB近い、鮮明な「写真」)を 「検討」しています。
なお、私には判読が難しい箇所(書き手特有の「略字」があり、研究しないと、その書き手特有≠フ文字は判読が難しいのです)は『楫取素彦と幕末・明治の群像』を利用させていただくことにし、黒の太字にしています。
また、私の「解読」による箇所は、赤文字にしています。ご批判をいただければさいわいです。

「上の写真」

同年京師自り来たる
↑ この部分は、『幕末・明治の群像』にある「写真」には写っていますが、「書き下し」はありませんので、私によるものです。
     なお、この部分は、久坂によるのではなく、覚え書き≠フように思えます。)

(←読めません。『幕末・明治の群像』にも記されていません)尚々われ事もやまれぬ次第ありて よしすけと名をあらためまいらせ候
そののちはいかがやと朝夕たずあんもじいたしまいらせ候 われ事もさわりなくくらし候まま こころやすくおもひ下さるべくぞんじまいらせ候
さてはこのうちおんくににかへりおり 御前にて御内めいをうけ 上京これやかれやとちからをつくし候ところ 去十八日のこといかにも口おしきは わるものども数千人 きんりさまをとりまき 
そのうへ御国にてもちまもり候へし御門をも外の人におんあづけになり このせつ


「写真」にない部分  
「手紙」には、「句読点」はついていないのですが、句読点を含めて『幕末・明治の群像』を引用させていただきます。

にてはけしからぬにくき口惜しきしわざのみいたし、いかにもいかにもざんねんにて候。
それゆへこのうち清末さま、岩国さまおんかへりのおりも、ひようごまではおんともいたしまいらせ候えども、それよりますだどのをはじめ申し合せ、またまたふたたびのぼり、おんやしきのうちにかくれおりを相まち申し候。
このせつにてはきびしくせんぎなどいたしまわりゆへ、ゆだんはならぬ、おんやしき外へはひとあしも出申さず候。
まことにざんねんとも口おしとも申すにあまりあることにて候。
さよう候えば、せつかくのきんりさまのおぼしめしも、とのさまのおこころざしも


「下の写真」

ちよとにはつらぬき申すまじく まことにむかしのくすのきさま につたさま(←傍線で消されています)などのおんこころざしにてなくてはならぬ すこしもたゆみてはならぬごじつせつと われ事もよるひるくういたし参らせ候  さてはこのうち小田村兄さまおたちのおりしも かの二男の方を養子にもらひおき候まま みなさまへおんはかりなされておもらひなさるべく頼み入りまいらせ候
小太郎どのおちよどのもせいじんとよろこびまいらせ候 何もあらあら
めでたかしく
八月廿九日 
                        よしすけ

かへすがへすもみなみなさまへよろしくおんつたへなさるべくぞんじ参らせ候
もじさむさおんいとひかんもしぞんじまいらせ候      
                         かしく
    おふみどのへ    旨






「楫取美和子」について

私の「野村望東尼研究」には、美和子は、「望東尼の墓」を新しくする際に、素彦協力したことはまず、間違いないとはいえ、あまり関係が深いとは思えないタメ、大した「調査・研究」はしていないのですが、
[Google]・[Yahoo]共、楫取美和子という「検索」で、この「ページ」が、最初≠フ「ページ」にでてきますので、美和子につして、知ろうとして「アクセス」された方に、
楫取能彦氏に提供していただいた「写真」、及び
古川氏の『故園の花』については、「参考」になろうかと思っていますが、その他、少しばかり≠フ、私の「調査・研究」でわかったことについても、ここで「紹介」しておこうと思います。


天保14年(1843年)、杉百合之助(常道)の四女として誕生。
兄に梅太郎(民治)寅次郎(吉田松陰=既に吉田家の家督を継いでいた、姉に千代寿、弟に敏三郎がいました。
艶は文の生後すぐに夭折していますが、長女の千代は児玉祐之に、次女の寿は小田村伊之助(楫取素彦)のもとへそれぞれ嫁いでいます。

なお、という「名」は、叔父であり、松下村塾の創立者である玉木文之進が自分の名からの一字をとって与えたといいます。

久坂玄瑞の母=は嘉永6(1853)年8月4日に亡くなり、 その半年後の嘉永7年(安政元年)2月27日には、20歳∴痰、兄 玄機が、35歳で亡くなり、さらに一週間もしない3月4日には父=良迪が亡くなるという不幸が続き、玄機妻子がなかったタメ、 15歳で、全くの孤児になっていた玄瑞は、 安政4年(1857年)12月5日と結婚します。
時に玄瑞18歳、文15歳でした。
この結婚について、玄瑞は、乗り気なったかのような=u情報」が「ネット」等にあふれて≠「ます。
松下村塾の年長者である中谷正亮に対して、玄瑞は「好みの容姿ではない」と断ろうとしたが、中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾した。
といったものが「それ」です。しかも、好みの容姿ではないを、器量が悪いといった言い換えまでされているものも少なくありません。
今の時代、容姿を云々するのは、不適当と思いますが、私には疑問あることが流布≠オているため、一言、言っておきたいと思います。
若い時の「写真」はありませんが、54″ホと思われる この「ページ」に示している「写真」(←ここをクリック=v) からして、
好み≠フ問題はあるにしても、に、容姿に問題があるとは思えません。
ただ、玄瑞は、色白で鼻筋の通った美男子であったこととて、にはあこがれ≠フ人であったし、
吉田松陰玄瑞の才を高く評価する松陰の強い勧めが、二人の「結婚」となったことは確かなことのようです。
実際の久坂玄瑞 防長年少第一流人物 固亦天下英才矣哉で始まる「手紙」も、かなり、知られていますが、
『維新の礎士 久坂玄機 玄瑞兄弟』
岡崎兵衛氏の「自費出版」。「土井ヶ浜遺跡」の「調査・研究」でお世話になった、小川 信氏(小川五郎氏のご子息で、「衆議院議員」等をなさった方です。)にいただいた貴重な=u書籍」です。)
によって紹介しておきます。

松陰は、妹・に贈ることばで、次のようにいっている。
久坂玄瑞は 防長における年少第一流の人物であり 天下の英才である
少妹には過ぎたる人物だ
しかし人の憂うべきは 自ら励まざるにある
自ら励み 自ら勤めるならば 何の 成らざることがあろうか
酒食のことを工夫し 父母に心配をかけぬように
家事を間違いなくやっていけ
『女誠』にある貞節 専心のごときは 嫁ぐ初めの覚悟が大切なのだ
少妹すべからく怠ることなかれ ここに過ちをするほかに憂うことなく 
稚拙な汝が 天下の英才妻たるの道もこのほかにない
とあります。

玄瑞はまもなく京都・江戸に遊学したり尊皇攘夷運動を率いて京都を拠点に活動するなど不在がちとなります。
元治元(1864)年7月19日「禁門の変」が起こり玄瑞は奮闘ののち自害します。
玄瑞は、美和子
ふそ月に一度は六ケ敷候得ば三月に一度は保福寺墓参はおんまゐらせ候申す
と書き送っているように、
「久坂家」を気に掛けていたこととて、二人の間に、子供がないため、美和子は、楫取素彦・寿子の「次男=粂次郎」を
玄瑞の亡くなる一年前の文久3(1863)年に、「久坂家」の「養子」としてもらい、 玄瑞の死の二ヶ月後、7歳家督を相続させ、「久坂家」に尽くしていましたが、
品川弥二郎野村和作らによって、玄瑞にそっくり≠ネ子供が京都にいることがわかり、 明治12(1879)年9月、その子供=秀次郎に、家督を譲って、粂次郎は、「楫取家」に戻ります。(粂次郎については、ここをクリック≠オてください)

この玄瑞の子供は、玄瑞の死後に誕生していますが、 『維新の礎士 久坂玄機 玄瑞兄弟』には、
本書冒頭に久坂玄瑞肖像画を掲げた。誰もがよく知っている肖像画であり、松下村塾に掲げられている
久坂玄瑞は、身のたけ五尺八寸ばかりの大男、顔は童顔だが眉がすさまじくはねあがり、目の切れが長い。
皮膚は女のように白い。堂々たる美丈夫であったと伝えられる。
この肖像画について
「秀次郎」が玄瑞酷似しているというので、そのモデルになった。野村和作、品川弥次郎等の意見も加味し、諸所を直して作られた。
余程よく父(玄瑞)に似通っていると当時の評判であった。」  (福本義亮『松下村塾の偉人 久坂玄瑞』)
とあります。

久坂玄瑞曾孫恵一氏の「七言絶句」が、この『維新の礎士 久坂玄機 玄瑞兄弟』にありますので、紹介しておきます。

「七言絶句」=「 遺 懐 」

曾 祖 声 名 鳴 四 海  赫 然 遺 業 任 人 評  
何 期 宿 志 継 承 願  毀 賑 家 門 寄 此 生




玄瑞の亡くなった後、文は毛利元徳(=定広)の正室・安子御側女中の一人(はな・津屋・美和の三人の名がわかっています)、およびその長男興丸
毛利元昭
維新後東京に移り、明治30年家督を継ぐ。貴族院議員となり公共事業への功績多大。
昭和13年(1938)歿、74才。
守役を勤めています。

1881年(明治14年)1月30日、次姉の寿が43歳で死去。
姉の死の2年後=1883年(明治16年)、義兄であった楫取素彦と再婚します。
玄瑞の遺稿や、に宛てた書簡21通を再婚するに際し、持参しますが、それをまとめて「涙袖帖」と題したのは、素彦でした。

晩年は山口県防府市で過ごし、1912(明治45年/大正元)年8月14日素彦を看取り、
美和子は、1921年(大正10年)に79歳でこの世を去っています。



1884(明治17)年 元老院議官に転任。
      (その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任。)




「1886(明治19)年1月21日の
楫取素彦の「書」

「酒席」に招かれた時に、詠んだ「漢詩」とのことです。
素彦は、「漢詩」を得意としており、
また、「酒」にも強かったとのことです。


「所蔵」しておられる楫取能彦氏の撮られた「写真」を提供していただきました。



1887(明治20)年 素彦男爵を授けられる。

1890年(明治23年)8月24日松陰・寿子・美和子らの母=が84歳で死去。

くにのため尽くししのみか伝へたる
           みのりの道はふみはたがへず


─ 本願寺法主大谷光尊「弔歌」とされています。 ─


 

1891(明治24)年12月 「女性」として、初めて=A野村望東尼に、贈正五位の宣下がある。(参考 「贈正四位」の津崎矩子と同時期。)



1893(明治26)年 
それまで住んでいた東京から、現在の防府市岡村町に屋敷を構えたものと推測される。





「写真」は、「防府市岡村町」の旧「楫取邸」の跡

「所有者」が何代も代わっているそうで、当時を偲ぶものはないようです
現在は、ほとんどが、「PL教会」の所有地になっていますが、「左の写真」の「P」の立て札のある所から、桃色っぽい建物(病院です)の手前までが、旧「楫取邸」であったようです。
「道路」の「左」には、今は、見えませんが、(道路の色違いの下)があり、「道」から「楫取邸」に入るための「橋」は、 「右の写真」の「PL教会」の「横書きの文字」がある「手前」にあったと思うと、近くにお住まいで、『楫取素彦の生涯』に、「岡村楫取本邸想記図」を寄せておられる藤本傳治氏は、おっしゃっています。
なお、「右」の仕切りの向こうにある二階屋も旧「楫取邸」敷地の一部に建っています。

なお、「楫取邸」は、広大な敷地ですが、この「岡村地区」には、貞永幽之助(庄右衛門)「貞永屋敷」(現 「山口県立防府高校」の「体育館・プール」のある所)、
さらに、「小澤屋敷」「江村屋敷」というより広大で、現在は、分譲されて、小さめの「団地」になっているところもありました。



この年8月野村望東尼「墓」が新しくされる。
この「墓」は、楫取が中心となって、昭憲皇太后(=明治天皇皇后)を始め、三条公毛利公といった方々からの協力のもとに新しくされたもので、
楫取祭主となって落成式を兼ねた、盛大な追祭が望東尼「命日」=「11月6日」に執行された。







望東尼の「墓」「裏面」の「碑文」」は、楫取の手になるものです。
その「碑文」は、数多くの野村望東尼関係の『書籍』に紹介されていますが、
なぜか、その「碑文」の「年月日」が明治二十六年八月従三位勲三等男爵 楫取素彦 撰とあるのに、 明治二十七年三月『防府関係野村望東尼史料』 46頁)、明治二十七年四月谷川佳枝子氏の『野村望東尼』 325頁)
など、異なった「年月」になっているものが少なくありません。
  ≠クリック≠オて確認してみてください。



left

楫取素彦「碑文」について


昭憲皇太后を始め、三条公毛利公といった方々からの協力をいただけたのも、楫取を経由してのことです。
(墳墓重修之挙聞内廷、皇后賜五拾金。
而毛利 三条諸侯各捐資助工事・・・
楫取「墓碑」にありますので、楫取「墓」の改修の計画の方が先行していたことがわかります。)

その他、望東尼に対して、いろいろと配慮していることには、 高杉晋作望東尼が、「維新」を成し遂げるタメに大きな「役割」を果たしたということに加えて、楫取個人or夫婦≠ニしての高杉望東尼へのに報いようという思いあったであろうと、私は考えています。

楫取自身にも、問題が皆無というワケではなく、 野村望東尼の「墓碑」に、楫取による「望東尼紹介」があるのですが、
そこに菅祠、絶粒週日、以祈一行福利というように、少しばかり、オーバー≠ネ表現があるタメ、
一流≠ニされる研究者の多くが、これを引いて、「七日間、断食」としていますし、最近≠ナも、そうした記述をした「研究者」があります。
しかし、望東尼「七日詣で」初日は、「山口」から「三田尻」に向かった9月25日ですので、
次の≠ノ記しているなるたき≠ナの「昼餉」ダケでも、「七日間、断食」にはならないのです。
ただ、「お二人」は、私の「指摘」で、
『防州日記』(←「歴史の道 萩往還」という「ページ」で「鳴滝」の解説でこのことに触れています)
を調べ直してくださり、正しく≠オてくださっていますが・・・・・・・・。



◆ 「防府望東尼会」のこと

受け継いだ「資料」が少ないため、「防府望東尼会」の現会長の上山喜譽氏は、「古書」等にあたられていますが、 現在≠ワでの「調査」によると
「防府望東尼会」の先駆け≠ニもいえるものは、
1891(明治24)年12月、「女性」として、初めて=A野村望東尼に、贈正五位の宣下があった(参考 「贈正四位」の津崎矩子と同時期)ことを契機に、 3年後の1894(明治27)年楫取素彦氏が中心となって、望東尼の「墓」が新しくされるが、
その「墓」を新しくしようと、楫取素彦氏が働きかけた時にあると推測しておられます。
昭憲皇太后を始め、三条公、毛利公といった方々からの協力も得て、立派な「墓」が、望東尼の命日の11月6日、楫取氏が祭主となって落成式を兼ねた、盛大な追祭が執行せられただけでなく、その後も、楫取氏を中心に、望東尼の顕彰に努められたのです。
楫取氏が、亡くなられた後も、他の方が「望東尼顕彰」を受け継がれたと思われるのですが、はっきりしないようです。

ただ、上山会長が、「マツノ」という山口県では有名な「古書店」から求められた『望東尼小傳』(山口県防府婦人会 昭和3年10月10日刊のごく薄い小冊子です。著者としては大澤 あい氏の名があり、巻頭には、香川 信代氏の名も併記されています。)に、御大典記念として「望東尼会」を起こした≠ニいう記述があり、会員も千五百人≠ニあることから、「有志」ではなく、「組織」となったのは、昭和初年のことと思われます。
ここに名のある香川氏も「会長」を勤められた一人のようですが、これまでどなたが「会長」を勤められたかは、はっきりしていません。

「伝聞」という形でなく、明らかとなっている「会長」を勤められた方々は、
・・・→中村茂喜氏→山根 功氏→米沢 理氏→大西 力氏で、
大西氏が亡くなられた後を推されて、平成14年4月以来、上山氏が会長になっておられるワケですが、「望東尼生誕200年&140回忌」という大きな「節目」にあたられたことで、「防府望東尼会」としても「これまでの歩み=vを明らかに≠オておきたいと思われたことに加え、「マスコミ」・「研究者」等からの「問い合わせ」が重なったため、本格的≠ノ、諸資料にあたっておられるワケです。

新たに明らかになったことがわかった時点で、教えていただくことになっています。 
「会員数」は、ここ十数年は、ほぼ一定で、百名余とのことです。

















「平成24年」の
「大楽寺」における
「望東尼の法要」の「写真」です。
「右奥の3人目の女性」が
谷川佳枝子氏です。

1897(明治30)年
素彦明治天皇第十皇女=貞宮(1897(明治30)年9月24日 誕生)の御養育主任に任じられ、美和子も、貞宮「御付き」として仕えるため、 東京赤坂に移住する。

しかし、貞宮が、1899(明治32)年1月11日薨去(こうきょ)されたため、防府に戻ります。

貞宮の亡くなられた年齢について、『楫取素彦の生涯』において一坂太郎氏が三歳で夭逝と書いておられるという「疑問」を寄せられましたが、
一坂氏の「一文」には、誕生日亡くなられた年も記されており、「数え」でということだとわかります。
従来は、享年は、「数え」で記していたようです。
従って、「享年」とあれば、[数え=生まれた時点で、「1歳」、以降は、元日(1月1日)を迎えるごとにそれぞれ1歳を加える]という考え方になります。
ツマリ、貞宮は、満年齢では一歳半でお亡くなりになったのですが、数えでは3歳ということになるワケです。

なお、亡くなられた日一坂氏は実際≠ヘ「1月10日」なのだが、
英照皇太后崩御と同日であったため、亡くなったのは11日午後11時50分と宮内省から公表された
「天皇紀」に拠るとして記しておられます。


貞宮の「遺物」は、「防府天満宮」奉納され、現在も、 「防府天満宮」において、毎年1月11日「遙拝式」が行われているとのことです。




「貞宮遙拝所」の「写真」と、
その側に「平成27年夏季」
「防府ライオンズクラブ」が「55周年」・
「防府中央ライオンズクラブ」が「50周年」
にあたることで、奉納するという
東京造形大学教授 小川幸造氏の
「楫取素彦と文の像」の「写真」です。

(この時は、ではなく、美和子ですが、「大河ドラマ=花燃ゆ」の関連でのことでしょう。
[文の防府日和]のように、随所≠ノとあります。)



平成30年は、「維新150年」にあたることとて、私も、参列しました。
この日は、寒さのことさら厳しい日でしたが、「遙拝式」には、多くの参列者があり、厳粛・厳かに行われました。

東京から、楫取能彦氏が、今回もお出でになり、挨拶をされましたし、
楫取素彦顕彰会会長毛利元敦氏も、 「維新150年」にあたる年ということで、これまでのこと及び今後について、話されました。

「遙拝式」終了後、お二人を存じ上げていることとて、ご一緒の「写真」を撮らせていただきました。
     「左」=毛利元敦氏、「右」=楫取能彦






楫取素彦楫取美和子一緒≠フ貴重な=u写真」





元赤坂の 赤坂御用地 内の 「故貞宮殿下御座所北側御廊下」 に於いて

 明治32年2月16日降雪飛々たる日

      園 基資 撮影

残念ながら、当時のこととて、寿子の「写真」は、「楫取家」にもないそうです。
ただ、楫取能彦氏によると、美和子については、それも素彦一緒≠ノ写っているという貴重な=u写真」があるとのことでしたので、 お借りできないでしょうか、とお願いしました。
すると、わざわざ、「写真」を「複写」して送ってくださいました。
能彦氏によると、「写真」の裏には、「上」のように書かれているそうです。
また、「写真」についても、説明をしてくださっています。
素彦の左が美和子
その左が 楫取道明(素彦次男) 夫人=美寿子(みすこ)、
素彦の右側が小田村希家(ひさいえ・素彦長男で「小田村家」を相続)夫人=多賀子(たかこ)、
前の3人は「御付きの女性
とのことです。
素彦68歳美和子54歳と思われます。






「楫取家」の方々のみの部分です。
「上」の説明と重複≠オますが、記しておきます。

「左」から、
楫取道明(素彦次男) 夫人=美寿子(みすこ)
楫取美和子
楫取素彦
小田村希家(ひさいえ・素彦長男で「小田村家」を相続)夫人=多賀子(たかこ)
です。
なお、「杉家」寄贈という「写真」が、「萩博物館」にあります。
ただ、「萩博物館」は、「資料」は「財産」と考えており、「写真」類も、転載の許可はしない(「ネット」でも、「萩博物館」の「写真」には、博物館≠ニいう「白い文字」が中央に入っています。)とのことですので、示せませんが、『楫取素彦と幕末・明治の群像 図録』「ウィキペディア=楫取美和子には載っており、「ウィキペディア」の場合は、「写真部分」をクリック≠キると拡大します。
「人数」・「場所」・「並び方」に違いがあり、素彦の「烏帽子?」に違いはありますが、美和子については、ほぼ=u同じ」と見てよいようです。

ただ、能彦氏の「写真」は、「楫取家」の四人が、並んで 写っています ので、より貴重な「写真」と思いますので、 「楫取家」の方々のみの「写真」を示しました。)





楫取素彦楫取美和子の「写真」







楫取美和子の「写真」





楫取美和子の「写真」は、泉福寺などにあり、一般によく知られている @ 最晩年紋付姿の上半身の写真
の外に、
楫取素彦氏所蔵の A ここに示した 「明治32年2月16日 撮影の写真」(「左」は、美和子一人を「スキャナ」で取り込んだ「写真」です。)
と、「翌日撮影」の B 「萩博物館」にある「写真」の外に、 もう一枚あるようです。
「防府天満宮」の「蔵書」にあったという C 「右の写真」それです。
この「写真」は、少しばかり=A若い時の「写真」のようです。
越智氏が「出典」を確認されれば、「撮影年月」がはっきりすると思います。)





私なりに「書籍」を調べてみて、
『松陰先生にゆかり深き婦人』(昭和11年 武蔵野書院刊 

「著作者」は廣瀬 敏とありますが、
「はしがき」を見ると、奥さんの廣瀬敏子氏が書かれたものとわかります。
ただ、主人は、廣瀬 豊氏のハズですので、が抜けたものか、となるベキだと思います。
なお、「図書館」においては、いずれも廣瀬敏子氏が著者だとしています。)

に、ほぼ%ッ時期の撮影と思われるこの「写真」 (D) が載っていることがわかりました。

見ればわかるように、当然、越智氏の発見≠ウれた「防府天満宮」の「蔵書」にある「写真」ではありません。
寿子の「写真」も載っていますが、広く、知られている、はっきりしない「写真」です。

なお、この『松陰先生にゆかり深き婦人』においては、いつ頃、どんな時の撮影かは記されていません。(「見落とし」かも知れませんが・・・。)

この『松陰先生にゆかり深き婦人』においては、附 野村望東尼と楫取夫妻という「項目」で、かなり¥レしく、記されています。
幾つかの「図書館」には、所蔵されていますので、御覧になることをお勧めします。

「写真」の文字は、「右」から「左」に書かれています。
「右」から久坂文子筆玄瑞年譜=E久坂文子(後の楫取美和子)≠ニあるのが読めるでしょうか。


1912(明治35)年 「千年式年大祭」にあたり、楫取奉賛会総裁を務め、「千年式年大祭記念碑」には楫取の名があるといいます。








「本殿」の「右」にある
枝垂れ梅の咲き誇る「梅林」の「左の写真」の「右側」にわずかに見える「石碑」が、「千年式年大祭記念碑」なのですが、
これまで、数え切れないほど、参詣に訪れていながら、
気づかずにいました。
しかし、早朝散歩の際、警備の方というワタナベ氏に、親切に、案内していただくことができ、簡単ではありますが、説明をしていただきました。









「菅公千年式年大祭」は、明治35年4月3日から5月2日まで、盛大に営まれたと言います。
『楫取素彦の生涯』において脇 正典氏は、書は有栖川宮威仁親王碑の裏側に「総裁正三位男爵楫取素彦」他幹事の名前が記されている。
と書いておられますが、「中」の「写真」のように、文字が刻まれていることはわかりますが、一部≠オか見えないのみならず、その一部≠フ文字も、判読できません。
ただ、「右」の「写真」のように、明治三十五年とあるのは、はっきりと読めます。




三田尻在住の13年間は地域振興に大きな貢献があり、天満宮をバックアップ、毛利邸建設の下準備などに力を尽くしたといわれています。

(「写真」は、「防府天満宮の歴史館」)




1912(明治45年/大正元)年8月14日 美和子に看取られながら、亡くなる。享年 84歳。
「大楽寺」の墓地にを建立。

明治29(1896)年1月1日 次男「楫取家」を継承する道明が、 台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、 「リーダー格」の道明をはじめとして、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」
と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかったことで、亡くなった(所謂「芝山巌事件」)タメ、
素彦の「葬儀」の「喪主」は、孫 の 三郎(明治12年7月22日〜昭和2年5月1日)が勤めています。



1921(大正10)年9月7日 美和子 没。享年79歳。
「大楽寺」の墓地の素彦に並べて埋葬。 







「大楽寺」にある「楫取家」の「墓」
「左」=楫取家の墓(但し、「裏面」は美和子の名のみが刻まれています。
「右」=楫取素彦個人の「墓」
「写真」の方は、案内して下さったご住職の林 公雄氏です。
素彦は、「正二位勲一等男爵」なのですが、「墓域」こそ広いものの、その「墓」は、素彦が中心となって建てた「正位」望東尼の「墓」に比し、つつましやか≠ナす。
おそらく、素彦の意思で、つつましやかになったものと思われます。

私は、「桑山」にあるという「情報」ダケを手がかりに、個人的に、素彦「墓」の位置を、アチコチ捜してみたのですが、
大きく=A立派な=u墓」であるハズという先入観文字が見えにくい(但し、現在は、はっきりと見えます)ことで、見いだせないでいました。
そこで、名刹=「大楽寺」ですが、私の「長兄」と旧制「防府中学」→「防府高校」において、同級生であったということに知っていましたので、甘えて、ご住職なら御存知のハズとして、お尋ねしたところ、「大楽寺」古い方の「墓域」にあるとして、わざわざ案内してくださったのです。

この「楫取家」の「墓」は、「大楽寺」の「本堂」に向かって「左」の方向に100メートルくらい歩いた所ですが、
そこには、野村望東尼の主治医であった秋本里美(あきもとさとよし)の「墓」や、「荒瀬家」を池田氏を経由して購入した、林川家の「墓」などがあります。
野村望東尼の「終焉の地=*h府市」における史跡≠ニその「写真」において、紹介するまでは、おそらく=Aその位置を知る人は、ごく一部の限られた人だったと思います。

なお、誤解があるようですが、野村望東尼の「墓」は、
「大楽寺」の「墓域」ではなく、かなり@」れた「桑山中学校」に近い、「桑山」の「南西麓」にあります。





現在の「墓」



「没後百年」ということで「入口」に「顕彰標」が建てられています。

前にあらたに「墓」ができ、「楫取家の墓」は、さらに目立たなく
なっていますが、
墓に刻まれた文字は、はっきり読めるようになっています。(「右」)










「大楽寺」







「上」の「曹洞宗 放光山 大楽寺 配置図」は、
ご住職の林 公雄氏が、「NHK」の「大河ドラマ」=「花燃ゆ」の発表以来、
他県から、多くの方が訪れられることで、その方々のタメに、「大楽寺」に掲示されている「図」です。
その「図」をお借りしましたが、「B4」に書かれており、私の「スキャナ」は「A4」迄ですので、申し訳ないことに、「右」にある「防府駅みなと口」からの部分は、省略になっているほか、周囲が一部、カット≠ノなっています。
「左上」の「写真」に見える「ビンク色」の「建物」が「放光殿」で、そこには、野村望東尼楫取素彦といった方々の「位牌」があります。



望東尼の「位牌」

望東尼の「位牌」は、
当初≠ゥらの「始本院向陵望東大姉」とある位牌が「正福寺」の「位牌堂」にありますが、
「大楽寺」「贈正五位 始本院向陵望東禅尼」・「福岡」の「明光寺」「向陵院招月望東禅尼」にも「位牌」があります。

「大楽寺」の「位牌」に、贈 正五位とあることからわかるように、「贈位」のあった「明治24(1891)年」以後に作られた「位牌」です。
望東尼の年忌法要」が「大楽寺」で行われるのは、
「正福寺」にいた松永宣丈氏が、「大楽寺」の住職となるに際し、
望東尼の「位牌」を新たに作り、年忌法要を続けたことから、この「大楽寺」を会場に、「防府望東尼会」主催で、今に至るも、毎年、「法要」が行われているわけです。
以前、私は、「望東尼」の「枕経」をあげたのが松永氏であったからだと、ある方から聞いていましたが、
松永氏が「正福寺」に来たのが「明治8年」ということがわかったこととて、「枕経」をあげたということは、あり得ないということです。
おそらく、年忌法要がされていないことから、望東尼の「墓」の近くの「大楽寺」の「住職」となったこともあって、墓掃除等もしていたとのことですので、「年忌法要」を個人的にしていたことが、楫取素彦の知るところとなり、ひろまったということだと思います。










◇ 関連した「ページ」への「リンク」

吉田松陰の「菩提寺」=「泉福寺」のこと
↑ この「ページ」と重複≠オたものもありますが、
     松陰「位牌」吉田松陰に関連したこととして、寿子美和子等についても、記しています。

山田顕義 ─松陰・晋作・望東尼に愛された男─
↑ 楫取素彦のモトで、「維新実現」大きな℃タ績を残し、
   後に、「伯爵」になり、「日本大学」等を「創立」したといわれています。





「次」に、[歴史の道「萩往還」=鯖山峠・舟橋・松崎神社(防府天満宮)・英雲荘・御舟蔵跡]の中から抜粋≠オてみました。

>


「左」=「舟橋
(この「写真」は、「防府市教委文化財保護課」の許可を得ています。)
「右」=市内随所に見られる「舟橋」に因む「モニュメント」。
    「写真」は、防府駅天神口側広場のもの

「本橋」の橋下にある「モニュメント」。
残念ながら、注意して見ないとわからない位置にあります。

「解説」には次のようにあります。

奇橋    舟橋

旧萩街道は、萩と三田尻を結ぶ街道でありこの地が佐波川を渡った場所である。
この渡し場は、萩街道が整備されてからは木橋が架けられていたが、
当時の木橋は洪水により、たびたび流失したようである。
そこで、寛保二年(一七四二)に大渡の仕事をしていた源八という者の発案で、
舟を並べて板をわたした舟橋を設けたものである。
この橋は洪水の時には一方で橋を切りはなし、水の抵抗を避けるように工夫されており
洪水に対して機能的に優れていたので長く存続した。
舟の老朽化が進み、昭和十六年にその役目を本橋に譲った。






「左」=野村望東尼「七日詣」し、
     楫取素彦が、「総裁」を務めた「菅公千年式年大祭」当時の松崎天満宮
「右」=現在の「防府天満宮(改称)   (毛利元道氏の「写真」&「書」参照)
「写真」は「三田尻御茶屋」(「英雲荘」)の「案内板」と、 と 「変遷」を示した「図」
「写真」の人物は、「左」=<野方春人氏、「右」=当時の「防府市教委文化財保護課課長」の吉瀬勝康氏です。
たまたま居合わせられ、「解説」をしてもらえ、野方氏の『著作』にも活かされています。




「左・右」共=「三田尻御舟倉跡









「大河ドラマ」=『花燃ゆ』  

─ 平成27(2015)年 吉田松陰主人公として 


「大河ドラマ=花燃ゆ」放映が発表されて、
「防府市」では、この機会を捉えて、地域の「歴史」を知り、地域への関心をたかめようとして、いろいろと、工夫がされています。

「防府駅」てんじんぐち前にある防府市地域交流センター=「アスピラート」という「建物」に掲げられたもの




「左」は、「華浦地区」に、関係の史跡・建物があることで、「華浦公民館長」坪郷好夫氏が「作成」された「小冊子」と、
坪郷氏の着任以前からある「華浦歴史かるた」を撮ったものです。
「華浦歴史かるた」は、「表」に「写真」、「裏」に「解説」という体裁で、「華浦小学校」等で、活用されているとのことです。
坪郷氏は、私の「後輩」であることとて、「写真」の中に入ってもらうよう、依頼し、了承をえました。


さらに、[平成26年 第2回防府市議会定例会]において、
「市会議員」の今津誠一氏が、
「防府市は維新の志士たちが闊歩したまちであるし、また、来年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』4年後の維新150年に因んで『志士闊歩かるた』(『防府維新かるた』)の製作をし、防府に残る文化遺産が子供たちに伝わるよう、提案する。」
として質問・提案されたのに対して杉山一茂教育長が、前向きに検討すると答弁されたとのことです。
『花燃ゆ』放映中には、実現している可能性があります。


[ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和」]の「オープニングセレモニー」





[ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和」]の「オープニングセレモニー」なるものが「平成27年1月11日(日)」に催されました。
すぐ近くであるタメ、私も出掛けてみました。
「セレモニー」の撮影は禁止というので、「セレモニー開始直前」の「写真」を撮りましたが、その時の「写真」が「上」です。

なお、「壇」には、毛利元敦氏(毛利元道氏の御子息)、楫取能彦氏も並ばれていました。
毛利氏にはお目に掛かったことがありますし、防府にお住まいですので、次の「会場」へ(次に記載) 移動される途中の楫取能彦氏に、「カワノですが・・・」と、声をかけてみました。
すると、立ち止まって、握手をしてくださり、二言三言しか話す時間はありませんでしたが、「写真」も撮らせていただきました。
楫取氏とは、「電話」、「メール」のやりとりは、何度となくありますが、直接、お目にかかったのは、初めてです。
「右」は、一緒に歩いておられた県議会議員の島田教明氏ですが、島田氏は、「写真」に写らないようにしようと、配慮してくださったのですが、 「善正寺」ご住職でもあることを知っていますので、野村望東尼楫取素彦とも関係するタメ、一緒に写っていただくよう、御願いしました。

「善正寺」については、既に述べていますので、「下線部」をクリック≠オてみてください。





「防府天満宮 貞宮遙拝所」における「神事」

1897(明治30)年の項に述べているように、楫取素彦は、 明治天皇第10皇女第十皇女=貞宮内親王御養育主任に任じられ、美和子も、貞宮「御付き」として仕えてました。
しかし、貞宮が、1899(明治32)年1月11日に薨去(こうきょ)されたため、遺品を下賜、保存場所として天満宮境内に「貞宮遙拝所」建立し、
貞宮「遺物」は、「防府天満宮」に奉納され、現在も、 「防府天満宮」において、毎年1月11日に「遙拝式」が行われているとのことです。
と記しているように、この「開館セレモニー」の日=1月11日「命日」でした。
私は、「ルルサス」における「開館セレモニー」に出掛けていたワケですが、多くの方々で溢れており、「天満宮」も当然、人で溢れていると思われ、行きませんでしたが、
楫取能彦氏のみならず、文を演じる女優の井上真央氏、小田村伊之助役の大沢たかお氏も「神事」に参加 したこととて、「NHKニュース」にも放映されました。





御願い

以下のことは、まったく、楫取素彦には関係のないまったく、私的なことです。

吉田松陰で、久坂玄瑞玄瑞の死後、楫取素彦となった「文」→「美和子」
「ヒロイン」とする「NHK」の「大河ドラマ」=「花燃ゆ」が発表されましたが、その影響は、想像以上のようです。
この「ページ」ダケで見ても、楫取素彦≠ニいう「検索」で、[Google]・[Yahoo]共、1&ナ目に出ていますし、
楫取美和子≠ニいう「検索」でも、吉田松陰の「菩提寺」の「ページ」が1&ナ目、
この素彦の「ページ」2&ナ目
に出ているからでしょう、
この「Yahoo!ジオシティーズ」は、手元で、
「時間」・「日毎」・「週毎」・「月毎」の「アクセス」状況が、確認できますが、
「2013年11月」以来、驚く≠ルどの「アクセス」数があることが確認でき、
「NHK」の「大河ドラマ」=「花燃ゆ」が「原因」以外≠ノは考えられません。
「大河ドラマ」は、来年のことですから、更なる「アクセス」がされることと思います。

私が、多くの「ホームページ」を作成するのは、一流≠ニされているものに、少なからぬ=u誤り」があるからです。

◆ 同二日、山口へかへらるる暇乞に参られし御同人≠ヘ誰かということ

高杉晋作の没後、野村望東尼を親身になって世話をした代表的な人物が、楫取素彦・寿子夫妻なのですが、
望東尼「松崎天満宮」のある「三田尻」で、荒瀬百合子「家」寄寓し、
そこで亡くなる直前≠フことが、『防州日記』に、次のようにあります。

霜月朔日、楫取氏細君へ、
わが為に遠き山坂こえてこそ心おもへば涙のみして
同二日、御同人山口へかへらるる 暇乞に参られし時、
露ばかり思ひおく事なかりけりついのきわまで君を見しかば


ここにある楫取氏細君は、
@ 楫取氏 及び 細君という意味
A 楫取氏細君寿子
のどちら≠ネのでしょうか?

は、この箇所は、霜月朔日に、
わが為に遠き山坂こえて′ゥ舞いに来て、
翌=二日御同人山口へかへらるる暇乞に参られたとあるのですから、
「薩摩軍」が神無月六日の夕つかたやっと@たことで、いよいよ=u討幕」という時期であり、
「長州軍」の中心人物である楫取は、主として三田尻(防府)に滞在していたハズですから、
山口へかへ≠のは、
素直≠ノ取れば、楫取氏の細君「ひさ」のことになるハズと考えています。

なお、詳しい≠アとは『野村望東尼』出版予定稿を御覧ください。
この中で、「望東尼研究」のバイブル%Iな扱いをされている、春山育次郎『野村望東尼傳』に対する「問題点」にも、触れています。

残念なこと≠ノ、「萩焼」の歴史に関して、
全国の「図書館」所蔵されている「書籍」に誤り≠ェあることとて、
私は、「平成25年9月」に、『萩焼・戸田焼─一流なるもの≠フ「再検討」を提言する ─』という「書籍」を自費出版し、
「国立国会図書館」への納本
「山口県立図書館」「萩市立図書館」「長門市立図書館」等、「山口県内」の「図書館」
及び、「福岡県立図書館」「札幌市立図書館」への寄贈によって、
その「図書館」の近くの方々には、直接=A御覧いただけますが、
「東京都立図書館」「大阪府立図書館」「神奈川県立図書館」には、寄贈を申し入れたものの、
受け入れていただけませんでした
「他県」のことであり、さらには、「自費出版」ということが「理由」のようでした。
私は、「自費出版」してでも、正しい≠アとを伝えたいということであり、
ましてや、誤り≠フある「書籍」を蔵書していないのならともかく、所蔵しているのダカラ
「公立図書館」が、誤り≠「拡散」する施設となるのは、おかしい<nズと、伝えましたが、
効果はありませんでした

「萩焼」を愛する方は、「山口県」の方々ダケではないハズです。
そこで、
その「出版」したものとほぼ%ッじものを、「次」の「ホームページ」に示し、「山口県外」の方々直接訴えようとしています。
できることなら、「アクセス」していただくよう、御願いしたいと思います。
この「ページ」には、「カウンター」をつけており、多くの方々から、「アクセス」していただいていますが、
全国の方に、見ていただいているであろう、この[楫取素彦の「ページ」]経由することによって、
さらに、多くの方々知っていただけることを願っています。
事実≠踏まえた「萩焼の歴史」を! ─ 『山口県史』への期待 ─ 







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