研究論文

スターリン主義はいかにして発生したか
ー党の官僚的変質ー

目次
はじめに
1.スターリン主義とは何か
2.スターリン主義発生の要因
3.スターリン主義はいつ発生したのか
4.「レーニン最後の闘争」ー23年12回党大会
5.ロシア革命の民族問題
6.ボルシェビキと官僚主義
7.党組織論について
まとめ

はじめに

20世紀の社会主義運動を総括し、マルクス主義を今日的に復権させるため、20世紀社会主義運動変質の「原初」であるスターリン主義発生の問題について考察する。
ところで、日本の新左翼運動にあっては、スターリンの一国社会主義論が世界革命を放棄させ、革命と党を変質させたことが強調されてきた。しかし、それではなぜ、世界革命を旗印にした理想主義のボルシェビキ党が、スターリンの一国社会主義論を受け入れるようになってしまったのか。
むしろ、党と革命の変質、自己保身的な官僚主義化がスターリンの一国社会主義論を受け入れる土壌となっていったのではないか。この研究論文では、ロシア革命後約10年の歴史的経緯を追ってみる。

1.スターリン主義とは何か

いわいる「ソ連型社会主義」ー搾取の廃絶と労働者階級の自己解放を掲げながら、現実には国家と党による人民への巨大な抑圧であったそれを、この論文ではスターリン主義と呼び、以下のように規定する。

スターリン主義とは、資本主義から社会主義への過渡期における共産主義運動の疎外態である。第一に、それは一国における「社会主義建設」を自己目的化して世界革命を放棄し(一国社会主義論)、国際階級闘争をその手段に転落させる。第二に、それはスターリン主義官僚がその当面手にした特権的利害を守り、維持していくために、労働者階級の自己解放を徹底的に抑圧していく体制としてある。
付言すると、スターリン主義の歴史的破産は必然であった思われる。第一に、国際帝国主義を打倒できず、帝国主義の重圧にさらされ、不況と恐慌、戦争という資本主義の矛盾に巻き込まれていくものでしかなかった。第二に、労働者の自己解放を圧殺する閉塞性ゆえに、一国社会主義の建設自体が次第に行き詰まっていくものでしかなかったのである。

2.スターリン主義発生の要因

物事の本質はその始まりにある。スターリン主義批判を深化させるために、ロシア革命後約10年のスターリン主義発生の次元に光を当てたい。ここではその発生の要因を簡単にみておく。

ひとつは、客観的要因である。1917年ロシア革命は、帝政ロシアを打倒し、反革命干渉戦争からプロレタリア権力を守り抜くことで、世界革命の過渡期を切り開いた。しかし、それはストレートにはヨーロッパ革命ー世界革命へとは直結しなかった。この現実は、ロシアのプロレタリア権力に、世界革命の推進のためにたたかいつつ、その遅延の中で孤立した権力を防衛し、可能な限り過渡期社会の建設もすすめなければならないという、困難な課題をつきつけた。革命後の状況はこのようなものであった。

ふたつめは、主体的要因である。上述の重層的困難(その最大のものは労働者階級が内戦で崩壊状態に陥ったこと)は、しかし、必然的にスターリン主義の発生と成立をもたらしたものではなかった。そうではなく、スターリン主義は、この困難に屈服・迎合し、世界革命(革命の継続)を放棄し、その展望から切断された地点で「一国社会主義建設」を自己目的化・絶対化した時点で発生したと考えられる。

しかし、この「困難に屈服・迎合」したのは誰であったのか。それはスターリンとスターリン主義者であると同時に、はっきり言ってロシア革命を担った多くの革命家たちであった(その後、その多くの者がスターリンによって処刑されるのだが)。ここに現代史の最も深刻なテーマがあると思われる。

もちろん、ロシア・ボルシェビキのスターリン主義への変質は、必然的に、スムースにおこなわれたわけでは全然なかった。スターリン派とマルクス主義の原則を貫こうとした部分の激しい党内闘争におけるスターリン派の「勝利」の結果として成立した。しかし、やはりそれは、反革命党が外部から革命党を打倒したのとはちがう。また、20年代当時、党と国家の周辺に群がった新官僚、テクノクラートやネップマンが党に重大な悪影響を与えたのであるが、しかし、かれらが直接ボルシェビキ党の主導権をとったわけでもない。後にも述べるが、当時の党の指導権は数千人のロシア革命以来の古参ボルシェビキが独占していた。かれらの少なからぬ部分が次第に自己保身的に変質し、スターリンを支持する、あるいはそうしたスターリン主義者に妥協し屈服するという現実があったのである。

世界革命を目指した理想主義の党が、どのようにして官僚主義的なスターリン主義の党に変質・転向していったのか、この負の教訓をえぐりだすことは、スターリン主義批判の必要・不可欠な部分と考える。

3.スターリン主義はいつ発生したのか

では、ロシア・ボルシェビキは、いつからスターリン主義の党で、いつまで共産主義者の党であったのだろうか。

1924年12月、書記長スターリンは「一国社会主義論」をうちだす。一国社会主義論は、跋扈しはじめた官僚層の決定的なイデオロギー的支柱となった。以後、28ー9年までにはスターリンは独裁的権力を確立していく。
23年4月12回党大会から23年13回党大会までに、スターリンは、ジノビエフ、カーメネフとともに「三頭同盟」を形成し、党の官僚主義の是正をもとめたトロツキーら反対派を打ち負かした。(24年1月レーニン死亡)。そして、25ー27年、今度はブハーリンと連合したスターリンは、一国社会主義論に対して世界革命を対置したジノビエフ、カーメネフとトロツキーらの合同反対派との闘争に勝利し、党を基本的に制圧する。(そして、その後、28ー9年のブハーリン派の粛正、30年代の大量逮捕、大量粛正へと続いていく。)

この過程はすでにスターリン派が主流派で、左翼は「反対派」でしかない。したがって、基本的には23年12回党大会を転換点に、ボルシェビキはスターリン主義者が主導する党へ変質していたといえる。実際の経過が示すように、24ー27年の党内闘争は、左翼反対派にとって「党内闘争」としてたたかうのであれば敗北は必然であった。なぜなら、スターリン派は党内主流派として党と国家の機関を握り、実践力と警察力をもった集団であるのに対し、左翼反対派は単あるイデオロギー上の連繋をもった集団にすぎなかった。スターリン派は、党の規律、とりわけ分派の禁止をたてに左翼反対派が直接党員大衆と接触するのを阻害し、降格・配転・除名などの人事で反対派を弾圧・追放していった。

では、どのようにして、革命党であったボルシェビキ内において、スターリン派が主流派になってしまったのだろうか。この問題を考える場合、NEPが開始された21年から23年までの過程が重要であると思われる。20年末に内戦は終結し、ロシア・ソビエト権力は防衛されたのであるが、21年3月ー23年10月のドイツ蜂起は敗北し、世界革命の遅延は決定的なものとなっていった。この過程でボルシェビキとソビエト権力内に官僚主義が急速に台頭した。

4.「レーニン最後の闘争」ー23年12回党大会

23年ボルシェビキ12回大会で、レーニンはスターリンの書記長解任を追求したといわれる。この有名な「レーニン最後の闘争」は、スターリン主義との最初の公然たる闘争となるはずであった。レーニンのスターリンへの弾劾点は大きく二つの焦点があった。

第一点は、グルジア問題に示されたスターリンの排外主義・大ロシア民族主義の問題である(論文『少数民族の問題、あるいは「自治共和国」の問題によせて」)。
21年2月、スターリンとオルジョニキーゼは、グルジア・ボルシェビキの意向を無視して、グルジアの外部から赤軍を侵攻させ、グルジア・メンシェビキ政権を打倒した。その後も、グルジア・ボルシェビキと対立しつつ、民族自決権をまったく無視した強引なロシアへの中央集権化をすすめていった。そして、22年には、独立したソビエト共和国同士の連邦という関係を清算し、ウクライナやカザフ諸国(グルジアなど)をロシア共和国内の自治国へと格下げすることを提案したのである。レーニンはこれを国際主義に反するものと気づき、厳しく弾劾した。
ここでレーニンは、抑圧民族のプロレタリアートにとって、被抑圧民族の信頼を確保することが何よりも重要なこと、そのために形式的な「平等」ではなく、現実の不平等をうめあわせ、償う努力が不可欠であることを自己批判的に提起した。

レーニンのスターリン弾劾の第二点は、国家と党の官僚主義化の問題である(論文『量は少なくとも質のよいものを』『われわれは労農監督部をどう改組すべきか』)。ここでレーニンはスターリンがその責任者をしていた労農監督部(ラブクリンー他のソビエト機関への無警告の調査権をもつソビエト機関)を「労農監督部ほど悪くつくられている機関はなく、いささかの権威もない」と弾劾し、その改組を要求している。また、「官僚主義はソビエト機関だけでなく、党にもある」といい、中央委員会ー政治局、そしてスターリンが支配する組識局−書記局の各会議を監督する中央統制委員会の設置を提案した。

レーニンがこのふたつの問題を世界革命の展望(ヨーロッパ革命とアジアの民族解放闘争)と関連して考察しているように、「世界革命(革命の継続)か、一国社会主義論か」をかけたスターリン主義との闘争のはじまりがここにあったといえよう。しかし、現実の12回党大会は、レーニンの病欠、トロツキーもまた十分にたたかえないという中で、レーニンの提案を換骨奪胎させたスターリンが勝利してしまった。ここにスターリン主義化への決定的転換点があったと思われる。

では、ロシア革命における民族問題および、党内における官僚主義の問題は、どのような経過で12回大会までいたったのだろうか。

5.ロシア革命の民族問題

1917年10月、勝利したロシア革命は、有名な「ロシア諸民族の権利宣言」を発した。宣言は、ロシア諸民族の平等と主権、自由な自治を高らかに宣言した。これは革命の政策というより理念を謳ったものといっていい。
18年1ー3月までに、革命権力は、フィンランドを除く旧ロシア帝国内の非ロシア人地域を基本的に制圧した。この中には、タタール革命やアゼルバイジャン・バクーソビエトなど当該地域の強固な革命権力もあったが、他方、コーカンドで地元住民を大虐殺したトルキスタン・ソビエトのように、ただ、旧支配層=入植者がソビエトに衣更えしただけのものもあった。
18年3月ロシア革命政府は、ドイツとブレスト・リトウスク条約を締結し、第一次世界大戦から離脱するため、ほとんどの国境地域を放棄せざるをえなくなった。赤軍が撤退する中で、ウクライナではボロチバ派(SR系の左翼)の激しい反ドイツ蜂起がたたかわれ、ロシア政府内では、ブレスト条約反対・ウクライナの反ドイツ蜂起支援を訴えてSR左派が政権から離脱する。
しかし、18年11月ドイツ革命によって、ロシア・ソビエト政府はブレスト条約を破棄することが可能となり、以後ロシア南西方面を赤軍が再制圧していく。ロシア・ボルシェビキは、内戦の教訓と民族理論の深化から、今度は基本的に各民族の自決権を承認し、ベラルーシ、ウクライナ、そしてバルト三国などと、独立の主権ソビエト共和国間の連邦条約を追求していく。
20年末、激しくたたかわれた内戦も終結し、赤軍は基本的に反革命を撃退するが、ポーランド侵攻戦争では敗北する。ウクライナとベラルーシは連邦にとどまるが、バルト三国は連邦を離脱する。そして、赤軍はザカフカスを、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの順に制圧した。以上がおおまかな経過である。
(注ーロシアは、南方をトルキスタンなど中央アジア、西方を西北のバルト三国、西隣のウクライナ・ベラルーシ、西南をグルジアなどのザカフカスに接している。)

ではここで、ロシア革命と民族解放闘争の結合において、レーニンとボルシェビキがめざしたものは何であったろうか。
第一に、反革命からソビエト権力を防衛し、世界革命の拠点を守り拡大することである。第二に、民族自決権=分離の権利をきっぱり認めることで、逆に国際主義的な求心力をつくりだし、連邦の中央権力を強化することである。第三に、民族的な差異を乗り越えた共産主義者の単一党を形成することである。

では、このような目標=理想は、現実にはどのような困難=問題に直面したであろうか。
第一に、内戦の制約という現実である。民族自決権といっても真空の中で抽象的に行使されるわけではない。革命が制圧しない地域は、反革命が制圧するというギリギリの地点でそれが問われた。
第二に、民族自決権と連邦の中央集権の矛盾である。内戦の現実は、軍事的外交的中央集権を絶対的に必要としていた。民族的権限と連邦の権限の正しい関係は、実際の政治的経済的関係に規定されたきわめて具体的な問題だった。
第三に、排外主義・大ロシア民族主義の問題である。革命の勝利をもってロシア・プロレタリアートがただちに排外主義と無縁の存在になったわけではなかった。一方で、国際主義への熱烈な希求を生み出しながら、他方で帝政以来の排外主義が色濃く残存していた。そのことが、トルキスタンで、ウクライナで、そしてグルジアでも、赤軍とボルシェビキへの非ロシア人民の深刻な不信を生み出していた。ここに革命権力がのりこえるべき最大のテーマがあった。

第四に、いかにして内実ある単一の党を形成するか、という問題である。レーニンは、1904年の党2回大会以来、民族別の党に反対し、単一の共産主義者の党を追求してきた。当時のレーニンのユダヤ人ブントへの批判には大きな問題点・欠落があったが、やはり単一党が必要ないということにはならないであろう。歴史的現実として、ブントがユダヤ人を解放したのではなく、ボルシェビキのプロレタリア革命だけが、ユダヤ人解放の前提を準備したといっていいいと思う。
しかし、他面、既存のロシアの党の規律に他民族の共産主義者が従えば自動的に単一の党になるということでは全くなかった。20年5月、トルキスタンのルイスクローフが独自の中央委員会をもつチェルク共産党(トルコ語圏の国際党)の建設を要求しているが、段階的に単一党を目指そうというこの提起が原則的に間違っているとはいえない。実際に単一党の中身をどう形成するかが問われていたといえる。
(コミンテルンの創成にも同様のことがいえる。20年2回大会以降、コミンテルンは21か条の加入条件をもって、鉄の規律による中央集権的な党となった。しかし、21年、23年のドイツ蜂起指導の相次ぐ敗北、22年中国革命への誤った指導など、世界党の中身は不十分なものでしかなかった。)

第五に、プロレタリア革命における正しい民族解放理論を確立する問題である。1916年のレーニン『帝国主義論』は、資本主義の最後の段階としての帝国主義が、金融独占を形成した列強による世界分割を完了させ、再分割戦争を不可避とする世界体制であることを明らかにした。この帝国主義論は、それまでのブルジョア的な民族解放の限界を明かにし、帝国主義本国のプロレタリア革命と被抑圧民族の解放闘争の結合による一元的な世界社会主義革命を基礎づける内容であった。
しかし、当時このように帝国主義論の内容が十分に拡張され、プロレタリア革命論と民族理論が整理されていたわけではなかった。レーニンとボルシェビキは、民族問題はブルジョア的テーマという二段階革命の発想を引きずっていた。(それを示す端的な例が、22年の中国共産党に指示した、国民党加入方針。また、レーニン・ロイ論争でも二人ともそういう立場を前提にしている。)要するに、現実の階級闘争の中で、民族理論を一歩一歩、深化・止揚していく過程にあった。
23年12回党大会では、スターリン報告とこれまでの党の民族政策に対し、ウクライナ、トルキスタン、グルジアの代表たちが口々に批判をあびせた。グルジアのマハラゼは「共和国の独立が虚構にすぎないのは、誰でも知っている」と弾劾している。まさに、そのとうりであったろう。問題は、このような現実をのるこえて正しい国際主義にむかうのか(レーニン)、すべてを居直り抑圧するのか(スターリン)という二者択一であった。ボルシェビキの飛躍が求められていたが、現実の12回党大会は、スターリンがこれら被抑圧民族の糾弾を踏みにじり、多くのロシア人ボルシェビキがこの現実とたたかうことを放棄してしまった。

スターリン主義はいかにして発生したか、という問いを以上の民族問題から照射したとき、次のようにいうことができる。革命と革命理論は、たたかいの中で自らの不十分性を乗り越え、誤りを訂正して前進するものである。しかし、スターリン派は、このような革命本来の発展する生命力を否定し、誤りを固定化し、自己を絶対化することで合理化し、革命の反対物へと転化していった、と。
革命の理論が現実の階級闘争と離れたところで、あらかじめ個人の頭脳の中に完成されてあると考えることほど、唯物論的弁証法に反することはない。革命の自己の矛盾を止揚し発展する生命力を否定したところで、スターリン主義は発生したのである。
それでは、この革命の発展する生命力を圧殺したものは何であったろうか。それこそ党の官僚主義化に他ならない。

6.ボルシェビキと官僚主義

23年10月にトロツキーが党の諸会議にあてた『新路線』と題する手紙には、「党の官僚主義が党を行き詰まらせるおそれがあるという理解、少なくともその感覚が、ほとんど全党的なものになっている」「官僚主義は自主性を圧殺し、まさにそのことによって党の全体的水準の向上を妨げる」「何よりも必要なことは組識を支配している精神(注ー権威主義と官僚主義)を変えること」と述べられている。
21年NEP(新経済政策ー余剰農産物の商業化)を提起したボルシェビキ10回党大会は、一方でのフラクションの禁止と粛党、他方でのプロレタリア民主主義(全党員の諸問題の審議の自由、党役員の選挙)を決議している。NEPによって国家と党に群がる官僚層から党の中央集権主義と党内民主主義を防衛する努力がつづけられていたと考えられる。しかし、党機構の官僚主義化が重大な問題になっていった。党役員の選挙は形骸化し、書記の任命制(本来は、当該組識で選出し上部組織が承認する)によって、党組織の人事が支配されていった。そして、その頂点に政治局内の組識局ー書記局を支配するスターリンがいた。指導部への批判を規律違反(フラクションの禁止)をたてに弾圧する、慎重さをかいた粛党=除名などが横行していった。このような党の官僚主義化がスターリンの支配を準備していった。

では、当時のレーニンは、官僚主義的歪みとたたかうためにどのような政策をとっていたであろうか。
先に述べた10回党大会の分派の禁止と粛党は、NEPの中で出世主義者や不純分子が党に流入することを防止するためのものと思われる。レーニンとボルシェビキは、当時党と国家の指導層を形成した数千人の古参ボルシェビキの権威を高めることでNEPの否定的影響と闘うことを組識政策としていた。
しかし、現実の危険はその古参党員の側にもあったのである。トロツキーは『新路線』で「党内民主主義の枠の中で年長世代と年少世代との不断の相互作用のみが古参の精鋭部隊を革命的要因として保ちうるが、そうでなければ老人は硬化し、自分でも気づかないうちに機構官僚主義の最も完璧な体現者になってしまいかねない」と指摘している。
労農監督部もレーニンは当初、国家の官僚主義者を摘発するものとして大きな期待をよせていた。しかし、現実にはこの労農監督部が最も悪質な官僚機関として、スターリンの私兵のようになっていたのである。
要するにレーニンは、党外のブルジョア的危険には強く身構えていたが、党そのものの官僚主義がもたらす危険には当初、無警戒だったといえる(グルジア問題でも最初はスターリン支持、その後激烈に転換)。スターリンはこういったレーニンとボルシェビキ組識の無防備な面をついて党内の官僚的支配をすすめていったといえる。

7.党組識論について

前述の問題を党組識論として総括してみよう。第一に、党は戦闘組識としての中央集権主義、その政治的権威を不可欠としているが、第二に、党は階級の政党として情勢と組識防衛に適応された党内民主主義を必要としており、その権威は批判的精神に裏打ちされていなければならない、ということである。
トロツキーは、「民主主義と中央集権制は党建設の二つの側面をなす。課題は情勢に最も照応するしかたで、この二つが釣り合うことである」と指摘している。また、エンゲルスもゴータ綱領批判にかかわる手紙で、党機関紙・誌に討論の自由が感じとれないことを批判し、「党が必要とする社会科学は行動の自由なしには生きられない。不愉快を我慢して節度を保ってそうするのがよい。大政党の規律は小セクト内ほど厳格ではありえない。」と、党の成長に対応した民主主義の必要を提起している。
レーニンは、メンシェビキや解党主義との闘争上、中央集権主義を強調していたが、党内民主主義を否定していたわけでは全くなかった。そうではなく、政治警察と反革命からの防衛に適応した形で民主主義の中身を実現せんとしていたのである。以下、レーニン組識論を少しみてみよう。

1902年『なにをなすべきか」『一同志に与える手紙』
「秘密活動の一切の糸をその手に集中する厳格な中央集権組識」を提起したこの論文では、「完全な同志的信頼があれば真の民主主義はこれに含まれる」として、党の権威を押し出している。一般に政党の民主主義は、大会と選挙によって過半数が信任する政治方針と執行部を選出するのであるが、弾圧下の秘密活動ではこのような手続きは不可能である。しかし、有志の任意加盟の革命家の組識では、党の政治方針と指導部を信頼するもののみが活動に従事することになるのだから、同志的信頼があれば民主主義の内実はあるのだという論理である。「実際の重大な紛争や意見の違いは、脱党の威嚇と闘争によって解決してきた」。
1904年『一歩前進、二歩後退』
「サークル主義か、単一党か」をかけて論争し、ボルシェビキの基本原則を開示したといわれるこの論文は、3週間以上かけておこなわれた党大会の記録であることを忘れてはならない。レーニンは、選挙も大会もできない状態を理想化していたわけではまったくなかった。有名な規約1条(組識への帰属)ではレーニンは投票での敗北に甘んじている。しかし、選挙結果を踏みにじるメンシェビキの暴挙は容認しなかった。中央集権主義者のレーニンは、民主主義にも忠実であった。
1920年『共産主義における左翼小児病』
コミンテルン2回大会のために書かれた。党の中央集権と鉄の規律が成立する条件として、@前衛の階級意識と自己犠牲、A大衆と結びつく能力、B政治指導と戦略が正しく、それを広範な大衆が経験によって納得することをあげている。

以上、みてきたように、本来のレーニン党組識論は、中央集権主義とともに、党の民主主義、あるいは政治方針・戦略が階級から信任されていくことを不可欠のものとみなしている。
実際、1922年までボルシェビキは、10月蜂起・戦時共産主義・赤軍建設・ブレスト条約問題などで大きな政治方針の対立や論争を含んで進んでいたが、それを規律違反で弾圧するようなことはなかった。トロツキーの働きかけによる23年12月の政治局の決議では、「不断の生き生きとした思想生活のみが、革命前や革命時に党がそうであったように、自らの過去の不断の研究、自らの誤謬の訂正、重要問題の集団的審議をおこなう党として保ちうる。そうした活動のみが意見の不一致をフラクション的グループに転化することを防ぐ現実的保障である。」としていた。
しかし、次第に中央集権主義や規律が階級闘争から遊離して強調されるようになっていった。12回党大会では、ジノビエフが「党へのあらゆる批判は客観的にはメンシェビキと同じく異端である」と演説している。このような党の権威への物神崇拝がスターリン派の勝利を準備した。党が唯一絶対的に正しいという立場から党への批判は反動的なものとされ、だから強権的に圧殺しても構わないという論理を生み出していったのである。
左翼反対派の敗北のひとつの要因がトロツキーの組織論の弱さにあったということは言えるであろう。しかし、それをひとりトロツキーの責任に帰することはできない。レーニンを除く古参ボルシェビキが、トロツキー以上の反対派の指導者を一人として排出できなかったのはなぜかを問わねばならない。ジノビエフも、カーメネフも、ブハーリンも、党の権威をかざしたスターリンには実に弱々しく屈服してしまった。党の中央集権主義と民主主義、党の権威と批判的精神の正しい結合が必要ではないか。

参考文献 :ドイッチャー『武装せる予言者トロツキー』『武力なき予言者トロツキー』、ボフダン・ナハイロら『ソ連邦民族言語問題の全史』、ケビン・マグダーマットら『コミンテルン史』、トロツキー『新路線』、レーニン全集など

2002年10月

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