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『君の名は?』
「JFK」といえば、言わずと知れた John F. Kennedy アメリカ合衆国大統領だった人物の名前である。
彼は、Kennedy家のJohn君、なわけだが、では「F」はいったい何なんだろうか?
実は欧米人の名前には、個人名を表す first name と、家族名を表す last name または
family name のほかに、middle name というのが存在する。
国や文化によって名づけ方や意義はそれぞれだが、個人名と家族名以外の名前が存在する、ということは共通している。
英語圏では、自分自身が first name を気に入らないときにかわりに middle name のほうを通称として使用したり、first
name と middle name の頭文字を並べて通称にしたりしている(たとえば Donald James Smith なら、"DJ"と呼ばせるなど)。
キリスト教圏、とくにカトリック圏では洗礼名が middle name に含まれている場合もある。
また、middle name は必ずしも一つとは限らず、複数持っている人も多い。画家のピカソも、簡単には覚えられないほどフルネームが長いのは、middle
name をたくさん持っているからである(興味のある方はご自分でお調べになるとよいでしょう)。
なぜか、ということを考えるには、まず名前とは何か、から考えなくてはならない。
名前とは、個人を識別するための標章、記号である。つまり、「○○さん」と言ったときに、だれしもが同じ人物を想起できることが機能的に必要とされるものなのである。
原始のころ、おそらく数百人程度の規模の集落で生活していたころは、名前は一つでも充分だったに違いない。なぜなら、数百人程度であればみな違う名前をつけることはそう難しいことではなかったはずだ。その言語で使用される音が15種類と仮定してみると、5音で表される名前の組み合わせは15の5乗、
759,375通りになる。すべて同じ音の連続や、発音が難しい並び、忌避される意味の言葉と同じまたは近い、などを除いたとして、仮に100分の1としても、7,593通りはあるわけだ。
しかし、これが数十万人、数百万人というような規模の国家になってくると、 それでは足りなくなってくる。
また、歴史の記録が始まり、過去の人物も人々の記憶にとどめられるようになってくると、ますます名前のネタは尽きてくるだろう。
親たちは自分の子に名づけるとき、願いや思いをこめて名づけるであろうし、そうなるとよい意味を持った言葉が好まれ、多く使われるようになるのも自明の理である。
そういう状況で、名前の、個人を識別するという機能を保全するためにはどうすればよいか。
考えられるのは次の二つの方法である。
1.名前に使う音数や字数を増やすことでバリエーションを広げる。
2.本人の所属や性質、立場などを個人名とは別の名前とする。
1.の方法はダメだということはおわかりになるだろうか?
これをやってしまうと、しまいには落語の「寿限無」のような長い長い名前になってしまい、呼ぶにも覚えるにも多大な苦労をすることになってしまうのだ。
実際にほとんどの文化において採用されたのは2.の方法である。
その中で最も多いのが家族を識別する名前と、共通の先祖を持つ集団を識別する名前である。
これはだいたい、その文化における生活上のコミュニティの形成単位と一致する。それはなぜか?
それは、そのコミュニティの中では個人名のみで識別が可能であり、他のコミュニティとの関係の中では両方の名前を使用することで識別が可能だからである。それによって常に複数の名前を使う必要がなく、おおよそ日常では個人名のみで通用するわけである。
だがしかし、それでもなお、まったく同じ名前を持つ人間というのはどうしても出てくるのである。
それは、時代が経つにつれて一人の人間の子孫が増え広がるわけであるから、家族や先祖につけられた名前も、同じものを持つ人が増えていくからである。
歴史的に見れば、そのときにはまた別の属性をあらわす名前を増やしていくことで対応したのである。
それには以下のようなものがある。
1.居住地や出身地の地名
2.兄弟順や世代順の数字
3.役職や職業の名前
これらは、名前として組みこまれたものであるが、現代でも無意識のうちにわれわれが個人識別のために使用していることがある。
たとえば、「長野の叔父」(地名)とか、「おたくの下のお子さん」(兄弟順)、「田中課長」(役職)、「電器屋のおじさん」(職業) といった具合である。そう言われれば、「ああ、そうか」と思い当たるはずである。
さて、ここで日本人の名前を考えると、法的な根拠のある名前というのは二つしかない。「氏(姓)」と「名」である。
例外的に、パスポートの申請などで「通称」として芸名や旧姓などを書くこともできるが、基本は上記の二つである。
これは明治維新以後、民法の制定により決まったことであり、実のところそれ以前にはそれ以外のものも存在していた。
名前の成立過程を元にして分けてみると、以下のようなものがあった。
1.同一の祖先を持つ集団を識別するもの → 氏(うじ)
2.氏の中で共同生活の単位である親類・縁者の集団を識別するもの → 苗字(みょうじ)
3.律令制度上の役職名 → 職名
4.兄弟順や特定の人物との血縁関係を表す名前
5.宗教上の名前 → 法名など
6.文化活動などにおける別名 → 号、雅号、庵号など
7.個人の名前 → 名
1.の「氏」は祖先を識別する名であるため、基本的には変化することはない。これにあたるのは「源」「平」「藤原」などであり、このうち源と平は天皇の子孫が皇籍から臣籍に移る(=皇族でなくなる)ときに下賜された(もらった)名前で、藤原は大化の改新における功績に対して中臣鎌足に天皇から与えられた名前である。
この「氏」はすでに大和時代から制度上存在しており、明治に至るまで存在し続けたが、明治以降はほぼまったく使われなくなった。
2.は現在の法律上「氏」あるいは「姓」と呼ばれているものである。
これは律令制度が事実上崩壊し、武家の時代に移るにしたがって、自家の領地である「名(みょう)」を基盤とした共同生活単位ごとにつけた名前である。だから「名字(=苗字)」というのである。
そのほとんどは地名から来ている。
たとえば平氏一族のうち関東に移り住んだ一族は、たとえば三浦半島を根拠にした三浦氏や、現在の千葉市付近の千葉氏など、祖先は共通していても、それぞれ異なるグループであるために、地名によって区別していたわけである。
また、藤原氏の場合には役職名の略称に「藤」をつけるケースが多かった。たとえば、左(右)衛門佐であれば「佐藤」、近江守であれば「江藤」、遠江守であれば「遠藤」、加賀守であれば「加藤」、越後守や豊後守などであれば「後藤」、左(右)近衛中将であれば「近藤」などである。
3.は大岡「越前」や羽柴「筑前」などに見られるような名前であり、現在で言えば「専務」とか「部長」などにあたる呼び方である。
これらはもともと律令制度が機能していたときには、実権と実質を備えた役職名であったが、律令制度の崩壊によって単に名目上与えられるものになっていき、戦国時代ころになると個人が勝手に名乗る「自称」まで現れた。
江戸時代には幕府が朝廷に奏上して武士たちに律令の官職を与えていたが、末端の武士たちや武士以外の層の間には「自称」の流れを汲む名前も残っていった。たとえば「善兵衛」の「兵衛」は律令の「左(右)兵衛督(佐)」などから来ている。
4.はいわゆる「太郎」「次郎」「三郎」である。長男から順に太郎・次郎・三郎・四郎・五郎・・・であり、十郎の次、十一男以降は「余太郎」あるいは「与一郎」のような名前になる。またニ世代以上が共同生活をする場合には、それだけでは区別できないので、三男の五男を「三郎五郎」、四男の次男を「四郎次郎」などと呼んだりした。
これは後に他の名前と組み合わせたりして、現在でも「名」の一部として残っている。たとえば「清一郎」というのは「清原氏の長男」であり、「源三」は「源次の三男」だったものである。
5.と6.については省略する。ようするに「空海」とか「海舟」といったものである。
7.は本来の意味での「名」なのだが、現在ではかなり廃れてきている。
「家康」「道長」「幸村」といったものがこれにあたる。が、現在の「名」のほとんどは3.と4.の組みあわせなどの流れを汲んだ名前である。たとえば「順平」という名も、「順兵衛」または「順平一郎」などの略称が元になっている名前なのである。
ほとんどの場合は漢字二字だが、例外的に嵯峨源氏は「源融」のように一字名を用いる伝統があり、現在の「瞬」などの一字名はこの流れを汲んでいるといえる。
このように、日本人の名前にはもともとたくさんの要素があり、場合に応じて使い分けられてきたのである。
しかし明治以降、すべては「氏」と「名」で統合され、本来の意味を失った。
人口十数億を擁する中国で氏の種類は数百種しかないと言われているが、人口一億二千万余の日本の苗字は10万種類以上あると言われている。これは、中国の氏は「共通の祖先を表す名前」であるのに対して日本の「氏」がかつて共同生活単位の名前であったからである。
中国や韓国では夫婦の氏が異なるのに、日本では夫婦が同姓なのもそのためである。
また、源頼朝の妻が「北条」政子であり「源」政子ではないのは、「源」は「氏」であり、源氏の子孫でない政子が名乗るべき氏ではないからである。
現在、民法改正の目玉として夫婦別姓が議論されているが、このような流れを踏まえて議論している者がどれだけいるだろうか?
夫婦別姓にするということは、「共同生活者」ではなくなることであり、結婚により「家族」を形成する意義自体を否定することになる、ということに、どれだけの人が気づいているだろうか?
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