【織田信長考】

----------【その参拾五】----------

 元亀元年(1570年)六月二十八日姉川の戦いが終わった。
 七月二十一日三好三人衆(三好長慶の武将たち)が摂津中島に入り、野田、福島に砦を築いて信長に反撃の姿勢を見せた。
 信長は八月二十日、三好三人衆の討伐を装って出陣、二十六日には両砦に迫ったが、石山本願寺を包囲する布陣を敷いた。九月十二日夜、本願寺が挙兵。九月十六日、浅井、朝倉が本願寺と連絡を取りながら、兵三万を率いて京に迫る。信長は、野田、福島を引き払い、二十四日比叡山に上った浅井朝倉軍と対峙した。十一月、伊勢長島の一向一揆の門徒勢が、尾張小木江城の織田信興(信長の弟)を攻め、十一月二十一日、信興は自害、城は落ちた。
 十一月晦日、将軍義昭が、信長と浅井朝倉に対して和談を持ち込む。講和は天皇が命じ、十二月十二日信長は将軍に誓書を提出した。

 元亀二年(1571年)五月、信長は伊勢長島を攻め、十六日村々を放火してまわり退去するとき柴田勝家が傷を受け、氏家ト全が討死とこの長島攻めは失敗した。
 八月十八日南近江における一向一揆の最大拠点や北近江の金ヶ森城を攻める。九月十二日、比叡山焼き討ちを命令、根本中堂他社寺堂塔五百余棟を焼き払い、僧俗男女三千人の首を切った。

 元亀三年(1572年)一月十四日、本願寺の顕如が武田信玄に書状を出し、信長の背後をおびやかすよう要請する。このころ一向一揆より一層各地で活発になる。
 九月、将軍義昭に対し「異見十七ヶ条」(諫言書)をつきつけた。
 十二月、武田信玄(二万五千の兵力)が遠江三方ヶ原で徳川家康軍(八千)を破った。この戦いに信長が送った援軍は三千、平手長政が討死した。

 天正元年(1573年)三月、将軍義昭が三好義継、松永久秀と結んで信長からの講和申入れを拒絶。四月四日、信長は上京に放火して義昭の拠る二条城を囲んだ。四月七日和約が成ったが、七月三日、義昭は宇治の槇島城に拠って挙兵しようとした。七月十六日、信長に包囲された義昭は、子義尋(よしひろ)を質として差し出し、山城国枇杷城から河内の若江城(三好義継の居城)に移った。
 四月十二日、武田信玄が肺結核(肺ガンともいわれる)で信州駒場の山中で死去している。

表紙へ  前へ  次へ

最終更新日:16.10.01