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SOLITUDE(下巻) SOLITUDE(下巻)

「私は隣人を愛したいと思う。だがそれは、隣人が私にほかならぬためでは断じてない。隣人が断じて私ではないという、まさしくそのためにほかならぬ。私は、世界を讃美したいと思う。けれどもそれは、まるで鏡を見るように──つまり、世界が実は私自身であるからではない。私は、まるで女を愛するように──つまり、まったく私とは別個の存在であるからこそ愛するのだ」
──G・K・チェスタトン著、安西徹雄訳『正統とは何か』(春秋社、1995年)

一体、『ソリチュード』というタイトルには、どんな意味があるのだろう? 日本語にすれば「孤独」だが、「ロンリネス(loneliness)」と較べると、「ソリチュード(solitude)」には、同じ「孤独」でも「穏やかな」「静謐な」というニュアンスがあるらしい。しかし他の巻が、どれも直球勝負なネーミングなのに対し、本作のそれだけが妙に抽象的だ。そこで『ソリチュード』というタイトルの命名意図について、ちょっと考えてみたい。もしかすると、このタイトルには、人は甘美な全体主義(つまり「プロジェクトAYA」)の誘惑を退け、「孤独」を抱えて生きていくべきだという、深いメッセージが込められているのかもしれない。

『下巻』のラストシーン(つまり「PDS」のラストシーン)では、彩の心象世界から生還した降矢木と梨絵香が、春風が静かに吹き渡る湖水の畔で、孤独に耐えるように寄り添っている。この時、本作において最も重要だと思われる台詞が、2人の間で交わされる。

「お姉様もお父様もローズも、みんな心を知ったばかりにあんなことに……。人は人の心を覗いちゃいけないのよ
「人の心は人の心の中で生きていくんだ。そして、
その心を人に伝えていく

我々は自我を持った個人である限り(「プロジェクトAYA」を否定する限り)、どうしようもなく孤独な存在だ。そして孤独であるがゆえに、人の心を覗きたいという欲望に駆り立てられる。真行寺剛は、その欲望を暴走させた挙句、死という絶対的な孤独に至りつくという、悲劇的な逆説を演じた。蘭香芳に限らず、人はみな「永遠の孤独」を宿命づけられているのだ。

しかし我々には言葉がある。人から人に心を伝えるのは、小宇宙にどこまでも潜行していけるサイキック能力ではなく、大宇宙の起源にあった言葉だ。我々はサイコアナリストの力を借りなくても幸せになれるし、幸せになるべきなのだ。降矢木は特A級のサイキック能力を失ってしまったが、梨絵香との絆は、いよいよ強く確かなものとなったのだから。

一見、実に子供じみた大オチを披露したように見える『ソリチュード』だが(ウェブ上での評判は、おしなべてよくない)、実は「大人のためのAVG」を称するに相応しいメッセージをプレイヤーに提示していたのだ。すなわち、心は「覗く」ものではなく、「伝える」ものである。これは素晴らしいメッセージではないだろうか? コミュニケーション下手の私には、なかなか耳の痛いメッセージだけど(笑)。

ラストシーンの続き。一陣の風とともに場面は転換し、2人の幼い姉妹が、舞い散る桜の花弁よりも軽やかな笑い声を上げて、丘の向こうへと走り去っていく。まさに夢幻のような光景だ。こうして「サイキックディテクティヴシリーズ」という大人のための壮大なお伽話は、不幸な結末をたどった姉妹愛の物語(『インビテーション』)で始まり、そして、やはり不幸な結末をたどった姉妹愛の物語(『ソリチュード』)で幕を閉じるのである。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
──新改訳聖書刊行会訳『新約聖書』「ヨハネの福音書」第1章(日本聖書刊行会、1988年)