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第六章「比企の山城を歩く」(2017年版)

[副題]武蔵国歴史散歩




 本章は2009年に「比企の山城を歩く」と題してスタートしました。地元比企の山々を歩いていると、偶然「中世の山城」跡に頻繁に遭遇しました。これをキッカケに、改めて比企地方を中心にして「武蔵国」の歴史を学ぶことにしました。「中世の山城」は、自然の山、谷、河川などの要害を活かして作られており、山歩きの楽しみと共に「時代を駆けた人々」の「息吹のようなもの」も感じさせてくれます。

2011.6.25には元埼玉県立博物館館長の金井塚良一氏の「辛亥銘鉄剣の謎を解く」の講演を聞き、古墳時代のヤマト王権と東国の首長集団との関係にも大変興味を惹き立てられました。

2017年版では、地元比企地方の弥生・古墳時代から戦国時代にかけての歴史と日本古代史(とりわけ、ヤマト王権)との関わりを調べて行きます。


哀悼! 金井塚良一先生が平成27年(2015)6月18日、逝去されました。先生は私に地元「比企地方」の古代史を感動的に語ってくれた方でした。東松山市出身、埼玉県立博物館館長、県立さきたま史跡の博物館館長など歴任、五領遺跡の発掘などで多くの業績を残されました。先生の語り口が今でも耳に残っています。心より哀悼の念を表明申し上げます。合掌

1.トピックス


国宝「辛亥銘鉄剣」

埼玉県立さきたま史跡の博物館にて窒素ガスが充填された
ガラスケース内に表裏の文字が見える形で展示 2011.8.7 撮影

この鉄剣に刻まれた115文字は、発見以前の日本古代史を書き換えるほどの一大衝撃を
私達に与えてくれるものでした。そこには、「わたしはワカタケル大王(雄略天皇)に仕え、
天下を治めるのを補佐した。そこで、辛亥の年(471年)7月、この素晴らしい刀剣にこれまでの
輝かしい功績を刻んで記念とする」と記されていました。古代ヤマト王権と武蔵国との関係を
強烈に証明した「鉄剣」です。


 金井塚先生によるこの「鉄剣」の話し(2011.6.25)を聞いた後、大和国から上野国・下野国を結ぶ
古代の幹線道路「東山道」の難所である「神坂峠(みさかとうげ)」(標高1569m)に2011年7月29日、立ちました。
ここは、岐阜の名山「恵那山」に登る登山口です。この峠は美濃国(中津川)から信濃国(伊那地方)へ
抜ける要所にある峠です。この峠からは南アルプスを始め、東国に続く山々を一望することができます。
先生の講演にもありましたが、4〜6世紀のヤマト王権時代、この東山道を通って上野・下野国を支配した
大豪族達(地域首長)は多くの武人達をヤマトへ、そして、朝鮮半島へと送り込んだのでしょう。
それを記念する115文字の漢字が金象嵌された古代の鉄剣に、私は1時間以上、釘付けになって見惚れていました。





NEW「三角縁神獣鏡」

地元「高坂」にある「高坂古墳群」から平成23年10月、この銅鏡が発見されました!
埼玉県で初めて発見された「三角縁神獣鏡」です。古代のヤマト王権とこの比企地方との深い関係を物語る
貴重な資料です。考古学の編年からこの銅鏡は、西暦250〜260年の間に製作されたものとされています。
三世紀には邪馬台国と呼ばれる王権が日本にあり、女王・卑弥呼が支配していました。魏志倭人伝には魏の皇帝が卑弥呼に
銅鏡100枚を送ったと記載されています。この銅鏡が「三角縁神獣鏡」と言われ日本国内で560枚が発見されていますが、
ヤマト王権があったとされる畿内で300枚以上が見つかっていたのですが、埼玉県では一枚も見つかっていませんでした。
その一枚が地元高坂から発見されたのです。

発見された銅鏡には漢文で「陳氏が製作したものである」と書かれた「三角縁陳氏作四神二獣鏡」とよばれるもので、
同じ鋳型で製作した同笵鏡はまだ見つかっていません。卑弥呼の銅鏡かどうかは分りませんが、関心を持って見ていきます。


NEW今、「三角縁神獣鏡」が熱い!!


2015.1.17 シンポジウム「三角縁神獣鏡と3〜4世紀の東松山」
(講演)橿原考古学研究所長 菅谷文則氏
国立歴史民俗博物館准教授 上野祥史氏
東海大学教授 北條芳隆氏
   大東文化大学講師 坂本和俊氏
(コーディネーター)早稲田大学講師 車崎正彦氏
高坂8号墳の発掘現場から出土した「三角縁神獣鏡」のシンポジウムに参加!
講演会会場は、「古代史ファン」でいっぱいでした。

菅谷文則氏「日本国産鏡説」

今、この鏡の出土が地元比企で大変な論争になっています。ヤマト王権と比企との関わりを考えて行く上で、
とても貴重な発見です。このシンポジウムで、橿考研の菅谷所長は「三角縁神獣鏡は魏からの舶載鏡ではない」
と明確に「日本製である」との見解を述べられて、他の講演者との熱い議論もありました。今、大きく日本の考古学
が従来の定説を見直す段階に入ったということを痛感しました。

「三角縁神獣鏡」と「ヤマト王権」を学ぶ

              
三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡 西川寿勝 楽浪郡製(魏鏡説と国産鏡説の中間) 1999.5
三角縁神獣鏡の時代 岡村秀典 魏鏡説 2000.6
考古学と古代史の間 白石太一郎 2004.2








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NEW反町遺跡


高坂地区からもう一つ大きな考古学的発見がありました。それは、高坂古墳群の真下に広がる低湿地から現れた
古墳時代前期の巨大な集落跡「反町遺跡」です。規模も埼玉県下で最大規模であり、本格的な灌漑施設の遺構や
水晶を用いた玉つくり工房、日本各地の系譜を引く土器の発見などで関心が集まっています。
左の写真はその灌漑施設「精緻に作られた堰」の遺構です。この堰によって、右下から左上へ流れる旧河道を
右上へと流れを変えています。堰は、長い横木に杭を並べて差込み、その後ろに支えの大木を置いており、
緻密で高度な土木技術が伺えます。

2015.1.3 セミナー「見えてきた!古墳時代の幕開け-東松山市反町遺跡を中心に-」(熊谷市文化会館)
講演「東国の出現期古墳と大和政権」明治大学名誉教授 大塚初重
研究報告「古墳」青木弘
研究報告「集落と土器」福田聖
研究報告「灌漑施設と木器」矢部瞳
研究報告「玉つくり」上野真由美
総括  「反町遺跡と古墳時代の幕開け」赤熊浩一

反町遺跡は、松山台地と高坂台地に挟まれた都幾川の沖積低地に広がる遺跡です。大型商業施設と住宅地開発
のために平成17年から平成20年にかけて発掘調査が行われ、数多くの発見がありました。その一つが、大塚先生も
おっしゃっておられた「発見される土器群を見ていると、古墳時代には東京湾岸地域・東海地域・機内地域との
新しいネットワークが構築され、人や物の多くの移動があった」ということです。それを証明するように、この遺跡
からは丹後系、山陰系、北陸系、吉備系、畿内系、尾張系、東海系の各地の特徴を持った外来系土器が発見され、
また、ヤマト王権との関係も伺わせる「水晶製勾玉と緑色凝灰岩製管玉」を在地生産する製作工房跡も発見されて
います。


NEW「高麗郡」建郡1300年

地元の歴史が熱い!来年2016年は、「高麗郡建郡1300年周年」


2015.7.5 地元比企郡に隣接する日高市にて高麗郡の古代史の「記念講演会」を聞く。
高麗郡は、西暦716年(霊亀二年)に、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野にいた高句麗人1799名を高麗の里に遷して建郡された。


顕密体制論

2014年6月、中世寺社勢力について調べている時、日本の「中世史像」を 大きく転換させた黒田敏雄氏の『顕密体制論』の研究に出合いました。
この問題提起は素晴らしく、今まで学校の日本史で学んだ中世史像が音を立てて崩 れて行くような衝撃を受けました。
この「顕密体制論」は更に学習を深めて行きます。


1:近江・観音寺城跡探訪を追加
2:近江・安土城跡探訪を追加


「田村のテーマ」・・・地元・比企郡の歴史に興味を持っています。縄文・弥生時代の比企から、古墳時代の比企、ヤマト王権が
比企郡も含めた東国に影響力を持った時代、そして、慈光寺が創建され、武蔵武士が活躍した時代(平安後期〜鎌倉時代前期)、
多くの巡礼者が比企山中を歩いた室町〜江戸時代などを、調べて行きます。特に、比企中世史では、地元在住の神盛氏から貴重なご意見を
戴きました。神盛氏

2014年1月、神盛氏より「比企学事始」を頂きました。本書は、郷土の歴史や「比企一族」をこよなく愛する
地元有志の方々が執筆・刊行された本です。




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「第六章」の目次

                 
トピックス
「比企の山城」を歩く!
  (副題)武士の誕生
武蔵国歴史探訪   
・「さきたま古墳群」探訪      
武蔵国(比企以外)&周辺の山城探訪
「巡礼古道」を歩く
巨大寺社勢力
New顕密体制論
日本全国の歴史探訪
武蔵国以外の山城探訪
穴太衆・穴太積み





地元の「流鏑馬(やぶさめ)」行事を調べる

地元比企地方の伝統的イベント

2     
萩日吉神社の流鏑馬 1月下旬開催
慈光寺鎮護のため近江坂本から勧進された神社、鎌倉武士団との繋がりが強かったと言われる
阿寺諏訪神社の獅子舞 10月体育の日(前日)開催
飯能と越生の分水嶺「奥武蔵・越上山の標高500m地点」に位置する神社、大きな足さばきの3匹の獅子が見もの
出雲伊波比神社の流鏑馬 11月文化の日開催
毛呂山町の中央に立地する神社、鎌倉武士団の一つ「毛呂氏」と関わりが深い、勇壮な流鏑馬でTV局や外国人観光客も参観


出雲伊波比神社「秋の流鏑馬」



「鎌倉武士の伝統を伝える流鏑馬(射手は中学2年生)」

2011年11月3日、地元・毛呂山にある「出雲伊波比神社」にて撮影、ここ比企地域は武蔵武士の故郷の一つであり、勇壮な流鏑馬行事が毎年執行されています。
この「流鏑馬」行事は比企住人である私達のプライドの一つです!



流鏑馬では「3騎」が疾走します。「一の馬」は白、源氏を表します。





「二の馬」は紫、藤原氏を表します。





「三の馬」は赤、平氏を表します。この「三騎」が、騎射(「矢的(やまとう)」を3

出雲伊波比神社「春の流鏑馬」


「春は秋の本祭と違い六歳の可愛い男子が射手です」
2015.3.8 毛呂の出雲伊波比神社にて「春の流鏑馬」を撮影

阿寺諏訪神社の獅子舞

阿寺諏訪神社は奥武蔵の山中、標高500mに建つ神社。奥宮はかって越上山山頂付近にあり、越生・越辺川源流に位置し雨乞いの儀式がなされていたが、
この獅子舞は今は飯能の「養蚕業」繁栄の祭礼と変わっている。

三匹の龍頭の獅子(太夫・男獅子・女獅子)

2013年10月13日撮影、龍頭と長い鳥羽の胴が特徴。




大きな足さばきで「山の神」(長老)の前で舞う獅子

2013年10月13日撮影、龍頭と長い鳥羽の胴が特徴。





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2.「比企の山城」を歩く!


「武士誕生」の地

 私の住む埼玉県比企郡は古代の武蔵国(むさしの国)の一郡であり、この地は平安時代後期〜鎌倉時代(が主、足利幕府時代から戦国時代
にも光芒はあったが)にかけて「武蔵武士」達が活躍した地域でした。武蔵国は、現在の東京都と埼玉県の全域、神奈川県の一部を合わせた広大な地域でした。
この比企の中央部には鎌倉街道の一つ「上道(かみつみち:武蔵路)」が通り、鎌倉幕府を支えた「武蔵七党」の一つ、畠山氏の居館があった地でもあります。
鎌倉幕府は、「相模武士」と「武蔵武士」が支えた武家政権と言われ、幕府による国内整備も進みました。しかし、室町時代に入ると、武蔵国は内戦が続発する地
となりました。室町幕府方と関東管領・山内上杉氏、そして、古河公方と三つの勢力による闘いが関東を舞台に繰り広げられ、比企一帯も元亀天正の戦国時代には、
上杉氏、武田氏、北条氏が争奪戦を繰り広げた土地となりました。この三氏の闘いは最終的に北条氏の関東支配で決着を見ましたが、その後、豊臣秀吉の小田原征伐で
比企の諸城も他の武蔵国の諸城と同じく落城、北条氏の後、徳川家康の所領となった経緯があります。

この比企地方に住んでいると、武蔵武士達が中世・戦国時代に築いた山城跡がたくさんあることに気づきました。日本史では一般に戦国時代は「応仁の乱」から
始まったとされています。しかし、ここ関東では、その応仁の乱よりも早く、室町幕府(足利氏)と鎌倉公方(上杉氏)が戦った享徳の大乱(1454〜1482年)から
始まったとされています。関東管領・山内上杉氏の内部抗争(扇谷上杉氏と)も激しく、この時代に比企地域には多くの山城が築かれました。

 中世史の研究者の間で、この比企地域は『中世城館跡の優れた保存地域』と言われていることも知りました。今、比企地域には、確認されただけでも65ヶ所の
城館跡があると言われています。その中でも、松山城跡など19ヶ所の城跡と9ヶ所の館跡は良好な保存状態にあるとされています。その中から、3ヶ所の中世城跡
(松山城跡・杉山城跡・小倉城跡)が『比企中世の城館跡群』として国の指定史跡となっています。この章は、比企を始め各地の「中世の山城跡」を訪ねる歴史ロマンの旅です。

 更に山城探訪に加えて、2009年には比企地域一帯に残っている「中世〜近世の古道」を尋ね始めました。
まず、『巡礼の道』として有名な慈光寺道(じこうじみち)を歩きました。

(1)比企の山城探訪

             
鎌倉街道上道
比企を縦断する政治・文化の幹線
小倉城跡
ときがわ町大字田黒字小倉
大築城跡
越生町大字麦原
松山城跡
吉見町大字南吉見字城山
杉山城跡
嵐山町杉山
山田城跡
滑川町山田
青鳥城跡
東松山市石橋字城山
高見城跡
小川町大字高見字四ッ山
NEW青山城跡
小川町大字青山字立巌

(特別)比企中世史の疑問点と神盛氏の見解




 中世に活躍した武蔵武士

 平安時代末期から鎌倉時代・室町時代・南北朝時代にかけて、武蔵国には多くの武蔵武士団が割拠していました。武蔵国は東国の一国で、東国と呼ばれた地域には、現在の関東地方と重なり、関八州と呼ばれる「上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)・下総(しもふさ)・上総(かずさ)・安房(あわ)・相模(さがみ)・武蔵(むさし)」の国々から構成されていました。この章では、特に「武蔵武士」の世界を取り上げて行きます。


「武蔵武士」という言葉には大いに惹かれるものがあります。大正二年、渡辺世裕・八代国治氏によって書かれた『武蔵武士』に、次の文章がある。(以下、引用)

「武相の兵は天下に敵なし」とは、近古以来武蔵を中心としたる関東武士の剛勇を称賛したる詞なり。関東武士がこの称賛すべき活動を国史の上に胎ししは、あに夫れ近古に於いてのみならんや。既に上古に於いても、この称賛に添うべき活躍をなし、国史の上に一の異彩を放てり・・・・・・




 鎌倉街道上道(かみつみち)

 比企の中世史を考える上で、重要なキーワードの一つは「鎌倉街道」の存在です。この鎌倉街道は、比企地方を縦断する街道で鎌倉から武蔵国府(府中)を通り、入間川を越え、比企を縦断して上州・信州・越後へと繋がる中世の大幹線道路でした。この街道は、古代から中世に掛けて、政治的にも文化的にも重要な役割を比企地方で果たしてきました。比企に残る中世遺跡はこの街道に沿って確認されており、政治も文化も生活もこの街道と切り離しては語ることができません。しかし、徳川家康によって江戸に幕府が開かれ、新たに江戸を中心とした街道網が整備がされると、その役割は終えたと言われています。

 鎌倉街道上道は一本の道ではありません。多くの枝道を含むたくさんの道の集合体だと言われています(私が好きな「巡礼の道」慈光寺道もその一つです)。その中で主要となるのが、「鎌倉から化粧坂または大仏坂、巨福呂坂を越え、俣野に至り、瀬谷から本町田を抜け多摩丘陵を越えて多摩川を渡り、武蔵国の国府のあった府中に至る。武蔵国分寺脇から武蔵野を北上、所沢から入間川を渡り、高麗川、越辺川(おっぺがわ)を越え、笛吹峠を抜けて菅谷から今市に出て荒川を渡り、広木、児玉を通り、神流川(かんながわ)を越して上州に入る」ルートです。





 毛呂山町に残る「鎌倉街道上道(その1)」

 地元比企郡には「鎌倉街道上道」遺跡が残っている。これは、鳩山の隣・毛呂山町の大類付近に残る鎌倉街道上道の跡である。この上道沿いに「武蔵七党」の居館や寺院、宿、市場、職人達の工房が作られていた。




 毛呂山町に残る「鎌倉街道上道(その2)」

 掘割状道路遺構

 この付近、高麗川から越辺川に囲まれた1Kmには「鎌倉街道上道」が原型を良く留めて残っている。即ち、台地を掘って作られた「堀割状」の軍事道の遺構である。道幅は、約5m、両側には側溝も作られていたことが発掘調査で判明した。今は、その掘割の底部に、樹木が生えていた。







 森林公園内の「鎌倉街道上道」表示

 この森林公園内の「鎌倉街道」は「枝道」の一つとされている。つまり、基幹道路としては余りにも幅が狭まい感じだ。




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(1)小倉城跡(「武蔵国山城紀行」その1)

ほぼ完璧な遺構が残る「中世の山城跡」

 小倉城跡は、地元・比企郡が誇る「中世山城跡」である。中世に築かれて、太閤秀吉の小田原征伐で落城するという運命の城だったが、残土廃棄などの乱開発にも見舞われず、中世の雰囲気を今に伝える貴重な山城跡遺跡の一つである。この小倉城は、奥武蔵と関東平野の境に位置し、そこは中世の交通(水運、陸路)の要所を押さえる場所に築かれた。槻川が大きく蛇行する突端の山頂(標高138.5m)に築かれ、南北360m、東西110mの長細い城址が確認されている。




 小倉城跡の特徴の一つが、山城の北側に家臣団が住んだ「遠山集落」が昔の佇まいを程よく残したまま残っていることが挙げられる。その遠山集落から、小倉山城を見上げる。

 小倉城主とされる遠山右衛門大夫光景は、小田原北条氏の重臣の一人として「江戸城代」を勤めた武士だった。





 本丸と曲輪の間に作られた「空掘」





 小倉城「本丸」跡

 最上部には、かなり広い平坦地が作られていた。ここが本郭である。






 三ノ郭の南面と東面の「石積み遺構」

平板状の緑泥石片岩を斜面側に角を揃えて、積み上げて、壁を作り上げている。場所によっては、高さ5mにもなっており、これはもう「石垣」と言ってもいい遺構だ。この緑泥石片岩は、日本各地で産出されるが、この小倉城では隣町の小川町の下里産出の緑泥石片岩が使われている。

 この遺構は「土塁」と呼ぶよりも、「石垣」と呼んだ方が正解のようだ。同様の「石積み遺構」は小倉山山中にたくさん残っており、この小倉城は「石垣で作られた城」としての評価が一般的となっている。





 麓の大福寺の境内にあった「案内板」






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(2)大築(おおづく)城跡(「武蔵国山城紀行」その2)

「中世社会の覇権」を賭けた闘いの山城


武士の棟梁である戦国大名達が、自らの領国支配を貫徹するために、巨大な力を持つ武装宗教勢力と闘い、その兵力を削がなければならなかった。領国統一の過程で、各地で戦国大名は宗教勢力と凄惨な戦いを行ったのだ。この武家と戦った巨大寺社勢力の存在もまた、日本の中世史を彩る特徴的存在だ。これは興味深いテーマであり、本章の後段で取り上げてみよう。



 大築城は、越生町の最奥の村「麦原集落」と隣接するときがわ町の境界となる稜線上の大築山(標高466m)山頂に築かれた山城である。この大築山は、地元では「城山」と呼んでいる山だ。




 大築山全景

中世「巡礼の道」である慈光道を越生から都幾川に広見峠から抜け、ときがわより撮影:都幾川一帯を見下ろす高台の山だ



 この大築山は、戦国時代、強大な勢力を有していた寺院「慈光寺」の寺領と、武士が支配する越生郷との境界に築かれた戦国時代の山城であった。領国の境界を守る山城という目的と共に、その「慈光寺」と戦うために、小田原北条氏の家臣で松山城主であった「上田能登守朝直」が慈光寺から南方5Km、慈光寺領の都幾川一帯を見渡せる山頂に築いた山城だったという伝えもある。





 大築山山頂

 ここに「本丸(本郭)」があった。山頂には、本丸跡らしく広い平坦地があった。山頂からは北方の都幾川一帯を一望の下に見通すことができた。






 本丸跡にあった「大築城の説明板」




 大築城は、大規模な掘割りと折を伴う整備された導入路と虎口を持つ技巧的な縄張り(設計)に特徴がある。さらに、本丸の法面には「石積み遺構」も発見されており、石積みを有する本格的な山城だったことが判明している。






 「モロドノクルワ」と呼ばれる頂上から張り出した尾根の先端

 勿論、「モロドノクルワ」は「毛呂殿の曲輪」のこととされている、毛呂氏は松山城主・上田氏の家臣で在地の武士であった。この曲輪も比較的良い状態で残っている。ここから東面から攻めて来る敵を見渡すことができ、本丸を守る拠点の一つだったことが分かる。








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(3)松山城跡(「武蔵国山城紀行」その3)

比企地方を代表する中世の山城


 比企地方を代表する中世の城を一つ挙げるとしたら、この「松山城」となることに異論は出ないだろう。この山城を語る形容詞は、三つある。一つ目は、大きく立派な縄張りを有する山城であること。つまり、ここは川越や鎌倉方面に繋がる街道と、鉢形から上州を経て信濃に向かう街道、そして、前橋を経て越後に続く街道の要衡の地を押さえる拠点としての役割を持っていたこと。二つ目は、戦国時代を終焉させる小田原北条氏と太閤秀吉との闘いの中で落城したという歴史上の役割を持っていたこと。三つ目は、比企出身(東秩父)の上田氏の居城であったこと、である。

 松山城遠望

 松山城は市野川が三面を囲む高台に築かれている。第二次世界大戦時に軍部によって市野川は流れが変えられたが、元々、松山城の回りには市野川が作る広い沼地が広がっていたものと思われる。そして、吉見丘陵の先端の高台なので、特に南から西、西から北方面の見晴らしは抜群である。






 松山城跡の看板

 松山城の歴史は、遠く応永年間(1392-1428年)の扇谷上杉氏と古河公方との戦いに遡ると言われている。しかし、やはりこの城を有名にしたのは、上杉謙信・武田信玄・北条氏康の関東覇権を賭けた闘いの舞台となったからだろう。この三者の戦いは有名な川越夜戦で小田原北条氏が上杉軍を破り北条氏の勝利となり、その後、北条に付いた上田朝直が城主となった。そして、太閤秀吉の小田原征伐時に、前田利家と上杉景勝の軍に落城させられた。




 山頂には広い本丸跡

 大きな城らしく、広い本丸跡と共に、二の丸、三の丸、春日丸跡、兵糧庫跡などが配置されていた。






 深い空掘の遺構





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(4)杉山城跡(「武蔵国山城紀行」その4)

「杉山城問題」を突きつける城跡

 杉山城跡は驚くほど良く手入れがされている山城跡遺跡だ。大手門跡から本郭まで、その構造が実に手に取るように保存・復元されていた。そして、地主の協力で立木が伐採されていることと、それに隣接する玉ノ岡中学校の生徒達が整備作業をしていると思われる点も素晴らしい。比企地方の中世山城を学習する上で、典型的「城郭モデル」となる城跡と言うことができる。

 日本の城郭研究家の間で、今、「杉山城問題」が大きな課題の一つとなっている。これは、今まで入念に積み重ねられて来た「城郭構造の編年」を大きく揺るがす発見がこの杉山城の発掘調査でなされたのだ。杉山城はその完成度の高い「縄張り」から、『見事に完結した土の城の到達点』として戦国時代の大大名・北条氏によって16世紀後半に築城されたと看做されて来た。それが、発掘調査で出土した遺物が示す年代は、「15世紀末〜16世紀第1四半期」となり、城郭構造との推定年代との間に大きくずれを生じてしまったのだ。これが、「杉山城問題」である。



 杉山城遠望

 南方に市野川が流れ、その先を「鎌倉街道上道」が走っているのがよく眺められる。更にその先には、「小倉城」の山城を見ることができる。ここもまた鎌倉街道を押さえる要衡の地であった。






 「杉山城」の案内板

この山城も、小田原北条氏の城の持つ特徴を多く備えており、北条氏か、その重臣が築城したものと考えられている。





 大手口から本郭へ向かう

 立木が伐採され、山城の全貌を大変よく見学することができた。





 空堀と虎口

 「防衛要塞」としての山城の構造が本当に良く分かる遺構だ。私達、比企地方が誇る「比企型虎口」の構造も見事に残っている。私自身も、この杉山城跡で、「横矢掛り」など城の基本構造や防御機構を学んだ。

(参考)中世城郭研究会の西股総生氏が、埼玉県の比企地方の杉山城・小倉城・腰越城・四津山城等で特徴的に見られる虎口のことを、「郭の一端を長方形に突出させて、その前面を土塁で強化し、側面に開放部を設ける。」ものを『比企型虎口』と命名され発表されている。






 最上部の「本郭」跡地

 


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(5)山田城跡(「武蔵国山城紀行」その5)

森林公園内の小公園と化した「中世城跡」

 山田城跡は舌状に突き出した丘陵の突端に築かれているが、今は「森林公園」の中に取り込まれている。古代から中世に掛けて基幹道路であった鎌倉街道の一枝道もこの森林公園の中を通っているが、その鎌倉街道の枝道に面して城の虎口が作られていた。




 山田城跡の「看板」

  山田城主は、忍城城主・成田氏の家臣「小高大和守」と「ニエ田攝津守」が務めた。この城も豊臣秀吉の小田原征伐の時、前田利家によって落城した。

 山田城の空掘の一部

  土塁と空掘を楕円形に一周して造った単純な形をした城跡である。しかし、後世の田畑などの開発を免れたため、土塁や空掘の保存状態はとてもいい。



 山田城の「本郭跡」

  小高い小丘を登ると、頂上部には卵型の平たい草地が広がっていた。



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(6)青鳥城跡(「武蔵国山城紀行」その6)

「虎御石」が広大な城跡の佇む

 青鳥城(「おおとりじょう」と読む)の城跡は、東松山の西北部に広がる通称「松山台地」の南縁部に作られていた。城の南側には都幾川の低湿地が広がり、東側には「鎌倉街道上道」の枝道の一つ(河越〜熊谷)が、北側には軍事上重要な道(松山城〜鉢形城)が通じる要衝の地であった。




 「虎御石(とらごいし)」

 

 本郭部から500m位離れた地点(三ノ郭の水掘の脇)にひっそりと佇む巨大な板碑があった。それが、「虎御石(とらごいし)」と呼ばれている高さ3mを越える真言の板石塔婆である。

 「虎御石」「寅子石」と呼ばれる石は各地に存在している。この呼び名については、「とら」と言われた巫女達がこの板石で祈祷などの宗教行事をしたことと関係があると言われている。






 「青鳥城跡の説明板」

 

 青鳥城は大きな城だった。とてもよく残っている本郭部だけでも、縦横100mの正方形の平地で周囲を土塁と空掘が囲んでいる。その本郭を包むように、二ノ郭と三ノ郭が作られていた。この内、二ノ郭は田畑や宅地に開発されているが、その土塁と空掘は北面に残っている。三ノ郭は、田畑、宅地、工場に加え、関越道と国道254バイパスとで大きく崩されているが、その外周を囲んでいた水掘の一部が、遠く関越道を隔てた地点に「おため池」として原型を留めていた。







 「青鳥城の本郭部」

 

 青鳥城の本郭部は、立派だった。三ノ郭、二ノ郭を越えて登った最上部に、土塁と空掘で囲まれた100m四方の平坦地が広がっていた。この城が元は「武士の館」跡だったと言われることももっともだと感じられた。これと似た遺構は、近くに残っている「菅谷館」跡にもある。



 「おため池」

 

 本郭部から遠く500m位離れた地点に、三ノ郭の周囲を囲んでいたと思われる水掘の一部が「おため池」として残っていた。




 

(8)高見城跡(「武蔵国山城紀行」その8)

「典型的」な中世山城跡

 中世山城研究家は、この「高見山城」を一度は見るべきだと思う。高見山城は越後・春日山城や八王子城のような巨大な山城ではない。小規模ではあるが、その保存状態の良さ、山容を活かした縄張りから、中世山城の雰囲気を満喫できる城跡である。



 「高見城跡」遠望

 

 高見山城は、小川町にある独立峰「四津山」の山頂にある。麓の田畑から見上げる高見山城は、まるで「ピラミッド」のような綺麗な三角錐の形をしている。














 山頂にある「高見山城」の説明板

 

 高見山城は、北方を荒川流域一帯を眺め、南方は市野川に面し、その市野川筋の旧「鎌倉街道上道(かみつみち)」を睥睨する好立地に作られた要害だ。

 この高見城の城主は、増田四郎重富と言われている。もう一つ名高い事件は、この山城の北面にある「高見ヶ原」で、関東管領・山内上杉氏と、その一族であった扇谷上杉氏とが激しく戦った(長享2年(1488)〜延徳3年(1491))舞台としてだ。



「長享の乱」:長享元年から約20年に渡って、山内上杉氏(関東管領)と扇谷上杉氏(相模国守護)が分裂・抗争を繰り返した。長享二年六月、武蔵須賀谷の戦い(埼玉県嵐山町)、長享二年十一月、高見ヶ原の戦い(埼玉県小川町)は激闘だったと伝えられている。





 本郭に建てられた「四津山神社」

 

 山頂は比較的広い平坦地が作られている。そこには高見城の「本郭」があったが、今は「四津山神社」が建っている。その神社の横手から尾根筋を行くと「掘切」が現れ、その奥に「二ノ郭」、「三ノ郭」が続いている。






New(9)青山城跡(「武蔵国山城紀行」その9)

「拠点」松山城の支城(別名「割谷城」)

小田原北条氏の比企地域支配の拠点である「松山城」を防衛する支城が比企の街道筋の要所に築かれた。

 「青山城跡」の看板

 

 小川町を見下ろす標高265mの山上に青山城は築かれている。槻川と鎌倉裏街道に沿った山地の稜線上であり、交通要所を押さえる地である。




 「堀切」の遺構

 
青山城は「仙元山から物見山」へと続く尾根筋に築かれている。防衛のため、尾根筋は要所要所、人工的に断ち切られている。それが「堀切」である。



 「本郭跡」

  山頂部には人工的に平坦地が作られ、「本郭」が築かれていた。そこから伸びる2本の尾根に沿って「二の郭」、「三の郭」が配置されていた。この尾根上の先には、同じく松山城の支城である「小倉城」も築かれていた。




 

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4.巨大寺社勢力

はじめに


 山城見学で訪れた大築城跡で、比企一帯を支配下に置いた北条氏の重臣・上田氏(松山城主)が慈光寺と戦ったことを知った、何故、世俗の武家である上田氏は慈光寺と戦ったのだろうか?

 この「答え」は、中世の社会を考察したある本の中で見つけた。その本は、伊藤正敏氏「日本の中世寺院」だ。この伊藤氏の中世考察で初めて「巨大寺社勢力」の存在を知ることとなった。つまり、中世日本には、「朝廷(公家)」と「幕府(武家)」と共に「寺社勢力」が社会の支配勢力を構成していたというのだ。そして、その巨大寺社は広大な荘園を有し、一種の「自由都市圏」となしていた。となると、織田信長の比叡山焼き討ちと同じことが、大築城を築城した上田氏によって巨大寺院の一つであった慈光寺に対して行われたとしても不思議なことはない。


 中世史考察

ここでは中世に誕生した巨大寺社勢力について考察してみよう。本章で取り上げた慈光寺もその一つであるが、慈光寺は「鎌倉幕府」から庇護を受けて、都幾川を本拠とした広大な寺領を持っていた。そこには「守護不入権」という独自の権力基盤も認められていた。巨大寺社には「境内都市」と呼ばれる自由都市が形成されていた。この境内都市を有する巨大寺社は圧倒的に近畿地方に多く、京を境内都市として支配した延暦寺、「大和国守護職」と呼ばれた南都・興福寺が有名であるが、近畿以外の日本各地にも存在した。その境内都市を有した巨大寺社勢力の例を挙げてみよう。


                           
都幾山・慈光寺武蔵国北条氏重臣上田氏と抗争
比叡山・延暦寺近江国織田氏と抗争
南都・興福寺奈良織田氏と抗争
南都・東大寺奈良織田氏と抗争
高野山・金剛峰寺奈良織田氏と抗争
紀伊・根来寺紀伊国豊臣氏と抗争
紀伊・粉河寺紀伊国豊臣氏と抗争
白山・平泉寺越前国一向一揆と抗争
白山・豊原寺越前国織田氏と抗争
近江・敏満寺近江国六角氏・京極氏と抗争
筑紫・観世音寺筑紫国豊臣氏と抗争
豊前・雲仙寺豊前国大友氏と抗争

これらの大寺院には「共通項」があった。一つは、広大な寺領の中に農民だけでなく多くの職人や商人を有し、強大な自由境内都市圏を形成していたことである。このことが、地域の覇権を確立し全国統一を図ろうとする武家勢力との凄惨な戦いの原因の一つとなったことは言うまでもない。もう一つの共通項は、これら大寺院は朝廷や鎌倉幕府・室町幕府から篤い庇護を受け広大な寺領を有しており、在地で力を増した武家勢力と戦って行く過程でこれら寺院自体も「要塞化(武装化)」して行ったことだ。そして、天正年間(織臣政権時代)に武家支配が確立する過程でこれら巨大寺社勢力は歴史の表舞台から消えて行ったのだ。

New『顕密体制論』

「巨大寺社勢力」を単なる地域勢力として捉えるのではなく、「中世の支配階層の 一つ」として看做す考え方が日本中世史研究の主流となっていることを知った。それが、 1975年、黒田俊雄氏が提起した「顕密体制論」だ。

この黒田氏の提起した「顕密体制論」を知るまで、私は中学・高校の「日本史」で学ん だ「中世日本は武士の時代」という型に嵌まった認識を持っていた。しかし、それにし ては古代から続く巨大寺院が日本各地で戦国時代まで武家勢力と何故対峙できたのか?疑問 に感じていた。それを黒田氏は明快に説明してくれた。つまり、「教学と儀礼を膨大に 発達させた中世寺院は国家と強固に結び付き中世社会に存在していた」という提起だっ た。中世寺院は、「インド・中国風を装いながら、独自の創作を発展」させて、観念的 呪術性を高度に発展させた。それら寺院では根幹となる行として「天皇の身体安全」を 祈る「国家法会」が催行され、貴族や武家にも負けない「力」を有していたのだ。言わ ば、日本の中世(鎌倉〜室町時代)は、「武士・貴族・寺社」の三者が協力することによ って、支配体制が構築されていたというのが「顕密体制論」の要旨だ。

「顕密」とは顕教と密教を指し、古代(奈良〜平安時代)から続く「南都北嶺」の仏 教の8宗派を総称した言葉である。

その1

慈光寺と中世の巡礼道「慈光道」

 大築城を築いた武士達が対峙したという「慈光寺」を訪れた。今は、昔日の光を失っているが、古都の奈良や京都、鎌倉の古刹に通じる雰囲気が漂っていた。

 所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平386



 慈光寺観音堂

 飛鳥時代・天武天皇9年(680年)に鑑真和上の高弟「釈道忠」によって開山したという東国最古の寺歴を有し、「天台別院一乗法華院」(延暦寺別院)と称して関東を代表する有数の山岳寺院であった。源頼朝や武蔵武士に篤く信仰され、鎌倉時代には幕府御願寺となって鎌倉幕府や武蔵武士の崇敬を集めて繁栄、天正年間には「一山75坊」と言われる大寺院となって関東屈指の宗教勢力となっていた。

 慈光寺には名宝も多い。貞観十三年(871年)に上野国権大目安部小水麿が寄進した「大般若経」(小水麿経)や、文永七年(1270年)に後鳥羽上皇や藤原兼実などが書写して奉納した金銀泥装飾経「一品経」などが有名である。






 慈光寺参道の板塔婆

 慈光寺に至る参道には昔日の繁栄を偲ばせる「板塔婆」が立っている。時代を見ると鎌倉時代、室町時代のものを見ることができる。慈光寺別当には畠山重忠の一族が当てられ、また吉見氏一族も補任されており、武蔵武士との関係が深かった。参道には、和田氏の「和田の井」や、梶原氏の「塔の井」など相模武士の遺跡も残っている。そして、室町時代に入ると「観音信仰」が普及して多くの一般市民達の参詣を集めることとなった。

 その関東一帯に絶大な勢力を誇った慈光寺も、戦国時代には北条家重臣・上田氏の武力制圧に屈し、北条支配、引き続く太閤秀吉支配の時代を迎えたが、その後、徳川家康によって再び庇護され、家光の室・桂昌院からも篤い信仰を集めた。



その2

観世音寺(「筑紫国」)

 大宰府に隣接し、九州を代表する寺院として君臨した「観世音寺」を訪れた。今は既に、昔日の光を失っているが、「宝物殿」に集められた仏像群は圧巻である。5mを越える巨大な仏像が林立している光景は、この御寺がかって絶大な勢力を有していたことを示している。



 大宰府全景

大宰府は、奈良時代・平安時代の九州統治の中心地だった。伸びやかな光景の中に、昔日の威容を想像させる礎石群が残っていた。


 観世音寺

観世音寺は、奈良時代・天平18年(746年)に創建された古刹である。豊臣秀吉の九州(島津)征伐で広大な寺領は没収されてしまうという、やはり武家の支配に敗北した寺社の一例だ。かって威容を誇った「七堂伽藍」は今はもう無くなっているが、その法統は受け継がれ、境内にある「宝物殿」は一見に値するものと言いたい。


その3

平澤寺跡(「武蔵国歴史紀行」)

 嵐山町大字平沢字赤井

かって武蔵野国に平澤寺という慈光寺に並ぶ巨大寺院があった。平安末期の建造と推定され、その堂跡の発掘から、東日本最大級の規模を誇る本堂があったとされる。鎌倉幕府においても重要な位置付けがされており、その公式記録である「吾妻鏡」にも「平澤寺院主」の任命のことが記録されていた。今は広大な寺域は田畑に帰ったが、発掘された「鋳銅経筒」が昔日の繁栄を垣間見せてくれている。





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(特記事項)

比企中世史に関する「疑問」と神盛勝海氏の「ご回答」

比企の山城など中世遺構を訪ねていて、疑問点がいろいろ出て来ました。この疑問に対し、地元比企の歴史に関して知見をお持ちの神盛勝海氏(比企高坂在の住人)から次のような回答を戴きました。

      
疑問1比企武士群が鎌倉幕府創建の一翼を担うまでに強大な武力を持つに至った背景には何があるのか?比企丘陵に鎌倉武士・・・畠山氏(重忠)、吉見氏(二郎三郎)、大串氏(二郎)、正代氏など・・が活躍したのは、一説によると源範頼(吉見町の吉見観音)、源義仲(嵐山町鎌形八幡)、比丘尼など鎌倉になじみがあったことからとも言われています。
故吉川英治氏は「私本太平記」執筆にあたり、当地域、嵐山町、今宿(現鳩山町)へ実査に来ています。
疑問2戦国時代以降、比企地方が歴史的役割を急速に失った原因は?鎌倉幕府の実権が北条氏に移ると共に、旧勢力が避けられてのではと言われています。また後北条氏(鉢形城の氏邦)が入って来たり、越後の上杉氏の進出により、さらに徳川氏が関東に勢力を張ってからは、この比企地域は旗本の知行地となり 、いわゆる「鎌倉武士」の勢力が衰退したと言われています。
疑問3比企の宗教勢力の繁栄と衰弱の歴史 比企地域では「都幾山慈光寺」が天台宗別格本山の勢力がありました。僧侶が使う細川紙を製造するために「小川町の和紙」が盛んになったと言われています。
高坂の高済寺には江戸南町奉行加賀爪直澄の墓や徳川将軍の御朱印状「25石」があります。


もう一点、神盛氏からのご意見を紹介します。

(神盛)鎌倉街道に「笛吹峠」と言う名称が出てきます。
『太平記』の武蔵合戦の記述に出てくる「碓氷峠」の所在は論議の対象になっているところですが、小生は、「うすいとうげ」とは上野と信濃の境にある「碓氷峠」を指すのではなくてこの鎌倉街道にある「笛吹峠」を指すものとしています。(「笛吹」と書いて「うすい」と読むアナウンサーもいます・・小生の自論)
この「笛吹峠」の読み方ですが、小生は自論として「うすいとうげ」としているところ、県立埼玉資料館の回答は「ふえふきとうげ」と読むとしています。そもそも「笛吹峠」の地名は、その昔、宗良親王は月明かりに惹かれて笛を吹いたところから「笛吹峠」の字を当てたという。それでは、この宗良親王以前の呼称は何だったのか?「うすいとうげ」なのか?・・・現在の所判明していません。

(田村)この「笛吹峠」も比企の中世史を語る上で、重要な場所の一つです。ご指摘の内容もまだ歴史家の中でも見解が分かれるところです。「なぞ」が多いほど、歴史にロマンを感じます。

「田村のテーマ」

平安後期から鎌倉初期にかけて、多くの有力な武人達を出 排出した比企地方だったが、それ以降、何故歴史の「表舞台」から比企は姿を消してしまったのか?この理由を考えて行きたい。
古代、ヤマト政権が近畿地方で勢力を振るった時代、東国で一番栄えたのは上野国(群馬県)だった。これは、上野地域が「東山道」を経由してミヤコ(奈良のヤマト政権)と密接につながっていたからと言われている。群馬には古墳時代に日本有数の規模の「前方後墳」を築造した豪族「下毛野氏」が勢力を誇示し、大和の豪族と深い交流があったとされている。
「比企学事始(第一号)」

2014年1月、この一つの「解答」を神盛氏から頂きました。これは、比企の歴史・風土を愛する有志の方々が集まり刊行された「比企学事始(第一号)」です。






この本は、東松山在住の高島敏明氏が代表を務める「比企総合研究センター」から刊行されたものです。鎌倉武家政権樹立の「原動力」となった比企一族に関して郷土の英雄として、歴史を再評価する活動に熱心に取り組まれている研究チームです。これからも、高島氏や神盛氏と連絡を取り合って、比企の歴史を学んで行きたいと思います。


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武蔵国歴史探訪 工事中です!!


機ァ屬気たま古墳群」探訪

関東地方に来てから、当地にも巨大な「前方後円墳」を主体とする古墳群があることを知りました。私は「ヤマト王権」の拠点だった畿内地方の出身です。自宅の近くには、「継体天皇陵」や、考古学的に重要な「今城塚」、「紫金山古墳」など有名な「前方後円墳」が数多くあり、古代日本の歴史を身近に感じてきました。しかし、今では私もこの関東地方が古代畿内にあった「ヤマト王権」と強く繋がっていたことを実感しています。

「埼玉(さきたま)古墳群」は、行田市大字埼玉(さきたま)にある5世紀から7世紀の古墳群です。前方後円墳など9基の大型古墳が現存して、記念公園となっています。この「さきたま古墳群」の探訪を楽しみました。



これは、「稲荷山古墳」の前方部頂上から後円部を見ている写真です。この「後円部」から有名な国宝「辛亥銘鉄剣」が出土しました。この稲荷山古墳こそ、上野国・武蔵国の部族王がヤマトの王達と密接に関係していたことを証明するものです。

この国宝鉄剣の誇らしいところは、作った年(「辛亥」の年、西暦471年)と仕えた天皇の名前(「ワカタケル大王」=雄略天皇)が銘文として刻まれていることです。

武蔵国最大の前方後円墳「二子山古墳」。整然と並んだ埴輪の列が復旧されていて、「古代の雰囲気」を幾分感じさせてくれます。本体部全長138m、後円部高さ13.0mの巨大な古墳です。


将軍山古墳「横穴式石室」の内部



「さきたま古墳群」の9基ある前方後円墳の内、この「将軍山古墳」だけは墳丘内部の石室の中まで見学が可能です。


NEW立花 隆氏(「文藝春秋」2014年3月号)「古代史のなかの埼玉」より

「埼玉県行田市の稲荷山古墳に二度も行ってきた。稲荷山古墳は、いまや小学校の教科書にものっている日本でいちばん有名な鉄剣が出たところだ。鉄剣が発見されて十年目にX線をかけて調べてみたら、鉄剣の両面から金で象嵌された百十五文字の漢字が出て大騒ぎになった。その内容の解読がすすむと、これで日本の古代史は書き直されると、さらなる大騒ぎとなった。古代史でそれだけの文字資料が一挙に出たのは、はじめてだった。・・・・・隣にある本物の鉄剣は一見してすごいと思った。とにかく圧倒的な存在感がある。・・・黒い地肌の上に金の象嵌文字がクッキリ浮き上がる感じがなんともいえずいい。・・・」


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1:大蔵館跡(「武蔵国歴史紀行」)

鎌倉街道に沿う嵐山町大蔵に大蔵館跡がある。今は、土塁と掘がその威容を残している。この大蔵館は源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢の居館であったが、1155年(久寿二年)、源義朝の長子・悪源太義平に討たれるという大蔵合戦があった。この義賢の二子が畠山重能に助けられ、木曽に預けられて、後の旭将軍・木曽義仲となった。





New2:出雲伊波比神社(「武蔵国歴史紀行」)

毛呂山町の中央に位置する神社。「流鏑馬(やぶさめ)」で有名。都市計画の視点からは毛呂山もまた鶴岡八幡宮を中心に都市が形成された鎌倉と同じ型式の都市であり、この鎌倉形式の都市は関東一帯によく見られるものである(東松山も「箭弓稲荷神社」を中心にした都市計画で作られた武士の街)。


出雲伊波比神社の流鏑馬馬場(直線100m部分)



流鏑馬は、鎌倉の鶴岡八幡宮が有名だが、ここ毛呂山の流鏑馬も毎年11月3日に執行され、多くの観客(・・・武蔵武士ファン?)を集める年中行事となっている。

「流鏑馬」の説明板


鎌倉街道上道が通るこの一帯は、武蔵国武士団が支配した地域であり、流鏑馬もまた武士の技として鎌倉時代から盛んであったのだろう。

2010年10月31日〜11月3日、ここ出雲伊波比神社を中心にして「やぶさめサミットin毛呂山2010」が開催され、埼玉県は元より広く千葉県、福島県、山梨県などからも流鏑馬関係者が集まり共通の課題について話し合いました。

比企郡からは萩日吉神社(ときがわ町)の流鏑馬チームも出席しました。この神社も源頼朝に由縁のある神社で、頼朝が慈光寺に参詣する際に立ち寄った所として有名です。


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武蔵国(比企地方以外)&周辺地域の山城を訪ねる

                  
八王子城跡(北条の名城)
下総国(しもふさ)の中世城跡
上野国(こうずけ)の中世城跡
甲斐国(かい)の中世城跡
生田丘陵の中世城跡


1:八王子城跡(「武蔵国」)

 八王子城は比企郡の山城ではないが、元亀・天正時代の関東の支配者・北条氏の最大の支城であり、「日本100名城」の一つとなっている。



 八王子城址の入口





 八王子城址の説明板1






 八王子城址の説明板2







 御主殿跡に向かう古道に掛けられた曳橋(復元)





 

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2:下総の城跡

 下総国(しもふさのくに)もまた中世日本で武蔵国と同様に優れた坂東武者を輩出した地域だった。

(1)本佐倉城跡(佐倉市、酒々井町)


 本佐倉城跡を遠望する 2009年5月23日撮影

 下総国は、源頼朝を助けて鎌倉幕府樹立に大きく貢献した千葉介(ちばのすけ)だった千葉常胤(つねたね)で有名であるが、その千葉氏が代々治めた国だった。その千葉氏9代の首府が置かれたのが、この「本佐倉城跡」だった。

 佐倉に住む友人から地元・酒々井町が主催する「本佐倉城跡」の見学会があるとの知らせを受け、飛んで行った。そして、この城跡を見て、驚いた。実によく昔のままに城の遺構が残っていると!広大な城跡が開発されずに、山林と畑のままで残っていたのだ。これは、まるで「中世からのタイムカプセル」のように感じた。


 




 本郭(城山)から虎口を望む。本佐倉城の北側は中世時代、印旛沼がすぐ近くまで迫っていた。その印旛沼の湊に面して「虎口」が築かれていた。

 本佐倉城跡は、佐倉市と酒々井町にまたがる広大な城跡である。比企の諸城と同じく、1590年の太閤秀吉の小田原征伐の時に、秀吉側に破れ、その後、徳川家康の家臣・内藤氏の居城となったが、その移封と共に廃城となった。しかし、その城跡は奇跡的に良好な保存状態のまま残っていたのだ。

 秀吉の小田原征伐では、城主の千葉氏の主力武士団が小田原に行っていたため、大規模な戦闘もなく落城したのが、この城跡が奇跡的に残った原因の大きなものだろう。








 本佐倉城の虎口。印旛沼の港に面して、防御上の虎口である「坂虎口」が作られていた。









 セッテイ山側の空掘

 空掘、土塁、切岸、掘切など、中世城郭の基本構造が大変保存状態が良く残っている。






 本佐倉城跡の散策中に見つけた「道祖神」

 この道祖神は、信州安曇野でよく見かける「男女一体」のタイプだった。





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(2)臼井城跡(佐倉市)

 上杉謙信から北条氏康・氏政の時代へ



 臼井城跡(解説板)

この臼井城は、隣の本佐倉城を居城としていた千葉氏と姻戚関係にあった臼井氏が築城したものである。16世紀中頃、千葉氏の家老だった原氏が城主となり、千葉氏以上の勢力を誇った。この城が有名なのは、永禄九年(1569年)、城主だった原胤貞があの戦国時代の雄将・上杉謙信の攻城を撃退した闘いによるものである。関東管領職として、永禄三年(1560年)以来、関東に出陣し武名を轟かせていた上杉謙信も、この臼井城攻城戦での敗退以降、次第に関東各地で謙信離れが起こり、北条氏の覇権の時代へと移って行った。この意味で、下総臼井城は戦国時代の東国において、歴史的地位を有する城址と言うことができる。その謙信を撃退した臼井城も、天正十八年(1590年)7月、太閤秀吉の小田原征伐で落城し、その後、徳川家康の支城の一つとなった。






 二ノ丸から印旛沼を見る

 城からほど近いところに印旛沼の水面が見えた。

 千葉氏の本拠であった本佐倉城の支城がこの印旛沼の周りにたくさん作られた。その一つが、この臼井城だった。城主は、臼井氏、千葉氏、原氏と代わったが、強固な「名城」として有名である。文明9年(1497年)、戦上手な太田道灌もこの臼井城を攻めたが、臼井城に籠城した千葉孝胤によって弟・太田図書が討ち取られるなど、散々な闘いとなっている。この二ノ丸から見下ろすと印旛沼は眼下に見え、今は住宅地が広がっているが、当時は沼から急な斜面が直接立ち上がって、防御面で強い設計であったのだろう。






 「城嶺夕照」の看板

 「じょうれいせきしょう」:かっての城主だった臼井氏の子孫が江戸時代に「臼井八景」を詠んだ句のひとつである。





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3:上野国(こうずけ)の城跡

 上野国(こうずけのくに)もまた、上杉氏、武田氏、北条氏の勢力争いが繰り広げられた地だった。

(1)岩櫃城跡(群馬県東吾妻町)


 岩櫃城跡を中腹に有する岩櫃山を臨む 2009年7月11日撮影

岩櫃山は「吾妻八景」の盟主とも呼ばれる魅力的な岩峰の山である。標高は、802m、その中腹に「武田の三名城」の一つと呼ばれ、関東で無双の山城と言われた真田昌幸の居城「岩櫃城」があった。









 岩櫃山平沢登山口の「岩櫃城跡」の看板 2009年7月11日撮影



岩櫃城は、鎌倉時代初頭、建久三年(1192年)、吾妻一帯を支配していた吾妻太郎助亮(すけふさ)が源頼朝より助言を受けて築城したと言われている。その後、吾妻氏は斉藤氏と改名し代々、城主を務めたが、この城を有名にしたのは甲州武田家の知将であった真田昌幸が城主となってからである。







 「岩櫃城本丸跡」 2009年7月11日撮影



岩櫃山は、岩稜の山である。本丸は、その山頂から東面中腹の天嶮要害の地に築かれた。眼下には、上野〜信濃を結ぶ幹線である「長野街道」を見据え、本丸から上部、岩櫃山八合目から上は岩稜が続き、天然の要害となっていた。





 「岩櫃城二ノ丸空堀」 2009年7月11日撮影



岩櫃城も真田の築城術が分かる遺構がよく残っている。本丸から一気に下る「縦堀」は特に見事だ。これは、本丸と二ノ丸との間の空堀遺構。






(2)柄杓山城(ひしゃくやまじょう)跡(群馬県桐生市)

桐生市梅田地区の北部にある桐生氏所有の山城、桐生城ともいう。

 柄杓山城本丸があった城山を眺める 2014年5月17日撮影

柄杓山城は1350年頃、市街地の北側5キロ、桐生川上流に添った形で聳える城山頂上に築かれたと言われている。典型的な実戦型の山城であり、現在では幾つかの曲輪が遺構として残っているに過ぎない。本廓は公園として整備され桐生市街地を眺めることができる。


 二の丸、本丸を断ち切る「空堀跡」 2014年5月17日撮影

本丸が山頂部に、そして、二の丸、三の丸の跡が残っている。

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4:甲斐国(かい)の城跡

 甲斐国(かいのくに)は、言うまでもなく武田氏の支配した地だった。

岩殿城跡(山梨県大月市賑岡町)



 岩殿山の山頂、南見晴らし台にて 2010年7月4日撮影

岩殿山また魅力的な岩峰の山である。JR中央線で新宿から松本に向かう時、岩殿山は大月の手前からその鏡面のような岸壁を見せ付けている。山頂の下部に「岩殿城跡」の看板が見え、早く訪れたいと思っていた。

 岩殿山城は、武田の城だった。岩櫃山城、久能山城とともに、「武田の三堅城」と呼ばれた。この山城が「有名なのは、戦いにおいてではなく、「武田氏滅亡の歴史」に大きく絡んだからだ。即ち、織田・徳川連合軍に追われた武田勝頼がこの岩殿城の落ちのびようとした時、城主だった小山田氏の寝返りに遭い、自刃したという歴史を有している。





 岩殿山の山頂、南見晴らし台にて 2010年7月4日撮影

 岩殿山城の案内図

この山城は、桂川と葛野川とが合流する地点に築かれ、南面には鏡岩と呼ばれる高低差150mの大岩壁を有している。武田氏の一支族・小山田氏によって1530年代に築城されたと言われている。甲斐国と武蔵国とを結ぶ甲州街道を制圧する拠点であり、武田氏が滅びた後、江戸時代にも徳川幕府によって維持された。


5:「生田緑地」の城跡

 地元比企の鎌倉武士(御家人)畠山重忠の従兄弟である「稲毛三郎重成」の旧跡を訪ねて春満開の生田緑地を歩きました

枡形城址(神奈川県川崎市多摩区)



 生田緑地内の枡形山の「展望台」にて 2014年3月29日撮影

生田緑地は多摩丘陵が多摩川に接する東端に位置する200ha近い広大な緑地です。すぐ近くには地域の生活を支える街道だった「津久井道」も通っており、その市街地を見下ろす標高84mの枡形山頂に稲毛三郎重成によって、枡形城が築城されました。この 稲毛三郎重成が、私の地元「比企地方」と深い関わりがあります。

生田緑地には「稲毛三郎重成の墓所」もありました。

墓所は、生田緑地の「廣福寺」の中です。 ここ廣福寺は稲毛三郎重成の館跡と言われています。稲毛三郎は畠山重忠の従兄弟で、秩父氏の一族でした。「大蔵館の戦い」で秩父氏の頭領となった畠山氏と共に源頼朝の御家人となり、平安末期から鎌倉初期にかけて、活躍した鎌倉武士でした。多摩地方の稲毛荘に本拠を置いたので、稲毛氏と名乗ったと言われています。




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5:日本全国の歴史探訪


武蔵国以外の山城探訪

1:春日山城跡(「越後国」)

 この春日山城は武蔵国の山城ではないが、2009年には一番ホットな山城跡であった。越後国のこの山城跡をGW山行として北アルプスに行った帰り訪れた。上杉謙信ファンは今も大変多い。それに加えて、NHK大河ドラマ「天地人」の舞台がこの春日山城であり、2009年5月4日にも多くの戦国ファン(謙信ファン)で溢れていた。



 戦国時代の優将「謙信の城」らしく壮大な山城跡である。大手道を進み、虎口へと向かう見張り台の上に、上杉謙信の堂々とした像が建っていた。ここから本格的な登りとなる。






 「大手道」の復元路。訪れるファンも多く、山城の至る所に「説明板」も立っており、城跡としても整備されていた。






 三ノ丸跡、二ノ丸跡を通り、春日山城の本丸跡に立つ。この城が壮大な規模を持っていたことが分かった。本丸跡からは「直江津」の街が一望でき、また謙信の有名な詩歌も掲示されていた。











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2:観音寺城跡

 近江国安土に築かれた観音寺城は、日本の城郭建築上、重要な城として位置付けられている。この観音寺城を知ったのは、「戦国の山城をゆく」(安部龍太郎)だった。そこには、「石垣で築城された最初の城」との記載があり、是非、見学したい城址だった。

観音寺城跡(滋賀県近江八幡市安土町)



 観音寺城の本丸跡にて、2012年4月30日撮影


観音寺城は、標高433メートルの繖(きぬがさ)山の山上に築かれた城。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。「総石垣造り」の城郭であり、中世城郭史において特筆すべき位置付けにある。 城主は、六角氏頼、南北朝時代の武将で、代々「南近江」を支配した守護大名。しかし、織田信長との戦い(観音寺城の戦い)に敗れて弱小化した。
山頂の手前には、西国33番札所「観世音寺」が建っており、多くの参拝者を集めている。


 観音寺城の家臣団住居跡地にて、2012年4月30日撮影


観音寺城で取り上げるべきは、「穴太衆(あのうしゅう)」の存在だ。この穴太衆は、日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である。出身は近江の比叡山山麓にある穴太、現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。



3:安土城跡

工事中です!!

 安土城は、日本の戦国時代を統一する強い意志を持った武将「織田信長」の居城でした。琵琶湖の東岸、安土山(標高192m)に築かれた山城です。

安土城跡(滋賀県近江八幡市安土町)

探訪(2012年4月30日)
築城は、1576年(天正4年)、六角氏の観音寺城を参考にして総石垣で普請された城であり、その後の「安土桃山時代〜江戸時代」の近世城郭のモデルとなった城である。

 安土城跡の壮大な石段、2012年4月30日撮影


麓から圧倒される石垣が続いていた。その規模といい、設計といい、現存していたら、欧州の城にも負けない立派な城郭だったろう。ここの石垣も「穴太衆」が組んだと言われている。


 安土城天守台隣に立つ「見寺」三重塔、2012年4月30日撮影


安土城の遺構で現存しているのが「見寺」の三重塔と「仁王門」だ。とりわけ、この三重塔は、安土城炎上で焼け落ちたが、豊臣秀頼によって再建されたもの。




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巡礼古道を訪ねる


 洋の東西を問わず、古来より人々は信仰のため危険を顧みず聖地へと向かった。そこに、「巡礼の道」が生まれた。地球規模で言うと、一番有名な「巡礼路」は、スペインのピレネー山中を歩く「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の巡礼道だろう。ここは私達山ヤとしても一度は歩いてみたい道だ。遠くパリから歩くと、何と2000劼砲發覆襪箸いζ擦澄聖ヤコブの遺骸が祀られ、聖遺物で有名な「コンポステーラ大聖堂」には多くの巡礼者が向かって歩いている。日本でも、「四国八十八霊場」の巡礼、「秩父三十四札所」の巡礼、「坂東三十三札所」の巡礼道などが有名だ。

 この「巡礼古道」のコーナーでは、私が歩いた比企地方の中世から近世に多くの巡礼者で賑わった山中の古道を探訪したい。


(1)慈光寺道を歩く

中世武蔵国の入間郡と比企郡には、鎌倉街道上道以外にもう一つ重要な古道があった。それは、都幾川・慈光寺への巡礼の道「慈光寺道(じこうじみち)」だ。中世から近世(江戸時代)にかけて、多くの巡礼者がこの道を歩いて慈光寺へと向かった。越生の山の中には、巡礼者達が歩いた踏み跡が硬く踏み固められて残っていた。



越生にある「最勝寺」は、源頼朝が慈光寺に参詣する時に幾度も訪れた寺院と言われている。


 最勝寺全景

慈光寺道はこの最勝寺の前を通って山道を抜け、都幾川の大附(おおつき)集落へと続いている。大附は、慈光寺の寺領の一部だった場所だ。



 最勝寺内の説明板




 大菅の地蔵

ここから本格的な山道が始まる。ここは、源頼朝が幾度か参詣する時に、お守りとしていた地蔵菩薩を忘れ、それ以降、巡礼者の安全を守ったと言われた場所だ。すぐ近くには、「慈光寺七木」の一つ「大クスノキ」が今もその神々しいぃ姿を見せている。


 広見峠の馬頭観音像

 慈光寺道はここで、越生を抜け、都幾川に向け下って行く。古い馬頭観音がひっそりと登山者を迎えてくれた。




 巡礼道脇の地蔵

 巡礼者の安全を見守った地蔵が今でも慈光寺道の脇に静かに佇んでいた。






 慈光寺七木の一つ「大カヤ」

 越生から広見峠を越え、都幾川の大附集落に入ると、山中に民家が点在して来る。その集落を抜け、萩日吉神社の手前の山中にこの巨木があった。樹齢1000年と言われる木である。







 萩日吉神社の説明板

 ここには、源頼朝が奥州藤原氏との戦いでの戦勝を祝って、慈光寺に1200町歩の田畑を寄進したと書いてあった。








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 (2)奥武蔵山中の「巡礼古道」を歩く


 奥武蔵の山中には、中世から近世にかけて多くの巡礼者が歩いた巡礼古道があった。「子の権現」、「高山不動」、「龍穏寺」、「慈光寺」などへの巡礼の道である。この山中の巡礼道の起点は、地元鳩山の隣、越生(おごせ)の黒山の地にあったと言われている。
黒山には「黒山熊野霊場」と呼ばれ、近世に一大勢力となった「山本坊」があった。その山本坊の修験者達に従って、多くの巡礼者が「高山不動〜飯盛峠〜ブナ峠〜刈場坂峠〜大野峠」の道を、今では考えられない程大勢が歩いていたと言われている。即ち、明日をも知れない戦乱の時代には武士も庶民も神仏に加護求めたのだ。
 なぜ、「越生・黒山」の地が修験者の拠点になったのだろうか?それは、黒山に「三滝」と呼ばれる景勝地があったことに加え、伊勢や熊野信仰の広がりに伴って、それらの大社はたくさんの御師(おし)を各地に派遣したことも大きく関わっている。その御師が、室町時代中期以降になると各地にも先達(せんだつ)と呼ばれる御師に代わって檀那衆を掌握する在地の有力な管理者が現れて代わって行ったのだ。その先達の有力者の一家が越生・黒山を本拠地とした修験の「山本坊」だ。本山から允許(いんきょ)を受け、秩父六十六郷、入西郡など武蔵国を広く知行した。越生・黒山からは二つの巡礼道が伸びていた。「高山道」と「子の権現道」である。このどちらも、奥武蔵の山頂を結ぶ古道へと向かっている。
今、奥武蔵のこの山頂の道には登山道として「関東ふれあいの道」が、観光林道として「奥武蔵グリーンライン」が作られている。そして、この稜線が、比企郡、入間郡、秩父郡の分水嶺となっているのだ。

 飯盛峠


巡礼古道の出発点は、越生方面からは「龍穏寺」、飯能方面からは「高山不動」となる。その高山不動の奥ノ院が「関八州見晴台」にある。
関八州見晴台から「大野峠」に向かって奥武蔵グリーンラインを進むと、最初にある峠が飯盛峠だ。標高770m、展望はない。





 ブナ峠


この峠の名前は「ブナ峠」、漢字で木片の義と書いて「ぶな」という名前が付いている。この峠を走る「関東ふれあいの道」と「奥武蔵グリーンライン」は、奥武蔵の山々の稜線に沿って走る快適な天上のスカイウェイだ。飯盛峠からはブナ峠、刈場坂峠、大野峠と順次、古い峠が現れる。関八州見晴台から来ると二番目の峠は「ブナ峠」、標高775mだ。ここも展望はない。古い峠らしく、登山道には小さな祠があり、脇には「波郷の里」と書かれた比較的新しい石碑も建っていた。
調べてみた。「波郷」とは名前だった。昭和18年、石田波郷がこの峠で詠んだ句が刻まれいた。『万緑を顧みるべしブナ峠』(ブナは「山毛○」と書かれている)




 刈場坂峠


ときがわ町(2009年までは由緒ある「都幾川村」だった)大野から飯能市正丸へ通じる峠。この稜線上の峠道で一番展望に優れている峠だ。秩父札所一番の巡礼道もこの峠を通る。標高818m、大きく開け、奥武蔵の山々の展望が頗る良い。ここに立つと、奥武蔵の山々である丸山、剣ヶ峯、堂平、笠山が、ときがわ町をぐるっと取り囲む様子がよく分かる。2009年まではこの峠には茶屋(りんどう茶屋)が一軒あった。今(2010年6月)にはもう完全に撤去され、土台と駐車場、そして綺麗な公衆トイレがあるだけだった。
この刈場坂峠は、比企・入間・秩父三郡を結ぶ古い交易路だった。





 大野峠


大野峠は、蘆ヶ久保・赤谷からときがわ町大野へ通じる峠だ。秩父と比企とを結ぶ古い交易路だった。ときがわ大野は江戸の頃から「秩父郡」に属する古い集落だった。

「穴太衆」の地を訪ねる

滋賀県大津市坂本

ここ「坂本の街」は、中世から近世の城郭建築を支えた石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」の残した石垣で作られた街だ。

2015年10月、坂本の街を訪ねた。天台座主の住坊だった「滋賀院門跡」を中心に多くの里坊が残っている。それらは山から下りた延暦寺の僧達の住まいで、「穴太積み」と呼ばれる端正な石垣で囲まれ広い庭園を持っていた。



延暦寺里坊の石垣


坂本の街で大きな存在は「山王総本宮 日吉大社」である。この日吉大社は、比叡山の守護神だ。そして、日吉大社の脇から「本坂」と呼ばれる延暦寺への表参道が比叡山山頂へと続いていた。



坂本の街

比叡山延暦寺と関係が深い町衆の家並みが続いていた。


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