宿の脇道(道草通り)

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臍曲がり 中山道太田宿

これはこれは、お江戸の方ですか
碓井峠は大変でしたでしょう、雨の木曽の桟け橋はどうでした、中山道三大難所の太田の渡しも無事渡られ太田宿にようこそ。
太田宿のサイトは沢山ありますが、宿場きっての臍曲がり親父、祖父からの聞き覚え、書き残しで本筋とは違う裏道をお話ししましょう。え、私ですかこの宿にありました加賀屋いう旅籠の末裔です、加賀屋権右エ門とでも言っておきましょう。

今、おいでなさる所が広重さんが描いた太田宿の絵の場所です、対岸の山は鳩吹山といいます。私らこの宿の者は天神山と言っておりますがな。
 対岸は土田(どた)といいます、佐藤なんとかいう歌手が生まれた所と聞いております。何でもこの人.山国岐阜で生まれ育ちゃ〜たもんで緑や水が好きでその後、杜の都とかいう街の広瀬川のそばに住んでりゃ〜すらしい。
。織田信長の土田御前という人もここやで、何年か前のNHKのタ〜ガドラマで”つちだ御前”というとりましたがの、どちらが正しいかしりゃせんが。ツチダの方が耳さわりがええわな。見目麗しきドタ御前ではイメージも?。いや!別に対岸に恨みがあるわけではないから。
渡し場のすぐ上流に関西電力川合発電所ダムがあります、木曽川水系最下流の発電所です。川合というようにそのすぐ上流で木曽川と飛騨川が合流しております。木曽川は関西電力、飛騨川は中部電力の水利です。
おみゃ〜さん方が渡ってりゃ〜た渡し、今は見てみや〜立派な橋になっとるでしょ”太田橋”ゆ〜とります。その上が新太田橋。
この太田橋について祖父書き残しによると
太田橋架橋
大正十三年二月二十一日
太田橋架橋起工式執行式場現在の渡船場上み
来賓内務大臣代理内務所長及び岐阜県知事上田●平氏、県会議員加茂可児両郡長太田町長、今渡町長、土田村村長、古井村村長及び各町村会議員、岐阜県選出衆議院議員の二百二十名。午後宴会あり会場、元郡会議事堂及び万尺寺、会費壱人当たり高等来賓三円五十銭、来賓弐円五十銭総●差額二千百円、余興として古井村接待花火、太田町集り角力祐泉寺に於いて執行、今渡町宝探し造り出●●等あり
費用は各四十円宛協賛会より出金不足額は各町村に於いて負担此の経費太田町配当金四百五十円也此●自分竹次郎は宴会係り及び角力係りに選任せられ誠に多忙なり角力は午後四時終了す。太田橋架橋費は予算六十万円也、内国庫補助金四十万円●負担廿万円起工は大正十二年三月竣工大正十五年。此の日曇り時に降雨あり樽も幸いにして無事終了せり(竹次郎日記より)
●部分は判読不明部分
 西の方に街道がつづいとります、少しこんもり高くなっています。カンロク山といいます。
ここにはオゲというオソギャーもんが住んどったそうな。おみゃ〜さん方ちびるといかんで、そこらの草むらで用すましてりゃ。私もちょっと雪隠へいってきますから。旅の衆!そこから見える白い建物、加茂署やでな、みつからんように用すましゃ。

渡し場のすぐ北には昭和の中頃までは自動車練習場が在った。自動車学校なんぞ無かった頃の話じゃ、舗装など無く川原の丸石を並べてコースが造ってあったような記憶がある。
西へ向かう街道は登り坂になる。カンロク山と呼ばれていた場所である。今ではすっかり様変わりしてしまっている、昭和の中頃までは竹藪、雑木が生い茂って居ったが、山という記憶がない。山と言うほどだから昔はもっとこんもりと山らしくしていたんだろう。国土地理院の山の定義など無い頃の話しじゃて。儂の子供の頃、悪戯すると親父や婆さんに”カンロク山のオゲが捕まえに来る”と脅かされたもんじゃ。何でも穴の中に住んでいて旅人に悪さをしたり、子供をつれにくると言うそりゃ〜たえ〜へんおそぎゃ〜もんらしい。おみゃ〜さんらもきいつけていきゃ〜。
オゲに襲われやせなんだきゃ。良かった良かった!
 目の前に木曽川と川原が広がり、川岸に太田の宿が飛び込んで来た、嘗ては。昭和58年9月28日この川が100年ぶりの大水で中山道の街道筋が水没。その後の護岸工事で目に飛び込んできたはずの風景は何百mにも及ぶ白い堤防に隠されてしまった。何百年も先のメディアはライン街道と呼んでいた川面と中山道の中間の高さに在った道と、洗濯場のことをセンセーショナルに伝えるであろう。『考古学者が太田宿遺跡より古〜い道と不思議な複数の窪みと水神と彫られた奇妙な石のある遺跡を発見!デローリアンで過去に戻り調査中』なんて。デローリアン、調べてちょうユニバーサルスタジオジャパンで。
58年の洪水の日、伊豆七島の三宅島が噴火し洪水は全国的なニュースとしては霞んでしまった。
三宅島全島避難の数年前の噴火の直後、名古屋市北部の洪水があった。偶然の一致だろうが?。
 右手には県の総合庁舎や加茂署がある、ここらはこれらが出来るまで何にもなかった。只、一角に孵卵場の鶏舎があった。子供の頃10円か5円を持ってヒヨコを買いに行った、十数羽くれた勿論雄であった。段ボールの中で育てたが大半が親鳥になることは無かった。電池を替えれば再び生き返えり、その後ゴミとして捨てられるのではなく、その頃はまだ持ち合わせていた純な涙と共に土に還す事が何度かあった。
此のそばにタイヤ屋さんがある、ここのHPに現在の天神山(鳩吹山)の写真がある。旅の衆ちょと寄り道して行きなせ〜 。時間は取らせません、ほんのちょっとネズミさんの頭を2度ばかしクリックするだけですからhttp://taiyaya.com/の広乃詩人の栞(その壱)鳩吹山を眺めての項を見や〜
いよいよ太田宿へ入ります
白い建物の総合庁舎を横目に西へ進もう。右手の家並みの向こうに国道21号と中仙(新)道との交差点がある。その辺りの一軒が岡本太郎の父、岡本一平の終焉の場所である。「危篤の連絡で美濃の山奥へ急いで行った」という太郎の文をTVで聴いたことがある。山奥というフレーズが妙に耳について覚えている。一平については正直あまりに古い人で興味は無い。岡本太郎については画より太郎が秋田で撮影したモノクロ写真の”角巻きの女”
http://www.new-york-art.com/tarou-sakuhin-syasin-akita.htm)が好きだ。
 堤防の上の道を行く。川から家並みに向かう小道がある、数本目の比較的広い道を入る。嘗ては、それらの小道は急な坂であった、坂の基には清水があり昔からの共同の洗い場があった。これらの洗い場は下流の町境までに5〜6箇所あった。小道を上がると中山道に出る、太田宿である。
上がり端の右の家が提灯屋である。(この道が正しい道かは、生まれていなかったから知らない、多分少し上の道が正しいと想う。東の道は古井(こび)町の領分だからこの道を選ぶ、○別、何が悪い。)正面がラムネ工場があった所だ。そのまま中山道を横切り僅かに左手のやはり比較的広い道を進む、国道21号に出る。国道の向こうは少し新しい地域である。
そのエリアには子供の頃キャラメル工場があった。確か「桃太郎キャラメル」であったと思う。同級生の利郎の母ちゃんが手伝いに行っていたので覗きに行った事がある。その工場はその後町外れに移り、ガム工場と言っていた。ガムを作っていたのだろう。田圃の中の木造の2階建ての工場は夕焼けの中で子供の目には大きく見えた。そして知らない間に無くなった。
 昭和30年代前半にOS劇場という映画館が建った。日活系であった。その前は桑畑であった。何故覚えているかというと、新しい映画館が出来たということで、家族で観に行った。清水の次郎長の映画であったが、森の石松がメインだった記憶がある。祖母が林長一朗といっていたので長谷川一夫が主役であったのだろう。その映画が終り外へ出たところで腹痛をおこし、桑畑で用を足したからである。つまり野○である。
その界隈では四と九の付く日に”四九(しく)の市”という市が立った。食料品とか雑貨とか赤まむしの粉とかを売る色々な露天が通りの両側に並び近隣の町々より来る客で賑わった。今!、一風呂浴びて夜ふらっと来なせ〜。
国道の手前1〜2軒の所に左に入る小道がある、狭い道である。
家並の向こう、国道21号沿いにNTTのビルがある。ビルが建つ前此の辺りは空き地で時折サーカスのテントが建った。いつも柿沼サーカスであった。そのすぐ横にはそろばん塾があった、此の近辺の子供達が通った塾であった。道を進もう広い道に出る、駅前通りである。右に行くとJR高山線の美濃太田駅に突き当たる。左へ行くと中山道に突き当たり、そして木曽川に出る。突き当たりに周囲と異なるコンクリーの建物ある。
今は美容院のその建物辺りが日本ラインの乗船所であった。太田の渡しの上みに乗船場が出来るまでここが乗船所であった。乗客はここで乗船手続き後、下へ降りライン街道といっていた道をすぐ川上の川へ通じる道を歩いて行きコンクリートで造られた桟橋から乗船した。その道は高砂場という木曽川の流れが造った厚く広い砂場の上にあり、コンクリーの道はいつも砂まみれであった。今はライン公園という。
乗船場周囲は学校にプールの無い頃は水泳場所でもあった。対岸まで泳いで渡る事がこの近辺の男の子の挑戦であった。
国道21号を通ると時折ライン下りの船を積んだトラックに出会う。昔、夕方川原を前屈みになりワイヤーロープを引いた大人に会うことがあった。ワイヤーの先には白い大きな帆を張った船がある、トラック運搬になる前は人力、帆、櫂、竿で帰ってきていた。非常な重労働であったと思うが、夕陽の中きらめく川面の白帆の船は昔から変わらない風景の中で美しかった。

駅前通りを渡ろう。21号との交差点を四つ辻といっていた。この近辺で四つ辻といえばここであった。
太田橋に関し追記しよう(竹次郎日記より)
大正十二年十月十二日太田町議会
・・・・此時平川議員緊急動議提案八名の賛成あり成立す
動議理由原文
現町長は先に縣事より譴責を請け最近又郡長より町会の決議を取消さる又太田町発展上最も重大なる木曽川梁橋速成運動の為隣町村より勧誘を受けたるも言を左右に托し此れに応ぜず唯俸給のみ目的として誠意ある認(?)めず不得止●に不信任案を提出する次第なり
大正十二年十月十二日
提案 平川〇〇郎
      林   〇
      外 八名
 〔注、?は? ●は判読不可 ○は個人名のため略〕
此提案に町長答えて曰く会議の必要を認めず本日は是にて閉会すと云うや多数議員の異議あるにも不拘解散を宣告して自ら退席せり午前十時

太田橋渡橋式
昭和弐年三月十日太田橋渡橋式執行せらる、渡橋式は●闇中に付き一切余興を廃し渡り始め式には三夫婦三組、来賓岐阜県知事、内務大臣代理、縣会議員、隣町村長、旧加茂可児郡長 其他三百名の来賓あり
太田橋の工費は七千五万円、仮り道路費三千円

駅前通りについては次の機会に書こう
四つ辻の北東の角(現在スーパー)には若松屋と言う衣料品店、北西には現在もある自転車屋、南西の角には一時パリイという太鼓焼きや小田巻き、汁粉などを食する事が出来る店があった。ここで少し道草をしよう、太鼓焼きと言う呼び方は各地方で色々な呼び方がありhttp://hb2.seikyou.ne.jp/home/my-morita/ni/ni_top.htm/で各地の呼び名がわかる。その跡地は今年国道21号の右折車線増設で消えた。その裏にあったアイスキャンディー屋(昭和30年代始めか20年代後半に、一時期パチンコ屋を開いていた事があった)との間に小道があった。その先は国道と家並みが平行ではなく三角の地帯がある。家並みは旧中仙道の道筋の名残である。此の三角地帯は、かってこの界隈の華やかであった頃、盆踊りなどのイベント会場であった。時には、いつまで経ってもハブ見せることが無かった蛇使いや”水に溺れない方法”などが書いてある冊子を売るなど、今では落語でもあまり聞かない大道商人の世界があった。此の線から中へ入らないようにと、棒きれで地面に線を描けた未舗装の地面の時代のことである。
昭和40年代初め頃までお盆は8月23.24.25日であった。桑の葉の関係か、養蚕の関係でそのような遅い日になったと聞いた。
特に、25日は徹夜踊りで翌朝6時までの催しであった。夜6時頃から囃子が始まり8時頃から大人が加わり徐々に輪が大きくなって行き、国道にはみ出し、今では考えられないが国道が交通止めになり、国道上を踊りの輪は東西に長さ100m以上の多重の輪に増殖し、其れを取り巻く見るアホウを含め大変な賑わいになった。近くの履物店では買い換えで残された鼻緒の切れた下駄が、一晩でカマスに3,4杯以上になったと言う。
道路の反対側駅前通りより二軒西に小道がある。現在はJR高山線で分断されているが山の上(昭和村のある所)へ通じる山の上街道であった。
此の道を国道より数10m入った右側にタバコの自販機がある。ここが駅前通りで最初の商店で、近年の駅前通り拡幅工事でここへ移転された。
国道沿いに万尺寺がある禅宗の寺である。門の隣にがっしりとしたコンクリーの建物がある。ここは元、大垣共立銀行であった。寺の向かいに宝籤屋がある。よその人にはよく当たると評判の店でジャンボの時は大変な人や車で賑わう。その先、三角地帯の終わりの所に”満つ葉”と言う和菓子屋がある。子供の頃、先代が”お宝饅頭”という饅頭を作っていた。この店の包装紙は中山道図絵 太田之宿付近という伏見宿辺りから太田宿までを表した絵地図である。旅の衆、太田宿のちょいとした土産でっせ。道は大きく左へ折れる。
20002.12.31
一つ忘れた、和菓子屋”満つ葉”の隣で昔焼き芋を売っていた。大きい底の浅い鍋に小石が敷き詰められ、真っ黒になった小石の上に”坊主、旨いぞと言う顔の芋が載っていた。石や〜きイモの売り声を聞くといつも堀さんちの焼き芋をおもいだす。毎冬聞く軽トラックで来る焼き芋屋の売り声をこの冬は聞いていない。
 年が明けて二度目の積雪である。江戸の衆、井伊の殿様が桜田門外で襲われた大雪の日は旧暦の三月三日。今で言や〜、四月。
そんなに遅い時期に大雪?長年頭の片隅に引っかかっていた。いや〜ようやくすっきりした。次のような書き置きの発見で。

降雪
 昭和六年四月五日非常に大きな雷雨あり尾張一宮の東に落雷あり住家一軒焼失、飛騨国益田郡萩原町に落雷あり住家五軒焼失五人死傷す太田町には被害なし四月六日午前六時頃より降雪あり一寸位い積雪す飛騨高山地方は八寸余の積雪と聞く。

ついでに早い雪
大早雪
大正十三年十一月十日午前六時頃より大降雪あり積もる事十二時頃三寸余、十二時頃止む。名古屋地方一寸五分、犬山町地方四寸、西濃地方三寸位積もる 本年の雪は例年の三十日余昨年より六十日間早き由

道を左におれた通り、暫くの間この界隈の話題になる。
背後、国道の向こう側、現在中央公民館や市役所のある場所には、今では消えた町並みがあった。又、おそらく日本でも非常に珍しい地区である。
この地域については次の機会に書く。この宿に大正から昭和30年代まであった音が今は無い。まだ国道の交通量が少なく夜の車の騒音などほとんど無い頃である。ガチャン、ギギー、ゴットン、ポッポー冷たい冬の早朝はこの音がクリアーに聞こえていた。太田機関庫での貨車の操車作業の音である。旅の衆、今居なさる所を真っ直ぐ北へ10分程歩いていった辺りに太田機関区があり、構内に扇型の機関庫があった。今は転車台が残るだけですがノ。機関庫には戦後暫く機銃掃射の弾痕が残っておりやした。C58という機関車がメインで越美南線(現在長良川鉄道)や太多線を走っていたC11もあった。世の中D51、D51と騒がれていたときもココでは無縁であった。一度そのD51が機関庫に在るのを本線の車窓から発見し感動した事があった。転車台、機関庫は次のサイトで見ることが出来る。http://www.c-i.co.jp/info_box/

おや!旅の衆妙な顔をして何か分からないことでも。え、機関車が分からない?陸蒸気のことですがな新橋と品川を走った!。え、まだ分からない、そうか徳川様の時代では想像も付きませんわな。真っ黒な煙を吐いて走る、それはそれは恐ろしいものです、ハハハ。

背後のお寺(万尺寺)の鐘突き堂近くに1本の桜の樹がある、有名な薄墨桜と同種と聞いている。春を待ちたい。
この界隈、町名変更まで桜町と言っていた
2003.01.30

国道から川端の祐泉寺までのこの筋の昭和30年代を書こう。桜町と言われたように道の両側に太い桜の並木があった。しかし樹の傷み等で30年代初めに切り倒された。その後柳が植えられ、その下に朱塗りの灯籠が建てられた。夕方は銭湯の初湯に行く芸子さんが行き交い、夜になると灯籠には明かりが灯り、尺八を吹いた虚無僧や竪琴(日本の琴の短い物、名前は知らない)を抱かへ爪弾きながら流す人、三味線の音が聞こえる風情のある通りだった、と思う。残念ながら子供の頃のこと、風情がわかる年ではなかったので。

入り口西の角には時計屋があった。元々、私の父親が建てた家で私の最も古い記憶がこの二階でのことである。時計屋はその後である。
隣は朝日軒と言う中華そば屋であった。ラーメンという言葉など未だ聞いたことのない中華そば35円の時であった。二間程の間口の店で入り口の横に当時一般的な木製ゴミ箱があった。蓋の開けられたゴミ箱の上で、出汁のため犠牲になった鶏の羽をむしる大将の姿が毎夕方の風景であった。夜、換気のため僅かに開けられた窓の隙間から、客用の白黒TVの長嶋選手の活躍を覗いたものだ。その後、大将の死に伴い店は他の人に移り、一杯飲み屋になった。
その後我が家になり、親父の印刷作業場になり、今、わが穴蔵工房となっている。隣も我が家で、そば屋だった建物とは内部で一体になっている。一時期間口一軒ほど運動具屋に貸していたスキーブームの頃で狭い店内に立てられたスキー板が飛ぶように売れていて、夜、靴用の金具を取り付ける作業を興味深く眺めていた。立って腕を伸ばした長さが適切なスキー板と言われていた頃のことである。

隣は「お船」と言う料理屋?であった。黒の板塀で半間ほどの奥深い入り口があった。通りに面した一階の屋根に船の形をした看板があり、隣の我が家の二階から見えるその看板にはキヤキスと縦書きしてあり、何年もの間その意味が全く分からなかった。ある日何気なく通りから看板を見上げたときスキヤキと読めた,すき焼きである。今は、和菓子屋の駐車場である。
向かいが蚕糸組合の事務所であった。「お船」の隣は当時この町では珍しい「花馬車」と言う喫茶店であり、その後飲食店「寿々女」になった
隣はうなぎ屋「千代菊」であった。威勢がよく、うなぎにこだわりの大将であり、綺麗な女将さんであった。中山道の脇本陣西に「山水」と名を替え息子さんが営んでいる。
2003.3.1
隣の奥まった所に置屋「愛初」が在った、子供には関係のない所であった。玄関に弘法様か何かが祭ってあり何かの行事の日に菓子目当てにお参りに行き菓子を貰った記憶がある。この置屋の裏口、現在宝くじ屋の駐車場の西南の角辺りに秋葉様を祀った祠があった。昭和40年代頃、祐泉寺境内に移された。
通りの向かいに数年前壊されたが駄菓子屋の文化堂が在った。口では言っていたが字は確かめたことがない、多分文化堂だっただろう。この店名の響きその昔、東京出張の折り仕事用の資料探しでよく行った神田の古本屋「文華堂」を思い出す。序でに行った「古書センター8Fの芳賀書店」と共に。江戸の衆!何をニヤッと。はい、そうですよ可愛いお嬢様達の本が汚れないようにBニールで包まれた。一世を風靡したあの本のメッカです。マ、ここでの面白い話は今度にしましょうや。  話は戻り文化堂!その離れでは時折子供会の集会があった。そこにはその家の主の似顔絵が筆で描かれた一枚の色紙が飾ってあった。子供ながらに其の色紙の印象は絵は頭にこびりついた。後年、岡本一平とこの界隈の事を知り。あの色紙がそうだったんじゃないのかと思い、最近は何でも鑑定団の金額表示とその色紙がダブって浮かぶのは時流のせいでしょうか。 隣は髪結いで同級生の貴美ちゃんの「お銀」さんとか言ったおっかさんがやっていた。土間を上がると黒光りする程磨かれた板の間、通りに面したガラス窓側に掘り炬燵のように四角くく、くり抜かれた一角があり、客は其の穴に降り縁に腰掛けるようになっていた。腰掛け用の縁の反対側の台の上には大きい丸い鏡が置いてあり、その前には道具が並べられてあったと不確かな記憶。薄暗い室内に、通りに面した立て格子の桟(形から特別の名前があることを何かで知ったがすっかり忘れている)の間から、今様のガラスと違うガラス特有の色を持った窓から入った夕暮れ近い陽の光が、部屋に漂うほのかな日本髪の油の香を通り、磨き抜かれた床面で窓の大きさだけ鈍く反射していた,髪結屋さんの思い出である。母は腕のいい髪結いさんだったと言っていた。客の多くはこの筋辺りに数軒あった芸子さんであったであろう。
 昭和30年代前半に一時母が小間物屋を商っていた。当時まだ普通であった掛売帳には花の名前の源氏名が並んでいた。ある日その中の
すみれという芸子さんが「かあさん、今度大阪へもらわれていくの」と嬉しそうに別れの挨拶に来たことがあった。その意味は小学生には分かるはずも無かったが、今も覚えている。
話は大きく外れる。ところで旅の衆ちょいと耳貸してくだせ〜!。どうしてこの地に渡しと宿場が設定されたのだろうかと疑問であった、関ヶ原の合戦から程なく設置されたこの宿は、戦略戦術上中仙道全線で最良の地であったのではと、ふっと最近感じた。うとう峠から東、飛騨川から西、宿を囲む北側の段丘、ある一ヶ所のポイントを工事する事によりこの宿は、三方を堅固な堀に囲まれた地にも、又、反対に水没させることも可能な地にも変えれる場所なのである。西からの脅威に備えて、関ヶ原の経験を踏まえて鵜沼の渡しを廃し、狭い渓谷沿いの道の先の盆地に新たに設けた渡し。 暫く歴史、軍事、地質に一切関係のない素人の戯言、旅の土産に聞いておくんなせ〜、荷物にはなりやせんから。
少々酔いが回り、キーボードの誤打が増えてきた、次回・・・
2003.3.21
慶長五年(西暦1600年)徳川家康は関ヶ原の合戦に勝利、江戸幕府を開き慶長6年の東海道に続き慶長7年に中仙道を開設した。しかし京都と江戸幕府との対立は続いていた。
暇か興味のある旦那、関ヶ原町と太田宿界隈の地図見比べて見なせ〜、おや?と感じまっせ。東海道線の走り具合、主要道路の抜け具合よく似てるでしょう、南の山に対して川の違いがあるが、いずれも障害物であろう。関ヶ原の合戦場は想像以上に狭い場所である。それは太田盆地の中にすっぽりと入る広さである。
 慶長某年、西からの大軍が御三家の尾張藩を避け中仙道を江戸を目指し東進していた。うとう峠を抜けた隊列は木曽川と山との狭い街道を進軍し、川向かいの山の尾根からは其の動きは逐一見て取れた。隊は太田宿の外れ加茂川を渡り太田宿へ入った、しかし不思議なことに宿には尾張藩の軍は見あたらず、何の抵抗もなかった。この時、宿を囲む段丘の上には尾張藩は布陣していた。この軍勢は中仙道設定前まで在った土田宿から犬山に通じる旧街道を進軍、落合宿より下った大量の筏で渡河した。又、後方は旧街道廃止に伴い廃された鵜沼の渡しから渡河した尾張本隊に退路を断っていた。
西軍は対岸で起こっている奇妙な動きに気が付いた。川岸の藪(護岸工事で無くなったが数十年前までは鬱蒼とした竹藪であった)で切り倒した竹を川に大量に流し始めたのである。川は宿の外れで大きく向きを変える、この時岸に当たった流れは確実に勢いを落とし川幅を狭くし岩場の多い場所に向かう。流れに載った大量の竹は岩場のそこかしこに引っかかり次第に流れを堰き止めていった。川が再び向きを変える辺りで合流する可児川を使い運ばれる土、本流の上流から補給される木材、すぐ上流から投入される川石、川砂で次第に強固な堤が構築されてきた、川の水位が徐々に増す。
西軍はこの地に住む人しか知らない怖さに気付いていない。ついに水嵩を増した木曽川本流の勢いに押され、宿の外れの加茂川が逆流し出した。其の逆流は宿の北側を流れる加茂川と段丘の間を満たし行く。宿は東の一方のみを除いて三方向を完全に水で囲まれてしまう。西軍はもはや逃げ道が無かった。堤の高さによって宿全体を水没させることも可能である、と思う、きっと出来たであろう。対岸の天神山(鳩吹山)はこの盆地全体と尾張を見渡す事が出来、尾根は犬山城に通じる。(現在は尾根沿いに犬山城の当方に行くことが出来る。)
いや〜旅の衆、またまた阿呆なことで足止めさせましたな。
何!そんなに短時間に工事が出来るのかって。おみゃ〜さん方、墨俣の一夜城って知ってりゃ〜すやろ〜、木曽川遣ってザェーモク運んで作りゃ〜たんやで、それと比べや・・・・・。何の答えにもなとりゃせんがの。

関ヶ原の合戦以降、完全に安泰でない時代に万が一に備えるのは当然な事であり、関ヶ原の教訓を生かすのは当然であったと思う。
中仙道3大難所と呼ばれるほどの所に何故渡しを作った?疑問であった。先日関ヶ原を通った、備中高松の水攻め、58年の太田水害のTV番組や記録本を見て酒で頭の中がグチャグチャになり、その中から妙な太田宿がうかんだ。
軍略家が調べ江戸幕府が密かに企てた目的ある宿場がこの宿だったんだ。そう自分だけで納得しよう。
もう一つの関ヶ原として
2003.3.30
話を本筋に戻そう
髪結いさの隣は床屋であった、ここのお婆さんは英語が話せたと親父が言っていた、明治の人である。
その前に西に行く道があり南西の角には綿打ち屋があった。親父の同級生でその息子の幸ちゃんが現在、市内西町に「ワタコウ」を構えている。筋向かい東に通じる小道の北の角(現在は駐車場)には、中学の美術の教師をやっておられた松永先生が一時住んでおられた。美濃加茂市の市章はこの先生のデザインが公募から採用された。その前が肉屋であった。

明治四十年代より大正元年頃の此の近辺の豚に関する記述(竹次郎日記より)
・・・其の内に養豚もやったが是は非常に有利であった太田町で一番最初に養豚を始めたのは磯谷旅館の人である二番目が私である。其の頃近辺には伊深村に豚が居った丈である、私は手持ち豚を神明堂渡邊武○氏(渡辺酒店渡辺栄○郎氏の弟)へ売渡し止めた。それから養蜂もやったが是は利益もなし結局損もなし。豚は利益があった、養蜂を一番早く始めたのは神明堂渡邊武吉である。二番目が私でその後太田町北町大沢安太郎氏が始め山之上村蜂屋村黒岩(注、坂祝)方面に多数の養蜂家が出来たが其の後非常に下落して皆損害をした、中には数千円も損失した人もあった。私は幸いにして損失はせなんだ。相場は豚は私の買入れた子供が一頭五円、其後高騰して小豚十円位になった。私が親豚を売った時は三十五貫目位の物八十円其後高騰百五十円位になった。蜂は私が買った一巣三十五円是も順次高騰して普通の種類百五十円位から種類により二百五十円位の物もあった。

元肉屋と石積みの駐車場との間の小道が旧道である。

小道へ回るのは少し後にしよう
道を真っ直ぐ行くと祐泉寺に出る。護岸工事の前までは境内から川側には遮るものがなく、川の景色が眺められた。何百年も経た椋の巨木があった石積みの高台にあった。
この境内の東端に隣の望川楼と言う料理旅館の間に川に降りる石階段が在った。太田宿の渡しが太田橋の下に移る前はこの場所にあったと言われている。
この望川楼は祐泉寺と同様に高い石積みの上にあり、洪水の時この石積みの何処まで出水するかがこの界隈の重大事であった。石段が何段残っているから大丈夫、何段まできたから危険だと。
昭和58年の洪水は異常であった、いったん引きかかった水が再び増水、一気に増水した水は、いつもの洪水と違い滞留していた時間は短かった。
この宿は昔から洪水に見回られた、大正14年の洪水についての書留によると

大正一四年八月一四日早朝大降雨あり
一五日に至るも益々大雨となり太田町は祐泉寺下石段五段迄出水す、可児郡土岐郡の各河共大洪水にて広見村(現、可児市広見)地内は一円の水海となり田白(注、広見村の字名)田中治三郎方も床下一尺五六寸浸水せり故に今福●●、野口申一と自分も手伝いに出張せり渡船不通に付き船を雇い渡船せり一五日朝八時頃なり。
新聞紙上を見ると御嵩町中村伏見方面は非常に被害ある様子なり、又、多治見町●町方面も被害多し、故に橋梁は全部流失せり広見村の東濃鉄道線路も流失せり
愛知県も全部被害ある様子なり其内でも安城町知立町方面最も被害多し、中央線も東濃鉄道も不通となれり東海道線も不通、東濃鉄道は当分開通の見込みなし

一七日に至るも雨止まず一時減水したる各河川も一七日に至り再び増水せり、午後十時頃祐泉寺下石段三段迄増水するも朝迄に減水す、
一七日は早朝より南風強く暴風雨の模様なり二時頃には最も風強く皆々心配せり夕暮れに至り風止む
一八日午前九時頃に至り雨止む。

この記述を読み、渡船不通の水量の中、渡河などととんでも無いことをやっていたものだ

次は、太田稲荷を書く予定であったが、昨日東北地方で震度6強の地震があった。地震を書こう
大震災記
大正拾弐年九月一日太田町々会開会中、午後一時頃(注、日記に記載のまま)強震あり数回連続震動せり故に議員及び役場員全部戸外へ飛び出せり、夕景新聞号外の報する処に依れば東海道、沼津以東は震災の為め電信電話及鉄道共全部不通となり東京及横浜震災の為め出火し今盛に焼つつありと報ず。
九月二日新聞の報ずる処では東京横浜は今●焼つつあり、今の処消防の見込なし、死焼者多数あるも取調べの閑なし。東海道の沼津以東の各所共皆大災害の●たり

九月三日新聞 東京市は芝、京橋●●●本所、深川、神田、浅草、下谷の各区全焼せり小石川、本郷、赤坂、麹町の大部分を残らず全焼、死傷十三、四万人という。実●古来●●の大震災なり

大正十二年度は非常に不景気なり、震災以前は諸物貨共非常に大暴落なし、蛹も壱貫目六、七円位の予想なりしも収繭後横浜市に於いて震災の為生糸五万甲焼失せり、品物払底となり繭は是が為騰貴して予想分にも壱貫目十弐円位にて売買せり故にこの地方は幾分景況も●●なり

大正十三年一月十五日午前五時五十分頃大強震あり
十六日新聞紙の報る処に依れば東京横浜方面再び大被害ありたる模様なり、沼津以東は鉄道及び電信電話不通にして十六日夕方迄には詳細不明なり、幸いにして当地方は少しの被害なし。
震災前十四日迄は晴天続きにて非常に温暖なり依って地震再来を愁念して居りたり、地震後十六日より俄に冷気加わり風強し然し例年よりは未だ暖気なり。震動非常に烈故皆も外に飛びだせり。

大正十三年一月十六日新聞紙の報ずる処に依れば、震源地は相州丹沢山にして其の付近及び横浜方面の被害状況下のごとし
死者 合計十一名
負傷者 計弐百九名
全潰家屋 七百六十二戸
半潰家屋 弐千九百五十四戸
電信電話の不通無数
沼津以東横浜間鉄道一時不通となり十七日に至り全通せり
震災後一時冷気加わりたる十九日より又も思いの外温暖となり気候不順の為め地震の再来愁念せり。
支那朝鮮地方も本年は近年になき温暖なりと報ず、東京方面は九月一日大震災以来毎日数回か地震あり当地方にも度々地震あり不安に堪つつ

大正十四年五月二十三日午前十一時三十分頃山陰地方に大地震あり豊岡町、城之崎町付近被害甚大なり潰家三千余戸死亡者四百余名あり

大正十四年八月十八日午後十時頃強震あり
人皆戸外に飛び出せり被害なし

大地震
昭和弐年三月七日午後六時三十分頃、当太田町に震動起こり皆戸前に飛び出したり、柱時計は皆止まり震動烈しく家屋は五六寸も横振れせり
幸いにて被害なし
震源地は丹後方面にして被害最も多し三月十日の報告に依れば死傷者数六千五百六十七名
倒壊家屋三千八百五戸半焼家屋二千九百七十三戸被害の最大なるは米山町の由

三月十二日京都警察部発表
震災地と見なすべき断層は竹野郡郷村字郷から高橋に向かう十二尺の断層で●野町北方海底に続けるものの如し。延長約百間●野町小浜の傍らに土地の●浸あり桑畑の深く処は約七尺の陥没を見る、尚三木松峠島●●津に山誨(?)など起り著しく崩土あり、之から●津に向かへば約前者の二倍の山誨あり、この付近は一般に地変多し

震災被害の総計 十二日内務省発表
東京電話奥羽(?)地方震災総計下記の如し
1.死者二千六百九十名
1.負傷者 六千四百二十五名
1.行方不明 百三名
   合計九千二百十八名
全潰家屋 四千六百七十七戸
半潰    五千六百六十戸
全焼    二千九百一戸
半焼    百戸
   合計一万三千二百三十八戸

明治大正の大震災調べ
三月十二日警保局発表
浜田地震 明治五年二月六日
 死者五百三十七名
 全潰家屋 四千四十九戸

濃尾震災
明治二十四年十月二十八日
 死者七千二百七十三名
 全潰家屋十四万二千百七十七戸

庄内地震明治二十七年
この記載は此処で途中で終わっている、さすがの爺さんも転記が嫌になったのだろうか。

太田稲荷
大正十三年三月一六日祐泉寺境内稲荷神社本堂建築落成式執行せらる工費弐千八百円
其の時自分は工費の内へ金五十円を寄附す、他に商品の寄附見積り約 十円之計金六十円
十六日早朝より招戴 に○り馳走になり其時の招戴列席者、林金○、吉田宇○郎、吉田○一、藤井○○郎、渡辺鶴○郎、林重○、佐光清○、仙田猶○、木村房○,佐光重太○、土屋松●老、林行○、山田製材所、大工古川安○郎、林蔵●郎、亀内●●郎。左官西田清○郎。
右竣功式の際輿饗として松ヶ瀬河原にて花火を打揚げ右記有志の餅投げあり、総餅臼四〇臼。此日初午祭りにも当たり人出多く盛況なり
(注、祐泉寺下の瀬は松ヶ瀬といわれていた。太田音頭にも唄われたライン下り屈指の瀬であった。親父が子供の頃、大正後期頃はその瀬の波は子供の背丈より遙かに高かったと聞いた。川下りの安全の為発破で川底の岩を取り除かれたため、昔ほどの瀬では無くなった。)
 大正十三年四月十日祐泉寺稲荷様春祭りにつき早朝より御●抜けて行く。此日、西濃加納町より百五拾名の団体客向かえあり世話人として林金○郎、木村房○、兼松新○衛、藤井考●●、吉田○一、松野竹次郎。団体は午前八時五十分頃着汽車より七十五名、弐等汽車より七十五名到着せり祐泉寺境内及び川原にて午後四時発汽車時間迄遊びにて帰る。早雨にて正午より晴天となる。
(注、人名中○は個人名の為部分的に伏す。●は判読不。戦後暫くまで国鉄(現JR)の客車は一等、二等、三等と分かれていた)
三等?思いついた小話。「種田暫く見なかったがどうした」「実は俳句のコンクールの表彰式に行っていたんだ」「へ〜、お前が俳句をね〜、なんで」「訳言っても、訳言ってもわかってもら得ないと思うがね」「それで成績は一等か二等か、そうかサントウカ」なんて仕事もやらずに阿呆な事を考えとります。

少し前に書いた他の人にはよく当たる宝くじ屋。此の太田稲荷と宝くじ屋の前の万尺寺境内にある稲荷と結ぶ線の上にあり、その中間当たりにある事はあまり知られていない。太田稲荷は昭和58年の洪水の後、少し西から此処に移された。それ以前は今ほどよく当たると有名ではなかったと記憶している。考えてみれば万尺寺、万(円)が尺ほど積まれれば結構なお宝ですわな。両稲荷に願をかけ買うと当たるとか、噂話であるが3ポイントの位置関係は事実のことである。
2003.8.15

通りの奥、中山道との交差する東の角には梅本商店という駄菓子屋があった。此の近辺で一番大きい駄菓子屋で前記の文化堂、此の後記す嶺川さんと吾が子供の頃の駄菓子屋トライアングルの頂点でもあった。5〜6年前に閉店した。此の裏が先祖の家で豆腐製造を生業にしていた。
通りの書き漏らした家を追記しよう髪結いの前に前田時計店があった。屋号を「いち駒」といっていた。店の奥、当時の多くの家と同じく薄暗い台所の土間より一段高い板の間、そこにあった二階へ通じる幅広の階段。学年が三年ほど下の「しょうちゃん」という此の家の長男がいたので小さい頃よく遊びに行った。何時も此の階段を上がり、降りるとき恐くて無きべそをかき降りられず、此の家の人に降ろしてもらった記憶がある。映画蒲田行進曲で主人公が階段を転げ落ちるシーンを見る度に此の家の階段の佇まいを思い出す。
国道21号から此の通りへ入った直ぐ、道の中央に1m四方程の鉄板の蓋がある。内は井戸であり、水道の布設される前の昭和30年代前半、正月の出初め式は国道で行われに此の井戸も使われていた。穴の周りは川の丸石が積まれた深さ5m程の井戸である。此の水脈が川岸の岩場から湧きだし清水と呼んでいた洗濯場へと流れていた。旅の衆足を止めさせましたな、道を急ごう。

通りの中程、国道から2本目西に折れる人一人が通れる小道がある、これが旧中山道である。
最初の小さい十字路、右の角が銭湯「音羽湯」である。此の界隈を音羽町と言う。この街には音羽湯を含み3軒の銭湯があった前記のキャラメル工場の側の「東(あずま)湯」、これから行く西の方に「○○湯」、名前が思い出せない。この銭湯は他の2軒よりずっと後に出来た。子供の頃は、子供なりに縄張りがあり、何かの都合で音羽湯が休みの時、他の銭湯に行くときは敵地に行く気分で、その湯の界隈の子供はよそ者が来たぞと言う空気の中であった 。
当時は家(うち)湯が無い家がまだ多くあり、又、格好の社交場でもあった為、家湯のある人も利用した。一番湯の芸者さんからしまい湯の夜鍋仕事を終えた職人、店員まで利用時間に一つの社会の縮図があったようである。30年代の一時期燃料は伏見宿の東の御嵩(御嵩)で採掘された亜炭であった。亜炭の燃えかすが表に積まれていた。音羽湯は現在も営業している。左の石垣の上に警察署があった。
2003.10.26

道の南、石垣の上は警察署(自治体警察)であった。2階建ての建物で1階の東の角に牢屋があると子供の頃いっていた。勿論牢屋とは留置場のことである。建物の中に入ったことはない、子供心に恐いところとの思いがあった。前の広場、倉庫は悪ガキの格好の遊び場であった。東へは前述の通りへと緩い坂で繋がっていた、其方が正門であったのだろう。何時しか警察は無くなった。当時この町には警察署が2カ所あった。もう一つの警察(国家地方警察)は現市役所の西、病院の西隣にあった。昭和29年(1954年)新警察法施行により国家地方警察と自治体警察がT本化された事によるのだろう。その後東の出口には通りの沿って家が新築された、桜屋という飲食店であった。

一本北の通りに寄り道をしよう、音羽湯の前の道である。銭湯の前の平屋の建物はマッサージ屋であった。母の盲目の姉の店であった。一人暮らしであったが日常のことは全て自分で行っていた。裁縫の針に糸を通すことなど健常者より遙かに上手かった。ゴールデンバットという煙草が確か35円ぐらいの頃よく買いに行かされ、5円の今では死語の駄賃を貰うことが嬉しかった。東の半間足らずの道を挟んで同級生兼良の家があった。通りに面した縁側がある昔からの農家の作りの家であった。半間足らずの筋の奥に前述の秋葉様が祀ってあった。置屋愛初の裏口で黒い塀沿いに人一人が通れる北に通じる小道があり、国道21号沿いにあった兼松八百屋の敷地に通じており買い物への近道であった
.その黒い塀では恐い思い出がある、当時マッサージの裏には小屋と呼んでいた我が家の簡素な建物が在った。昭和34年の伊勢湾台風の翌日、親父と共に建物点検中にトタン塀に触れてしまったビリビリと電気ショックを受けた。切れた電線が塀に接触していたのが原因であった。

マッサージ屋の西は昭和30年代は畑であり、その奥には豚小屋があった、その場所は現在前田質店になっている。この前田質店が階段で苦い思い出のあるいち駒さんであり、現場所に移転された。西隣、高層マンションの場所は検番であり、その北には万平楼があった。検番とは広辞苑によれば(芸者屋の取り締まるところ、又、芸妓の取り次ぎや玉代を精算するところ)となっている。淡いピンクというよりこれも死語になりつつある桃色が表現として適切であると思う色のかなり大きな2階建ての木造の建物であり、1階西には広い土間の玄関があった。

建物完成時お披露目があり、その時一度2階に上がったことがあった。子供の眼でかなり広い板張りの床がかすかな記憶にある。一階にはタイヤの付いた屋形船風の山車が保管されており、4月の春祭りには芸姑さんが太鼓、三味線を奏で、男衆のふん装した芸子さんが引く山車が色をそえていた、それだけ芸子さんの人数が多かった。

その前、銭湯と道を挟んだ角の家が同級生の大三郎の家である亡くなった親父さんが釣りが好きで、彼も釣りが得意であった。裏に小さな池があり金魚を飼っていた。大三郎と二人で時折そこで金魚釣りをして時折叱られた。何年か前にヒマラヤへの遠征隊の一員に選ばれた男である。今、兄が跡を継ぎヒロシ洋服店を営んでいる。ヒロシとは亡くなった親父さんの名前である。

元の道に戻ろう、狭い道を西に進む、道は建物に突き当たり左右に分かれる。旅の衆どちらへ曲がりなさる。
2003.11.3
路は左右に分かれる。左は路が折れ曲がり子供の頃、昼でも暗くトンネルと言っていた、中山道沿いの家と家との間、人一人がようやく通れる路を通り中山道へ出る。路は川へ降りる。旅の衆、右へ進もう音羽町の通りを横切り次のT字路を左に折れる。次の交差点の北東の角に太田公民館があった。今来た路側に小使(あえて使う)室があった。交差する太田病院から中山道に通じる道側が正面入り口であった。

子供の日の映画会や昭和30年代各地で催された子供のど自慢などのラジオ番組の収録が時折あった。童謡歌手の川田正子とかの少女歌手なども来た。その時来ていたボデー先端に六角のチューブのキャップを付け、横に「ライオン歯磨」とペイントされたコマーシャルカーが印象深かかった。サンスターも同様な番組収録を催した。国道の向こう側にある太田病院は当時木造2階建てであった。
待合室は畳敷きで白黒テレビがあった。夕方待合室は病人ならぬ元気なガキ共の溜まり場であり、目的は勿論TVであった。相撲の取り組みを見た後帰宅、夕飯後すぐ舞い戻った。
白馬童子やら怪傑ハリマオの時代であった。当時の相撲は水入りが多かったように記憶している。今は大半が6時に上手く終わる相撲に不思議な思いを感じる。
2004.1.22
道を横切り小道を進む、次の交差点の角に同級生の和子の家があった。新聞紙の文字を写し取ることが出来る薬あると彼女から聞き、もらいに行った。薬とは瓶に入った菜種油であった、農家であったので家で採れた物と聞いていた。新聞の印刷面に菜種油を塗りその上に紙を当て
擦ると写った。インキが菜種油で溶け写っただけだが当時は不思議に思った。道を右に行き国道の向こうにはかって警察署があった、現在中町公園になっている。道を左に行き御代桜酒造の黒壁沿いに行くと脇本陣に至る。交差点の一本目の交差点では思い出がある、小学校の3,4年頃梅雨の時期であった。集団登下校などなかった頃で、その雨の日番傘をさして1人登校していた処へ警察署の方から一台の妙な形のオート三輪が来た、ミゼットの後部が人が乗れるようになった様な格好であった。勿論ミゼットが発売される以前の事であったのでミッゼトではない。駅前通りにあった急行軒というクリーニング店のものであったと思う。近年それがマツダのPB型という昭和25年頃の車であることを知った。広島県の福山自動車時計博物館に現存し、その車には広島タクシーと書かれている。何人もの子供が雨のため小学校に送ってもらうため室内に乗っていた。止まったその車に乗せてもらい登校した。
在のこの辺りの風景は首都圏から来る客人には子供の頃のふるさとの風景と同じ好評である。現在の中山道や脇本陣より好評であるのは少々複雑である、が。
子供の頃この街で見た珍しい車の一つである。その他の珍しい車珍しい車イッセッタ→1人乗りの車で一番前がパカット開きそこから乗り降りする。横山医院の先生が乗っていた。マツダR360駅前通りと国道21号の交差点の北にベニスと言う中華料理店があった、その隣の家のものであったと思う。地方事務所(県事務所)には黒色のフォード、そして御代桜には白いシボレーがあった。この御代桜の木炭自動車の記憶が一番古い車の思い出である、昭和25、6年のころであった祐泉寺の保育園児が太田中学校の何かのイベントに遊戯で参加した。その時御代桜のトラックの荷台に私達園児が載せられていった。その時確かダルマストーブのような釜があってその中で火が燃えていたそんな記憶である。
2004.5.1

同級生の和子の家より交差点を渡る、北の角は味噌、たまり屋であった。少し斜めの小道の両側には平屋の同じような佇まいの家が並ぶ。警察の官舎であった建物である。国道沿いの一軒に新婚間もない若い警官が昔居た、平和であったこの街で何かの事件の犯人に刺され殉職された、昭和30年代半ばの事であったと思う。葬儀が万尺寺で執り行われ、花輪は境内からはみ出て国道沿いにまで並んだ。警察署の裏庭南東の角に慰霊碑があった記憶がある。その後、平和であった町で映画館内での刃物での傷害事件、駅前での屋台店主刺殺事件が起きた。小道は4階建ての建物に遮られ南北への道との交差点となる。この道は昔は真っ直ぐに延び国道を横切り反対側の斜めの道に通じていた古道である。4階建ての建物は元々消防署であった。昭和30年代前半に建てられ、北東の角が事務所であり南に隣接して火の見望楼があった。小学校の社会見学で訪れた時、事務所と望楼の間のインターホンでの通話の説明が妙に記憶に残っている。当時では最新の設備であったんだろう説明も誇らしげであった。消防署が市役所へ移転後タクシー会社になり、最近カラオケ屋となった。国道の北のお寺は詳光寺で古い歴史を持つお寺である。この道は本来の道ではないと思うが左に折れよう。突き当たりを右に折れると広い道に突き当たる。不自然に広い道を左折川に下りた所に昭和30年代まで渡船場があった。この場所に橋が架かる計画がありその取りつけ道路として拡張された。その後橋は中濃大橋として下流に架けられ不自然な道は不自然な形で残った。最近交通量に見合わないほど立派な歩道が出来た。川から上がった側に前進座があった子供の頃は映画館でもありゴジラは此処で見た,ゴジラ対アンギュラス、ゴジラの逆襲など白黒の映画であった。この映画館?劇場に付いては別の機会に書こう。
2004.8.8
西に行く道はどれが旧道か知らない。古老に聞けば良いが心当たりの古老はこの道を北、国道沿いの家並みの裏に広がる蔵内墓地の住人になっている。左側の最初の小道を行こう子供の頃左側にはドクダミの垣根があった。ドクダミと聞くとこの垣根とあの独特の臭いを思い出す。小さい三叉路を左に折れる、左には牛舎があり冬の朝湯気のたつ堆肥と臭いの中を通学した。次の三叉路を左に行く、暫く行くと西福寺の裏に出る。寺へ入る処に鍛冶屋があった、薄暗い中での仕事は好奇心満々のガキの目には刺激的であり、下校時には時折覗き込んでいた。鍬とかビチュウが並んでいた記憶がある。真宗大谷派 清流山渡場西福寺は最近院主が代替わりになった。時を同じくして太田宿本陣の東門を移した山門は新しくされ、旧山門は資材として昭和村に寄贈されたと聞く。我が家は檀家である。道は寺の裏を通り直ぐに三叉路に当たる。右は蜂屋柿で有名な蜂屋町、途中で分かれた道は氏神である八幡神社を経て関市方面に抜ける。左は中仙道から延びる道を渡り小道になり中仙道と交差する。江戸からの旅の衆お疲れさんでした、これで臍曲がりの中仙道裏道は終わりです。このまま左に折れれば京都へ。それとももう少し権右エ門にお付き合い下さるか、中仙道本通りについて書こうと考えていますから。旅の衆にお詫びしよう、この道は正確には中仙道ではない、中仙道太田宿開設前の道で当然の事実。何故騙した!いや〜この町には未だ狐が居るようで。只、この道は天下統一前の世、野望を持った日吉丸、道三、光秀、蘭丸などが歩いたかもしれない。
2004.9.20
まだ続くだろう
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新ページ「誰も言ったことも、誰からも聞いたこともない勝手に太田宿」
異論、反論、勿論聞く耳持たぬ頑固者の勝手な妄想での「臍曲がりX臍曲がり太田宿」になる予定。
開始時期!酒に聞いてくれ。



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