『アンカー英和』のこと (回想第二話)
小西友七
まえがき
 第一話でお話ししました「幻の大英和辞典」が峠を越えた頃、それは1965(昭和40)年の夏のことでした。突然、学習研究社から速達が舞い込んできました。『アンカー英和』についての依頼状でした。
 この年は振り返ってみて、私にとっては最も思い出深い激動の年ともいうべき年でした。まことによしない私ごとで恐縮ですが、まず4月から『英語教育』(大修館)のQuestion Box を担当することになったことです(これは今日まで38年間続けさせていただいております。) 次に2番目は、今は廃刊になった『現代英語教育』(研究社)に、私にとっては初めて「語法セミナー」と題して同じく4月から1年間連載が決まっておりました。そのほかに、大学用の『実用高等英文法』(1966)(英宝社)の執筆中でしたし、更に文部省検定教科書のNew Generation Course (1967)(開隆堂)の準備にかかっている年でもありました。
 あまつさえ、前年(1964)の秋は東京オリンピックで私も体力をつけなくちゃとばかりに、ハッスルして、それが度が過ぎて腰を痛めてしまったのです(お笑いください)。そして、その翌年もほとんど毎日のように、注射で病院通いをしていた年でもありました。
 さて、話しはもとに戻りますが、その速達の発信者は、私のかつての中学時代の英語の恩師曾根田栄吉先生でした。その後、学研の編集部に勤めておられることがわかり、これもびっくり。 会社がいま企画している英和辞典の監修に、という文面です。 それは夏休みに入ったばかりの731日のことでした。 何でもやったるぞという意欲だけは満々の当時の私でしたが、上に述べた状況のもとでは慎重にならざるを得ません。でも、私の恩師からの頼みとあってはと、迷いに迷いましたが、(メモ的日記によると)8月10日に、お断り状の速達を出したのです。 ところがです、その4日後、その日もかんかん照りの真夏の暑い暑い日でした。 忘れもしない4時頃、陽が少し傾きかけていたがまだ暑い時に、柴田徹士先生が、3人の学研の人を伴って突然訪問されたのです。(その時はまだ電話もつけていませんでした。)ちょうど、家内は夕飯の買い物に出かけていて、応対に出たショートパンツの娘が「柴田という人が来ているよ」と。 裸で机に向かっていた私はあわてふためいて、半袖のシャツをまとったが. . . . . .クーラーも何もない、狭い三畳の応接室に招き入れたが、背広にネクタイの4人の紳士とラフな半シャツ半ズボン姿の私、この滑稽なコントラスト、今思い出しても恥ずかしく、しかしまた懐かしくもあります。これが柴田先生との初対面でした。
 先生は、坐るなり汗をふきながら、学研が2, 3年前から、辞書を作ることを企画していたが、失敗したこと、こんどはなんとしても成功させたいと(吉岡秀人)社長もたいへんな熱の入れかたで、そのためにはできるだけのことはするから頼むと依頼を受けたことなど、など、それでぜひ私の力を貸してほしいと、私の顔を見ながら、(ちと大げさだが、私には)哀願するかのように訴えられました。気の弱い私はそれに心を動かされて、(家内によれば)いつもの悪い癖で前後の見境もなく引き受けてしまったということになるわけです。
Getting Started
 しかし、仕事はまだ先のことになると高をくくっていました。 が、スタートは、本当に意外なほど迅速でした。それから3日後には、Aの部から、比較的よく使われる語を選んでモデル原稿を作成せよ、という指令が飛び込んできました。 私はand などの語を10日ほどかけて ― それでも遅かったのか督促状がきました ― それを柴田先生に送りました。それから、まもなくして第一回の編集会議。この場合は前述した私の腰痛のことを配慮してくださって、私の家のすぐ近くの「ホテルニュー六甲」で開かれたのはありがたかったです。ここで各人から先に提出された原稿を検討し意見を述べ合うことになりました。これによって辞書作成のイメージや方向性を、一方で編集部は初期段階から規約を逐次作り上げていくことに狙いがあったようです。この席上で、私は先の「幻の大英和」のときとは全く違った、厳しい空気をひしひしと感じました。その最初に思い出すのは、assume, assumption という単語でした。 柴田先生が書かれたのか、小林先生のものだったか、覚えていませんが、
assume (証拠はないが)…を決めてかかる、当然のことと思う
assumption想定、推定、前提(証明されたことでなく、最初から当然のことと考えられたこと。 悪い意味を伴わないことが多い)
〔『スーパーアンカー』にはこれに「思い込み」が加わっている〕。
当時の私などはこの2語についてはまず「仮定(する)」くらいしか頭に描いていなかったのですが、これほど深く掘り下げた訳語とその内包的意味を示した原稿に接した折の印象は今でも鮮烈に残っています。学校をただ出ただけの私とは違って、さすがに検定の厳しい門をくぐり抜けた人は、と強いインパクトを受けたものです。(ちなみに、柴田徹士・藤井治彦『英語再入門』(南雲堂、1985)などによりますと、柴田先生は旧制商業高校を卒業後1年、満20歳で文検(旧制中等学校教員試験検定)に合格、その3年、満22歳で高検(旧制高等学校(今の大学)教員試験検定)に合格―この間1年半は家業のため全然勉強しなかったと自ら語られるほどの大天才。小林清一先生も旧制中学卒業1年で文検、次で高検は柴田先生と同期に合格された大逸材。その時すでに『新クラウン英語熟語辞典』(三省堂)を出されていた辞典の経験者でもありました。)
 とにかく、お二人の書かれた原稿は一つの英語の単語のすべてを味わい尽くされているような気がいたしました。でないとこれだけのこなれた訳語や奥深い記述は生まれてこない、これからの作業はよほど用意してかからないといけないぞと緊張感を覚えたものでした。
 この記事を書いている時、たまたまある大学の院生から、次のような手紙を受け取りました。
「While I am away, the children will look after the house.先日R. QuirkのA Student's Grammar of the English Language の一節を当てられ、この例文のlook afterを「世話をする」のではこの場合おかしいので、苦肉の策で「手入れをする」といったのですが、先生はすかさず「世話をする」とおっしゃったのです。「世話をする」は人間・動物・植物のような生物を目的語にはしても、家のような無生物を目的語に取ると日本語としておかしいと思います. . .」
 どっちもどっちですね。当時の私の語学力はこの程度だったかもしれません。今なら、「私の留守の間は子供たちが家のことを見てくれます」とか「私のいない間は子供たちが留守番をしてくれます」くらいに訳すでしょうか。
 ともかく、英語についても、日本語についても、人並みすぐれた、いわゆる言語感覚―分析するだけでなく総合する語学力、つまり語感を磨くことの必要性を改めて痛感した次第です。
編集会議
 それから、逐次執筆者が決まり原稿執筆依頼、1ヵ月後、(メモを見ると)10月23日に、学研の人が連絡員 ― 校閲者(柴田、小林、小西の3人)間を定期的に巡回して校閲者に原稿を回すアルバイトの学生 ― を紹介するため来られました。 そしてそのあとが早かった。3日後にはもう校閲原稿が届けられました。
 そして、一通り原稿が校閲者間を回ったあと編集会議(このときは会場は大阪の「うつぼ旅館」に変わりました)、これは大抵土日の2日間に亘り、編集部が用意してくれた原稿の問題点や不備などを検討することでした。この編集部たるや(辞典の初版に記載されているように)9人という豪華な顔触れでした。 まず、その人たちが手分けして、会議の際必要な辞典類を持参してくれたのでとても助かりました。
 それに加えて、初版に名は載っていないが、校閲者3人の原稿などを手伝い、清書するために、こちらに駐在した東京外大出の女性一人、と先ほど話しました連絡員、総勢11人になります。 これで、社長さんの意気込みが、私にはじかに伝わってきました。 特に忘れられないのは、この方の名は載っていませんが故人となられた当時の編集長(初めはこう呼んでいました)です。 この方は、某辞書会社から我々の辞書のために引き抜いてこられたそうです。その頃はまだみな手書きでしたから、それぞれの語に行数制限があってそれを守ることが義務付けられていても、日本語は1字1マスははっきりしていますが、英語となると字を小さく書いて、ごまかす(?)原稿がよくありました。 この編集長が清書すると、印刷された場合に1行は1行とぴったり収まりました。 それは神業のようでした。その後、何度かこの編集長のモデル原稿を執筆者に送って注意を促しても、なかなか守られません。 こうしたことが明らかになったので、これまでの原稿用紙を全部破棄し、新たに、原稿用紙自体をこれまでの正4角形のマスでなく、矩形にするという措置を取られました。(こうした裏方の苦労は今のパソコンの時代には考えられないことでしょう。)これは適切な英断であったことは、後になって分かり、初期段階の規約作りの苦労と共に、特にここに記して、故人の冥福を祈ります。
 この編集部の人たちは、まさに選り抜かれた優秀な若者たちの集団でした(この中の大井光隆氏はあとの『スーパーアンカー』の編集(長))。ある時、ある人の執筆原稿の欄外に、大きく「これが大学教授と言えるか!!」と書かれていて驚いたことがあります。 この執筆者は英語の辞書について一家言を持っておられる知名の学者でありました。 一事が万事で、編集会議は部長自らが大部分説明し、部員の人もどしどし発言して、実に活気溢れたものでした。(これらの多くの方は今でもお付き合いさせてもらっています)。
get across [自] 1. 向こう側[岸]へ着く. ― We got across safely. 我々は無事に向こう岸に渡った. 2. (考えなどが)相手に通じる.―[準他](川・通り)を渡る. ― He got across the river. 彼は川を渡った.―[他] 1. (人・物)を向こう側へ渡す.― get him across 彼を向こう側へ渡す. 2. . . . . . . . . . . . . [初版から]
 上に見られる[準他]という表示を巡ってのああでもない、こうでもないと、1日では決着がつかず2日目の朝、漸く小林先生提案の[準他]ということで落ち着いたことなど、昨日のことのように思い出されます。
 こうして、会議を重ねて作り上げられた規約は最終的にゆうに数十頁にも上り、これに索引もつけられて堂々たるものが完成されました。
会社の姿勢
 執筆者の原稿に喝を入れるほどの編集部の人たちは、社長の指示で、この期間中は辞書の専任で、よくある他の部署との掛け持ちではなかったと聞いています。それだけ部員はこの辞書作りに打ち込むことができるわけです。 そして、ある時は我々を後ろから押し上げ、ある時は前から引っ張ってくれるものを感じ、どれだけ我々に勇気を与えてくれたことでしょう。
 また、長丁場となる辞書の仕事では、どうしても中だるみが生じてきます。 社長自身はこれを考えてか、自ら、または重役を派遣して、私たちの陣中見舞いをしてくれました。 あるときなどは、私たちをねぎらうためにわざわざ東京に招いて、いろいろなところに案内されて豪遊歓待して下さった。 連日山のような校閲原稿を前にしていて苦闘していた我々にとっては、絶好の気分転換になったようです。 そんな折のお話しだったか、会社に辞書研究所のようなものを作って、研究のみに専念する部員を育てていきたい、といったような抱負を語られたことがありました。 そして、今辞書に参加している人を含めて適当な人があったら紹介を頼む、とも付け加えられました。
 今ここまで書いてきて、ふと昨年のノーベル化学賞の受賞者を生んだ島津(製作所)の矢嶋英敏社長の、次の言葉がよみがえってきました。

 (人的にも資金的にも)「明日の飯のタネのために使うが、残り3割は次世代に芽が出るかもしれない基礎に充ててきた」(『朝日』02.11.23)

 ともかく、この社長にして、この編集部ありで、会社が我々と一体になったような、厳しいながらも実に楽しい雰囲気の中で、我々は思い切り仕事をさせていただいたものです。
Adding the Finishing Touches
 このようにして、4年近くすぎ、やっと完稿に漕ぎつけかけた夏休み前のこと、編集部がページ数を計算した結果、あれほど厳密に計算して作業を進めたのに、それでも何パーセントか多くなることが判明しました。 高校生にハンディなものをということで、1480―1500ppということが、初めから決められていたのです。 これは至上命令でした。それでやむなく、3人で手分けして、夏休みのすべてをかけて、この削減作業に没頭しました。 (私はこの仕事を持って田舎に帰りましたので母はとても喜んでくれました。) このとき追加するのは比較的たやすいが、カットするのはいかにむずかしいかをいやというほど味わいました。
 さらに、依拠した「基本図書」(これも学習辞典としてはめずらしく巻頭に掲載しました)から、ひょっとしてそのまま借用していないかどうかのチェックが、編集部が総がかりでやってくれました。 念には念を入れよ、というわけです。あれや、これやで、半年近くかかったのではないでしょうか。
 一方、これと並行して、この辞書につけられた冒頭の「辞書の手引き」と「編集基準の解説」は40ページにも及ぶもので、特に後者の「編集基準の解説」は、他の学習辞典には見られないユニークなものでした。 このためにずいぶんと時間をかけました(私は の解説などを担当)。 それは、『スーパーアンカー』では削除されましたが、ぜひ一読しておいてもらいたいほど、価値のあるものと考えております。
 今日のように、本文に1語でも多く加え、収録語彙数を競うためには、こうしたあまり読まれない(しかし基本的な)解説記事は簡略化または省略されてしまう傾向があります。 しかしながら特にこの辞書の「編集の基本方針」(1. 明快と親切。2. ピラミッド方式 3. 意味論的・統語論的アプローチなど)とそれをさらに具体的に踏み込んだ解説などは、この辞書で作る側とそれを使う側をつなぐ直接のパイプのようなもの(であるという、私の思い入れ)であったからです。
 かくして、最後の仕上げは1971年の秋までかかり(メモ的日記によると11月2日「はしがき」と付録の「不規則変化表」を柴田先生に送る、とある)、満を持して、いよいよその翌年(1972)の春に陽の目を見ることになりました。
 「明解と親切」、言うなれば(やや冷たく感じる)IQ的な記述に偏したものに(ほのぼのとした暖かさを感じる)EQ的なものを加え、「英和辞典は一切見るな」という主幹の号令のもとに日本の古い殻を破った刷新的な学習辞典として、颯爽として登場したのでありました。 そして、2校(1981)、『ニューアンカー』(1988,1993)を含め多数の愛好者を獲得し、これまで、辞書出版の老舗(ほ)に独占されていた感のあった学習辞典の一角に食い込んだ業績は(私が言うのもなんですが)、大きいように思います。
 この辞典は、その後1996年に山岸勝栄教授の下に『スーパーアンカー』として、その意思は受け継がれ、新しい時代の「理想の英和辞典」を目指して、ますます発展しつつあります。 在天の柴田先生、小林先生はさぞご満足されていることでしょう。 (回想第二話完)