Block The Road To War! One Million Signature Campaign

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郵便振替口座名称=百万人署名運動・関西連絡会
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E-mail  kansaihyakuman@yahoo.co.jp

更新:2009年11月4日
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11・8普天間基地撤去!辺野古新基地建設反対!大阪アクションに参加を!

 闘う仲間のみなさん。

 百万人署名運動・関西連絡会は、11.8普天間基地撤去!辺野古新基地建設反対!大阪アクションにに賛同し、緊迫を告げる沖縄・辺野古への新基地建設に反対し、普天間基地の即時撤去を求める行動に、総力をあげて決起することを訴えます。

   いま、11月12〜13日のオバマ大統領の来日を前に、沖縄では大規模な「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」が11月8日(日)午後2時より宜野湾市海浜公園屋外劇場で開催されます。この沖縄の闘いに連帯して、大阪での行動が、辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動から呼びかけられています。 沖縄の闘いに連帯し、日米安保体制を護持する政府を存続させてきた日本の労働者民衆の責任をかけて、今こそ、沖縄の米軍基地全面撤去の闘いを作り上げるために、この大阪で新たな沖縄闘争を作り上げ、新たな大高揚を作りましょう!


11.8普天間基地撤去!辺野古新基地建設反対!大阪アクション要項

日時:11月8日(日) 午後2時〜
集会場所:中之島公園女神像前
参加者からのアピールなどで集会を行い、その後デモを行います。
デモコース:中之島公園〜米総領事館〜梅田方面



以下に、案内ビラを掲載します。




辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動
(連絡先(e-mail):osaka_henoko@yahoo.co.jp
ホームページhttp://www.geocities.jp/osakakoudou/index.html


宣伝ビラのダウンロード(AcrobatReaderが必要です)はこちら⇒●
’09 このままでええの?!日本と世界
〜反戦・反貧困・反差別共同行動in京都 


のご案内

’09 このままでええの?!日本と世界〜反戦・反貧困・反差別共同行動in京都は、戦後永きにわたった自民党政治支配体制が崩壊した中で、新たな労働者階級人民の力ある共同行動を形成するために、10月18日(日)に京都・円山公園野外音楽堂において大集会を行い、その後京都市内へのデモ行進を準備しています。

詳細は、こちら⇒●


◆2009年10・18円山集会要項

日時:2009年10月18日(日) 午後1時30分〜

会場:京都市 円山野外音楽堂

内容:講演と反戦ライブ

●講演 「このままでええの?!日米同盟」

  纐纈(こうけつ) 厚(あつし)さん山口大学教員)

●ライブ パンタ 頭脳警察

   趙(チョウ) 博(バク)  浪速の巨人

●アピール 沖縄から     知花(ちばな)昌一(しょういち)さん 沖縄 読谷村議)

    パレスチナは今   岡(おか)真理(まり)さん京大教員)

●政党・運動・戦線からの連帯あいさつ

労働運動、反基地運動、日朝・日韓連帯などから


※集会後デモ


主催:反戦・反貧困・反差別共同行動(きょうと)


以下に集会案内ビラを掲載します。






10・18共同行動の宣伝ビラのダウンロード(AcrobatReaderが必要です)はこちら⇒●


10.18共同行動への賛同を募っています。以下に、賛同のお願いを掲載します。

反戦・反貧困・反差別共同行動(きょうと)実行委員会の賛同のお願い




賛同用紙のダウンロード(AcrobatReaderが必要です)はこちら⇒●
日米合同演習反対!9.19あいば野集会の報告

9月19日(土)、午後2時から滋賀県高島市今津町の住吉公園に、関西各地の闘う労働者人民が参加して、”日米合同演習反対!9.19あいば野集会”が闘われました。この闘争は、"09あいば野に平和を!近畿ネットワークとフォーラム平和関西ブロック(滋賀県民平和・人権センター)"の共催で開催されました。
日米軍事一体化を進める在日米軍の再編計画の一環として、在日米軍と自衛隊の実働訓練に反対する行動として行われ、600人(主催者発表)が参加した。西日本で最大の市街地戦闘訓練施設を持つあいば野演習場で、10月中旬から予定されていることを弾劾する闘いです。百万人署名運動・関西連絡会は、あいば野に平和を!近畿ネットワークの一員として、この闘いに参加しました。

以下、集会・デモの写真です。











8・16第3回戦争と平和を考える集い

参加報告

世代を越えて戦争体験の共有を!
を合い言葉に、とめよう戦争への道・百万人署名運動大阪東部連絡会が呼びかける反戦集会が約60人の参加で行われました。

8月16日、「戦争と平和を考える集い― 世代を超えて戦争体験の共有を!―」が百万人署名運動大阪東部連絡会の呼びかけで、エル大阪南館101号室で開かれ、60人近い人が参加しました。


藤原好雄さん


 最初に、百万人署名運動・奈良県連絡会事務局代表の藤原好雄さんが、学徒動員による労働などの体験や朝鮮人への暴行を目撃した経験などを話された。続いて、山本善偉さんが、'43年の学徒動員の経験と戦争教育の影響について話され、いま戦争をとめるために三里塚農民の闘いを支援することの重要性を訴え、9・27三里塚関西集会と10・11三里塚現地闘争への結集をアピールされた。


山本善偉さん


 その後、在日朝鮮人の方や東京大空襲のご自身の経験、あるいは親から聞いた戦争体験の話、沖縄の方のベトナム戦争の頃の体験、そして飛び入りの方の、平和と反核への想いなどが語られた。


西元さん


 元意岐部東小学校の西元さんは、勤労動員で藤永田造船所での強制労働の経験、造船所が米軍の爆撃で破壊された後も、動員は解除されず、家屋疎開作業に動員されたこと、そして、天皇の8月15日の放送を聞いて「戦争に敗北した」というものと、「もっと頑張れ」と放送されたという二組に動員学徒が割れたこと、敗戦後の食料不足などを語られ、絶対に戦争を許してはならない、戦争をとめるために闘うことを訴えられた。


集会参加者


呼びかけ:とめよう戦争への道・百万人署名運動大阪東部連絡会
連絡先:東大阪市荒本2−14−5 東大阪解放センター内
TEL/FAX 06−6781−3984
e-mail:cpgv406@hct.zaq.ne.jp


被爆64周年─8.6ヒロシマ─平和の夕べ─

のご報告

2009年8月6日(木)に、
河野 美代子さん(産婦人科医、被爆2世)三浦 翠さん(原発いらん!山口ネットワーク)青木 忠さん(『瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲』著者)を発起人とする

被爆64周年 8.6ヒロシマ─平和の夕べ─が開かれました。

とめよう戦争への道!百万人署名運動・関西連絡会は、これに賛同して集会の成功のために全力で取り組みました。
以下その報告です。


上原公子さん

 この日の集会は、全国の300人以上の賛同を得て、広島YMCA国際ホールに300人近い人々が参加して開かれました。
 集会の司会進行は、前国立市長の上原公子さん。

 開会前から池邊幸恵さんのピアノとナターリア・コズローヴァさんの歌が会場に流れ、開会してから、さらに池邊さんの演奏とスクリーンを使った8・6ヒロシマと平和への池邊さんの想いが表現されました。


池邊幸恵さんとナターリア・コズローヴァさん


 次に、この日のメインの平和講演「ヒロシマの継承と連帯を考える」を河野美代子さん(産婦人科医)が行われた。
 河野さんは、被爆2世として62年間ずっと広島で育ち、暮し、産婦人科医として「患者さんを通して社会を見てきました」という体験を通した想いを話されました。
 河野さんは、講演の中で、小学校、中学校、高校での体験と大学で被爆者青年同盟の結成に加わり、天皇、佐藤首相の来広阻止闘争を闘い抜く中で、一つは「親の話を聞こう」と被爆者として、原爆で傷つき苦労しながら自分を育ててくれた親に「あなた達は侵略者だった」と問うていった想いと、今一つは、「子供を産もうよ」「被爆者の血を脈々とつないでいこう」と決意したことを話されました。
 産婦人科医として染色体の研究をするなかで知った、トルーマンによってつくられたABCCがたくさんの被爆者とその子供たちの染色体を調査し、「染色体異常」に気づき、指摘しながらその結果をアメリカには英文で発信するが、被爆者たちには一切知らせてこなかった事実を厳しく糾弾されました。


講演中の河野美代子さん


そして、「いのち」を見つめる中から「いのちの教育」である「性教育」の実践を自分のライフワークと決め、この30年近く取り組んできたことについて語られました。この日、同じ時間に、「日本会議・広島」が挑発的に田母神元航空幕僚長の「核武装」を求める講演会をしていることを厳しく弾劾されました。そして、日本会議の犯罪行為を、「性教育」だけでなく、人権教育、歴史教育、平和教育までも破壊しつくそうとしている事実を、具体的ないくつもの事例をあげ、またご自身が闘っておられる裁判について紹介されながら怒りを込めて明らかにされました。そして、河野さんは、「(被爆した)35万の人々のうち13万から15万の方が1945年のうちに亡くなった」「この『核の脅威』をもう一度ここで見直してみるべきです」「たくさんの被爆者の闘いがあってこそ平和が保たれたのだ」と提起されました。憲法改悪の動きの中で、この日の平和公園でのこども宣言「平和の誓い」に本当に感動したことを、その言葉を紹介されながら話されました。
(河野さんは、ご自身のブログ「いろいろダイアリー」(http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/index.html)で20回以上にわたり「私的平和考」を掲載され、8・6ヒロシマへの思いを語られています。ぜひご覧ください。)
 そして最後に峠三吉さんの「墓標」を朗読され、特に子育てをしている方に「子供たちに伝えましょう」と呼びかけ、話を終えられました。
 本当に心に迫る問いかけ、呼びかけが行われました。

青木忠さん


 集会の発起人の青木忠さんは、1945年の3月19日と7月28日の因島空襲で、多くの人が犠牲になった事実を掘り起こした自身の思いを語られました。


米澤鐵志さん


 続いて3人の方からリレートークが行われました。
 まず、被爆電車の中で被爆した唯一の生き残りである米澤鐡志さんは、被爆体験を話す時間はないのでとして、「日本が危険な状態になっている」として、一昨年、10・21に京都で取り組んで1200名を結集できた「市民運動独自の闘い」と「反戦老人クラブ」の取り組みを語られながら、400回を超す被爆体験の語り部として、「生き残った体験を伝えていかなければならない」と決意を語られました。

三浦翠さん


 「原発いらん!山口ネットワーク」の三浦翠さんは、チェルノブイリ事故に触発され、上関原発に反対して運動を立ち上げた経緯を語られ、長島の田ノ浦、祝島を訪れることを通して「このきれいな自然には絶対に手をかけさせない」という決意を固められたことを、その自然の素晴らしさを具体的に紹介されながら語られました。また、祝島のみなさんの「1本釣り」に象徴される暮らしぶりと、中国電力による様々な建設攻撃に対する文字通りの「実力闘争」が闘い抜かれてきたことが紹介されました。山口県の漁協が底引き網漁であることからこの祝島海域では漁をしないにもかかわらず、125億円もの補償金を中国電力から受け取り、推進側についていることを糾弾された。

小林圭二さん


 元京大原子炉実験所の小林圭二さんは、丸山真男の遺稿の言葉を紹介しながら、熱風と熱線、そして死の灰という原爆の延々とつづく被害が原発にも共通することを先ず明らかにされました。
会場を埋めた参加者

 ご自分が「専門家の悪弊」で原発の危険性に気付かず、60年安保世代の立場から反権力闘争と捉えて70年初頭に伊方原発の裁判に関わる中で、「原発の全体像を教えられた」と反省をこめて明らかにされた。「原発は人類と共存できない」「原発と原爆は同根」「そもそも原発は原爆から生まれた」と具体的に指摘され、現在憲法9条の解釈改憲により、なしくずしで派兵が強行されていること、現在の原子力行政が明白に「核兵器の開発」のために「平和利用と軍事利用の垣根を」なくしていること、そして「『もんじゅ』は核兵器製造工場だ」と弾劾されました。
 この集会は、広島、全国から多くの参加者が集い、内容豊かな、何よりも被爆者とともに、改憲阻止、核武装反対、戦争反対を闘い抜こうという想いが貫かれたものでした。

米澤鐵志さん─被爆電車で被爆体験講演(8月7日)の報告


被爆電車


 8月7日、前日の集会に参加した人たちをはじめ、この日、新たに子供づれの人などを加えて60人近くが、広島駅前に集まりました。
被爆電車で被爆し、ただ一人生き残っておられる米澤鐡志さんから、復元された被爆電車に乗って、お話を聞くという企画に参加するためです。


被爆電車で語る米澤さん


 午前11時に、被爆電車が到着。広電の労働組合の力で、被爆電車の台車が残され、全体は現在使えるように修理されたものです。
 これに乗って、広電の車庫までのわずか30分でしたが、米澤さんの生々しい、凄まじい体験をお聞きすることができました。
 1945年8月6日、当時小学校5年生の米澤さんは、お母さんと疎開先から荷物を取りに自宅に帰るために、80人乗りのこの電車に200人というすし詰め状態で乗られたそうです。
 中国新聞社近くの流川を過ぎたあたりで被爆。爆心地から750メートルだったが、満員の中心部分で大人の影に隠れていた上に、広島で一番高かった福屋百貨店のビルの陰に入っていたこと。そして、喉が非常に渇きながら水を飲めば全て戻してしまうことを繰り返し、結局その日は、水を飲めなかったこと。さらに、放射能に侵された「黒い雨」を木の下でしのげたこと。そして何よりも、その日のうちに広島を離れることができたことなどの「幸運」が重なって、米澤さんは、今日まで生き延びることができたと言っておられました。米澤さんは、電車の中の様子、降りてから疎開先に帰るまでの間に見た様々な惨状について「当時、中学校3年生以上は工場に働きにいかされていて、1、2年生が建物疎開をやっていたんですね(火災の延焼を防ぐために、建物を列によってつぶしていたのが建物疎開)。国防婦人会と、女子学生そして中学1、2年生が駆り出されていた。屋根瓦を落として、屋根に綱をはって運動会の綱引きのように倒してつぶす。そのつぶした後を整理するという仕事をさせられていた。帽子をかぶって半ズボンと半そでシャツ。そこへ3000度以上の光線を直接浴びたわけですから、たまったものじゃない。全部焼けてしまって完全に裸状態でやけどですね。すぐ水ぶくれができるんですよ。シャツを着ているところと直接肌にあたったところはやけどの状態が違いますからね、水ぶくれの水がだんだん下がってくると、皮膚も一緒にずってくるわけですね。
 ずったものが爪の先で止まりますね。そうするとみんな、泣きながらその袖から先の長さの皮膚をぶらさげてるんですね。それは本当に可哀想で、しかも幽霊のような感じで、しかも裸で、全身やけどで、そういう女学生、中学生たちをたくさん見ました。その子たちは、カンカン照りの中で、脱水症状を起こしていますから、そしてすぐそばが川ですから、子供たちも、子供だけでなく大人たちも川に入って水を飲もうとするわけです。ところが、水に入ったとたんにパタッと倒れて流れていくわけです。これは、脱水症状の所に水に入ったショック死だと思うんです。」と語られました。


45年8月6日、被爆直後の福屋百貨店と被爆電車(広島原爆資料館所蔵)


 お話を聞くうちに、被爆されたとい現場はあっという間に通り過ぎてしまいました。8月15日の敗戦の日のこと、その2日後に、お母さんと共に頭の髪の毛がすべて抜けてしまって、丸はげになってしまったというお話のところで、広電の車庫に着きました。
 そこで電車を降りて、広島電鉄労組OBで、組合で書記長を20年近く務められた河野弘さんが合流して下さりました。


広電労組OBの河野弘さん


 河野さんから、車庫の入り口にある慰霊碑を前に、広電の組合員の皆さんの被爆の状況と、この慰霊碑を会社に作らせた経緯などの説明を受けました。


広電車庫にある慰霊碑


 そのあと、もう一台の被爆電車の中で、河野さん、米澤さんからさらにお話を聞きました。河野さんは、被爆直後に広電がすぐに電車を走らせるようになる経緯と、日本陸軍の思惑(本土決戦)について話されました。それによると、電柱の被害の少なかった己斐から観音町の区間では、東京から軍隊が動員され、8月9日にはもう電車が走ったそうです。そして1945年の終わりには20輌、'46年には36輌、'49年には70輌が走れるようになったが、ガラスがなかったので、運転席をのぞいて板を張り付けていたということでした。
 米澤さんは、5分しかないという中で、9月初めにお母さんが亡くなられ、被爆していなかった1歳の妹さんが、8月8日から15日の間にお母さんから授乳を受けただけで、その年の10月に亡くなったということを話され、原爆とその放射能の恐ろしさを訴えられました。お話の最後に、朝鮮人の人々の被爆の問題が話せなかったことを本当に残念そうに語られ、お話を終えられました。


広電車庫にて





平和の夕べ(反戦・平和研究集会)実行委員会
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広島県尾道市因島椋浦272
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