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天草によみがえった楊貴妃と冬虫夏草 |
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序章 | ||
世界の三大美女といえば先ず思い浮かぶのが、唐の時代に「傾国の美女」といわれた楊貴妃である。 第6代玄宗皇帝のお妃だった楊貴妃が、美貌と若さを保つために冬虫夏草(幻のキノコといわれる希少な生薬)をこよなく愛したことでも有名である。 その楊貴妃が今から1250年前の唐王朝の内乱の最中に、東シナ海を漂流して熊本県天草の地に流れ着き、冬虫夏草で島人たちの疫病を鎮めたという伝説が、ここにきてにわかに真実性をおびてきています。 天草といえば、九州でも屈指の観光地。 島原の乱の主役・天草四郎の誕生の地として有名な、歴史と大自然の溢れる島である。 風光明媚な天草五橋が観光の目玉で、松島温泉、下田温泉など湯量たっぷりの温泉がいたるところから湧き出るという素晴らしいロケーション。しかも、アワビや伊勢エビなどの海産物がきわめて豊富に食べられる。 最高の観光要素を持ちながら、阿蘇と雲仙島原の間にあって、通過する観光地としての悩みがある土地柄ですが、こうした状況を何とか打破しようという動きが高まってきて、そして進み始めたのが、楊貴妃の功徳をしのぶ島興しである。 そして2年が過ぎて、楊貴妃が漂着したことで知られる天草市新和町で始まった冬虫夏草の街おこしは、楊貴妃の予言のとおりに、アッという間に九州全体に及んでいいる。 |
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![]() 楊貴妃が流れ着いた立の鼻 |
![]() 立の鼻風景 |
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天草の街おこし計画は、楊貴妃が漂着したといわれる天草市新和町立の鼻(タテンハナ)の島人が主宰して平成24年12月1日に、本渡のポルトという市の施設で披露された。 天草の有志36人が押しかけて事業計画を勉強をした後に、新和町の方々が中心となった懇親会が開かれた。その新和町に残る伝説の主人公が、世界の三大美女と称えられる楊貴妃である。 楊貴妃は実在の人物で、玄宗皇帝の寵愛が王朝の災いを招いたと非難され、皇帝が泣く泣く処刑を命じたと伝えられる悲劇のヒロインなのである。 馬嵬(ばかい:今の河南省興平市)で縊死(荒縄で絞殺)され、埋葬されたという楊貴妃。 ところが後に墓を調べたところ、中には楊貴妃のものと思われる着衣と身のまわりのものがあるだけで、死んだはずの楊貴妃の姿も形もなかったという。 楊貴妃はどこに消えたのだろうか。 |
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![]() 西安華清宮の楊貴妃像 |
![]() 咸陽市興平県の楊貴妃像 |
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第1章 楊貴妃の生い立ち | ||
楊貴妃の実名は楊玉環。 蜀(現在の四川省)の平民の娘として719年に誕生し、幼いときに両親と死別して、叔父の家に引き取られて育った。 ある時、西征する唐王朝・玄宗皇帝の第18皇子・寿王(後の李琩)に見初められて皇子妃となったのだが、その麗しき妃に目をつけたのが寿王の実父である玄宗皇帝だった。 玄宗皇帝といえば「開元の治」と呼ばれる善政を行って、唐王朝の絶頂期を迎えたほどの名君である。開元の治とは、仏教の僧尼にも王朝が身分証を与えるという、仏教にとっては布教の端緒となる善行なのである。 若い頃には(西暦720年頃)民族宗教としての道教よりも、むしろ、新興ともいえる仏教に傾倒していた玄宗だが、楊玉環と出会った740年頃から次第に道教を信仰するようになって、そして、楊玉環のあまりの美しさに見惚れて寿王と離別させようと企むのである。 寿王のもとから出家させ、玉環がよく知る道教寺院にあずけて尼僧にして、その間に、自らは王宮内に道教の修道院を建て、天台山(浙江霊山)から司馬承禎という高名な仙人を招いて、玄宗自ら道士(道教をきわめた修験者)になるための修練を始めた。 これもそれも全て、玉環に気に入られるための策略なのである。 1年余の時をおいて玄宗は、玉環を宮廷の奥に建てた寺院に呼び戻し、ともに道教の修練に励んで5年後には玉環を正式に貴妃(第2正妻)とした。この時、玄宗は60歳、楊貴妃26歳である。 この程度ならまだ良かったが、その後の寵愛ぶりが度を過ぎていたという。楊貴妃のまた従兄にあたる楊国忠をはじめ、政権の要職に次々と親族を据えて政治を任せ、玄宗は楊貴妃と奥の院に籠もり、その上に楊貴妃が美しさを維持する食べ物として望んだ阿膠(アキョウ)や茘枝(ライチ)そして冬虫夏草(トウチュウカソウ)を王朝の威信をかけて集めさせたのである。 阿膠といえば山東省に育つ野生の驢馬(ロバ)から採取する背脂、茘枝は福建に産するビタミンCがきわめて豊富なフルーツ、冬虫夏草とは仙真(仙人)や天真(天使)しか採ることのできないといわれる世でもっとも希少で貴重な生薬だった。 採取には膨大な費用がかり、しかも、立派な専用道を作って毎日のように早馬で届けさせ、2人で食したのだから、次第に王朝の財は細り国力は衰えたのである。 玄宗に愛想を尽かした旧来の重臣が次々と離反し、世は乱れに乱れて「安史の乱」を招くこととなった。 |
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![]() 楊貴妃 想像画 |
![]() 楊貴妃と玄宗皇帝 |
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第2章 安史の乱を逃れた楊貴妃 | ||
反乱の首謀者は、北方節度使(地方行政軍事総監)の安禄山。マラカンダ(イラン北方の都市)の遊牧民だったこの男は、希代のくせ者である。 宴会になると、大きなお腹で器用にコーカサスのステップを踏んで、周りの者をたちの笑いを誘った。 宮中で開かれた晩餐会のことだった。その踊りが楊貴妃の目にとまり、涙を流しながら笑い転げたという。それから、楊貴妃の推挙もあって立身出世を果たしたのである。 だがその胸の内は、優雅で美しい楊貴妃に恋い焦がれておりました。 「なんとか貴妃を我がものにしたい」 この邪悪な思いは大きく膨らんで執念と化した。そしてついに決起することになる。 「皇帝より宰相・楊国忠討伐の命を賜った」と騎馬8千、歩兵15万を率いて都・長安に向けて進撃を開始し、1ヶ月後の755年12月には都より300キロ東方の要衝・洛陽府を陥落させて、唐の大半を支配下に置いたのである。 明くる1月、安禄山は自ら「雄武皇帝」を名乗り、燕国を起こして皇帝に即位、唐王朝の都である西安の攻撃を開始した。 対する皇帝軍の大将軍・哥舒翰(グスゥハン)は、西安と洛陽府の中間にある潼関(トングァン)の要塞で応戦し、反乱軍と激しい攻防を繰り返している。 756年6月、6ヶ月におよぶ激しい攻防のすえに、皇帝軍は分裂して大将軍・哥舒翰は捕らえられ、将兵たちは総崩れになって都・西安に逃げ帰った。(安史の乱を検証①) |
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危機を感じた玄宗と楊貴妃ら3000人は西安を脱出したのだが、わずか60キロほど西に下った馬嵬(マァクイ)という街の入り口で悲劇が起きた。本来ならば皇帝を護るべき近衛軍が皇帝たちを取り囲んで、争乱の原因をつくった宰相・楊国忠ら一族の処刑を求めたのである。 楊国忠が死ねば安祿山の大義はなくなって、内乱は収まると思ったからだろう。皇帝が採決を下す前に楊国忠と楊貴妃の姉妹たちは殺害され、さらに暴徒化した將士たちは楊貴妃の処刑をも要求した。 危機差し迫った状況で、宦官太監(宮中総監)の高力士が「貴妃を処刑する以外に皇帝を救う道は御座いません」と、玄宗の説得にあたる。 玄宗は信頼する高力士の説得に泣く泣く応じ、そして「貴妃の望むように道教の寺院に連れて行って、自決をさせてやってくれ」と、最期の始末を頼んだ。 翌朝夜明け前、高力士は馬の鞍に楊貴妃の身のまわりの物を縛り付け、背後に楊貴妃を乗せてひっそりと陣営を後にした。 馬嵬(マァクイ)を過ぎて西の先にある道教寺院に着いた高力士は、神前に座して祈りを捧げようとする楊貴妃に「上着や身のまわりのものはここに置いてください。道士の服装に着替えてすぐに出発しますので」と促したのである。 「どちらに行くのか?」いぶかしがる楊貴妃。 「蓬莱に向かいます。貴妃はこの寺院で自殺されました」と、告げたのである。 |
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![]() 反乱の首謀者・安禄山 |
![]() 安倍仲麻呂 |
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東から北から迫る反乱軍の兵士たち、西の行く手には造反した近衛軍が溢れているのですから、逃れる道はただ一つ。 南方に40里、およそ5時間ほど馬を走らせると、そこには漢水(揚子江の支流)が流れている。 岸沿いに駆けてゆくと、まもなくウイグル信仰(マニ教)の小さな寺を見つけた。 高力士はもとより、楊貴妃を助けたいと思っていたから、道教を盲信する楊貴妃を道教寺院に隠せば、追っ手に見つかるかも知れないという懸念があった。 マニ教寺院なら、安禄山も見落とすかもしれない。ここ以外に助かる場所はないと判断した高力士は「かくまってほしい。追っ手が来たら小舟に乗せて漢水に流してほしい」と、住職に頼みこんだ。 漢水に流せば武漢で揚子江と合流して、いずれは東方海(東シナ海)に流れ出るだろう。今の時期なら揚子江は満々と水をたたえているから、その勢いで蓬莱まで押し流されるかもしれない。ここで座して死を選ぶより、万に一つでも可能性があれば、これに賭けるしかない。 そして馬の蔵に結び付けていた金塊を住職に手渡し、そして「倭(やまと)の国の偉いお方が訪ねて来たら、これを渡してほしい」と、一遍の詩文を渡した。 「美人捲珠簾 深坐嚬蛾眉 但見涙痕濕 不知心恨誰」 (美しい方が珠すだれを巻きあげ 部屋の奥深く座って眉をひそめている どなたのことを想って 毎日のように涙を流しているのだろうか) 心密かに楊貴妃を思っていた高力士、なんとか倭(やまと)に逃がしたい。 その気持ちを、李白が詠んだ「怨情」と題する五言絶句にして、朋友である安倍仲麻呂(あべのなかまろ)に伝えようと思ったのである。 仲麻呂といえば、かつては遣唐使の一員だったが、唐に滞在していて官僚の登龍門といわれる科挙に合格して宮中に上がり、出世をして玄宗皇帝の近くに仕えていたのだが、安史の乱が起きる直前に、日本の遣唐使の船に乗って帰国の途にあった。 ところが出航直後の東シナ海で船が難破、一命をとりとめて、唐のどこかで生きていると噂に聞く。 「貴妃を倭(やまと)に逃がす、あとは宜しく頼む」 楊貴妃とも高力士とも深い知己にある仲麻呂ならば、この詩の意味を察して、倭の国に立ち戻って楊貴妃を探し出して救ってくれるに違いない。 急ぎ、馬嵬(マァクイ)にとって返した高力士は、道教寺院の裏山に墓穴を掘って楊貴妃の着衣と身のまわりのものを埋め、あたかも楊貴妃の墓のように見せかけたのである。(楊貴妃自殺の謎を検証②) 反乱軍からも皇軍からも追われる楊貴妃に、安寧の場所はなかった。追っ手が迫ってきたのを察知したマニ教寺院の住職は、夜陰に紛れて、僅かばかりの食糧を積んだ小舟に楊貴妃を乗せて、そっと漢水に押し流したのである。 「蓬莱に行けるのですね」と、静かに祈りを唱える楊貴妃、37才。 小舟は蕩々とうねる黒い波にのって、木の葉のように下流へと消えていった。西暦756年6月の、暗く蒸し暑い夜のことだった。 |
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![]() .楊貴妃の脱出ルート |
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第3章 冬虫夏草を持って天草に出現した女神 | ||
ここから、お話しは蓬莱(ほうらい)に飛びます。 蓬莱といえば道教の教義に登場する、唐国の東方海上に浮かんだ仙人の集う楽園で、倭(やまと)と呼ばれていた日本も、蓬莱の一部だという印象をもたれていました。 その倭の国には、唐王朝と20回にわたって交流をつづけていた遣唐使がいました。 唐に渡ると都に上って玄宗皇帝や楊貴妃に拝謁し、その帰路は、揚子江の出口にある寧波の港を出航し、揚子江の膨大な水流と偏西風に押されながら日本へと戻るのです。 揚子江の水量が増える夏季には、寧波港を出てからおよそ5日後には天草の沖合まで流されて、その辺りから対馬海流に乗って北へ舵を切り、長崎平戸を経て、玄海、洞海をめぐって関門海峡に入り、瀬戸内海を通過して大阪の住吉に入港していました。 しかしながら、これらの船の多くは東シナ海の高い波浪と暴風で舵が壊れて操縦できなくなり、そのまま天草や五島に打ち上げられていました。 盲目の僧侶で知られるあの鑑真は鹿児島の坊津に、遣唐使の大伴継人は同じく長島(天草立の鼻のすぐ対岸)に、そして弘法大師で有名な空海も長崎五島に漂着していました。 |
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![]() 坊津に漂着した鑑真 |
![]() 五島に漂着した空海 |
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その倭(やまと)の西の端には、梅雨明けの強烈な太陽が照りつけていました。 この地、両児島(ふたごじま)は神代の昔に伊邪那岐神(イザナキノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)の夫婦によって産まれた由緒ある土地柄ですが、そこには、大洪水や疫病が大流行して多くの島人が亡くなっていました。 両児島の祭祀を司る国造(くにのみやつこ)は「天変地異と流行り病は国つ神(くにつかみ)の怒りである。鎮めるにはより偉大な神の力を借りねばならぬ。この地に神の社を建てて祈祷せねばなるまい」と考えました。 「はて、その神とはどなた様が宜しかろうか・・・」 国造は第10代・宗神天皇の御代に流行った疫病についての記憶をたどりました。 「そうじゃったな、あの時には国つ神の筆頭であらせられる大物主大神(または大国主命)を三輪山に祀って疫病を鎮めたんじゃった。それでもまたまた、このように疫病が流行るのじゃから、今度は国つ神ではなく天つ神をお祀りせねばなるまい」 「天つ神(あまつかみ)ならば、伊邪那美神からお産まれになった女神であらせられる天照大御神(アマテラスオオミノカミ)をおいて他にはおられぬが・・・」 国造(くにのみやつこ)にとって、国産みの神様を超える神を探すことは誠に畏れ多いことでした。 ところが、頭を抱えている間にも疫病はどんどん広がってゆくのです。 そんなある日のこと、不知火海に突き出した「タテンハナ」と呼ばれる小さな岬の浜に、一艘の粗末な小舟が打ち上げられたのです。 外見からすぐに、時折流れ着いていた西国のものだと分かりました。 当時は、東シナ海の航海の途中で難破したり西国の漁の舟が舵を壊したりで、タテンハナに流れ着くことは珍しくもないことでした。(天草に漂着できる可能性を検証③) 集まってきた島人がその中をのぞくと、1人の若い女が身を潜めています。 「生きとるぞ、西国の綺麗な女人じゃ」 驚いた島人はその女を助け出して、村長(むらおさ)の屋敷に連れて行きました。 そこには流行り病にかかった数人の島人が担ぎこまれ、土間に並べられて治療を受けていました。 治療といっても手の施しようもない、ただお迎えの時を待つという悲惨な光景です。 これを目の当たりにした美しい女は、懐から小さな袋を取りだして「ズァグァ イズゥバイビンドゥ テェンサオ ナチュバ」と、くり返して何度も訴えるのです。 でも、女の言葉は誰も理解できません。 筆と紙を渡された美しい女は、そこに「天草医薬百病的」と走り書きをしました。 「なに、天草という薬草じゃと・・・」 これを読んだ村長は驚きました。 西国の女はその天草とやら(楊貴妃が飲ませた薬草を検証④)を数片取りだし、屋敷の女が煎じて島人たちに飲ませたのです。 まるで夢を見ているようです。 息絶え絶えだった病人たちが、またたく間に元気を取り戻したのです。 「はやり病が治ったど。奇跡じゃ、神様じゃ、このお方は女神様にちがいない」 疫病が神々の祟り(たたり)だと信じる司祭や島人たちは、たちどころに癒した美しい女のことを偉大な神だと思い込みました。 そして女が望むとおりに、タテンハナのほど近く、海が見わたせる小高い丘の上に社(やしろ)を建てて崇め奉ったのでした。 |
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第4章 祀られなかった女神 | ||
それから数ヶ月が経った日のことです。 来る日も来る日も海を見つめていた女神の姿が、ふと見られなくなりました。 心配した島人たちが社を訪ねると、女神は「天子様が迎えに来る」というのです。 「てんしさま?」 「お別れの時が近づいています」 女神は寂しそうにつぶやき、外に出て、懐にしまっていた袋を取りだして中の薬草を掴んで社の周りに捲き散らしました。 そして「この地に再び病が溢れる時、ここより天草が育って病に苦しむ人々を救う」と、予言をしたのです。 遙か海の向こうを見つめて佇んだ女神を仰ぎ見る島人は、ただただ、ひたすら祈りを捧げました。 すると急に天が曇り、雷鳴が響いて目前の山肌に亀裂が生じ、裂け目から巨大な竜が飛びだしてきたのです。 そして竜は、女神をくわえて空に舞い上がったのでした。 あとに残ったのは、あの天草を入れていた小さな袋がただ1つ。 まるで夢か幻を見ているような、あっけない最期でした。 噂を聞きつけた鎮守府(太宰府)の役人がタテンハナを訪れたのは、それから数ヶ月の後でした。 社に踏み入った役人は、女神が書き残した書文を見たからでしょうか、顔面蒼白になって出てきました。 「このお方は唐国(からくに)のお后様じゃ、楊貴妃様じゃ。ああ何と言うことだ」と、頭を抱えて天を仰いだのです。 安禄山の反乱によって亡くなったはずの楊貴妃が、この地にいた。 しかも、大和朝廷からは「安禄山の襲来に備えよ」との戒厳令がでている。 もしもこの事が安禄山に知れると、恋い焦がれる楊貴妃を奪回せんとして、大軍を率いて押し寄せてくるだろう。 これは大変だ、絶対に秘密にしよう。 口外せぬよう、島人にも厳しく箝口令(かんこうれい)を引かねばなるまい。 この社も壊して、楊貴妃に関するあらゆる事実を隠蔽(楊貴妃の墓も神社もない理由を検証⑤)してしまおう。 役人は肥後の国司にこれを伝えて、急ぎ、郡司(ぐんのつかさ)を派遣するよう、頼んだのでした。 「燕国との戦にならぬよう、万全を期してほしい」 しかしながら、恩を受けた島人らは女神を忘れませんでした。 社が建っていた場所を「楊貴妃の地」と呼び、竜が出てきた山に「竜洞山」と名称をつけて後世にまで記憶にとどめようとしたのです。 島人らは誰からともなく、心に生き続ける女神を懐かしむように、かの地を「天草いずる島」と語るようになり、かの村を「神話郷(しんわごうり)」と呼びました。 数日後、両児島に赴任した郡司は祭祀を取り仕切ってきた国造に、ある相談を持ちかけました。 「この島を政令(大宝律令)により郡と致しますが、名を如何にすれば宜しかろうか。古事記に書かれた『天両屋(あまのふたや)』にちなんで『両屋郡』とでも?」 神の祟りが再び来るのを恐れる国造は「女神様が天照大御神の御命令で降臨された。あの天つ国の薬草のお陰で神の怒りがおさまったのじゃから、この島を『天草』と名付けて、神のご加護に感謝をせねばなるまい」と、命じたのでした。 国産みの昔から付けられた由緒ある「両児島」の名が「天草」へと変わった(島名が変わった歴史的事実を検証⑥)瞬間でした。 |
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第5章 天草という島名の由来 | ||
「天草」の由来について調べてみると、他にこれというものがありません。 天草の地で調べを進めると、寒天を作るテングサの字をとったとか、海人族(アマゾク)という海洋部族が島に住み着いて、その名をとったなどが挙がってきます。 記録によると、寒天の原料となる海藻は大宝律令(701年制定)の時代には凝海藻(コルモハ)と呼ばれ課税対象になったことが記されおり、また、この律令の後に編纂された万葉集(783年頃)には山部赤人が詠んだ「塩干去者 玉藻苅蔵 家妹之 濱口乞者 何矣示 (潮干なば 玉藻刈りつめ 家の妹が 浜づと乞はば 何を示さん)」という歌のように玉藻(たまも)という読み名が付されていることから、西暦700年代のこの頃には天草(てんくさ)とは呼んでいなかったことが分かります。 テングサと呼ばれだしたのは、江戸時代になってからです。 凝海藻(コルモハ)を煮詰めてとれる心太(ところてん)が流行って、その凝海藻を「ココロテングサ」と呼んだことから始まり、後にテングサ(天草)と凝縮されたようです。 しかし「両児島」が「天草」に変わったのは、上述のように楊貴妃が漂着した700年代の中頃ですから「海藻の名を付けた」という説の真実性はきわめて薄いようです。 海人族の字をとったことなどは、さらに真実性が低いですね。 海人は当時「アマ」と読んだのですが、これは漁師の一族ということで、古事記にも記されているとおり、天草に限らず全国に海人族は居住していました。 したがって、天草だけが漁師の意味を郡名にしたとは考え難く、付けたとしても、せいぜい魚村か岬か、小さな島の名前くらいでしょう。 そもそも、天草の島々は、神代の昔に伊邪那岐神(イザナキノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)の夫婦の子供として創造されたのですから「両児島」はきわめて由緒ある島名なのです。 天草には祭祀を司る国造(くにのみやつこ)のもと、代々の神々を祀る神社が密集していることを見ても、数多くの祭司に支配されていたと考えられ、そうしたなかで由緒ある「両児島」の名が海藻の名に替わるとか、漁師の名に替わるなんてことは絶対に許されることではないのです。 天草という島名の由来がこの外に考えられないならば、楊貴妃が漂着したことは伝説ではなく事実ということになります。 そして現在、タテンハナのあった神話郷は「新和」という町名に変わり、楊貴妃の社があった場所には「楊貴妃」の字(あざ)名が残され、島民の真心によって、遠くを眺めるスリムな(楊貴妃が激やせした理由を検証⑦)楊貴妃の銅像が建てられました。 |
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![]() ふっくらした中国西安楊貴妃像 |
![]() スリムな天草の楊貴妃像 |
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![]() ![]() 天草楊貴妃銅像 天草銅像碑文 |
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第6章 楊貴妃が愛した冬虫夏草 | ||
楊貴妃といえばまず思い浮かぶのが「絶世の美女」。その美しさを支えたのが茘枝(ライチ)と冬虫夏草(冬虫夏草の歴史から検証⑧)だったのです。 茘枝はビタミンCが豊富な南方の果実、冬虫夏草といえは、漢族初代の皇帝である黄帝の昔(4500年前)から滋養強壮、不老長生に効果が高いとされ、秦の始皇帝など歴代の皇帝や皇族が重用したという天界の草(実はキノコ)です。 そして今、天草市では天草(テンソウ)が話題の中心にあります。 伝説だった天草(テンソウ)が、楊貴妃が流れついたといわれる立の鼻(タテンハナ)の島人によって栽培され、楊貴妃が施したように、病に苦しむ多くの方々にきわめて廉価に配られるというのです。 天草(テンソウ)とは、楊貴妃を愛した天子(玄宗皇帝)が天使に採らせた天に生える草、皇帝の不老長生と楊貴妃の永遠の美を求めて、2人で愛用した神秘の薬草。 唐王朝を傾け、いにしえの島人を救った天草(テンソウ)が、しかも、楊貴妃を語り伝える神話の郷(新和町)から予言の通りに萌えいづる。 この奇跡とも思える因縁の成り行きに、楊貴妃神話を知る関係者は驚きを隠せません。 伝説だと思っていたことが立の鼻(タテンハナ)の島人によって現実となる、このいにしえ(古)の再現ともいえる島興し・街おこしが、新たなる天草神話の第1ページになるような予感さえしてくるのです。 |
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第7章 夢に現れた楊貴妃 | ||
筆者が天草に招かれて島興し・街おこしの説明会を行ったのは、平成24年12月1日でした。 その夜は新和町の方々と、天草料理と旨い焼酎を酌み交わしながら楽しく歓談。 本渡のホテルに帰って11時ごろには、深い眠りに落ちました。 翌朝には、島興し代表の松岡さんが迎えに来てくれて、JR三角駅まで送ってもらえる手はずです。 その翌朝は、雲一つなく晴れ渡って海のずっと先まで見わたせました。迎えがくるまでまだ時間があるので、散歩がてら、海の方に歩いてみました。 深い紺色をした海に突きだした岬まで歩くと、緑の草の上に白い大きな椅子をおいて座っているご婦人が目に入りました。 引きつけられるように近づいた筆者に、そのご婦人は話しかけてきました。 「昨日の講演は、とても素晴らしかったですよ」 「はっ?」 驚いて、ポルトで行われた会場の光景を思い起こしてみました。 しかし、あの中にはこれほどまでに目立つ女性は来てなかった。 「でも、あなたはお見えではなかったでしょう」 ご婦人は少し笑みを浮かべながら「はい、私は行ってませんが、天草のことは全て分かっています」と応え、続けて「冬虫夏草は素晴らしい、私も普及に力を貸してあげます」と言うのです。 色白でやや面長の40才前後のとても美しいご婦人は、悲しそうな顔をして海を見つめながら話しました。 黒髪を肩の辺りで一つに束ねて、白いブラウスに、太い毛糸で編んだ濃いグリーンと赤と白の格子柄のショールをまとった細身の体が、あまりにもこの場所とは不釣り合いです。 「でも、普及には資金も体力も必要ですから」 ご婦人は筆者の言葉を遮って「大丈夫ですよ。この島の全ては私のものですから」と応えるのです。 ホテルに帰って、見送りに来てくれた新和町の方々にこのお話をしました。 「え、会ったですか。そのお方は天草の女神様ですよ。この天草では誰も会ったことのない高貴なお方です。会ったですか?」と、すごく驚くのです。 ハッとして目が覚めたのは、日付が変わった午前3時ちょうどです。 夢を見ていたようですね。 夢って色がないとか言うけど、この夢はくっきりとカラーの浮きでた鮮明なものでした。 しかも、一言一句をはっきりと覚えているほど現実的で、とてもリアルなんです。 翌朝、迎えにきた松岡さん話をしたところ「それって、楊貴妃ですよ。前にちょっと話したことがあるでしょう」と言うのです。 そうそう、そう言えばそうでしたね。 思い起こすと、島興し街おこしの相談を受けた昨年の夏の頃でしたか。 「天草に楊貴妃が流れ着いた」って、言ってましたよね。 でもね、そんな話し「いくらでもあるでしょう」と、相手にもしませんでした。 義経がモンゴルに渡ってジンギスカンになったとか、秦の始皇帝の命令で徐福が冬虫夏草を探しにやって来たとか、楊貴妃だって、奈良にも山口県油谷町ってところにも流れ着いたというのですから、やはり地域の宣伝文句ですよ。 「いえいえ、楊貴妃が天草に漂着したってことは天草の人は誰も口外しません。口外したら天罰があたるってことで、今までは誰も口にしませんでした。だけど先生が見た夢は、まさしく楊貴妃としか考えられません」 そう言われれば、そうかもしれません。 天草島人が1500年近くも秘密にしてきた楊貴妃。 そういえばあの悲しそうなお顔は、何か大きな事情を背負っているからなのでしょうね。 筆者は、急に楊貴妃のことを調べてみたいと思うようになりました。 「分かりました。じゃあ次に来るときは楊貴妃の銅像を訪ねてみましょうか。楊貴妃が何かを伝えたくて、夢でメッセージを送ってくれたのかも知れませんから」 その日以来、筆者は、楊貴妃のあの悲しそうな横顔が忘れられなくなりました。 |
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8章 楊貴妃が残した予言のとおりに | ||
楊貴妃が竜にくわえられて天に上るとき、懐にしまっていた袋を取りだして中の薬草を掴んで社の周りに捲き散らし、そして「この地に再び病が溢れる時、ここより天草が育って病に苦しむ人々を救う」と、予言をしました。 この伝説を裏付けるように、天草から、冬虫夏草の地産地消プロジェクトが九州全域に広がり、そして山口県、広島県、さらに関東東北地方にも広がっています。 楊貴妃に興味を抱いて天草を訪ね、漂着したといわれる立の鼻(タテンハナ)に立ち寄った大分県日田市のご婦人グループ。そして同じく、岬に佇んで悠久の思いをはせた宮崎市のグループの決意から3年。 楊貴妃の優しい思いがあなたの地元に届くのも、もう間もなくかも知れません。 |
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END | ||
「古事記」「続日本記」 「進化をつづける冬虫夏草」 「冬虫夏草の歴史」 以上より資料抜粋加筆 筆者:川波連太郎 |
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