韓国・朝鮮-03








韓国・朝鮮 -03



2006年となりましたが朝鮮半島情勢は膠着状態になっています。韓国は北を支援していますが、なかなか周辺国の意図の通りには動かないようです。どうして現在の状況に至ったのか、そして「もしあの時」という手法で韓国朝鮮の歴史を考えて行きたいと思います。

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33・高麗王朝(2006年 4月17日)
34・李氏朝鮮・太宗・李芳遠(2006年 5月 4日)
35・秀吉の出兵と日韓併合(2006年 4月14日)
36・信長が朝鮮出兵をしていたら(2006年 4月29日)
37・拉致問題の進展(2006年 4月17日)
38・拉致問題が米国の大統領へ(2006年 4月29日)
39・朝鮮と韓国の国号(2006年 4月18日)
40・朝鮮半島人口の推移(2006年 4月18日)
41・韓国の国旗・太極旗(2006年 4月19日)
42・韓国の王政復古(2006年 4月28日)
43・開城(2006年 7月08日)
44・朝鮮籍(2006年 5月13日)
45・釜山と対馬(2006年 4月29日)
46・済州島(2006年 5月01日)
47・鬱陵島(2006年 5月01日)
48・江華島(2006年 5月 4日)



33・高麗王朝(2006年 4月17日)
高麗王朝は、王建(太祖)が建てた朝鮮半島の国で918年から1392年まで存続したものです。この国号のコリョは欧米で現在使われているコリア、コレア等の語源となっています。また日本では特に関東に高麗(こま)と書く地名が多く残っています。高麗郡や高麗川という地名がある他、駒や狛に字を変えて駒沢、駒形、狛江等「こま」と書く場所が多くあります。この武蔵の高麗は実際には8世紀に高句麗の移民を朝廷が受け入れた事によるもので直接的にこの高麗王朝の由来では無いとは言っても高麗王朝自身が高句麗の末裔を称しているので同根と言えます。

この高麗王朝は新羅が衰えた後に後三国時代と言われる三国鼎立の時代、高句麗の後裔として名乗りを上げた国です。全羅道には後百済があり、新羅統一前と同じような状況となりました。衰退した新羅には既に力は無く実際には高麗と後百済の争いであったのでしょう。王建はこの状況で三国を統一して安定した王朝を築きました。この時代の出来事で注目している事が幾つかあります。まずは仏教です。当時は仏教が盛んで仏教を中心とする国家体制を築いていました。その後の朝鮮王朝になり儒教が国教となったのとは全く異なる国家であった事でしょう。

そして最も注目するのが武官の台頭です。武官の崔氏が力を得て中期(1196年から1258年)には王朝は王家が象徴のような形になり崔氏が政治を取り仕切るようになりました。丁度同じ時期に日本では鎌倉幕府が成立した時代であり、この時点では日韓共に同じような道を辿っていたのです。日本はここから明治維新まで武士の世の中が続きましたが、朝鮮半島では50年余りで武官の時代は終わり文官中心の中央集権の国家になりました。この双方の違いがその後の歴史の大きな転機になったのかも知れません。色々な事情があったと思いますが、半島で中国の影響を受けた事と日本と比較してサイズが小さかった事、そして鎌倉政権には源平の戦いを勝ち抜いた強さがあった事が挙げられると思います。朝廷の中で勢力を拡大して実権を得た平氏がライバルも無くそのまま政治を続けていたならば日本も同じようになっていたのかも知れません。

武官中心の政治が終わりを告げたのは元の台頭に原因があります。崔氏等の武官達は首都を江華島に移して元に抗戦しました。結局は元が高麗王朝を取り込み武官達を追い込んで三別沙の乱となりましたが、抗戦する勢力は反乱者とされ、最後は済州島に追い込まれて滅ぼされてしまいました。政府に対する反乱者の烙印が押されて歴史的には余り良い評価をされていませんが、侵略者に屈せず徹底的に抵抗した事は特筆すべき事であると思います。元はこの鎮圧に時間と兵力を使い、日本侵攻に遅れが生じ、それが失敗の大きな要因であった訳で、もしこの乱が無ければ日本は元に占領され、その後の日本史は全く違うものになったでしょう。元は高麗に日本遠征を命じて日本侵略を行ないますが直接の原因は台風により失敗してしまいます。歴史にもしもはありませんが、元の高麗侵攻が無く武官達の政権が続き朝鮮半島で武士の天下が継続した場合、その後の日韓の歴史の大きく様変わりしたでしょうね。

それにしても余り遺跡文化等に関して現在の韓国で残っているものが少ないという気がします。これは、一つには高麗王朝の首都が現在の北に属している開城にある事が挙げられます。また金その後は元に圧迫されて余り主体性を発揮出来ない王朝であった事も一因でしょう。また度々の侵略そして朝鮮戦争と内乱もあり、破壊も大きかったのでしょう。そしてこの王朝を倒して成立した李氏朝鮮王朝が500年以上に渡り支配し、自身が倒した前王朝の影響を出来るだけ排除したのでしょう。



34・李氏朝鮮・太宗・李芳遠(2006年 5月 4日)
500年以上にわたり朝鮮に君臨した李王朝、日本で言いますと室町時代から明治後期までと非常に長期間で、この王朝の始祖が李成桂という人物です。高麗から朝鮮への移行は中国の元明交代の時期に当たります。元に服従して生き長らえて来た高麗王朝は元の衰えと共に求心力を失ったようです。李成桂は北部の一勢力に過ぎなかったのですが時代の後押しがあり王朝の創設者になれたのだと思います。北の守備隊の隊長のような仕事をしていたのですが、本貫は全州李としています。これは徳川が自分は源氏であると名乗ったのと同様に自身の家の見栄えをよくする為に創作したのかも知れません。

さて、実際に王朝創設に尽力したのは太宗と言われています。初代の李成桂はこの芳遠ではなく異母弟の芳碩を溺愛しこれに跡を継がせようとしますが、芳遠は芳碩と同じ母から生まれたその兄芳蕃を殺害し、王となり太宗となります。この辺りは中国唐の李王朝とよく似ています。唐の場合には兄を殺した世民が皇帝となり、太宗となり、唐の基盤を築きますが、朝鮮ではこの太宗とその子世宗の時代に王朝の基礎が出来、文化が花開きます。李氏朝鮮の全盛期を築き上げた国王として高く評価されています。

唐の太宗、李氏朝鮮の太宗とも長期王朝の基盤を築いた偉大な人物ですが、創始者の父を押しのけ、兄弟を殺して政権を簒奪した点は同じです。李氏朝鮮の時代は唐の時代から700年以上も経過しており、当然芳遠も周囲の人も李世民の故事を知っていたでしょうし、当然誰もが両者を比較したと思います。従いまして、芳遠は邪魔な兄弟を殺害した後、直ぐに王位には就かず、一度同じ母から生まれた兄を傀儡に王位に就け、ほとぼりが冷めてから自身は三代目の王となります。唐の太宗をかなり意識して行動したのでしょう。

韓国で発行している高校歴史の教科書を見ますと次の世宗には大きなページを割いていますが、この太宗の記述は多くはありません。また兄弟を殺して王にのし上がった史実には全く触れられていません。兄弟の骨肉の争いの中で勝ち残り、王朝を安定させ繁栄に導いたくらいの記述をして欲しいものですね。他所の国の歴史の教科書に文句を付ける前に自分たちで先にやる事があるように思います。



(写真:李氏朝鮮・太宗)



35・秀吉の出兵と日韓併合(2006年 4月14日)
日本の感覚からしますと秀吉の朝鮮出兵と明治維新後に日韓併合に至る一連の出来事はかなり時間の隔たりがあるように見えます。現代に生きる人にとっての日本の歴史観というのは(1)江戸時代まで--大昔 (2)終戦まで -- 昔 (3)戦後--現代に繋がる時期 というものでしょう。明治維新と敗戦は日本史上二大転機で政府、身分制度、社会のあり方等の全ての分野で激変してしまい連続性が無いので当然であると思います。ただこれは日本の史観であって、それぞれの国により異なる事をよく理解する必要があるように感じます。二つの世界大戦は20世紀の世界に大きな影響を与え、多くの国には大事件ですが、当地パラグアイにとってはそれほどのものでは無く、どちらかと言いますと遠いよその世界の出来事であったと思います。

相手の朝鮮側で考えますといずれの事件も朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代に起きています。歴史の本を読んでみますと近代の芽生えは確かにありますが、社会のあり様、文化に大きな変化がありません。挿絵などを見ますと同じように見えます。約300年の隔たりがありますが、日本の変化と比較しますとそれ程大きなものではないように見えます。秀吉の出兵の際には日本は情報不足であり、兵器も戦国時代のものです。これに対して不平等条約・江華条約を締結させるに至った最初の出兵は明治の近代兵器で事前に情報もしっかりと取って行動しています、兵卒も西洋風の近代的な訓練を施したものでした。また何故秀吉が失敗したのかという充分に研究をしていたように感じます。

この日韓併合は1910年の出来事です、これにより李氏朝鮮政権は滅亡し朝鮮は新しい時代に入り現代に至っています。まだ100年経過していないつい最近の出来事です。韓国の人が今なお、「日本はまた荒らしに来るかもしれない」と疑いを持つのは当然の事でしょう。徳川の時代、反秀吉の政権という事で李氏と徳川家は友好関係にあり、朝鮮は通信使を日本に出していましたが、日本側が朝鮮国土に立ち入りを許されていたのは釜山にある特別の地域だけで幕末に至るまで警戒を緩めてはいません。日本が朝鮮半島から主権者として撤退したのは僅か60年前で、当時の政庁である朝鮮総督府が解体されたのはつい最近です。韓国が日本の教科書問題を取り上げて日本側に抗議するのは当然の感覚であると思います。武力での侵攻は多分もうあり得ないでしょうが、形を変えてまたやって来るのではないかと警戒している、その気持ちの表れでしょう。

明治以降の日本は朝鮮そして中国への侵攻がテーマであったように思います。日清・日露の戦いは朝鮮の争奪戦であった訳ですが、その点を曖昧にしている事が許されないのでしょう。秀吉時代の朝鮮出兵は何年もかけた大戦争でした、これに対して関が原の合戦は一日で終わっています。大河ドラマ等でこの時代を取り上げる事がよくありますが、関が原は大きく取り上げますが、何時も朝鮮出兵は誤魔化して流しています。韓国側の「歴史的な事実を再認識して初めて正常な日韓関係が構築出来る」という主張は理解出来ます。日本も大河ドラマで日本の朱子学に多大な影響を与えた儒学者・姜と薩摩焼の沈寿官の先祖・沈当吉を主人公にして朝鮮戦役を取り上げて一年間放送するくらいの事をするべきなのかも知れませんね。



36・信長が朝鮮出兵をしていたら(2006年 4月29日)
日本の戦国時代多くの武将が覇を競い天下を目指しました。その中で天才と呼べるのは織田信長だと思っています。戦国時代には余り強いと思えない尾張の一小勢力からほとんど天下統一まで成し遂げたのは他に例が無いと思います。兵農分離を行い、本拠地を動かし、絶対君主国家建設に邁進していました。信長の考えを忠実に真似たのが秀吉で、本願寺が本拠地にしていた大坂を居城にするのも朝鮮侵攻も信長の構想であったと思います。秀吉は多分凡人の中では優れていたのでしょう。仕えた主君が信長であったので城持ち大名になれ、運が味方をしたので天下統一を果たしたのだと思います。天才では無い普通の人が闇雲に他国に攻め入っても成功するはずも無く、朝鮮にも日本にも大きな傷を残してしまい、遂には自身の政権も水泡に帰しました。

もし本能寺で信長が死なずに信長によって天下統一が果たされていたならばその後の日本は全く異なった国となっていたと想像されます。当然、朝鮮侵攻も大きく異なっていたと考えます。信長は秀吉が抱いた明に攻め入る構想を持っていたとされています。秀吉の猿真似、妄想的なものでは無く、多分、緻密に具体的にプロジェクトを進めたと思います。当然最初に朝鮮に攻め込んだでしょうが、秀吉とは全く違う戦い方をしたのではないかと想像しています。

最初に欧州人などから情報を収集し、かく乱戦法を用い、倭寇を手勢とし海賊を活用したでしょう。徹底的に海岸線を荒らし、制海権を押さえ、相手の中で凋落出来る人、不満を持っている階層を味方に付け、それから初めて兵を進めたでしょう。それもマッカーサーのように仁川辺りに上陸し一気に首都の漢城(ソウル)を突いて李王朝を押さえ込み、その権威で簡単に平定してしまったかも知れません、中央集権国家を目指していた信長ですから多分そうしたでしょう。明を攻めるのを目的にしていれば余り手間を掛けずに朝鮮を荒らさずに乗っ取り、その兵力を用いて明を目指したと想像するのです。要するに元が高麗の力で日本を攻めたのと同じようにしたと思うのです。当時は明もかなり弱っていましたので日本が明を滅ぼし信長がヌルハチの立場になっていたかも知れませんね、そうであれば東アジアその中でも朝鮮と日本の関係は全く現在とは異なった状況になっていた事でしょう。



37・拉致問題の進展(2006年 4月17日)
朝鮮に拉致された方々の問題に関しては余り大きな進展が無く数年が経過しています。数名を返還し、横田さんの娘を両親に会わせれば決着すると考えていた朝鮮側の思惑は見事に外れ、人攫い国家である事が明白になると共にますます朝鮮に対する世論は厳しいものになっています。米国は自国の通貨を偽造する朝鮮に対して断固たる対応を見せています。朝鮮は米国の経済制裁で青息吐息の状態ですが、米国は朝鮮に譲歩する姿勢は全く見せていません。脅されて困る米国ではなく、特に共和党政権は強行ですので朝鮮の強気の姿勢に屈する事はないでしょう。

ここに来て日本政府が膠着状態からどのような手を繰り出すのか注目していましたが、DNA鑑定で横田さんの娘の親を韓国からの拉致された高校生と特定しました。非科学的で、相手を侮り偽の骨を平然と送りつける程度の感覚しか持って居ない朝鮮政府としては髪の毛くらいで人物を特定されるとは思っていなかった事でしょう。日本の世論にも大きな影響があると思います。次期総裁の候補である安倍さんとしても朝鮮問題で変な妥協をする事は考えられずより強硬な手段そして行動に出るものと考えられます。

この事で日本がそして世界が注目しているのは韓国政府の対応です。日本からの拉致と異なり韓国と朝鮮は同一の民族、建前では同じ国ですので外国人が拉致された横田さんのケースとは根本的に違います。それにしても韓国の態度は煮え切らないものを感じます。太陽政策で朝鮮を刺激しないという基本姿勢、そして当面は離散家族の再会問題が急務と考えて日本から投げられたボールを素直には受け取らない状況になっています。その中で日韓の拉致家族はこの新事実から更に協力関係を強化して世界の世論に訴える行動に出ると思います。韓国は今までのような朝鮮との融和政策一本では動きが取れなくなっているように見えます。

韓国からの強力な支援を期待する情勢では無く、米国からの経済制裁、日本の拉致問題の対応で朝鮮はこの数年では最大の窮地に陥っていると見ています。一見すると余り進展が無い朝鮮半島情勢ですが、もしかしたら急に動き出す転機が近づいているのかも知れません。このような状況の中で果たして中断されている6者会議が再開されるのか、それを促す為に中国がどのような対応を行なうのか注目しています。



38・拉致問題が米国の大統領へ(2006年 4月29日)
朝鮮に拉致された方々の問題に関して日本の世論が高まっていますが、韓国では冷ややかな対応となりどうも盛り上がりに欠けているように感じます。日本では各地で横田めぐみさんの写真展が開催され、多くの入場者を集めて拉致問題の解決に向けて政府も動く気配を見せています。朝鮮はこの問題は解決済みとして日本の謝罪と賠償金を取る事だけに関心を持っている姿勢を崩していません。この問題の完全解決が全ての問題のテーブルに付く大前提であるという日本側の姿勢に手を焼いているという感じです。

横田さんのお母さんと弟さんがブッシュ大統領と面談しました。米国としても日本国内で関心が高いこの問題に理解を示す事で米軍基地の移転で多額の金を拠出させる問題から目を逸らさせる事が出来るのと同時に朝鮮に対して偽ドル、偽タバコで一番被害を受けているのは米国であり、不法な行為は許さないという姿勢を示しておきたかったのでしょう。30分間の面談でこれだけの効果を得るとはさすがに米国大統領です。

拉致問題を人権問題と絡めて世論を盛り上げて行こうとする動きが高まっています。反米、朝鮮擁護の左翼的文化的知識人もこの点を突かれるとなかなか反論が難しくなるでしょう。朝鮮から脱出して中国に逃げた人達を中国は送還していますが、これも人権問題と絡めて世界的世論が高まっており、朝鮮の属国化を進めている中国としては難しい問題を突きつけられています。米国の大統領がこの問題に耳を傾けた事自体で問題が前進するとは考え難いですが、米国が進めている核問題を解決する為の関係6ヶ国協議でこの問題を避けては通れなくなったという意義は大きいと思います。朝鮮そして中国はこの問題を抜きにして会議を進めて行くつもりで日本外しに躍起になっていましたが、今回の面談を米国大統領が受け入れ、理解を示した事で拉致問題を含む人権問題が会議での大きなテーマとなり、中国・朝鮮の思惑通りには進まない可能性が強くなり、しばらくの間は膠着状態が続く公算が大きくなったと思います。

大きな展開が起きるとすれば突発的な事件からでしょう。何が起きるのかは想像出来ませんが、関係各国が想定しない事件が生じて事態が急変する可能性はあると思います。日米韓合同の特殊部隊が横田めぐみさん奪還作戦を実施するくらいの事が起きるのかも知れませんね。ただメインシナリオとしてはこのまま暫くは今のまま時間が経過して行くと言うものでしょう。



39・朝鮮と韓国の国号(2006年 4月18日)
朝鮮と韓国の国号に関しては朝鮮は李氏朝鮮が設立された時に明に対して朝鮮と和寧の両案を持って選んで決めた形になっています。和寧というのは李氏朝鮮の初代、李成桂の出身地で、これは当て馬であったという説が有力です。要するに朝鮮は自身の案であったのでしょう。前王朝の高麗は高句麗の後継を自負していて中国とは一線を画していたのでしょうが、朝鮮王朝は対立する愚をよくわきまえ、明との関係を重視する方針を明確にしていたのでしょう。一方の韓国というのは日本が清の宗主権を否定する為に朝鮮国を大韓帝国に変更した事に由来しています。日本はこの大韓帝国を併合したので、日韓併合と言われている訳で、その後日本は単に「朝鮮」としています。

日本が敗戦し、朝鮮が開放された後は信託統治となる予定でしたが、米国とソビエトの所謂「冷戦」が始まり南北に分断されてしまいました。北が朝鮮を名乗った事に対抗する意味で南は韓国を自称しました。戦後間も無くまだ米国の軍政になる前にはソウルでは左翼は「朝鮮」を右翼は「韓国」を自称していたそうです。何かの契機にそのようになって行ったのでしょう。最も韓国の由来が馬韓、辰韓、弁韓の三韓が元々の由来であり、これらの地方が現在の韓国に属していた事も理由でしょう。北の正式名称は朝鮮民主主義人民共和国という非常に長い名称ですが、これはソビエトが付けた名前を朝鮮語に翻訳して使用したもののようです。ただし、この中で人民そして共和国は明治維新の際に日本で作られた造語です。もう少しスマートな名称が無かったのでしょうか。

漢字を使用しない外国ではこの半島は「コリア」等と呼ばれています。ノース・コリア、サウス・コリアと両方とも同じ国号で呼ばれています。勿論これは高麗から来ている訳で、北側は統一後の朝鮮半島の国号を「高麗連邦」にしようと提案しています。高麗は高句麗の継承国家であり、首都も現在は北側に在る開城に置かれていました。自身が主導権を握る意図が見え隠れしています。また高麗の時代は余りパッとした時代では無く、迫害され元に命令されて無理に日本に侵攻し、失敗したというような事が多く将来の国号には余りふさわしくないと考える人も多いと思われます。

当然の事ですが、現在では双方が半島全体の領有を主張しています。半島の名称も北は朝鮮半島、南は韓半島と呼ばれ、言語も朝鮮語、韓国語となります。日本では「ハングル講座」などと国の名前を外して政治色を緩める処置を取るケースが多いようです。また日本は北と国交が無いので北を北朝鮮、南を韓国と呼んでいます。なお、個人的には双方それぞれの意思を尊重するべきであると考え、このサイトでは北を単に朝鮮と呼んでいます。双方は北韓、南朝鮮もしくは朝鮮南部と呼んでいるようです。現実的には統一は韓国が主体で成し遂げられる事になるのでしょう、その際には統一国家は大韓民国となるのは当然です。ただ個人的には朝鮮という国号が好きですね、「あさがあざやか」とは何とも風流です。そして月と魚と羊が含まれて居ます、国の豊かさが出ているように感じますが如何でしょうか?



40・朝鮮半島人口の推移(2006年 4月18日)
朝鮮半島の人口の推移を表にしますと開国して以来人口が急増している事が分かります。日本は江戸時代には人口は大体3千万人くらいで推移していましたが、朝鮮半島は李氏朝鮮の時代は700万人程度であったのでしょう。日本がやって来て騒然とした世の中になり、それ以降人口が急増している事が分かります。日清・日露の両戦争は朝鮮半島の争奪戦、その後幾多の混乱を経て朝鮮戦争という内乱があったにも関わらず150年間で何と人口が10倍になっています。

表:朝鮮半島の人口推移

   人口  -
1753年  730万人  -
1850年  750万人  -
1906年  980万人 朝鮮は日本の保護国へ
1910年 1312万人 日韓併合条約
1920年 1691万人  -
1930年 1968万人  -
1940年 2295万人  -
1945年 2512万人 日本の敗戦
2004年 7130万人 韓国・48,598,175、朝鮮・22,697,553


自分達が望んだ形の近代化では無かったにしろ日本の統治によって推し進められた近代化の成果は数字によって証明されていると言えるでしょう。日本の統治時代に人口が倍になっています。その後の60年間で3倍近くに急増しています。敗戦の時点では日本は朝鮮と台湾を足しても1億人程度であったのですが、現在では同じ地域に2億2千万人も居るのです。

安定して平穏でも経済活動が不活発であると人口は増えないのでしょう、侵略、混乱、内戦があっても貧乏でも明日への活力がある時には人口は急増するものなのかも知れません。日本の戦後のベビーブームも決して豊かさの中で生じた現象では無く、明日へ向かう民族のエネルギーの結果のように思います。韓国はあの狭い国土に5千万人近い人口を抱えています。人口密度は493人/km2で飽和状態になっています。人口の過密が今後の発展の障害になって来るのかも知れませんね。



41・韓国の国旗・太極旗(2006年 4月19日)
韓国の国旗は太極旗と呼ばれるものです。数年前に太極旗が韓国の国旗として使用された過程を示す最古となる太極旗の絵が米国で発見されたそうで「大清国属・高麗国旗」と書かれてあります。現在の朴泳孝がデザインした太極旗と基本的には同じですね。当時李氏朝鮮は諸外国に自国が独立国であるとアピールしていたようですが、清国はこれを許さず執拗に属国である事を主張していたようです。この旗の上にしっかりと大清国属・高麗国旗と書かれており、清国の要請があったのでしょう。でも何故朝鮮ではなく高麗なのでしょうね?一つには米国ではコリアと呼ばれていたのでそれに合わせたのと、前王朝の名称を書く事で多少なりとも抵抗する意図があったのかも知れません。



(写真:大清国属 高麗国旗)

現在使用されている旗は親日派と評されている朴泳孝来日する船上で考案したとされるものです。すっきりとしたデザインですね。



(写真:現在の国旗)

この太極旗は勿論韓国独自のデザインである事は間違いないのですが、なんとなく日本の国旗である日の丸に似ているような気がします。日本に謝罪する使節がその途中で制作した事と無関係ではないと思います。

そして南北統一旗なるものがあります。これはオリンピックで一緒に行進する時などに使用されています。白地に朝鮮半島が描かれているというものでデザインとしては余り感心はしませんが、確かに「統一旗」としてはこれしかないのでしょう。



(写真:統一旗)

なお、朝鮮の国旗も青と赤が基調になっている。これも韓国旗と同様に陰陽を示していると言われている。スッキリとしたデザインで綺麗な国旗ですね。



(写真:朝鮮国旗)

太極旗が使われるまでの朝鮮王朝ではどのような旗が使用されていたのか調べますと「清道旗」というものが使われていたそうです。江戸時代に数回朝鮮通信使が訪日していますが、その際に使われたのがこの旗なのだそうです。宗主国は清国としていた事が分かります。現在でも博多山笠、そして朝鮮通信使の行列から生まれた「唐人踊り」にこの旗が使われています。



(写真:清道旗・江戸期朝鮮通信使)



42・韓国の王政復古(2006年 4月28日)
李王朝は韓帝国として王政復古する可能性はないのか、なかったのか、と考える事があります。李王家最後の末裔と考えられる李玖は昨年2005年 7月に亡くなりました。日本の敗戦で故国に帰国する事を望んでいたのでしょうが、自己の地位に危機感を抱いた当時の大統領である李承晩に阻止され、その後は在日韓国人として暮らす事を余儀なくされたそうです。母は日本の皇族である梨本宮方子で、今上天皇とはまた従兄弟の関係となります。日本人の子供であり、日本で生まれて育ち、天皇家と血縁関係に在る事で李家の正当な継承者であるにも関わらず韓国の一般国民の気持ちとしては同胞としては素直には受け入れ難いものがあったのでしょう。韓国への帰国がかなわずその後は米国に住み、その地で結婚をしますが結局は子供には恵まれず断絶、李氏朝鮮最後の王であり、大韓帝国の皇帝であった高宗の血はここで絶えてしまいました。

その後、宗家は李源という人が継いでいるそうです。こちらは完全に韓国人で、韓国の人には受け入れられ易いのでしょうが、まだ宗家を継承して一年も経過していないので何とも言えませんが、大韓民国として大統領を国家元首とする政権で半世紀以上の歳月が経過し、李氏が王権を喪失して一世紀近くになった今日ではなかなか王政復古は難しい状況なのでしょう。そしてこの李源氏以外にも多くの王族方が居て、この人を正当な継承者として誰もが認めるというのも難しいでしょう。500年以上にわたり続いた李氏は世界の王家の中でも異例の長期王朝と言えます。戦いで政権交代が行なわれたのでは無く、日本も妃の閔妃以外は殺害をしていませんし、王家を滅ぼして政権を剥奪したのでは無いので王族も残っていたわけです。(閔妃殺害に関しては実際に手を下したのは韓国人、日本人と色々な説がありますが、親露派であるが故に殺害された事は間違い無いので直接、間接は別にして親日勢力にとっては邪魔な存在であったのでしょう)日韓併合後は日本で皇族として扱われたのですが、韓国から離れた事が一般の国民と王家との距離を遠いものにしたのでしょう。

世界にはスペインなど王政復古した例があります。韓国は歴史のある国です。個人的には李氏朝鮮を復古させて立憲君主国となって欲しい気持ちがありますが実際にはなかなか難しいかも知れません。李玖が相応の韓国人と結婚して後継者が生まれていたならば展開は変わっていたのかも知れませんね。李氏朝鮮も過去の歴史の中の出来事になっているのでしょう。



43・開城(2006年 7月08日)
板門店の近くに開城という町があります。開城と書いてケソンと読むそうですが、歴史的に非常に重要な都市です。李氏朝鮮の前の王朝である高麗王朝の都として栄光の時代がありました。その後元の圧力に遭い開城を放棄して江華島に都を移しこの都は荒廃したと聞いています。その後38度線が南北の境界となり、韓国の最前線となりました。そして朝鮮戦争の際に南進した朝鮮軍が最初に攻撃したのがこの開城です。そして停戦となり、開城は北側の最前線に位置する事になりました。以来板門店の直ぐ近くに位置する最前線となっています。韓国の首都ソウルから僅か70キロしか離れていないにも関わらず朝鮮の一部となっています。幾度の戦乱で史跡は破壊されて多分高麗時代を彷彿とさせるような場所はかなり限られているとは思いますが、行きたい町ではあります。ソウルからこれだけ近い場所で物資が無く自由も制限された朝鮮の人達が住んでいるというのは不思議な気がします。

開城はソウルに近い事もあり、現在工業特別区が設定され韓国資本による工場建設が進んでいますが、高麗の都として歴史的に意義があるこの町はやはり観光に向いているように思います。朝鮮を観光する場合に平壌から板門店に行くツアーに含まれる場合が多いようです。板門店から8キロと歩いても行けるほどの近さに開城はあるのです。見た目には判別出来ませんが多分それにふさわしい人達が住んでいるのでしょう。現在は金剛山は観光で韓国側から行く事が出来ますが、この開城を開放した場合には訪問する観光客は金剛山の比では無いと思います。ソウルから日帰りで板門店を見学して軍事境界線を越えて開城に行き高麗の史跡を見物して帰るコースとすれば少々値段が高く設定しても多くの人が出掛ける事でしょう。

平和裏に統一が果たされれば一番変わるのがこの開城でしょう。ソウルは軍事境界線が在る北方向には発展していませんので、一気に北方向が発展すると考えられます。現在の韓国領内はそれなりに利権があるのでそれほど大きな開発は出来ませんが、北側になる開城はどのような開発も可能です。一気に超近代的な都市に生まれ変わるのではないかと予想しています。



44・朝鮮籍(2006年 5月13日)
まだ学生時代、何かの記事に「朝鮮籍」とあるのを見て「おや、変だな朝鮮とは国交が無いのに何で朝鮮籍があるのだとう」と不思議に思っていました。確か在日韓国人・朝鮮人の中に「韓国籍」と「朝鮮籍」があるというような内容であったと思います。その時は日本に住んでいましたので国籍、外国人に関してはほとんど考えていなかったので、この問題の根深さに気が付かないでいました。

日韓併合以来朝鮮半島は日本の一部となりました。併合ですから朝鮮は国としては消滅して単に日本国内の一地方という位置付けになりました。当然ですが全員が「日本国籍」になります。朝鮮人という民族はありますが、国籍はあくまで「日本」というのが当時の公式見解であり、世界も認めていました。ベルリンオリンピックの際に孫選手がマラソンで金メダルを獲得した時には胸には日の丸があり、日本の代表として参加しています。良いか悪いかは別として、これ自体はそれほど珍しい事では無く、現在でも多くの例があります。例えば、チェチェンや北オセチアはロシア、クルドはイラクやトルコの一部になっていて、それぞれの場所で反対運動やテロがあっても世界の世論は独立を支持する訳ではありません。(個人的には独立を認めるべきであると考えていますが)

日本は戦争に敗れて朝鮮半島の権利を失いますが、正式にこれを認めたのはサンフランシスコ条約の時、敗戦から7年後の事です。敗戦と同時に日本に居住していた韓国・朝鮮人の方々は自分達の国籍は何?という問題に直面し、日本は便宜的に「朝鮮籍」とし、大韓民国が成立後は希望者は随時「韓国籍」にして行きました。また日本国籍を希望された方は日本国籍としています。コリアンの方で各分野で活躍される方が増えていますが、その中には既に国籍を「日本」とされている方も多く居ます。考えてみますと日本列島に住む人も朝鮮半島に住む人もかなりの部分、先祖は共通しています。また渡来人という形でその後も多く方が朝鮮半島から日本に引っ越して来ており、日本人の祖先となっています。従いまして新たな渡来人として日本人となるのは自然な事のように思います。

要するに朝鮮籍は外国の国籍を示すものではなく、日本が定めたものであり、国としての朝鮮とは関係が無い事になります。戦前の朝鮮を今に引きずるものと言えます。それでも韓国に反対する人、北を支持する人などが「朝鮮籍」となっています。現在日朝国交正常化交渉なるものが議題に挙がっています。両者の基本的な考え方に隔たりがあるがので国交締結までにはかなりの時間が必要でしょう。この条約が締結され朝鮮を国として認めた時に現在の「朝鮮籍」は意味を失い歴史的な役割を終えるのでしょうね。



45・釜山と対馬(2006年 4月29日)
釜山は韓国最大の港湾都市として発展し、韓国第二の都市として膨張を続けています。実際に訪問しますと市街地には凹凸が多く全体が見渡せない事もあり、それほど大きな都市には感じませんが現在は市内だけでも370万人、都市圏で見ますと500万人はゆうに超える大都会になっています。人口が増え続けている理由は幾つかあると思います。まず港湾都市として産業都市として働く場所を多く提供している事が挙げられます、韓国の産業発展に伴い輸出入が増え取り扱う業務も多くなった訳です。そして朝鮮半島の最南端に位置しているので寒さが厳しい朝鮮半島の中にあって気候が比較的温暖であり、海に近く風景も良い事が挙げられます。釜山の市街地の近くには温泉、海水浴場があります。海産物が豊富で美味しいものが手軽に食べられる事も魅力の一つでしょう。

また、朝鮮戦争が一つの契機にもなっています。北の先制攻撃で韓国は釜山を中心とする狭い範囲に押し込められ、北部を中心に逃げて来た人がここに多く住み着いた事もあるでしょう。朝鮮戦争の際に臨時の首都となり、北側に蹂躙される事が無かった事も大きいと思います。現在も北側からの脅威はそのまま残っており、半島の中では一番軍事境界線から遠いこの釜山の人気が高いのでしょう。しかしながら、もしあの時に朝鮮軍が釜山を陥落し共産勢力が統一を果たしていたとしますとこの海峡が冷戦時代には共産勢力との最前線となっていた事でしょう。もしそうなっていたならば対馬の歴史も日本の歴史も非常に厳しいものとなっていたでしょう。

さて、釜山から僅か50キロの位置に対馬があります、正確には49.5キロで。天気が良い時には見える程の距離なのだそうです。最近、対馬は現在は島全体が一つの市となり、長崎県対馬市となっていますが、人口は4万人足らずです。地理的な観点からしますと福岡県か佐賀県の方がふさわしいと思うのですが、廃藩置県以降、厳原県、有田県を経て最終的には壱岐と共に長崎県の所属となって現在に至っています。県庁の長崎市は遥かかなたという感じです。そして反対側の対岸には500万人の大都会が在るという訳です。よく考えてみますとかなり異常な状況と言えます。

対馬と釜山の位置関係は太古の昔から変化は無いのでしょうが、昔は釜山も寒村に過ぎず両方ともそれ程の人口では無かったのですが、この数十年で状況が大きく変化したのです。対馬から韓国が見えるというのでそれなりに人気があり、釜山を見る展望台もあるのでしょうが、釜山から対馬を見る人の数の方が圧倒的に多い事になります。「日本」を意識しながら生活している人も多いのでしょう。もし大阪の50キロ先に韓国があったならば日本人の韓国に対する見方は大きく異なっていた事でしょう。この事が両国の相手を見る感覚に大きく影響していると考えています。

最近は高速船が就航し、対馬の中心まで2時間、北部に位置する比田勝港までならば1時間余りでで行く事が出来るようになっているそうです。査証が不要となり簡単に行ける様になれば今まで以上に普通の釜山市民が手軽に外国旅行を楽しむ時代になるのでしょう。日本を理解する機会になれば良いのですが、実際には対馬を旅行する韓国人は韓国人のガイドに韓国資本のホテルを利用し、韓国の文化が対馬に伝来したというような場所を見物するのが中心のようです。「韓国人が日本人に教えた」というような場所を好むようで、韓国文化優位性の証拠探しが大好きなようです。せっかく日本を訪問するのですからもう少し日本らしいものに興味を持ってくれれば良いのですが、なかなか難しいのでしょう。

李氏朝鮮の時代に釜山が大都市であったならば多分両属のような形を取っていた対馬は多分、朝鮮の一部になってしまっていたかも知れません。現在、釜山の市民から見ますとあれ程近い島が日本領となっているのは納得出来ないと考えているのでしょう。竹島の問題にあれほど熱が入るのは対馬が日本になっている悔しさからなのかも知れないと考えるこの頃です。韓国と日本の海の境界は当然ですが対馬と釜山の中央になります。釜山から見ますと僅か25キロ先から日本の領海となるのです。あちらから見ますと本土にある500万人の大都会、日本側は人口4万人足らずの中央から遠く外れた離島、それも最近までは両属していたとすれば、これが同等の価値を持つとする事に納得が行かないのでしょう。

対馬が今後どのようになるのか注目しています。日本の中では余り裕福とは言えない長崎県に属して西日本の中心都市である福岡市からも遠く離れた離島という現実があります。漁業以外にこれというような産業もなく、どうしても観光産業が中心となるでしょう。釜山が大きく発展し経済的に豊かになる人が増えて来ると釜山の影響がますます大きくなって来るのではないかと想像しています。現在でも毎年、韓国人観光客が増えていますが、手軽に日帰りすら出来る外国、そして離島としての自然があります。現在片道7500円の旅費が大幅に下がれば利用する人は激増する事でしょう。厳原は釜山市民で溢れ、ハングルの看板だらけになるのかも知れませんね。韓国に一番近い高校として対馬高校ではハングルの授業を行い、韓国との友好親善に努めて行こうと課外活動にも力を入れているようです。

釜山と対馬の距離は49.5キロ、これがもう少し狭く例えばドーバー海峡(34キロ)並みであったならば日韓関係はかなり違ったものになっていたと想像出来ます。実際にドーバー海峡に行ってみますと英仏は近いという印象です。英仏間にトンネルが出来てからはロンドンとパリは日帰りが可能なほどです。もし対馬海峡がこの程度の距離であったならば双方の交流はずっと多くなった事は間違いありませんし、もしかしたら別の国にはなっていなかったかも知れませんね。

またもし100キロ以上離れていたらこれほど近い国にはならず、日本はフィリピンのように大陸とは全く異なった歴史を歩み、今頃はキリスト教かイスラム教の国になっていたかも知れません。現代日本人の祖先の多くは弥生人、半島から来た人達であると考えられています、従って日韓はかなりの部分共通の祖先を持ち風貌が似ていますが、半島から人が流入して来なかったならば日本列島は縄文系の人が中心となり、かなり違った民族になっていたと思いますが如何でしょうか。

いずれにしろ近い将来、対馬が釜山大都市経済圏に呑み込まれてしまうのではないかと思っています。釜山・比田勝港間の船が快適かつ安く利用出来るとなれば利用する人は増え続けるでしょう。現在の船は波に弱く、欠航も多いと聞いています、この点が改善され、比田勝港の受け入れ態勢が強化されましたら更に増える事でしょう。日本としては韓国の人により日本を理解してもらうよう準備をする必要があると考えてます。

国境という人的な障害は徐々に低くなっています、両国の政府が小さい無人島の帰属で争っている間に現実は国家の枠を超えて融合が進んで行くのではないかと想像するこの頃です。双方が当たり前のように往来するようになり、物資と共に人間そして文化の行き来も盛んになる事でしょう。対馬で普通に韓国語が通用するようになるのかも知れません。そうなれば韓国の人達も肩の力が取れて、ごく自然にありのままの対馬そして日本を理解する気持ちも生まれて来るのでしょうね。



(地図:対馬の位置:朝日新聞)



46・済州島(2006年 5月01日)
韓国南部に済州島という島があります。古代から中世までは独立した耽羅国であったそうです、李氏朝鮮の時代にしっかりと中央集権体制に組み込まれて今日に至っているようです。現在の韓国の行政区分では一つの独立した州とされていますが、人口は約55万人、面積は1,845km2。日本で最小の香川県の面積が1861.94km2、最も人口の少ないのが鳥取県で61万人ですので、日本の県の規模には少々足りない程度の大きさという事になります。寒い韓国では暖かい島として知られていますが、日本から見ますと九州と同程度の気候となります。済州島は韓国本土から離れている、流人の行き先という事で現在に至るまで差別を受けていると聞きます。特に1948年4月3日に起きた暴動では全島で3万人もの方が亡くなったと聞きます、人口50万人ほどの島ですのでこれは大変な数字です。地図を見ますと韓国本土からは対馬と同じくらいの距離にあります。対馬は慶尚道の向かい、済州島は全羅道の向かいに位置しています。全羅道に対しても差別があり、その先の島への差別は強烈なものがあったのでしょう。

多くの在日韓国人の方がこの島の出身と聞きます。位置からして、日本特に九州、特に五島列島とは交流があったでしょうから韓国人の中でも日本人に近いのかも知れません。島であり、気候も日本に南部に近いものがあり、韓国よりも日本で生活をする事を選んだ方が多いのだと思います。大阪等にはこの島の出身者が多い事もあり、直行便が就航しています。以前韓国本土に行く際には査証が必要な時代でも済州島には査証免除でした、観光の島として発展させて行きたいという韓国政府の意図があるのでしょう。対馬がある程度朝鮮との関係もあり、両属になっていましたが、この済州島が日本に属した事は無いようです。五島との距離の近さから見てもこの点は不思議に思います。竹島で余り理不尽な要求をして来るのであれば、「済州島は日本の領土」くらい主張するのも手かも知れませんね。



(地図:済州島・ウィキペディア)



47・鬱陵島(2006年 5月01日)
韓国の東海岸から130キロ沖合いにあるのが鬱陵島です。カタカナで表記しますと「ウルルン」となります。テレビで現在も放映されている「ウルルン滞在記」ですが、当初はこの島の名前から取っている番組であると誤解していました。小さい島ですが、なにしろ日韓で領有の主張が真っ向から対立している竹島(韓国名・独島)の近くにあり、この島の領有と関連して数々の誤解が生じて両者の主張が異なっています。ですから「ウルルン滞在記」というのが親韓もしくは反韓の番組とばかり思っていたのです。

韓国側の主張としては竹島はこの鬱陵島の一部であるとの解釈から出ているようです。日本ではこの島を「竹島」そして現在の竹島を「松島」と呼んでいたので話が混乱しているようです。韓国内では慶尚北道に属していて人口は1万人、面積は73.15km2なのだそうです。日本では伊豆大島が91.06km2。人口が9千人強ですので大体同じくらいと言えます。江戸時代には日本もここに進出していたようですが、領有権に関しては当時の朝鮮王朝に配慮して朝鮮領である事を認めています。この島を今更日本の領土と主張する事はないでしょう。領土問題は政府の問題です。韓国領であっても日本領であっても国民一人一人には余り大きな問題では無いと思っています。国というのも個人とはかなり距離のある概念で引っ越してしまえば所属も簡単に変わります。国の所属権の事で戦争となり個人がそれで命を落とすなど気の毒としか言いようがありません。

鬱陵島ですが、この「鬱」は憂鬱、鬱病の「鬱」です。文字通り考えますと憂鬱になる島なのでしょう。気分が重くなるような気候風土なのでしょう。写真で見る限りでは険しい断崖があり、波が高く人を寄せ付けないような景色です。海流がこの近くを通るので漁業には適しているのでしょう。また厳しい自然環境という事はすばらしい自然があるのでしょう。観光の島とは言っても日本語での説明は多くはありません、日本から行くなると釜山まで行き、そこから浦項市まで陸路で、そこから更に船に乗り換えなければならず面倒であり、大変時間がかかる事もあり、また領有権で問題になっている場所にわざわざ出掛ける人も少ないのでしょう。竹島の問題が解決し、島に空港でも出来れば大自然を求めて日本から多くの観光客が出掛けるようになるのかも知れませんね。



(地図:鬱陵島・ウィキペディア)



48・江華島(2006年 5月 4日)
韓国の西海岸から南海岸にかけては小さな島が点在しています。ソウル郊外にあり、その中でも割合に大きいのが江華島です。面積は408km2韓国では5番目に大きな島なのだそうです。日本の島と比較しますと種子島の面積が454kuですので結構大きな島と言えます。島と言いましても本土との間には狭い水路があるだけで橋で本土と繋がっています。学生時代、初めて韓国を訪問した時に友人に連れて行ってもらいましたが、当時はものものしい警戒体制でした。位置としては韓国側の最前線に当たり、軍事境界線の直ぐ南側になります。橋を越えて島の中に入りましたが、本土側と景色は同じでここが島の中とは感じられませんでした。現在は何故か仁川市に属しているのだそうです。海岸地帯の広い範囲を仁川に繰り込んだようです。

韓国の歴史の中では余り名誉な事ではありませんが、この島は過去2回歴史の表舞台に立っています。最初は高麗の時代、武人が政治を司り、元の圧力に抵抗する為に開城からこの江華島に首都を移転し江都と名付けられました。現在は北側に属している開城ですが、地図を見ますと江華島とはかなりの近さです。この時には結局は元に屈して都を開城に戻し、せっかく建設した江都は破壊されてしまいました。もう一度は李氏朝鮮末期でここを舞台に外国勢力が朝鮮に侵入して来ました。一番有名なのは日本でここで日朝修好条約、いわゆる江華条約が締結されました。典型的な不平等条約であり、これを契機に日本の朝鮮支配は進みついには日韓併合となるわけです。

現在は厳しい南北対峙の最前線となっています。島の北側の水路が南北を隔てる軍事境界線となっています。韓国側の最前線として軍事的な拠点となっていると思います。訪問した時には高麗の歴史に関する知識も無く、江都が存在した事も知らずにおり、軍事境界線に近い事だけに注目が行ってしまいもったいない事をしました。平和が戻った時には歴史を刻んだこの島は史跡が多い島として多くの人が訪問する場所になる事でしょう。何時になるのかは分かりませんが、そうなった時には是非再訪したいものです。



(地図:江華島・ウィキペディア)



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