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おっと失礼、転失気(おなら)の話
今から三十数年以前の小学生のときのことであったが、朝礼での校長訓話の最中
に突然バウンという物凄い轟音が講堂内に響きわたった。
その音の元は私の右横二、三メートルのところに立っていた若い女の先生であっ たが、すぐには一体何の音なのか分からなかった。 とにかく瞬時に音源が特定できるような音質ではなかったのだ。 後で思い出してみても、俄かにあの轟音は識別できるものではなかったとしか言い様がない。 そのときの女の先生のいくぶん紅潮して強張っ たような表情を見て、やっとそれが何の音なのか気付いたという次第であった。 その轟音に驚いたまわりの生徒や先生たちに一瞬ざわめきがあったのだが、その 余りの音の大きさに度胆を抜かれたのと、女の先生の気丈夫な憮然とした表情に周囲は気圧されて笑い声ひとつ立たなかった。 まさにその轟音の迫力そのものが、笑いを抑え込んだの であった。 軽やかな音であったなら、このときの状況はまったく違っていたであろうことは想像に難くない。 とにかく私自身、後にも先にもこれほどの豪快な放屁音は聞いたことが ないということだけは事実である。 後日、昔話の「屁こき女房」を読んだとき、まさにこれだと体験的に捉えたのを覚えている。 こういう放屁の話題に関しては江戸時代の大博物学者の平賀原内先生が、心血を 注いで書き上げた有名な『放屁論』が詳しい。 自由自在に放屁できる放屁男が出て くるその後編のさわりの一部を少し紹介しよう。 「漢にては放屁といひ、上方にては屁をこくといひ、関東にてはひるといひ、女 中は都ておならといふ。 其語は異なれども、鳴ると臭きは同じことなり。 その音に 三等あり。ブツと鳴るもの上品にして其形圓く、ブウと鳴るもの中品にして其形い びつなり。 スーとすかすもの下品にして細長くして少しひらたし。 是等は皆素人も 常にひる所なり。 彼放屁男のごとく、奇奇妙妙に至りては、放ざる音なく、備らざる形なし。 抑い かなる故ぞと聞けば、彼ケ母常に芋を好みけるが、或る夜の夢に、火吹き竹を呑む とみて懐胎し、鳳屁元年へのえ鼬鼠の歳、春邉と梅匂ふ頃誕生せしが、成人に随ひ て、段々功を屁ひり男、今江戸中の大評判、屁は身を助けるとは是ならん云々──。 」と、おかしな話が続く。 放屁の芸で世渡りができるとは愉快であるが、かって十九世紀末のフランスのパリ の劇場(ムーラン・ルージュという)あたりで自由自在に屁を放ち、しかも音程も 調節できてフランス国歌の「ラ・マルセエイズ」などを奏してやんやの喝采を浴び た男が実際にいたそうである。 なんだ馬鹿馬鹿しい、屁を題材にして下らぬ話を書きなぐってと思われる向きも 恐らくあると思うが、たかが屁されど屁なのである。 ここは「やたら屁出ずるは虚、 脾虚なり」と東洋医学風にいうべきであったか。 江戸時代の話で、一発の放屁が争い事の原因となったことが記録として残されて いる。 町名は書いてないが話が話だけにここではかりに、あさくさ(浅草)の近く にあった長屋としておく。 その長屋に独り者の男と夫婦ものが隣合わせに住んでいたのであるが、あるとき 夫の留守中に女房が思わず大きな放屁をした。 薄い壁一枚、これを隣の独り者が聞 いて、「女のくせに人間離れした放屁じゃねえか」といって嘲り笑った。 女房はこれに腹を立て血相変えて男の家に駆け込むと、「自分の家で屁をひるのが何がおかしい。 余計なお世話だよ」とこれまた罵った。 二人が声高に争うのを近所の長屋の連中が集まって引き分けたの で、このときはどうにか騒動はおさまった。 ところがこの女房が銭湯に行っているあいだに夫が仕事から帰ってきたのであるが、七八 歳の娘が「留守のあいだにおかしなことがあって、とてもまわりが騒がしかった」と口を滑らせてしまったのである。 「何があったんだ」と怪訝顔で父親が尋ねると、「隣のおじさんと母さんのあいだで言い 争いがあったのだけど、父さんには絶対にいっちゃあ駄目といわれてるの」と娘が ぺらぺらと喋ってしまったから大変である。 これを聞いて夫は、さては隣の男と女房は密かに通じておったなと思い込み心中お だやかでなく、近くの銭湯から帰ってきた女房をつかまえていきなり激しい口論となった。 しまいには夫が出刃包丁を持ち出して、いきなり女房の頭に切り付けてしまった。 女房の悲鳴 に近所の者たちが再び駆けつけて夫を取り押さえたが、このときの騒ぎで加勢にき ていた隣の男までも巻き込まれて傷つけられてしまった。 公になりそうな事件であったが、訳知りの人が間に立って内々で済んだのである が、これは放屁一発がとんだ事件に発展したという貴重な事例でなのである。(『耳袋』巻の七) 学名はゴミムシ科、ミイデラゴミムシというすご昆虫がいるのをご存知だろうか。 あだ名は「屁ふり 虫」とか「ヘッピリ虫、屁こき虫」とかいうやつである。 子供のころこれでよく遊んだのであるが、実に愉快な昆虫 であった。 掘り返された直後の畑や田圃にいるのだが、地中から茶褐色の2.5セ ンチぐらいの大きさのぼてっとした体型の昆虫がもそもそ這い出てくる。
これを棒の先でちょっと押さえてやるとブッといって、勢いよくお尻から噴霧器
みたいに白煙を吹き出す。押さえる度にブッ、ブッといって放屁音とともに白煙が続けて 出るのであるが、次第にその量が少なくなって終いには出なくなってしまう。 ガス切れ状態になるわけだ。 犬や鶏の放屁音ならたまに聞くことはあるが、虫ケラとなると予想外の可笑しさが伴う。小さくとも放屁音そのものには、違いないのだから。 この白煙はおそらく自己防衛のものと思われ、指の爪にかかると黄色くなるとこ ろからこれは成分に亜硫酸成分が含まれているのかも知れない。 強い酸とたんぱく質が反応するということで、これは化学でいうキサントプロテイン反応というやつではないかと思っていたのであるが、あとで調べたら当た らずとも遠からずであった。 このガスを噴出すメカニズムが本当に凄いのである。 ゴミムシノの体内には2つの隔離された タンクがあり、1つには原料の過酸化水素とヒドロキノンを蓄えていて、これがも う一方のカタラーゼ酵素で囲まれた反応タンクに送り込まれると一気に酸化反応が引き 起こされ勢いよくガスを噴出すという仕組みなのである。 この一瞬の化学反応で噴出されるガス自体は100度以上にもなり、まともに吹きかけ られると皮膚に火傷による水泡ができるらしい。 白いガス状のものは、高温の水蒸気が含まれているのかもしれない。 ゴミムシ自身は、それこそ固いキチン質の装 甲で包まれているので大丈夫なわけである。 まあ、子供の頃はこういう少し危ない 昆虫を相手にして遊ぶのも大層愉快なものであった。 昆虫といえどもこうした防衛力を持っていれば、そう簡単に鳥などに補食されはしないであろう。 本題の「失気」であるが、漢方医学では屁のことを格調をもってこういうのであ る。 以前宮崎の友人が、「蛇が出た」というのを自分たちのところでは「へっが出た」 というと言っていたのだが、逆に「屁が出た」は何と言うのか聞き忘れた。 「屁」 も「へっ」も突然出ることには、違いはないのだが。 01/12/15 |
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企画・制作 カネマサ